第3話

 フィロンは石の廊下を進んだ。


 青銅人の末裔である我々は本質的に乱暴で、知能が低く、ともすれば互いに殺し合って破滅を迎えるほどに愚かなのだと言われている。

 その通りだと思うこともあるが、世界はまだ美しさを保っている。


 光明神の教えを正しく理解するヒポニコス先生のような賢人と、ターレスのようにそれを受け継ぐ若者。二人が体現する愛のカタチ。そしてそれを見たフィロンが胸に抱く、あたたかな感情。

 世界に対してひとつひとつは小さいけれど、その輝きがある限り、フィロンにとって世界は、故郷アテナイは美しく煌めいている。




 先生の屋敷は質素な造りで、そう大きくはない。

 いつも講義を受ける母屋から渡り廊下を通って、今はほとんど使われていない応接用の部屋がある建物の先は、前庭と門があるだけだ。


 渡り廊下を抜ける時、フィロンは人の気配を感じて外庭に目を向けた。小さな畑の手前に、観賞用の生垣があり、足元には夏の花が咲いている。

 大きな人影が花を見下ろしていた。

「あれ……?」


 その違和感を言葉で表すのは難しかった。


 庭に降りている人間なら庭師かと思ったが、旅装束のマントを肩にかけたままのその人が、屋敷で雇われている使用人でないことはすぐに分かった。

 その人物もフィロンに気付いて振り返る。


 まず、黄金が揺れた。屋根の外、降り注ぐ陽光に照らされて、見たこともないほど煌びやかな金髪が文字通りに光っている。

 次に、鮮やかな空色の瞳と目があった。正に今、頭上に広がっている青空をそのまま嵌め込んだような、見事な空の色。

 双肩は厚いマントに覆われてなお、その逞しさが見て取れ、服の裾から伸びた両足は長く引き締まっている。マントと同じく長旅を物語る編み上げのサンダルの、革紐が巻きついたふくらはぎが何故だか艶かしくて、フィロンは彼の足元から目を逸らした。

「あの、もしかして、デルポイからのお客様ですか?」


 彼が預言者だというなら、納得がいった。

 この人から神の言葉が発せられるというなら、そうだろうと思えた。

 フィロンは早鐘の鼓動を押さえつけ、浅く短くなる呼吸をなんとか叱咤して言葉を続ける。

「アイスキオスさんとはぐれてしまったんですか?」


 デルポイの預言者らしき人物は、堂々とした佇まいでフィロンを見据える。

「いかにも、私はデルポイから参った。そなたはヒポニコス氏の門弟か?」

「は、はい。フィロンと申します」

 もっときちんとした名乗りをしたかったのに、五歳の子供みたいなことしか言えなかった。フィロンはじわじわと広がる熱を頬に感じて下唇を噛む。


「こちらにいらっしゃいましたか」

 玄関側の応接間の方からアイスキオスが顔を出した。聞き慣れた声に思わずほっとしてしまう。

 フィロンは廊下の端に寄り、アイスキオスに道を譲った。預言者だという客人は相変わらず堂々と、まるで彫像のように完璧な姿で庭に立ち続けている。

「お待たせいたしました。奥にご案内します」


 アイスキオスに促され、預言者は庭から廊下に上がってくる。自然、フィロンと預言者の距離も縮まった。どうすれば無礼にならないか分かりかねて、息を止めてじっと身を固くした。


 フィロンは美形を見慣れていると思っていた。

 アテナイ一の美、ターレスと毎日一緒なのだ。それにアイスキオスも、個人的な好みは置いておいて客観的に美しい容姿である。かつてはターレスのように市中の男の注目の的だったという。

 そのアイスキオスが霞んで見える。


 同じ金髪でも輝きが違い、同じ長身でも威圧感が違った。豪華な帯と腕輪を身につけたアイスキオスより、簡素な旅装束の人物の方がずっと輝いて、フィロンの目にはチカチカと明滅してさえ見えた。

