第4話
賑やかなのは好きだ。
一番好きなのは毎月の祭事だが、いつ来ても人の多いアテナイの広場は通り抜けるだけでも心が沸き立つ。
広場にはいくつもの店が並び、商人たちが呼び込みをかけている。
午後のこの時間は売れ残りの野菜や魚を買ってくれと叫んでいる店主が多い。しかし萎れた野菜や温くなった魚も、夜になるまでにはどこかでスープや塩焼きに変えられて、またこの辺りで売られるのだけど。
生鮮品は叩き売りの時間だが、布や宝飾品、食器などの店の中には、これ以上負けられないと値切り客を追い返す者さえいる。
しかし、そこまで強気な商売ができる店は日に日に少なくなっている。
これは父や先生から聞いた話だが、アテナイだけでなくメガラやコリントスですら、どうにも奮わないらしい。
相次ぐ戦争で多くの人が死に、郊外の農地や村が焼かれたりしている。アテナイ自慢の海軍もかつての栄光は遠く、おかげで貿易船の数も減っている。
今こうして広場にいるだけなら平和で豊かなポリスに見えるが、城壁の外からひたひたと良くないものが迫っているのだと、大人たちは眉を顰めてフィロンに言い聞かせている。
「あれ、フィロン坊じゃないか。今日は早いね。腹減ってないか? 干しナツメならあるぞ」
果物屋の店主がフィロンを呼び止めた。
フィロンの家は広場と神殿の近くで、露天商たちは小さな頃からの顔見知りも多い。
「言われたらお腹空いてきちゃった。一袋ちょうだい」
フィロンが首にかけた財布を服の下から引っ張り出すと、店主は目を細めて笑い、箱の中の干しナツメを麻袋に入れた。
「あとで袋を返すから」
「あいよ。また頼むよ、坊」
フィロンは干しナツメを一つ取り出し、ゆっくりと噛みながらまた広場を進んだ。
商店以外に、広場には様々なものがあり、たくさんの人がいる。この時間だとレスリングの試合はもう終わっていて、代わりに政治議論をしている人が多い。催し物の宣伝をする者、物乞い、娼館の呼び込みまでなんでもあり。
フィロンはあたりを見回した。
目当ての人物がいるのだ。
たまにこの広場で吟じている、二十台半ばくらいの、変わった雰囲気の詩人。彼はいつどこで唄うか決めていないそうで、偶然出会えるのを待つしかない。
詩人はたいてい一人で立っていて、唄っている最中の身振り手振りが独特なので、それらしい人影を見つけてはそちらへ行ってみる。
なにせ広場には詩人が多い。劇場で上演できるような詩人は一握りで、それ以外の者はこうして広場や路地に立って詩を吟じるのだ。
いた。あの詩人だ。
フィロンは嬉しくなって駆け出した。
「テオグニス!」
集会場から少し離れた階段の近くに、明らかに客の少ない詩人が立っていた。
取り囲む客がいないので詩人のほうもすぐにフィロンに気付く。
「やあ、神域の子。久しぶりだね」
薄茶色の髪と瞳、小作りな顔立ちの痩せた詩人――テオグニスがフィロンを迎えた。
「フィロンだよ。いい加減名前を覚えてよ」
「ちゃんと覚えてるよ。フィロン、神域の子。アポロン・パトロオス神殿で育った子。元気そうだね」
「どこか他所へ行っちゃったかと思った。よかった、また貴方の詩を聴けて」
おそらくテオグニスは外国人だ。
アテナイは後援者がいれば外国人も暮らせるが、最近は税が高く、外国人が減っていた。以前ほど市内の景気が良くはなく、他の都市へ行くか国へ帰るか、せいぜい港で荷運びなどの肉体労働にありついた者ばかりだと言う。
「ボクは他所へは行かないよ。ここはムーサの声がよく聴こえるから」
テオグニスは太陽が傾き始めた空に視線を送る。
ムーサとは詩を授けてくれる神で、詩人とはその声を聞くことのできる人々だ。
