美少年に生まれたかった
みおさん
第1話
道を歩けば誰もが振り返る美少年。
栗色の柔らかな巻き毛、深いオリーブグリーンの瞳。運動場帰りの生き生きとした頬は、象牙の肌に銀を乗せたように輝いている。
背丈は他の大人たちと変わらないほどに成長したが、まだ細いままの肩や腰、そして服から出た手足はすらりとしなやかで、人々の目を惹きつけてやまない。
少年たちが運動場を出て移動し始める昼になると、それを眺めようとする男たちが通りに顔を出す。
アテナイの運動場の中でも、今もっとも人を集めるのはリュケイオンの前だ。
なぜなら市内一、いやギリシャ世界一の美少年が通っているから。
「フィロン、油が落としきれてないよ。腕のところに残ってる」
門を出たところでターレスがフィロンの肘のあたりを指差した。
ターレスが首を傾げたので、豊かな前髪が理知的な額の上で揺れた。ただそれだけで周囲からため息が聞こえてくる。
一番の美少年とは、フィロンの幼馴染のターレスのことなのだ。
由緒正しい貴族の家の長男として育てられたターレスは、持って生まれたその美貌はもちろん、美しい所作、大人も舌を巻く知識量、そして理知的な振る舞いで人々を魅了している。
そのターレスに指摘され、フィロンは肘を上げて自分の腕を見た。
確かにレスリングの練習で体に塗ったオリーブオイルが残っていた。身体に塗った油は掻き棒で擦り落とすのだが、自分の右腕を擦るには左手を使うしかない。利き腕でない左手はずいぶん不器用で、肘の周りの油をうまく掻きとれないのだ。
「このくらい別にいいって」
フィロンは左の手のひらで右肘の周りを擦り、手についた油は服になすりつけた。
「ああもう、ダメだよ。汚くなるでしょう」
「だって他に拭くものないし」
「明日は僕に言って。うまくできない場所はやってあげるから」
ターレスは半年早く生まれたからか、フィロンを弟のように扱う。
ターレスは貴族、フィロンは神官の子で、アテナイ市内でも名家の息子たちである。
貴族らしいターレスと違って、フィロンは神官の子らしからぬ奔放な少年として名を馳せている。
対照的なふたりだが、年が近く、両家には長年交流があったので、二人は本当の兄弟のように育ち、いつでも一緒だ。
細かいことによく気が付き、なんでも丁寧にこなすターレスに世話を焼かれるのはフィロンも嫌いではなかった。そうして面倒を見てもらう代わりに、フィロンは荒事を担当していた。
こんな風に。
通りの真ん中で、髭面の男が不自然に立ち止まってこちらを見ている。
声を掛けたいならそうすればいいのに。
フィロンは意気地なしの髭面を睨みつけ、ターレスに一歩体を寄せた。
ターレスはモテる。異常なほどに。
こうしてリュケイオンから城壁の中に戻るだけで、日に三人はターレスに声をかけてくる。
移動の足を止められるのも邪魔だが、それより無意味に眺めるだけの男たちをフィロンは嫌っていた。せめて声をかけて断れられる勇気くらい見せるべきだ。そんな臆病者には、ターレスの美貌をわざわざ見せてやる必要はないと思っている。
フィロンに睨まれた髭面は足早に去って行ったが、一人去ればまた一人現れる。いつもの角を曲がったところで、予想通りにむさ苦しい男が顔を見せた。
「今日もかわいいなぁ、ターレス。今日こそうちに来るだろ?」
眺めるばかりの意気地なしは論外だが、声をかけてくるのが良いとも思っていない。
フィロンは露骨に顔を顰めて相手を威嚇した。
「またお前かよ、いい加減諦めろって言ってるだろ」
「チビの方に用はねえよ。子供はさっさと先生のとこにでも行きな。俺はターレスと話したいんだ」
男はカリアスとういう貴族の次男で、金持ちで、居丈高だ。体が大きく腕っぷしがいいので、周りが自分に逆らわないと思い込んでいる。妙に綺麗に手入れされた黒い口髭が胡散臭いことこの上ない。
なにがターレスと話したいだ。カリアスの話しなど、初陣で三人殺した自慢話以外に聞いたことがない。
フィロンはこの男が大嫌いだ。
毎日のように絡まれて、いつも穏やかなターレスですら辟易しているのだから。
「カリアスさん、申し訳ありません。今日もヒポニコス先生の講義がありますので」
「いいじゃないかよ、一日くらいサボったって」
カリアスがターレスに手を伸ばしたので、フィロンがすかさずそれを叩き落とす。
「お前には用はねえって言ってるだろ!」
手を叩かれたカリアスがフィロンを怒鳴りつけるが、フィロンは引くどころかさらに噛み付く。
もはや恒例となってしまった二人の小競り合いはさらに見物人を増やした。わいわいと人が集まってくる。
「ターレスにはヒポニコス先生がいるって知ってるだろ! お前なんか逆立ちしても、生まれ変わったとしても、先生には全然叶わないんだからな!」
