第55話 秀英、王と酒を飲む

 エルデニの頬は赤く紅潮し、うっとりと鏡を見つめている。


「そいつらの言う通りだ。お前はその真珠を身につけることができる唯一の女だ」


 王には次の展開が予想できた。もしこれが秀英の考えた計略なのだとしたら自分はあの男の力量を見誤ったのだ。


 エルデニはうやうやしくひざまづくと、上目遣いに王を見上げた。見知らぬ男女も一緒にひざまづく。


「偉大なる王に申し上げます。我が国は内陸の国ゆえ海を持ちません。故に海からのものは他国からしか入手できません。また我が国が誇る毛皮や家畜の乳から作るアロールチーズは他国の民にも大いに買ってもらうべきもの。溏帝国と我が国はともに豊かになれる兄弟、どうか今一度、使者のいるゲルへお戻りください」


「いや……」


 王が何か言おうと口を開きかけるとエルデニが低い声で言った。


「どうか……お戻りください」


 王が道を間違ったと判断した時、エルデニが見せる有無を言わせぬ表情であった。王はそれ以上何も言わずきびすを返して秀英のいるゲルへと向かった。


 秀英は誰もいないゲルでひとり座っていた。あとはあのふたりに任せるしかない。暁蕾と甘淑の調査によって迦楼羅汗カルラハンの唯一の弱点が妻のエルデニであることはわかっていた。またエルデニが装飾品に目がないこと、纏黄てんおう国で真珠はまず手に入らないこと。その情報を元に董艶妃から砂狼さろう国の特産品である真珠を譲ってもらった。だが一番重要なのはエルデニが夫である王を愛していることだ。


 いかにエルデニが真珠に心を動かされたとしても、夫を助けようとする真心がなければ動くことはあるまい。また王も、妻の進言が自分と国を本心からおもんばかるものでなければ受け入れないだろう。王と妻の愛にかけるしかない。そんなロマンティックな考えを自分がしていることに秀英はおかしくてならなかった。自分は愛を持っているのだろうか? 持っているとすれば誰に対する愛なのか? その問いに対しての答えを考えるのが怖かった。


 ゲルの入り口を覆う布が開いた。入ってくる王の気まずそうな表情を見て、秀英は部下のふたりが見事にやり遂げたことを知った。


「あのふたりは何者だ?」


 敷物にどっかと腰を下ろすと王は尋ねた。


「私の優秀な部下で、甘淑かんしゅくと暁蕾といいます」


 王は酒甕さかがめから再び馬乳酒を、秀英と自分の椀にそそぐ。今度はふたり同時に酒を飲み干す。秀英は今度もむせそうになった。


「フハハハハ!」


 王の豪快な笑いがゲルのなかに響いた。


「交渉は事前の準備で決まる。お主はわしが席を立つことを予想していたのであろう。『将を射んとする者はまず馬を射よ』とはよく言ったものだ。我が妻は馬ではないがな。お主のことだ交渉の条件もお互いに利があるものであろう。聞かせてくれ」


「ありがとうございます」


 ゲルに骨付きの羊肉や揚げた肉まん、野菜のスープ、チーズなどが運びこまれ酒宴が始まった。秀英が正統な交渉相手と認められたあかしであった。


 秀英はまず、纏黄国でとれる毛皮やチーズと、溏帝国で生産される食糧や家畜の餌を適正な価格で売買する仕組みをつくることを提案した。事前の調査で纏黄国からの毛皮が溏帝国に密輸されており値段が大きく下がっていることがわかったからだ。


「まず毛皮の密輸を取り締まり、適正な価格へと戻します。その上で十分な食料や家畜の餌が貴国に供給されるよう取り計らいます」


 王は満足げにうなずいた。


「秀英どの、わしが朱皇帝と直接話したかったのには訳があるのだ。お主を信じると決めたからにはその理由を話す必要があろう」


 王はそう言うと何があったのか語り始めた。


 纏黄国を大寒波が襲い、家畜の餌が不足し始めたのと同時に、自国でとれる毛皮の値段が下がり始めた。溏帝国との交易により安い食料や家畜の餌を手に入れることに慣れていた纏黄国の民は、すでに自給自足の生活を忘れており、生活が苦しくなった。


 そんな時、溏帝国からの使者を名乗る男が王に面会を求めてやってきた。男は病的に痩せており、まるで骸骨のようであった。不気味に思った王ではあったがとりあえず男の話を聞くことにした。男は言った、自分は溏帝国で悪政を行っている朱皇帝に対して反政府活動を行っているものである。王様、あなたに忠告がある。纏黄国の毛皮は溏帝国に密輸されており、そのため正規品の値段が下がっている。密輸を指示しているのは朱皇帝自身であり、あなたの国を弱らせいずれ侵略する計画なのだと。男はそれだけ言うといつの間にかいなくなった。


 王は始め男の話を信じていなかった。ところが同席していた将軍のひとりが暴走し、国境を越えて溏帝国に侵入し商人を襲ってしまった。驚くことに商人が運んでいた積み荷からうまく隠された毛皮が発見された。毛皮を没収したところ、毛皮の値段が上がった。王は男の話を信じるしかなかった。


 その後も毛皮の密輸は続き、そのたびに毛皮の値段が下がる。いつしか密輸の取り締まりと称して溏帝国に侵入し略奪が行われるようになった。溏帝国に対する不満が高まっていたところに秀英がやって来たのだった。


「お主がさきほど約束したこと、果たされるかどうかしばらく様子をみよう。その間貴国での略奪はやめる。だが約束が果たされぬ場合は貴国との戦争も覚悟せねばならん」


 王は静かに言った。秀英は自分が背負った責任の重さを感じて身を固くした。


「ひとつ聞かせてください。その痩せた男からは何か匂いがしませんでしたか?」


 秀英の質問に王は「うむ」と考え込んだが、やがて思い出したように口を開いた。


「そうだ……思い出した。あれは白檀の香りであった」


 

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