第7話

 屋敷の最奥にある寝室から出て、小さな中庭を挟んで反対側の小部屋に入れられた。書庫の隣にある、机の置かれた書き物部屋だ。


 アイスキオスが一つだけの椅子を引き出してきた。

 目配せされて、フィロンは抱えていたターレスをそこに座らせる。先程の取り乱しようは鳴りを潜め、ターレスはぐったりと椅子に背を預けた。


「だ、大丈夫? 痛くない?」

 フィロンは傍に膝をついて、俯くターレスの顔を覗き込む。アイスキオスの張り手で、左頬はくっきりと腫れ上がっていた。白い肌に痛々しい赤が浮かんでいる。

「なんで……」

 ターレスはフィロンの問いには答えず、掠れた泣き声を漏らす。オリーブの瞳に再び涙が迫り上がっていた。


 近付いてきた気配にフィロンが顔を上げ、ターレスもゆるゆると視線を移す。

 二人を見下ろすアイスキオスが淡々と口を開く。

「ヒポニコス先生は、一年ほど前からご自身の寿命を悟られていた」

「一年も前から?」

 フィロンが問い返し、ターレスの体が大きく震えた。

「最近はたびたび胸の痛みがあったらしい」

 ターレスが両手で顔を覆った。フィロンは膝立ちのまま伸び上がってターレスの体を抱えた。

「今朝起き出してこられてすぐ、胸を押さえて倒れられたそうだ」

「それで……」

「それで、今だ。なんとか弟子も全員駆けつけられた」

「でも、それじゃあ……」

 フィロンは何か言いたかったが、何を言いたいのか自分でも分からなかった。


 自分に、何よりターレスにずっと隠していたのは酷いと、そう言いたいが、果たしてアイスキオスにぶつけてよいのか。先生が決めたことを非難したところで、ヒポニコス本人ともう話はできないのだ。

 何を思ってそう決めたのか。もう聞くことはできない。

 ならばアイスキオスや他の兄弟子たちが、そっと教えてくれてもよかったではないか。いや、先生の意向に背く者などいない。


 フィロンは震えるターレスを抱きしめながら、自身もまた震えているのに気付いた。


 考えがまとまらない。自分がどうしたいのか分からない。

 ただ分かるのは、自分たちは子供だということ。

 だから兄弟子たちは二人に相談しなかった。だから先生は、二人の悲しみを最後まで引き伸ばした。

 頼らず、守った。二人はまだ少年であったから。




「言え、ば……よかった」

 ターレスがしゃくり上げながら声を絞り出した。

「抱きしめてほしいって……唇に、口付けてほしいって……言えばよかった」

 フィロンとアイスキオスが同時に息を飲んだ。

「はしたないって、叱られても、言えばよかった……いい子のふりなんて、しなきゃよかった」




 ターレスの泣き顔は見慣れない。

 怒った時も、落ち込んだ時も、何か嬉しいことがあった時も、ターレスは大きく表情に出さなかった。なんでも飲み込んで、穏やかに振る舞って、代わりにいつもフィロンが怒ったり笑ったりしていたように思う。

