第6話
フィロンは走った。
お供の奴隷が追いつけないほど、全力で走った。
今日もアテナイはよく晴れている。四頭立ての燃える太陽の馬車が東の空を駆け上がり、アッティカの夏は痛いほどに眩しかった。
ヒポニコス先生の家は、城壁内でも比較的大きな通りに面していて、周りには貴族の屋敷も多い。どの家の門も大理石製で、辺りは神々しいほどに白く輝いている。
そんな明るい朝に、ヒポニコス先生の家は静かだった。
午前中の屋敷は見慣れない。
いつも昼にターレスとふたりでやってきて、昼食をご馳走になって、講義を受けた。午後には入れ替わり立ち替わりお客さんが来て、フィロンたちを同席させることもあれば、そうでなこともあった。
周囲に比べて質素な屋敷だが、いつでも議論の声の絶えない賑やかな場所だった。
通されたのは先生の寝室。
普段は弟子たちも会うことのない先生の奥方が、寝台の横で先生の手を握っていた。アイスキオスがその横についている。他にも門弟たちがたくさんいて、ターレスは壁際で蒼白な顔で立っていた。
「先生、フィロンが来ましたよ」
アイスキオスが横たわる先生に声をかける。
なんだろう。これは。まるで臨終の場ではないか。フィロンは首を振った。そんなはずはない。
「嘘……だって、昨日は元気で」
大人たちがフィロンを振り返る。
人影の隙間から先生と目が合った。吸い寄せられるようにふらふらと寝台に近づいて、枕元に膝をつく。
「そろそろだということは、分かっていた……お前たちにはどうしても言えず、すまなかった」
ヒポニコス先生がそう言うと、手を握っていた奥方がしゃくり上げた。奥方が被ったヴェールが、涙と嗚咽に合わせて揺れる。
「弟子がみんな、揃いましたわね……神々に感謝しなければ」
「……ああ」
先生は重そうな瞼で瞬きをし、フィロンを見つめて、奥方を見つめて、それから周囲に目を向けた。
その視線に釣られるように室内を見渡すと、本当に先生の歴代の弟子たちが勢揃いしている。中には遠方の都市で働いている者もいた。
弟子たちがひとりずつ呼ばれた。ヒポニコス先生は切れ切れの言葉で語りかけた。
フィロンはその会話を聞いて、先生がずっと前から自分の死期を悟っていたことを知った。奥方やアイスキオス、一部の弟子にはそれを伝え、身辺の整理まで済ませていたと。
「ターレス」
先生が最期にターレスを呼んだ。
ターレスの体は可哀想なほど震えていて、自分一人では一歩も足を踏み出せない様子だったので、フィロンは親友の手を取って、肩を支えて寝台の横に連れて行った。
「先生」
ターレスはなんとか声を絞り出したが、それ以上は言葉を紡ぐ事が出来ずに「先生」と苦しそうに繰り返した。ただ呼びかけることしかできないターレスに、もう頷くこともままならないヒポニコス先生は瞬きだけでターレスの声に応える。
二人の様子に、まずフィロンが大きな音を立てて鼻を啜った。ついで奥方が先生の手に縋り付くように顔を伏せた。集まった弟子たちも堰を切ったように嗚咽を漏らし、耐えようとしてしゃくりあげ、悲しみに奥歯を噛み締める音すら聞こえた。
フィロンは霞がかった頭で必死に、先生は素晴らしい最期を迎えているのだと言い聞かせた。
死期を悟るのは、先生が真の賢人であった証だ。
神に近い尊い人間には、オリュンポスのからの使いが自分の終わりを告げにくる。だから先生はすべての弟子を呼び寄せ、妻の今後を思いやり、なんの心配もなく穏やかに目を閉じることができるのだ。こんな幸福な最期はない。
それならどうして、自分にも教えてくれなかったのだろうか。
フィロンは顔中を濡らしながらそう思った。
いや、自分はいい。
せめて、せめてターレスには先に話してあげてほしかった。そうすればターレスはこんな絶望した顔をしなくて済んだのではないか。まだ若い愛人に心配をかけられないと思ったのは分かる。そんなことはフィロンにだって分かる。
でもターレスは、ここにいる誰より震えているのだ。
ヒポニコス先生は瞼を小刻みに痙攣させた。しかし必死にターレスを見つめ返そうとしていた。
ターレスが掠れた声で「先生」と三度呼びかけた時、ついに先生の瞼の震えが止まった。彼の魂が冥界へ向けて旅立ったことを、皆が理解した。
