第5話
最後まで聴いていたのはほんの数人だったが、拍手と歓声が上がった。
投げられたコインを拾って、テオグニスが嬉しそうに財布にしまう。
聴衆が立ち去ると、フィロンはテオグニスの隣まで歩み寄った。
「今日も素敵だった。他の人と何が違うんだろう……声かな、言葉選びかな。まるで本当に目の前で遠矢の試合が行われてるみたいに感じるんだよ」
「そんなに褒めてもらえたら、ムーサたちも喜ぶよ」
「でも、俺が昔聞いたのとはちょっと違ったね。金の矢の話って、アテナ様の四人目の巫女を選ぶ話じゃなかったっけ?」
そもそも、アテナ女神に仕える巫女は四人しかいない。
古くは二人の巫女が選出され、その代役としてさらに二人の見習い巫女が選ばれるという具合になったそうだ。
「そうなの?」
「うん。それにアポロン神も出てこなかったな。四人の巫女候補を探す時の最後の一人の話で、矢を持たない乙女を見つけて他の神々がアテナイ女神をうらやましがるとか、そんな話だったはず」
「へえー、じゃあ違う話だね。五人目だから、四人目を選んだあとの話なんだよ、きっと」
こういうところだ。
普通の大人なら、語り手が記憶違いをしているとか、長く語り継がれる間に少し話が変わってしまったんだと説明する。
そして最後に、でももとは同じお話しだ、これはこういう意味なのだと「まとめ」て子供に言い聞かせる。違っているけど、間違っていないと。
しかしテオグニスは「違うのだから違う」と言い切る。こういうところが、彼が本当にムーサの声を聞いていると思える所以だ。
「うん。どっちにしても、俺はこのエロースの矢の話が好きだな。愛や恋を授からなかったのは、本当なら不幸なことじゃない? でもそれが神様の目に留まる理由になるんだもん。ダメだと思ったところが、すごいところに変わるんだ」
「本当だね。そっか、そういうことなのかあ」
テオグニスは関心した様子で何度も頷いた。
ほら、彼は特別だ。彼は意味を語らないし、知らないのだ。ただムーサの声を聞き、代弁する。そのために生まれてきたような人間。
いいなあ、とフィロンは思う。
これだという生き甲斐が、生きる意味があるとは、どんな心地だろう。
「俺がもう立派な大人だったら、貴方の後援者に名乗り出たのに」
もし自分がもっとずっと大人で、財産を所有していて、外国人の後援ができるなら。彼が劇場で詩を披露できるように手配したい。
それにいくらかかるのか、どんな伝手が必要なのかも、まだ知らないのだけれど。
「ありがとう。でもボクにはアイスキオスがいるから、他の人はいらないんだ」
フィロンは仰天した。予想だにしない名前だった。
「アイスキオス? もしかして、クリティアス一門のアイスキオスさんのこと?」
「うん」
「ヒポニコス先生の弟子で、髪を伸ばしてて、毎日絶対民会に行く、あのアイスキオスさん?」
「そうだよ。なんだ、君はアイスキオスの友達だったんだね」
「友達とは少し違うけど……俺もヒポニコス先生の弟子なんだ。アイスキオスさんとは、さっきも会ったところで」
アイスキオスにも、愛人がいるとは聞いていた。メガラの商人から買った奴隷を解放して、そのまま家に置いているとか。
「ねえ、少し話をしない? よかったら、ほら、干しナツメでも食べながら!」
フィロンは持っていた麻袋から干しナツメを取り出して詩人に差し出した。詩人は途端に目を輝かせて、嬉しそうに甘い果実を受け取る。
フィロンが石段に腰を下ろすと、テオグニスも干しナツメを齧りながら隣に座った。
「テオグニスはいつからアテナイにいるの?」
「十五歳くらいだったかな。アイスキオスがボクを買ってくれたんだ」
「その、アイスキオスさんは、テオグニスの愛者なの?」
「うん」
フィロンの問いにテオグニスはすぐに頷いた。
やはり、買った少年奴隷をそのまま囲っているという話は本当だったのだ。
