第2話

 ヒポニコス先生の屋敷には頻繁に人が出入りしている。

 歴代の弟子は四十人を越え、アテナイの貴族や政治家たちはもちろん、周辺の他のポリスからわざわざ足を運ぶ学者も多い。


 しかし毎日のように屋敷を訪れるものは限られている。

 中でも訪問を欠かさないのは、連日講義をしてもらっているフィロンとターレスの二人だ。

 門を見張る奴隷も、昼過ぎに現れる二人をにこやかに通した。使用人たちも顔を合わせれば親しげに挨拶をする。


 いつもの部屋に通され、毎日同じように先生と話を始める。

 以前は修辞学の実践が多かったが、ここ半年ほどはもっぱら先生の講義を聞くばかりになった。


「先週の民会で議題になった、デルポイの領有権について少し補足しておこう。そもそも光明神アポロンの神域であるデルポイは――」


 ヒポニコス先生は長椅子に寝そべり、右肘をついて少しだけ上体を持ち上げていた。脇の下にはクッションを入れて、羊毛の膝掛けで太ももから下を覆っている。

 以前は背もたれつきの石の椅子に座っていたが、最近は寝椅子を使っている。立ち上がれないことはないのだが、体力が衰えてきているようだ。


 フィロンとターレスは簡素な木製の椅子に腰掛けて、先生の寝椅子の前に並んで座っている。

 ターレスはいつも真っ直ぐに先生の姿を見つめる。声を聞き逃すものかと、一言も、息遣いすらすべて覚えようとするかのように、潤んだ目を真剣に細めて、息を殺してじっとしている。


 対してフィロンは少しばかり集中力に欠ける。

 こうして隣のターレスの表情を眺めてしまうし、先生の話から空想が始まってしまってその先を聞いていないことがある。

「フィロン、また考え事をしているな」

「あ!」


 ぼんやりしていたのが先生にバレてしまった。フィロンは慌てて視線を戻すが、寝椅子の上の先生はため息をついて体勢を変えた。

 すぐにターレスが立ち上がって、体を起こした先生の足元に足置き台を差し出す。そのまま隣に腰を下ろし、先生の背中を支えた。


「お前ももうすぐ十七歳だ。振る舞いには気をつけなさい」

「はい……」

 足置き台に裸足を乗せた先生は、自分の太ももに手をついた。

「だが、お前のその呑気なところは美点でもある。どんな集まりでも、お前のような人間がほっと場を和ませるのだ」

「そ、そうですか。もっとちゃんとしようと、思ってはいるんですけど……」

「心掛けは忘れぬよう」


 フィロンのちょうど真向かいに先生がいて、その左に寄り添うターレスの姿が目に入る。

 老人と美少年だ。

 二人は歳が離れていて、普通の愛者と愛人の関係としては異質だった。

 例外はあるものの、導く側の愛者は三十代くらいまで、愛人の少年とは髭が生え揃う前の十代までが理想とされている。

 ヒポニコス先生はこの慣わしからすれば、すでに少年を導く立場から退く年齢だということになる。


 だからカリアスはあんなことを言った。他にも心ない声はある。不相応な愛は神の意に背くことになると。

 フィロンはその意見には賛同できない。


 例えば父がかつての愛人と寄り添ったのはたった二年間だったという。戦場で互いを庇い合い、真実の愛を説いたソクラテスですら愛人とは添い遂げなかった。

 あのカリアスに至っては、去年までとある商家の息子がお気に入りだったが、その子に髭が生えたから別れたのだという。今はターレスを追い回しているが、ターレスだってすぐに髭くらい生えてくる。そしたら愛さなくなるのか。それはつまり、最初から真面目に愛してなどいない証拠だとフィロンは思った。


 ヒポニコス先生は、人の愛とは年齢にも立場にも縛られないと説いた。そして愛の形、つまり原初の神エロースが与えた尊い感情とは、決して肉欲で表現されるものでもないと。

 先生は自らそれを体現し、ターレスも応えている。二人は安易な肉体関係を結ばない。先生はターレスがこれから大人になっても愛し続けるし、ターレスもよもや他の愛者を探したりしない。


 色恋に縁のないフィロンだからこそ、二人の気高い愛を守らなければと思うのかもしれない。ここに、理想の二人がいるのだから。


「失礼致します」

 部屋の外から控えめに、しかしよく通る声が響いてきた。フィロンもすっかり聞き慣れた声だ。それに先生が短く「ああ」と答えると声の主が静かに入室してくる。フィロンは無意識に体に力が入った。

 現れたのは痩身の青年、名をアイスキオスという。


 アイスキオスもヒポニコス先生の弟子の一人だ。つまりフィロンとターレスにとっては兄弟子にあたる。

 背が高く均整の取れた体つきで、白い肌と蜂蜜色の髪が三十八歳という年齢にしては随分と瑞々しい。

 フィロンはこの男のことがあまり好きではない。いつも妙に着飾っていて、鼻につくのだ。

 今日も赤紫の薄布を肩から斜めがけにし、さらに腰にも回して帯のように結んでいる。両腕には金の腕輪。サラサラの金髪を女のように長く伸ばしているのも気に食わない。自分は他の男とは違う、特別だと主張したがっているようにしか見えないからだ。


 フィロンは椅子から立ち上がって浅く頭を下げる。

 気にいらない相手でも、兄弟子だ。それもヒポニコス先生が最初に弟子にした人物。物心つく前から叩き込まれた神殿の礼儀作法がフィロンの体を動かした。


 アイスキオスはフィロンになど目もくれず、長椅子の上で起き上がっていたヒポニコス先生の斜め前に膝をついた。

「デルポイからの客人が到着されました。もう通してよろしいでしょうか? それとも、少しお待ちいただきますか?」


 デルポイはアポロン神託の聖地だ。彼の地の神託は巫女の口を借りるのだそうだが、神殿に仕える者の中には予言の力を授かる者が多くいる。

 フィロンは思わず顔を上げてアイスキオスを見た。フィロンの父は、アポロン・パトロオス神殿の神官で、各国からの寄進物の管理を任される重職に就いている。市の中心地に建つアポロン・パトロオス神殿はフィロンが育った庭のようなものだ。


「ああ、預言者だというお方だな。お着きになったか」

「ご本人は、自分は預言者などではないと謙遜なさっていますが」

「賢者は皆そうやって、まずは謙遜するもの」

 先生は満足げな表情で二度頷いた。

 それを見たターレスが、穏やかな笑みを浮かべて先生の顔を覗き込んだ。

「そういえば、神託所からわざわざ先生を訪ねてくる方がいるとおっしゃっていましたね」

「市内の神殿を回るのだろう。そのついでだ。しかし、デルポイの預言者が私の名を知ってくれているとは、ありがたい」


「では、僕らは今日はこのあたりで」

 ターレスがそう言ってフィロンに目配せをした。フィロンはそれに頷いて応える。


「客人を案内致します」

 アイスキオスは立ち上がって部屋を出ていった。硬質な声が石の壁に残響を残す。

 先生はアイスキオスの背を見てから、長くなった白髪混じりの眉毛をわずかに下げた。

「最近、客が多くてすまないな。もっとゆっくり講義の時間を取りたいのだが」

「とんでもない。お忙しい先生の時間を毎日いただいて、光栄です」

 ターレスは光栄です、という言葉にことさら力が込めた。


 ターレスが先生を思う気持ちは、どんな抒情詩よりも苛烈だ。泣き叫ぶことも、怒り狂うことも、笑って駆け回ることもないけれど、ターレスはいつでも先生への敬愛をその身のうちで轟々と燃やしている。そんな友を、フィロンは心から尊敬していた。


「じゃあ、先に行くよ」

 だからいつもこうして、講義のあとは少しだけ友と離れる。

「先生、今日もありがとうございました。明日もよろしくお願いします」

 部屋を出る直前、横目で少しだけ室内を振り返ると、ターレスが先生の肩に膝掛けに使っていた毛織物をかけてやるところだった。


 二人の距離は親密だ。ターレスの揺らめく瞳も、先生の包み込むような眼差しも、美しいと思った。すごく、すごく綺麗なものだ。

















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