 そのターレスが赤く腫れた頬を涙で濡らし、鼻水を垂らして、ガラガラの声で後悔を吐き出している。


「ごめん、フィロン。僕はほんとは、先生の教えが不満で……全然、綺麗な気持ちでいられなくて」

「ターレス……」

「フィロンが、僕らを好きだって言ってくれるのが嬉しくて、格好つけてただけ……」

 ターレスはそう言って鼻を啜って、垂れた涙と鼻水を量の手のひらでゴシゴシと拭った。

 濡れた手は服に擦りつける。

 そして長い長い息を吐いた。


 フィロンは力の入らない腕を中途半端にターレスの肩に置いて、いつになく粗野な振る舞いをする親友を見つめた。

 早くもターレスは気持ちの整理を付けようとしている。

 呼吸を整え、涙を止めて、荒々しくうねった感情を押さえつけようと。


「あとのことはやっておくから、お前たちは落ち着いたら一度帰りなさい」

 いつもと全く変わりないアイスキオスの声に、先にターレスが顔を上げた。フィロンも遅れて振り返る。

 そういえば、今日のアイスキオスは地味な服装だ。色帯も腕輪も首飾りもなく、その代わりいつもは垂らしたままの髪を後頭部でひとつに括っている。


「あ、俺は残りますよ」

 フィロンは慌てて立ち上がった。

 不出来ながら神官の子だ。葬儀ならば手伝える。

「今日のところは良い。先生はずっと準備なさっていたから、あとは神官を呼ぶだけだ」

 葬儀は明日になるだろう。その前に近隣に触れを出したり、遺体を清めたりという手順があるのだが、それもアイスキオスは――先生は事前に取り決めを終えているようだ。

 フィロンは仕方なく曖昧に頷いた。役に立てないのなら、残っても邪魔になるだけだ。


 ターレスも椅子から立ち上がった。まだフラついていて、フィロンは慌てて肩を支えようと手を伸ばす。

「あなたは、先生と寝ましたか?」

「へ?」

 唐突な言葉に間抜けな声が出た。

 しばし呆けてから、フィロンではなく背後のアイスキオスへの問いだと気付く。

 ターレスの表情はまだ虚ろだった。アイスキオスを見てもいないし、腫れた瞼とかすれた声で、まるで寝言を言っているかのよう。


「それを聞いてどうする」

 アイスキオスの声はどこまでも冷静で揺らがない。

「もし私が、そうだと言ったら。若かりし日の私はヒポニコス先生に肌を許したと言ったら、お前はどうするというのだ。逆にそんなことはなかったと、先生はお前と同じように私を愛したのだと言ったら、それでお前はどうするつもりなのだ」

「知らないよ!」


 ターレスが金切声を上げた。こんなに感情的な彼の声は初めて聞く。


「知らないよ、そんなこと……どうしたら、いいか……分かんない」

 ターレスは目の前のフィロンにすがりついた。フィロンの左肩に涙を押し付けて、癇癪を起した子供みたいに唸った。

 フィロンもまた涙がこみ上げてくる。泣いても泣いても枯れることはないのだ。


 互いを抱きしめて泣いていると、誰かの手が優しくフィロンの頭に触れた。

 一層涙が溢れた。

 この場で手が空いている人間は、アイスキオスしかいない。

 ターレスの肩が大きく震えた。

 きっと二人の頭を撫でているのだ。

 あのアイスキオスが。


「落ち着いたら、家に帰りなさい。葬儀は明日だ……時間が決まったら使いをやるから、それまでは休みなさい」

 フィロンはターレスの肩に額をつけたまま頷いた。フィロンの左肩にあったターレスの頭も同じように頷いた。




 アイスキオスはすぐに部屋を出ていった。サンダルが石の床に擦れる音が遠ざかっていく。

 あまりにあっさりとしていて、かけられた言葉も慰めなんかじゃなくて、あの人が自分たちの頭を撫でたなんて信じられないけれど。

 大きな手のぬくもりを確かに感じた。


 しばらくすると涙は落ち着くもので、今度は先にターレスが顔を上げた。

「ごめん……嘘、吐いてた。特別な愛の結び付きだなんて、見栄を張ってただけだ。君の前では、頼れる兄貴分でいたくて……おかしいよね、いつも僕を助けてくれてたのはフィロンの方なのに」

「二人は完璧だと思ってたよ。今も、そうだよ」

 フィロンは両手で顔を乱暴に拭った。涙と汗と鼻水でずるずると滑るほどで、服の襟元を引っ張り上げて鼻の下を拭った。




 先生には、ターレスが求めていたものが分からなかったのだろうか。

 分かっていて、与えなかったのだろうか。

 ターレスを愛していたのなら、ターレスの欲しいものをどうしてくれなかったのだろうか。好きなら、愛しているなら、なんでもあげたいと思うのではないんだろうか。


 フィロンには分からなかった。ヒポニコスやアイスキオスのような賢人と同じようには考えられなくて、目の前で震えが止まらない友人が可哀想で、身近な人を亡くした痛みが何度も込み上げて、また声を上げて泣いた。


 二人は互いの肩に縋り付いて、長い間涙を流した。


















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