なんてことはない、よくある話だ。
裕福な貴族であるアイスキオスが奴隷を買って、気に入って、愛人にした。それからずっと側に置いている。あまりにありふれた話。
しかしこの浮世離れした目の前の詩人と、あのアイスキオスが寄り添っている姿はうまく想像できない。
「はー、あのアイスキオスさんがねえ」
フィロンは麻袋から干しナツメを取り出して咀嚼した。袋を差し出して詩人にももうひとつ勧める。
「神域の子は、アイスキオスと仲が悪いの?」
「仲が悪いっていうか、俺の出来が悪いから。アイスキオスさんは俺のこと嫌ってるんじゃない? っていうか、眼中にないって感じだと思う」
アイスキオスはヒポニコス先生の一番弟子だ。
当然、先生からの信頼が厚く、さまざまな仕事を任されている。兄弟子たちのなかでも口数が少なく、下っ端のフィロンになどほとんど声もかけない。
だから、アイスキオスがどんな人柄なのか、フィロンはよく知らないのだ。
「ごめん、アイスキオスさんのことよく知らないのに、変なこと言った」
詩人は表情を変えないままで首を傾げた。それがどんな感情の発露なのか分からず、言葉を探したフィロンは、とりあえずもう一度干しナツメを差し出した。
テオグニスは嬉しそうに袋に手を入れる。
「ありがとう。おいしいね、これ」
こうしていると、なんだか年下の子供のようだ。どう見ても二十台半ばなのだが……アイスキオスもまた、理想的と言われる年齢と違う愛人を持っている。
テオグニスが十五で買われたのなら、その時からもう十年ほど二人は一緒に過ごしてきたのだ。
詩人が少年から大人になっても、アイスキオスは変わらずに彼を愛している。
そこまで考えて、腑に落ちた。
「テオグニスの前では、アイスキオスさんは優しい?」
「うん!」
またテオグニスは即答した。
「そうだよね。好きな人には、優しいよね」
弟分のフィロンにどんなに厳しくても、門番から見て冷たいと思われても、それはアイスキオスの一つの側面でしかない。
そんなことは分かってはいたが、納得できたのだ。
アイスキオスはテオグニスを愛していて、彼の前では優しい。かつての少年が大人になっても、愛しいから共にいる。
自然な振る舞い、当たり前の恋心……それはきっと、アイスキオスがヒポニコス先生から教わったのだ。フィロンやターレスと同じように。
「いいなあ。ずっと一緒の人がいるって、どんな感じなんだろう」
石段にもたれるようにして空を仰ぐ。また少し日が傾いて、青空が三分の一ほど白くなっていた。
「神域の子は愛者がいないの?」
「う、うん……俺、全然モテないんだ」
「好きな人はいないの?」
あの麗しい預言者の姿が浮かんだ。
いっそいないと答えようと思ったが、ここまで質問攻めにしてきた手前、自分の話はしないというのも卑怯だ。
フィロンは周囲を見回して知った顔がないことを確かめてから、小さな声でテオグニスに念を押した。
「アイスキオスさんに、俺のことは言わないでね」
「なんで?」
「な、なんでも!」
「分かった、言わないから教えて。好きな人がいるんだね」
あまりに無邪気な様子に肩の力が抜ける。
ターレスもよくフィロンにいい人がいないかと聞いてくるが、それ以上に熱心だ。
「好きって言うか、まだ分からないけど。今日、すっごく素敵な人に、会った」
「へえ! 恋人になるの?」
「そ、そんなの無理だよ。デルポイから来た預言者なんだって。俺なんかとても、そんな関係になれるわけないよ」
あの人は今頃、ターレスと会っている。ヒポニコス先生と、アイスキオスも一緒に。彼らのような一際優れた人間と比べられては、フィロンの存在など文字通り路傍の石も同然だろう。
「どんな人? 背が高い?」
「背が高くて、本物の金よりキラキラした金髪で、すっごく綺麗だった。瞳がね、お昼の空と同じ色だったんだ。今のこの空よりもっと、緑な感じ」