実際にはムーサの声を聞いて紡がれた詩を、人伝てに聞いて覚えて唄っている詩人が大半だが、彼はどうやら本当にムーサの声を聞くらしい。
フィロンは財布から銀貨を一枚取り出した。
「聴かせて」
テオグニスは遠慮なく銀貨を受け取って、自分の財布の中に入れた。
聴く前に金を払うのは珍しい。
路上詩人が相手なら、普通は詩を聴いて、よかったと思えばコインを投げて寄越す。途中でつまらないと思えば立ち去ってしまうのだ。
しかしフィロンは、彼の詩が素晴らしいことをすでに知っていた。
『ムーサ……アオイデー』
テオグニスは財布を懐にしまって、石畳に片膝をついて、手を合わせて天を仰いだ。ムーサから声を授かるための祈りだ。
詩人はみな自分はムーサの声を聞くと言うので、フィロンも最近までそれを本当だと思っていた。
しかし彼の詩は他の詩人と何かが違う。それが、本当に声を聞いているか否かの違いだとすれば、納得ができた。
空を見つめて何度も瞬きを繰り返していたテオグニスが徐に立ち上がる。
『あなたの胸にも金の矢が』
静かに語りかけるように唄い始めた。
広場を行き交う人々が何人か、足を止めたり顔を上げたりしてテオグニスを見る。
『あなたの背にも、あちらの店主の脳天にも、地上のヒトには金の矢が。けれど時折、神の気まぐれ。降り注ぐ黄金を掻い潜った者は、幸か、不幸か』
「なんだ……その話か」
フィロンの近くで足を止めていた人が、そう呟いて立ち去った。
金の矢とは、原初の神エロースの愛の矢のことだ。
その矢は地上に降り注ぎ、人間はみな等しく愛を与えられ、人を恋しいと思う感情を持ち、他人から恋しいと思われるようになる。
しかし中には金の矢に当たり損ねた人間がいて、神々はその珍しい人間を見つけて自分のものにしようとする。
子供でも知っている有名な話だが、同じ内容であっても詩人によって言葉選びや節回しが異なる。そこに詩人の良し悪しが出るのだ。
『ある日、アクロポリスに詣でた乙女、我らが女神アテナの目に留まる。金の矢を受けなかった乙女、清らかなる魂。女神はその子を五人目の巫女に、そう願ったが、乙女は丘を下ってアポロン・パトロオス神殿に詣でたのだ』
フィロンも寝物語に聞いて育った話だ。
これはエロースが他の神々とした賭け事で、神は自分の神域の中でないと、矢を受けた人間かどうか分からないのだという。
だから女神アテナは自分の神域に詣でた乙女に気づいたが、直後にその娘はアポロンの神殿に詣でたので、光明神アポロンもその存在に気付いてしまった。
『アゴラを行く乙女、それを追う光明の君。パンアテナイ通りを駆け降りる女神』
客が一人立ち去ったくらいで詩人は唄を止めない。彼は今ムーサの声を伝えるため、心が天の高いところまで離れているのだ。
『まだ何も知らない無垢。はたして乙女は振り返り、神々の輝きを目にした。先に指が触れたのは疾速のアポロン。しかし女神はもちろんこう言った「私の方が先に見つけた」と』
詩は続いた。
朗々とした声で。
何人かがその幻想的な声に足を止め、フィロンと並んで聴き入った。
金の矢を持たない乙女を巡って争った女神アテナと光明神アポロンは、原初の神エロースに裁定を仰ぐ。
なぜなら、自分の神域でしか矢を持たぬ人間を見極められないのは、エロースのせいだからだ。
エロースは遠矢の試合を提案し、より遠くまで矢を飛ばした女神アテナの方が乙女を勝ち取った。
ムーサへの感謝の言葉を述べて、詩の一節が終わった。
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