第90話 出航

 王国歴162年12月7日 昼 ユラニア港にて―――


 次の朝、船に近づいたレオンシュタイン一行はその大きさに驚愕する。


「何これ? 城?」


 イルマが思わず声を出す。

 全長130フィート(約40m)、幅は26フィート(約8m)、上甲板までは20フィート(約6m)、さらにマストの高さは98フィート(約30m)にも及ぶ。


「我が国の誇る外洋船スヴィプダグ号です。古代神話の英雄の名前をつけています」


 まさに英雄に相応しい偉容といえる。


「それでは、乗船を開始しましょう」


 ふわっとした足元の感覚が新鮮だ。

 レオンシュタインは士官室を与えられ、そのほかは大部屋が割り当てられる。

 女性陣3人は1室になるように配慮されていた。


「碇を上げろ!」


 ガラガラと大きな音を立てて、碇が巻き取られていく。

 風の向きも良く、船はゆっくりと岸壁を離れていく。

 レオンシュタイン一行は、甲板の上から遠ざかる港を眺めていた。


 波は太陽の光を反射し、その美しさは夏と変わらずに煌めいていた。

 潮の香りも漂ってくる。

 少しずつ港から遠ざかるにつれ、少しずつ帆柱に帆が張られていく。

 そのたびに、波を切る音が大きくなり、がくんと船体が振動する。


 甲板は寒さが厳しいため、みんなは早々に船倉に入っていった。

 ただ、ヤスミンだけは飽きずに海の様子を眺めているのを見て、レオンシュタインは近づいていった。


「ヤスミン、最近、元気がないね」


「そんなことない」


 そう言ってその場を離れようとする。


「ヤスミン。自分の部屋にケーキがあるよ。食べにこない?」


 ケーキ頼みとは情けない。

 けれども、ヤスミンはあっさりと陥落した。


「行く」


 階段を上がって船の後ろにある士官室に入る。

 士官室からは景色も見え、室内は3m四方の広さがあり、ベッドや戸棚も完備されていた。

 レオンシュタインは机上に置いてあった、ザッハトルテをヤスミンに勧める。


「自分も食べたけど、かなり美味しいと思う」


 ケーキを受け取り、フォークで小さくし分けて口に運ぶ。

 濃厚なチョコレートの甘さと、甘酸っぱい杏子ジャムが口いっぱいに広がる。


「……美味しい」


 レオンシュタインは、ヤスミンの顔に浮かんだ小さな笑顔にほっとする。

 もう一度、ヤスミンに問いかけた。


「ねえ、ヤスミン。旅がつまらなくなった?」


 大きく頭を振ると、ヤスミンは意を決して話し出した。


「私……いつも笑ってる。いいのかな?」


 弟を置いてきたことへの対する罪悪感、自分の無力感をぽつりぽつりと話し始めた。

 レオンシュタインは心が痛む。

 ヤスミンは黙って下を向く。


「薄情な姉……」


 と、涙をこぼした。

 そこまで悩んでいるとは思わなかったレオンシュタインは、自分の迂闊さを責め、ヤスミンに近づく。

 泣いているヤスミンをそっと抱きしめ、右手を頭に置き、優しく撫でる。


「薄情じゃない、薄情なんかじゃないよ。いろんな景色を見てほしいって言われたんだろ?」


「……うん」


「大好きな姉さんには、笑っててほしいんじゃないかな」 


 頭をレオンシュタインの胸に預けたまま、ヤスミンはぎゅっとレオンシュタインに抱きついていた。


「マスター」


 ヤスミンはますます強く自分に抱きついてくる。


 ん?