目に焼き付いている。広い肩、厚い胸、太くしなやかな手足。
ほんの短い時間会っただけで、わずかな言葉を交わしただけで、他の人とはまったく違うと思った。
「その人は、アイスキオスより綺麗?」
「えっ」
低い声が出てしまって、フィロンは慌てて居住まいを正す。
そんなことを聞かれるとは思わなかった。
テオグニスは何を考えているのか、何も考えていないのか、ニコニコと楽しそうにフィロンの答えを待っている。
フィロンはわざとらしく咳払いをした。
「あくまで俺から見たら、だよ。俺は、あの人の方が綺麗だなって、思ったけど……」
さらに語尾を濁して、干しナツメをもう一つ頬張ることで誤魔化した。
「じゃあきっと神様だね。アイスキオスより綺麗なヒトはいないから」
「わぁ……」
素直に関心してしまった。
そうか、テオグニスにとってアイスキオスは世界一なのだ。
他人と比べるものではないのだろうが、比べたところで世界一だと思えるのが恋人同士の気持ちなのだろう。
難しいことは何もない。テオグニスにとってはアイスキオスが一番で、きっとその逆も同じ。ターレスにとって世界の何よりヒポニコス先生が大切なのと同じように。
テオグニスは今度は勝手に袋から干しナツメを摘まんだ。
「どうするの? その人に会いに行く? 贈り物をする?」
「でも、俺はまだ子供だし」
「だし?」
「だから、俺から声をかけるわけにはいかないから。待ってるしかなくて」
「なんで?」
最初、テオグニスが何を聞いているのか分からなかった。
「そういう決まりなんだよ。少年の方は、大人から声をかけられるのを待つんだ。自分からねだりにいっちゃいけないんだよ」
「決まってるの?」
「決まってるでしょ」
決まっているのだ。
大人が年少者を導くのだから、導かれる側から手を伸ばしては本末転倒だ。
贈り物も、愛の言葉も、天から雨が降るのを待つように、自分から手に入れに赴くことは出来ない。
まさかあのアイスキオスが慣習を教えていないのだろうか。
「普通に話しかけてもいけないの?」
「それくらいは、別に大丈夫だけど」
「なら話さなきゃ」
フィロンはしばし目を瞬かせ、感嘆の息を漏らした。テオグニスの提案は最もだ。
待つといっても、待ち方がある。
「そっか。挨拶とか、普通の話なら、してもいいよね」
あの人は明日も先生の屋敷にいらっしゃると言っていた。
わざわざデルポイから来たのだから、何日かはアテナイに留まるはずだ。それならしばらくは、顔を合わせる機会があるかもしれない。
自分が預言者の心を射止めるなどとは思ってはいない。でも、そうなるかもと期待することくらい許される。
「素敵だね。ムーサたちもきっとお喜びだ。あたたかな詩になるよ」
「ムーサが? 俺のことを唄うの?」
「たまに人間について唄ってくれることもあるよ。君の恋が叶ったら声をいただけるように、祈っておくよ。楽しみだね」
「声をいただく、かあ……どんな感じなんだろう」
自然と目が上を向いた。
詩人たちは必ず上に――天に向かって祈る。ムーサからの声を授かるために。
フィロンの目には、先ほどと変わらない空が広がっているだけだ。
北西にはアテナイの象徴であるアクロポリスと、そこに建つパルテノン神殿、そしてアテナ女神の巨象が聳えている。見慣れた景色。
テオグニスはこの中にムーサの声を聞くのだ。毎日当たり前に降り注ぐ陽光の中に、オリュンポスからの使いを見るのだ。
「声が聞こえないって、どんな感じなんだろう」
フィロンと対照的な問いをテオグニスが漏らした。
そうか、聞こえる人には分からないのだ。聞こえないとはどういうことなのか。
不思議な心地だ。並んで同じ景色を見ているのに、二人は実は違うものを見ていた。
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