「うるっせえなチビ、お前はターレスのなんなんだよ」
「こら、勝手に触んな!」
カリアスが舌打ちし、性懲りもなく手を伸ばしたので、フィロンはターレスを背に庇うように立ち塞がった。
その肩にターレスの温かい手が添えられる。
「フィロンの言う通り、僕は先生に教えを乞い、愛を捧げると心に決めています。ヒポニコス先生以外の誰にも付いていく気はありません」
ターレスはきっぱりと言い放った。
普段は物静かだが、発言する時は決して臆さない。
十六歳は恋にふさわしい身で、十七歳は神の域だと言われる。まさに美の絶頂たる十七歳のターレスは、蜜を湛える満開の花のように蜂を呼び寄せ、甘く熟した果実のように鳥が啄まずにいられない。
しかし蜜を吸うのも果肉を啄むのも、誰でも良いわけではないのだ。
たった一人、美しく聡明な親友が心に決めた愛者がいる。
それがヒポニコス先生――フィロンとターレスの教師であり、アテナイきっての賢人だ。
カリアスは先生の名前を聞いて嫌そうに目を眇めたが、少し考える仕草をしてから、ターレスに一歩近付く。
むさ苦しい胸板が迫って来て後ずさりたくなった。間にフィロンがいるのをわざと見ないふりをしているかのようだ。
「先生もそろそろ寿命だろう? じいさんが死んだらさ、今度は俺と……」
背後のターレスがハッと身を固くしたのが分かった。周囲の者も息を飲んだ。言葉が過ぎる。
「ふざけるなバカヤロー!」
カッと頭に血が上ったのが分かった。冷静さを保つよう毎日先生に諭されているが、それでも動くべきところはあるはずだ。
フィロンは得意の蹴りでカリアスの膝を打った。体格差があるから、速さが大事だ。
不意をつかれたカリアスは全く備えができていなかったようで、文字通り飛び上がって一歩半ほど身を引いた。
「いってえ! 何しやがる!」
「先生とターレスに謝れ! この、この……!」
侮辱に対して言い返す言葉が出てこないのが悔しい。
ヒポニコス先生は今年六十歳になった。確かに高齢だ。普通なら十代の少年の愛者になるには歳が離れ過ぎている。
しかし二人はそんな一般的な、俗な関係ではないのだ。フィロンはそれを誰よりも理解しているし、二人がどれほど違いを労り合っているか知っている……だから、カリアスの発言は絶対に許せなかった。
蹴られたカリアスは自分の否を謝罪することもなく、フィロンに掴みかかろうと腕を伸ばした。ターレスが割って入ろうとしたが、それより早くフィロンがカリアスの太ももにしがみついた。大きな手が空を掻く。
あっという間に地面にひっくり返されて、カリアスはグウッと潰れた悲鳴を吐いた。
「おお、今日もフィロン坊が勝ったぞ!」
「相変わらず見事なもんだ」
見物客と化した男たちがワッと歓声を上げる。
毎日とまではいかないが、三日に一度はカリアスとフィロンは掴み合いの喧嘩になっていた。
昼になるとリュケイオンの前に人が増えるのは、ターレスの美貌見たさと、こうしてフィロンにやり込められる貴族の大男を見られるからだ。
「せめて俺に勝ってから、先生に弁論勝負でも挑みなよ。どっちも一生勝てないだろうけど」
フィロンがそう言って胸を反らすと、集まった野次馬たちが嬉しそうにカリアスを罵倒し始める。中には転がったカリアスを足蹴にした強者もいた。貴族と付き合いを持ちたい者も多いが、カリアスはそれ以上に評判が悪いのだ。
ターレスが慈悲深く「あまり乱暴は」と嗜める。
声をかけられた人々はその優しさと思慮深さ、そして、眉尻を下げる悩ましげなターレスの顔を目にして相好を崩した。フィロンも思わず顔を綻ばせる。声変りを終えたばかりの甘い声を聞くと、怒りに燃えていた心すら簡単に穏やかさを取り戻すのだ。
「なんでだよターレス。あんなジジイより、絶対俺の方がいいぞ」
カリアスが半身を起こして、埃にまみれながらターレスを見上げた。
チビと馬鹿にしているフィロンにひっくり返されようと、みんなにどれだけ罵声を浴びせられようと、カリアスは毎日こうしてターレスに会いに来る。
そのしぶとさだけは評価に値するが、ターレスが振り向く日など決して来ないのだ。
「次に先生を貶める発言をされたら、今度は僕が殴りますよ」
ターレスが静かな声で告げると、さすがのカリアスも黙った。フィロンは追い打ちをかけるようにふんっと鼻を鳴らしてカリアスを馬鹿にする。
「今殴っていいよ」
「いや、行こうフィロン」
ターレスがフィロンの腕を引いて歩き出した。
フィロンが通り過ぎざま、地面に尻を付けたままのカリアスに舌を出して見せると、「クソガキ!」と怒声が飛んできたが怖くはない。