フィロンは声を上げて泣いた。ターレスの肩を抱き締めて、赤ん坊より激しく泣いた。
あちこちで同じように兄弟子たちが慟哭した。部屋の外で奴隷たちも泣いていた。あのアイスキオスも顔を覆って泣き伏していた。
ヒポニコス先生は、何十という男をみっともなく泣き喚かせた。しばし誰もまともな言葉を発せず、互いを慰めてはまた泣いた。
このまま目が溶けて喉が裂けると思ったが、気付けばフィロンは力尽きるようにターレスにもたれかかっていた。
周りも似たようなもので、誰よりも早く立ち直ったアイスキオスに宥められ、一人また一人と顔を上げ、冷静さを取り戻し始めた。
「ターレス、大丈夫か?」
ようやくターレスを思いやれるようになって、フィロンも掠れた声で話しかける。
人々はすぐに仕事を始めた。すぐに葬儀の準備をしなくてはならない。
先陣を切ったのは当然のようにアイスキオスで、先生の甥たちと共に慌ただしく部屋を出て行った。
遺体を清め、近所に葬式を告知し、神殿から神官を呼ばなくてはならない。フィロンも神官の子だ。手伝わねばと、頭の片隅で葬儀の手順を組み立てる。
「ターレス?」
先生の寝台の枕元で、ターレスはフィロンの腕の中でじっとしていた。
無理もない。フィロンにとっても突然の悲しみだったのだから、ターレスにとってはさらに突然で、いっそう辛く悲しいのだ。
フィロンは自分の涙を拭ってから、虚ろな瞳のターレスの顔を覗き込む。
こんな時になんと言って声をかければいいのか。先生に聞いておけばよかった。
ターレスの肌は病的なまでに白く、目の下に茶色の隈が浮かんでいた。乾いた唇が戦慄く。
「カリアス」
その唇が思いがけない名前を呼んだ。
「え? カリアスがどうした?」
「あいつが……あいつのせいだ」
ターレスが勢いよく立ち上がったので、密着していたフィロンは後ろに転がりそうになって床に手を突く。
「ターレス!」
慌ててフィロンも立ち上がる。まだ部屋にいた兄弟子たちが何事かと二人を振り返った。
「あんな、不吉な言葉」
オリーブグリーンの瞳が剣呑に光る。
フィロンはターレスの言わんとしていることを理解した。
昨日のことだ。
カリアスが先生とターレスに対して吐いた、あの侮辱的な言葉のことだ。
「落ち着けって、さすがにあいつは関係ないだろ」
「殺してやる」
フィロンは咄嗟にターレスの両肩に手を伸ばした。案の定ターレスは駆け出そうとして、すぐにフィロンに抑え込まれる。
「あいつが先生を殺した!」
「それは違うだろ!」
ターレスはフィロンの手を振り払おうとした。フィロンは身を低くしてターレスの胸に頭をつけ、胴を抱え込んで動きを止める。周囲の兄弟子たちも加勢してターレスを押さえた。
奥方が悲鳴を上げ、奴隷に連れられて部屋を出て行くのが見えた。
「ターレス、落ち着けって!」
フィロンが呼びかけても、誰が声をかけてもターレスは暴れた。
普段の鍛錬では見せない力で、何人かの兄弟子を突き飛ばしさえした。
「何をしている!」
「アイスキオスさん、それが、ターレスが!」
誰かがアイスキオスを呼んだのか、用があって戻ったのか。とにかくアイスキオスが現れて、フィロンは彼に助けを求めた。
アイスキオスは容赦なくターレスの頬を張った。
周囲が息を飲むほどの威力で、バチンッと大きな音を立ててターレスの顔を平手で殴ったのだ。
さすがのターレスも動きを止める。
ターレスを抑えていたフィロンの手に、再び身を起こそうとする動きが伝わる。しかしそれより早く、今度はアイスキオスの拳がターレスの脇腹に入った。さほどの力ではなかったが、胸の下を突かれたターレスは身を縮めて唸った。
「駄々をこねるな」
静かに一喝されて、ターレスは途端に力を失った。フィロンが拘束を緩めると、そのままズルズルと床に座り込んだ。兄弟子たちもターレスから手を離す。
フィロンは荒い息を吐いた。急に色々なことが起こって混乱している。
「フィロン。ターレスを連れて、こちらへ来なさい」
「は、はい!」
アイスキオスに命じられて反射的に返事をした。ターレスは俯いて動かない。フィロンはターレスを抱え上げるように立たせた。促すと、なんとか自分の足で歩いた。
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