第89話 船出前
王国歴162年12月1日 ユラニア王都 港に向かう街道上にて―――
翌日からも、移動中に馬車を止められるようなことは特になかった。
街道沿いの風景は荒野だったり、牧草地だったりした。
冷たい風が顔に吹き当たるため、荷台の中で過ごすことが増えてきた。
そんな中、イルマは剣の訓練に明け暮れ、ティアナは魔法の練習に取り組んでいた。
フリッツは随行員との会話からグブズムンドルに関する情報収集に余念がなかったし、バルバトラスは読書三昧となっていた。
ただ、ヤスミンの顔色はずっと冴えなかった。
レオンシュタインが話しかけても、短い返事しか返ってこない。
もともと言葉が少ないのに、ほとんど黙るようになっていた。
レオンシュタインは、いつかきちんと話をしなければと感じるようになった。
夕食後、レオンシュタインはグブズムンドルの人たちに演奏を披露することになった。
ヴィフトはエックハルトの弟子ということで、ある程度の演奏はできるだろうとは予想していた。
けれども、一曲目が始まった瞬間、自分の認識が甘かったことに気づく。
(今まで聞いたことがないくらいの素晴らしい音の響き。情景が浮かぶほどの表現力と美しい音色)
ヴィフトは一人、感動に包まれていた。
同時にヨークトルも感情を揺さぶられていた。
(俺は今まで音楽に興味を持ったことはない。それなのに、こんなに胸が苦しいのは何故だ? この音は俺に昔を……)
貧しい漁師の家に生まれたヨークトルは、幼少の頃、留守番で寂しい思いをすることが多かった。
けれども、両親が漁から帰ってきたときの安堵感、食事の美味しさ、家の楽しさは、大事に心の奥底にしまい込んでいた。
レオンシュタインのバイオリンは、それをそっと目の前に差し出すかのように響いてくる。
最後のフレーズを弾き終わったとき、ヨークトルは拍手をすることができなかった。
あの懐かしい我が家を思い出すと、自分の親不孝が身にしみた。
部下たちの手前、涙を見せることは許されなかったが、トイレに立ち、その中でこっそりと泣いた。
(帝国騎士副団長ともあろうものが……)
けれども、久々に流す涙は、なかなか止まってくれなかった。
(母さん、父さん……)
人知れず、トイレの中で啜り泣くヨークトルだった。
他の護衛たちも同様に心を揺さぶられていた。
(俺たちが? 音楽で?)
けれども、レオンシュタインのバイオリンは容赦無く心に入り込んできた。
30分ほどの演奏が終わると、全員が立ち上がって拍手をする。
レオンシュタインは恐縮するが、しばらく拍手は鳴り続く。
ヴィフトはレオンシュタインに近づくと、がっちりと握手をする。
「素晴らしい、素晴らしい演奏でした。これが毎日続くのであれば、お金を支払わなければなりませんね」
レオンシュタインは丁重にそれを断りつつ、気に入ってもらえて嬉しいとみんなに伝える。
その音楽のおかげで、グブズムンドル側とレオンシュタイン一行の距離がぐっと近づいたのは確かだった。
移動していた6日間は、天候に恵まれ、順調に馬車は進んでいった。
港に到着した日、大粒の雪が降ってきたけれど、その日は宿に泊まることになっていたので、寒さに震えることもなかった。
「ああ、久しぶりにフカフカのベッド」
ベッドに飛び込みつつ、ティアナは素直に喜んだ。
慣れたとはいえ、やはり野宿は辛い。
イルマも上着を脱ぎ、下着1枚でくつろいでいる。
ヤスミンはというと、何となくぼんやりとしたまま、港を眺めていた。
一方、フリッツは船へ馬車を積み込む様子を眺めていた。
船は130フィート(約40メートル)もある巨大な船で、港に横付けされている大型船が小さく見えるくらいだった。
その船にフリッツの馬車が丁寧に積み込まれていく。
(何だか申し訳ないな……あんなに丁寧に)
馬車は、よく見ると修繕の跡が遠くからでも見分けられた。
幌にも傷が目立つようになり、色もくすんだ黄色になった。
でも、フリッツは同時に自分の馬車を誇らしくも思う。
(みんなの命を守ったんだ。いい馬車だよ)
また、馬がゆっくりと引かれていく。
フリッツは走り寄ってに乗り込ませるのを手伝った。
相変わらずおとなしく、フリッツに顔を近づけてきては甘えるのだった。
(お前もありがとう。もういい年なのに頑張ってくれて。今度は遙か海の向こうまで行くのか)
船の中では、ずっとこの馬と過ごそうとフリッツは決めるのだった。
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