 神々しく、ずっと見つめていたいけれど、目を背けたくなる。


「この子が、ヒポニコス氏の愛弟子だという少年か?」

 預言者がアイスキオスに尋ねた。

 声は若々しくハリがあり、もし戦場で檄を飛ばせば自軍の兵を須く鼓舞し、敵方の前で威嚇すれば悉く戦意を失墜させるだろうというほどに、よく聞こえた。


「いえ、フィロンも優秀ですが、先生の秘蔵っ子はターレスといいます。まだ奥にいるようですが、お会いになりますか?」

 アイスキオスの言葉に、フィロンはすでにしっかりと伸びていた背筋をいっそう張り詰めさせた。


「あ、あの!」

 声が裏返った。恥ずかしかったが、そのまま口篭るのはもっと格好が悪い。フィロンは震えそうになる舌をなんとか動かして言葉を続ける。

「俺は、アポロン・パトロオス神殿の神官の息子です。将来、父の跡を継いで神殿にお仕えするつもりです」

「ほう」

 空色の瞳が、ひたとフィロンを見据えた。


「デルポイといえば、光明神の神域の代表で、その、俺もずっと憧れていて。だから、デルポイのお話を聞かせていただきたくて」

「そのくらいになさい、フィロン」


 決して大きな声ではない。むしろ囁くほどに控えめな音量で、それでいて突き刺さるような鋭さを持って、アイスキオスがフィロンの言葉を遮った。


「友人を気遣うところは褒めてやるが、客人を長々と引き止める理由としては不適切だ」

「あ、いや、そういうわけじゃ……」

 ハッとして、次の言葉は出てこなかった。


 アイスキオスが言ったのは、おそらくこうだ。フィロンが一人で廊下にいるということは、まだターレスは部屋に残ってヒポニコス先生と過ごしている。

 だからフィロンはその時間を邪魔しないよう客人を引き留めたのだろう、と。

 フィロンは気まずさに目を泳がせた。ターレスのことは、考えていなかった。ただこの麗しい預言者に、デルポイから来たという稀なる賢者に、必死に話しかけていた。

 いや、アイスキオスはそれも見抜いた上でフィロンを諌めたのかもしれない。


「……すみません、勝手に喋ってしまって」

「構わない」

 預言者は唇の端を持ち上げ、威厳に満ちた顔に微笑を浮かべた。

 胸が詰まる。息を飲んで肩に力を入れていると、空と同じ色の瞳がわずかに細められた。

「私は明日もここに来るから、フィロンに神殿の案内を頼む。その時に、デルポイのことならいくらでも教えよう」

「は、はい! もちろん!」

 行儀が悪いほど大きな声が出た。

 一度出してしまった声は引っ込められず、フィロンは恥ずかしさに目を泳がせる。


 話しが終わったと判断したアイスキオスに促され、客人は踵を返す。

 渡り廊下の列柱屋根の下、マントを翻す姿は英雄劇の主人公より勇ましい。廊下を歩いていくその背中をフィロンはじっと見つめてしまう。



 ああ、名前を聞きそびれてしまった。あとで先生に聞けば教えてくれるだろうか。



 フィロンが彼の方に視線を送っていると、それに気付いたかのように預言者がゆっくりと振り返った。

 息が止まる。全身が固く緊張した。

 麗しい預言者は口の端を上げて笑みを浮かべると、すぐにまた前を向き、アイスキオスを追って廊下の角を曲がってしまった。

 石の廊下を歩く二人の足音、サンダルが床を擦る気配がまだフィロンの耳に届く。それが完全に聞こえなくなってようやく、フィロンは熱く細い息を噛み締めるように吐き出した。


 フィロンは今までにも、貴人に会ったことが何度かある。

 神官である父を訪ねてくる人はさまざまで、外国からの賓客もいた。先生やアイスキオスと議論を交わすフィロソフィヤの中には、名家や外国の王子の家庭教師となって出世した者も多い。先日はマケドニアの貴族がはるばる訪ねてきた場にも同席した。


 彼はその人々の誰とも違う。


 どっしりとした存在感がありながら、どこか浮世離れした儚げな雰囲気も併せ持っている。巨躯の若者であるのは確かだが、老成した堂々たる佇まいから、しかと年齢を判じかねた。


 気配がすっかり去り、風の弱い庭の静寂ばかりが感じられるようになって、フィロンはようやくその場を離れる。

 玄関を通って門まで着くと、門番の奴隷にターレスへの伝言を頼む。

「俺は先に帰るから。ターレスが帰る時には、誰かに送ってもらうようにして」


 ターレスの家はすぐそこなのだが、彼がひとりで道を歩くと、その美貌に目が眩んだ男に言い寄られることがたびたび起こるのだ。

 いつもターレスを送っていくフィロンが先に帰ると言ったので、門番は少しだけ不思議そうな表情を見せた。


「珍しいですね。一人で帰るなんて」

「まだお客さんと話があるみたい。先生とアイスキオスさんも一緒で、奥に残ってるんだ」

 あの預言者を交えて話が始まれば、ターレスが帰路につくのはだいぶ先になるだろう。


「今日もアイスキオスさんに叱られましたか?」

「いや、今日はそうでもないよ。まあちょっとは、言われちゃったけど」

 毎日通っているから、門番ともすっかり顔なじみだ。出入りの際にはこうして挨拶ついでに雑談も交わす。

 フィロンはアイスキオスに叱られると、ここで門番に愚痴をこぼしているのだ。


「お変わりになりませんね、アイスキオスさんは。見目も、中身も」

「昔からあんな感じなの? 必要なことしか喋りませんって感じで、怖くてさ……一応俺も、五年くらい顔合わせてるのに、全然仲良くなれそうになくって」

「あの方は、そうですね。先生は当初から目をかけられてましたけど。俺たちから見ても、正直なところ冷たくて怖い人ですねえ」

「ふーん、やっぱり」

 門番に手を振って分かれ、貴族の屋敷が建ち並ぶ通りへ出る。


 厳格なアイスキオスと、気分任せな子供っぽさが抜けないフィロンが合わないのは当然だ。

 しかしフィロンがアイスキオスを嫌う理由はもう一つあった。


 アイスキオスは、ヒポニコス先生の最初の弟子。そして、かつて、ヒポニコス先生の愛人だったという話は有名だ。

 飛びぬけた美貌と才覚で先生に愛されたであろうことは、なんら不思議はない。

 ただ、それとターレスを比べるような発言が、あちこちから聞こえてくるのが気に入らいない。


 だからフィロンはどうしてもアイスキオスを煙たがっている。自分でも詮無いことだと分かっているが、気持ちはどうしようもなかった。


「おい、危ないぞ!」

 唐突に男に怒鳴りつけられた。

 顔を上げると、荷車と荷運び奴隷を引き連れた商人が通り過ぎるところだった。フィロンは慌てて道を譲る。もう少しで荷車の車輪にぶつかるところだった。

「ごめん、よそ見してた!」

「気をつけな!」

 自らもロバを引いた商人と短い言葉を交わすと、少しばかり気分が晴れていた。

 フィロンは下ばかり見ていた顔を上げて通りを見渡す。


 パン・アテナイ通りに出ると、さらに人が多くなる。アテナイ市街の中心広場はもう目の前だ。

 フィロンは歩調を早めた。


















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