 この状況はいけないとレオンシュタインは気づく。

 ケーキを餌に少女を部屋に誘い込み、挙げ句の果てに抱きしめている自分は、傍から見たら『クズ』だ。

 人として何かが間違っていると、レオンシュタインは焦りを感じ始める。


 しかも、少しずつ船の揺れが大きくなり、レオンシュタインの船酔いが始まってしまった。

 ヤスミンから離れ、床に座り込んでしまう。


「うう……。気持ち悪い」


 レオンシュタインは頭を床板につける。

 今まで経験したことの無い頭痛と目眩が襲ってくる。

 こんなに早く船酔いするとは思わなかった。

 そんな苦しみの中、ヤスミンの言葉はレオンシュタインの心に突き刺さった。


「マスター。私、何も……みんなの役に立ってない」


 ヤスミンは、そっと近づくと自分の膝にレオンシュタインの頭を乗せる。

 レオンシュタインは気持ちが悪いため、されるがままだ。

 ヤスミンは黙ったままレオンシュタインの頭を撫でていた。


「ヤスミン。ぼくは……今、ヤスミンがそばにいてすごく嬉しい。それでいいんじゃないかな。うっ」


 船酔いの中、必死にヤスミンに語りかける。


「相手が少しでも喜んでくれるなら、それで十分なんだ。ぐうっ。ティアナはいろんなことで僕を助けてる。イルマも剣で自分を助けている。でも、ヤスミンだってそうなんだ」


 ヤスミンは撫でる手を止めて、じっとレオンシュタインを見つめる。


「夜の見張り、辺境伯での立ち回り、警戒。どうして、君が役に立たないと悩むのか、ぼくには分からない。ううっ。ぼくは、ヤスミンがいて、毎日が楽しいよ」


「楽しい?」


「ああ、側にいてくれるだけで毎日が嬉しい。楽しいんだ。それには理由が必要かな?」


 ヤスミンはゆっくりとかぶりを振る。


「私がいて、嬉しいか?」


 ヤスミンはじっと目を見つめながら、もう一度尋ねる。


 レオンシュタインは力を振り絞って起き上がると、膝を折って座り、ヤスミンの目を見ながら嬉しいとはっきり伝える。

 その瞬間、船に大きな波がぶつかり、レオンシュタインは体勢を崩して、ヤスミンの上に覆いかぶさってしまった。


 船酔いはさらに悪くなり、頭痛も最高潮に達する。

 ヤスミンはレオンシュタインの頭を大事そうに抱え、自分の胸につける。


「マスター、ありがとう」


 そう言うとますます強く抱きしめる。

 レオンシュタインは柔らかい胸の感触に戸惑いを隠せない。


(ヤスミン、当たってる)


 そう思った瞬間、部屋の扉が開かれる。


「レオン! 部屋は快適? ……えっ?」


 ティアナは部屋に入ってくるなり、二人が抱き合っている様子が目に飛び込む。

 ティアナは低い声でレオンシュタインに話しかける。


「ねえ、レオン。あなた、具合が悪いからってヤスミンを部屋によんで、そんな破廉恥な真似をするなんて、人としてどうなの?」


「したくてしてるわけじゃ、ううっ」


 どうにも離れられないし、具合も悪い。

 でも、ヤスミンの顔には、これまで見られなかった笑顔が広がっていた。

 同性のティアナですら、ドキッとしてしまうほど魅力的な笑顔。


 ヤスミンはそっとレオンシュタインを床に下ろすと、素早くドアのところまで走っていく。


「マスター、ありがとう」


 そういうとウインクをして、ドアの外に出て行った。

 ヤスミンの顔は真っ赤になっていたけれど、レオンシュタインやティアナは気づかなかった。

 残されたのは具合の悪いレオンシュタインと激怒しているティアナだった。


 ティアナはレオンシュタインのそばに寄り、首でも絞めてやろうかと思っていると、また船に大きな波がぶつかる。


「あっ?」


 今度はティアナがレオンシュタインに覆い被さってしまう。

 もはやレオンシュタインは瀕死の状態だ。

 その様子を見ながら、


「……馬鹿」


 小さく詰ると、そっとレオンシュタインの側に横たわる。

 そして、レオンシュタインの頭を撫でようとすると、入り口の近くにイルマが立っていた。


「……この非常時に何やってんだよ!」


 そういうと二人を引き離す。

 レオンシュタインは、もうふらふらだ。


(誰か助けて……)


 ついにレオンシュタインはその場に倒れ込んでしまうのだった。

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