貴族の子のターレスと、神官の子フィロンはアテナイ市内ではなかなかの有名人だ。あのプラトンとも賢を競った、ヒポニコスの最後の弟子として。
先生は少しずつ弟子を取ることをやめ、今はもう未成年の弟子はふたりだけなのだ。
そのことが誇らしいけれど、どうして自分が選ばれたのか、フィロンは不思議で仕方がない。
ターレスが選ばれた理由は明白だ。
物心ついた時には神童の呼び声高く、文字を書かせれば流麗で、驕らず争わず、それでいて誰にも屈しない気高さを持ち、近所に住むヒポニコス先生がターレス三歳の時には門弟に決めていた。生まれ持った才覚が別格なのだ。
対してフィロンは、神殿のいたずら小僧として名を馳せた悪ガキだった。
普通の子供らしい子供で、食いしん坊で暴れん坊で勉強はそんなに好きではない。体術だけは得意なのでリュケイオンでは負けなしだが、神官の職を継ぐには不適切な資質だ。
いまでこそターレスに群がる男たちを蹴散らすのに役立っているが、将来は活躍の場があるとは思えない。
しかしヒポニコス先生はよく「フィロンには他の子と違う何かがある」と言ってくれる。
思うに、ターレスのような完璧な美少年の隣にいて、卑屈にならない心持ちこそが、自分の強みではないかと。ターレスには適わない。時折、劣等感で胸が詰まることもあるけど、それ以上に親友が美しくて優秀なことが嬉しいのだ。
さて、そんなフィロンにもひとつだけ悩みがあった。
神童の名にふさわしい親友と比べなくとも、それにしても、本当に、呆れかえるほど、とんとモテないのである。
普通なら――本当にそれが普通のことか疑うほどに、フィロンには縁遠いのだが――十四歳になる頃には、誰か大人の愛者ができるものだそうだ。
年頃になると大人から声をかけられるから必ず報告しなさいと、父から言い聞かされて育った。いずれその相手は父に挨拶に来るはずだから、と。
どうやら大人は気に入った少年に声をかけ、容姿を褒め、愛を囁き、家の前で竪琴を奏でながら歌ったり祈ったりするらしい。
実際にターレスの家の前で泣きながら歌っていた男を見たことがある。もちろんその人も思いを叶えることは出来なかったが。
まだ一人も、フィロンのために跪いて歌った者はいなかった。
いつも隣に美しすぎるターレスがいることが、フィロンを目立たなくさせる最大の要因であることはきちんと理解している。それにしても、卑屈や悩みを超越してしまうほどに、フィロンはモテなかった。
また一人、三十歳くらいの男がこちらに近付いてきた。フィロンなど眼中になく一心にターレスを見つめている。ターレスはすぐに首を振って通り過ぎようとした。引き留めようとする男を、フィロンが追い払う。
毎日がこの調子だ。
「ごめんね……また助けてもらってしまって。ああいう時、どうしてもすぐに動けなくて」
先生の屋敷のある通りに出ると、ターレスが暗い声でそう言った。ずっと掴まれていた手が弱弱しく離される。
端正な顔立ちが強張っている。
離れた手が、少し冷たかった。
「お前が謝ることなんかないだろ。カリアスの奴、いくらなんでも酷いよ。あれでお前の気が引けると思ってるなら、頭が悪すぎるよな」
フィロンは解放された手でターレスの肩をさすった。
先生がいなくなったら自分に鞍替えしろなどと、よくあんなことを思いつくものだ。ターレスはさぞや傷付いただろう。咄嗟に言葉が出ないのも仕方がない。
「でも、先生には黙っといて。俺から先に手を出したってバレたら、また叱られちゃう」
「そうだね。秘密にしよう」
フィロンが首をすくめて懇願すると、やっとターレスは薄く笑みを浮かべた。
「アイツ、鍛錬怠けてるんだろうな。どんどん弱くなってて、全然負ける気がしないよ」
フィロンが架空のカリアス目掛けて拳を突き出す真似をすると、ターレスはまた笑って、それから小さなため息を漏らした。
「僕も、先生のために人を殴りたいよ」
「なに言ってんだよー」
フィロンは笑った。
カリアスのことを殴りたい気持ちは本心だろうが、ターレスにはフィロンよりずっと理性と優しさがあるので、できないのだ。
しなくていいのだ。
だから代わりにフィロンが一緒にいる。
「先生とターレスは、俺の憧れだから。二人を馬鹿にしたり、酷いこと言ったりするの、本当に許せない。明日も俺が追い払ってやるからさ」
「……ありがとう」
親友は、少しだけ困ったような表情を見せた後、神をも魅了する笑顔で頷いた。フィロンも歯を見せて笑って見せる。
今日もいつもと変わらない講義への通い路。
ふたりは数多の男たちに振り返られながら、慣れた道を堂々と歩いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます