第34話 キスの波紋

 王国歴162年9月12日 7時頃 宿屋の部屋(レオンシュタインのベッドの上)にて――


 翌朝、眠っていたレオンシュタインは顔の近くに人の気配を感じた。


「ん?」


 何かが自分の頬に触れたような気がして目を覚ます。

 ふわっとしたライラックの香り。

 目をゆっくり開けると顔のすぐ近くに、イルマの顔があった。

 吐息が聞こえてきそうな距離だ。

 イルマはベッドの横に肘をつき、ずっとこちらを見つめていた。


あるじ、おはようございます」


 そういうと少しはにかんだような表情を見せる。

 確かに口の傷跡は気になるが、寝ぼけ眼で見たイルマは、とても美しく見える。


「目が覚めましたか?」


「あ、うん」


 何だか様子がおかしいため、レオンシュタインは警戒を緩めない。

 それ以上に感じるのは、イルマの潤んだ瞳の美しさだった。

 黙ったまま、しばらく見つめ合い、静寂が続く。

 その静寂を破るように、イルマは1つの報告をする。


「先ほど頬にキスをしてしまいました」


「えっ!?」


驚く間もなくイルマは告白してくる。


「私、今まで誰かにキスをしたことも、されたこともないんです。だから、だから、どんなものかなって」


 レオンシュタインは胸の奥が締め付けられるような気がした。

 彼女の生い立ちを考えると、そうに違いない。

 『おはよう』や『いってらっしゃい』が生活の中になかったはずだ。

 レオンシュタインが考え込んでいるのを見て、イルマは1つの願いを述べる。


「主、はしたないお願いだとは分かっていますが……私にもおはようのキスをしてもらえませんか?」


「ええ!!」


 イルマは指をレオンシュタインの唇に当てる。


「し、ず、か、に。ティアナが起きてしまいます」


 いつもの口調がなりを潜めて、今日のイルマは淑やかな感じがする。

 それに、妖艶さも感じるし、いたずらっぽい口調も胸がムズムズする。


「さあ」


「さあって言われても」


 すると、形の良い眉を少しひそめ、咎めるように


「ティアナだと、いいんですね」


 と話してきた。

 レオンシュタインの胸が、ちくっと痛み、昨日の件が頭に思い浮かぶ。

 別にそうじゃないと否定したかった。

 すると、迷っている間に少しずつイルマの顔が近づいてくる。


「お願い。今だけ……」


 レオンシュタインは混乱する。

 イルマを否定して傷つけたくはないが、ティアナの悲しそうな顔を見るのはもっと嫌だ。

 どうしよう、どうしようと迷っていると、


「お、は、よ、う! 朝っぱらから二人は何をしてらっしゃるのかしら?」


 いつの間にかティアナが仁王立ちで、こちらを見下ろしていた。

 けれども、イルマは怯まない。


「あら。昨日、レオンにキスした人に言われたくないですね」


 ずばりと昨日のことを皮肉った。

 まさか、そのような返しが来るとは思わなかったティアナは真っ赤になり、口ごもりながら答える。


「あ、あれは、レオンの元気がなかったから」


 その答えを聞いたイルマは、


「私も主を心配したんです。私も元気を出してもらいたいから、おはようのキスをしたんです。何か問題が?」


「問題だらけよ!」


 その言い合いをおろおろしながら聞くレオンシュタイン。

 とにかく、その場を和ませるために、朝食に行くことを宣言する。

 ティアナとイルマは目線を合わせたままだったが、早く降りていくように二人を急がせた。 

 レオンシュタインはこんな雰囲気が何よりも苦手だ。

 それを察した二人も、互いに頷き合って下に行く準備を始める。


「二人とも遅いよ! もう行くからね」


 レオンシュタインは二人を待たずに、食堂に降りていった。

 二人は黙ったままレオンシュタインについてくる。

 ただ、テーブルに着いたとき、イルマはいつも通りの振る舞いだった。

 ティアナも普通の態度で食事をしている。


「ティア。そこの塩、とって!」


「はい。あんまりかけないほうがいいよ」


 それを見ながら、朝はいったい何だったんだろうと不思議に思うレオンシュタインだった。

 まあ、二人が普通に過ごしているなら大丈夫だと考え直す。


「お! この、目玉焼きはおいしいね」


 二人に話しかけてみると、賛同の意見が返ってくる。

 ほっとしながらレオンシュタインは食事を楽しんでいた。

 イルマやティアナは表面上は笑っていたけれど、心の中は別の感情が渦巻いていた。


(イルマはなぜ今日に限って?)


(昨日、ティアナはレオンとの距離をいきなり縮めた気がする)


 互いに目を合わせると、


「うふふふ」


 互いに乾いた笑いになってしまう。

 そして、同時に一つのことを思うのだった。


(油断できない)


 食事を終え、宿の支払いを済ませると、リンベルクへの道を確認する。

 9時間ほどで着くらしいので、まず市場に行き食べ物を買うことにした。

 しかし、そこでも3人はぎこちなかった。


「このオレンジは新鮮ね」


 ティアナが手を伸ばしたところに、レオンシュタインの手があり、少しだけ触れる。


「あっ」


 後ろからイルマがジロジロと眺めている。

 すぐに手を引っ込めるティアナ。


 また、別の買い物をしようと店の前で眺めていたイルマは、後ろにいるレオンシュタインに気がつかず、お尻をぶつけてしまう。

 振り返った瞬間、レオンシュタインとの距離が近い。


「あっ」


 近くからティアナがじっと様子を眺めている。

 二人の様子を見ていたレオンシュタインは変な雰囲気を敏感に察知する。


「あのさ、何だか二人とも様子が変だよ。肩に力が入りすぎてるよ。リラックス、リラックス!」


 レオンシュタインは和ませようと笑顔で話しかけてくる。


(誰のせいだと思ってんだよ)


(レオンのせいですよ)


 けれども、3人は顔を見合わせて、


「ははははは」


 乾いた笑いを出すだけだった。

 買い物の最中に、同じようなことが12回も続き、さすがにまずいと思ったのか、イルマとティアナはレオンシュタインから離れてひそひそと話をする。


「イルマ、このままじゃまずいよ。とりあえず休戦しない?」


「まあ、私は戦ってないけど、レオンがあんな感じじゃね」


 レオンシュタインは心配そうに二人を眺めている。

 イルマは分かったという風に答えを返す。


「ま、いろいろ思うことはあるけど、とりあえず普通に過ごそうか」


「そうね。でも、いきなり変なことは控えてね」


「お前もな」


 二人とも両拳をぶつけ合い、休戦協定を結ぶ。

 二人がニコニコしながら近くにやってくるのを見て、レオンシュタインはようやくホッとする。


(何だかわからないけど、まあ、良かった)


 3人は買い物を済ませ、リンベルクへの道を進み始めた。

 昼が過ぎ、もうすぐリンベルクに着こうというとき、後ろから馬車が大きな音を立てて近づいてきた。

 そして、レオンシュタインたちを追い越すと、少し前でピタッと止まる。


「あの馬車にはシュトラントの紋章が付いていますね」


 ティアナが目ざとく見つける。

 レオンシュタインは何か良くないことが起こりそうな予感がした。

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