第8話

「ありがとう」

 ターレスが腫れ上がった顔でぎこちなく笑った。きっとこの後家族に驚かれるだろう。

「うん。また、明日」

 フィロンも手を振って応える。


 ターレスの家の門の前で二人は分かれた。

 門は白い大理石だが、奥の建物の石材を一部売ったことをフィロンは知っていた。高価な建具を売って、安い日干しレンガや木材に取り替えることは、最近はどこでも珍しくない。どこも農地経営が厳しいのだ。




 フィロンは再びヒポニコス先生の屋敷に戻った。アイスキオスは帰っていいと言ったが、何か手伝いたい。

 そう思って来た道を戻ると、ちょうど先生の家の門前に人影があった。


 門には糸杉の葉が一房かけられている。

 この中に遺体があるという印だ。

 糸杉の葉によって死の穢れを外へ漏らさない呪いでもある。糸杉は祭祀でもよく使われ、結界を示すときにも用いられた。


 その印の前に、あの預言者が立っていた。

 昨日は旅のマントを羽織っていたが今日はなく、袖のないキトンから逞しい腕が伸びていた。

「フィロン」

 高すぎず低すぎず、少し威圧的な声で名前を呼ばれると背筋がゾクゾクした。

「あ、こ、こんにちは」

「ヒポニコス氏は死んだか」


 預言者が糸杉の印を見下ろす。また先生を訪ねると言っていたが、それが叶わなかったのだ。


「今朝早くに倒れられたそうで、先程……でも、先生はずっと前から死期を悟っていたそうです。本当に、立派な人でしたから」

「そうか」


 収まったと思った涙がまた込み上げてきたが、それをぐっと飲み込む。

 葬儀は明日だと伝えるべきか。いや、中にいる兄弟子を誰か呼んでくるべきだろうか。フィロンが悩んでいると、先に口を開いたのは相手の方だった。


「アポロン・パトロオス神殿に案内してくれ」

 フィロンは預言者を見上げて、キョトンとした顔で思わず首を傾げた。

「案内してくれると言っていただろう」

「あ、はい。それはもちろん」


 預言者は相変わらず堂々とした立ち姿で、フィロンの次の動きを待っていた。案内しろと言われて断る理由もない。

 屋敷の中に戻って葬儀の準備を手伝いたかった。でも、また兄弟子たちに帰れと言われるかもしれない。

 それにこれは、甘美な誘いだ。昨日と違って預言者と二人で歩けるのだ。

 悩んで迷ったが、フィロンは彼を選んだ。

「分かりました。では、門までお連れします」






 ――生きた心地がしない。


 そぐわない表現だと分かっていても、そう言いたくなった。

 緊張で足がうまく前に出ない。ただ道を歩くだけなのに息が上がる。


「フィロンはデルポイへ行きたいのか?」

「は、はい」

「だが今のデルポイは騒がしいぞ。寄進物に手をつける不届きものがいて、手を焼いている」

「はい」

 預言者が話しかけてくれるのだが、フィロンはほとんど内容が頭に入ってこなかった。

「昨日ヒポニコス氏から聞いたが、フィロンはレスリングが得意だそうだな」

「は、はい」

 ともすれば無礼だと言われそうな態度だが、話しかけられるたびに慌てて預言者の方を見上げ、何度も同じ返事をするフィロンを、彼は楽しそうに見ていた。


 パンアテナイ通りを通って広場に出る。

 まだ午前中の広場は商人たちの客引きの熱気がすさまじい。あっちの店よりうちの方が魚は新鮮だ、明日になったら小麦はまた値上げだよと、怒号のような声で売り込みをかけている。

 今日は誰もフィロンを呼び止めなかった。


 人ごみを抜けて広場を突っ切り、ようやくアポロン・パトロオス神殿の門にたどり着く。

「こちらです」

 フィロンは額に滲んだ汗を拭った。

 歩き慣れた道を帰って来ただけなのに、随分と疲れた。早朝に先生の家まで走り、散々に泣いたからだろうか。

「何故止まる?」

 門前で立ち止まったフィロンを、預言者は不思議そうに見た。


 大理石に金の装飾を施した巨大な柱を背にした預言者は、そこらの絵画や彫刻よりずっと完璧だ。

 その先の空と、彼の瞳は本当に同じ色をしていて、空を見ているのか瞳を見ているのか分からなくなるほど。フィロンはその広さに吸い込まれそうな感覚に陥って、日差しを避けるように額に手をかざした。


「俺はさっき先生の……遺体のそばに行ったので、中には入れないんです」

「何故?」

「え、ええっと……だって、神様は死に触れたものを嫌がるから。喪が明けるまでは神域に入れません」

「それは考えすぎだ。神は確かに死を厭うが、死者に触れただけの生きた人間までは避けられん。毎日人間はどこかで死ぬのだ。それに触れたものをいちいち避けていたら一時も人間と近づけぬことになる」

「はあ……」


 疲れた頭は相変わらず言葉の意味を正しく拾えない。フィロンは首を傾げることもできずに預言者を見上げるばかりだ。


「実際に、こうしてお前と話していても問題はなかろう。これが死を間際にした人間であれば、いかな私でも山に逃げ帰るところだが」

「え、えっ?」

「良いから神域に入れ。でなければ、確かめられぬ」


 柔らかい言い方だった。決して強要するような強さはない。しかしフィロンは、入れと言われて逆らう気にはならなかった。

 戸惑いながら境を踏み越えると、一歩遅れて預言者も門を潜る。

「自分の神域でないと確かめられないのは難儀したが、我が神域に仕える血筋とは、僥倖であった」


 光っている。


 フィロンは疲れのせいで太陽がまぶしいのかと思ったが、すぐにそうではないと気づく。

 みんな光っている。

 巨大な針のような細長い金色の光が、ある人は胸に、ある人は頭に、またある人は太ももの裏に刺さっていて、そこから噴き出すように金色の光がこぼれ出てきているのだ。


 フィロンは自分の胸から腹の下まで見下ろし、両腕や肩の後ろも見える範囲を検めた。どこにもあの金の光は見当たらない。

 目の前の預言者にも、金の針はないように見えた。ただ、彼の体そのものが他の何よりも強く光り輝いている。フィロンは目を細めながらようやく彼を彼だと認識することができた。


 まぶしい、光の君。


 フィロンは乾いた口を引き結んでつばを飲み込む。

「ようやく見つけたぞ。穿たれぬ者」

 彼は輝く顔に笑みを浮かべてフィロンに片手を差し出した。







*****







 その日の夜、一部のフィロソフィアたちの集会ではこんな話題が出た。

 巷では光の神アポロンが自身の神域に降り立ち、神官の息子である少年を攫って行ったなどと噂になっている。

「その神官はなんと言っているのだ?」

「だから、光明神が自分の息子を攫ったと」

「本当に息子が誘拐されたなら、そんな呑気な話をするはずはない」

「またどこかの反信者が、馬鹿な話をでっち上げただけだろう」


「だが面白いな、ちょうど今日広場で、光の矢の詩を聞いたところだ。それが少し変わっていてな、アテナ女神が四人目の巫女を選ぶ話ではなく、光明神アポロンが穿たれぬ者を見つけると――はて、少女だったか、少年だったか」







télos(おしまい)

















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美少年に生まれたかった みおさん @303miosan

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