第38話 暁蕾、己を恥じる

 暁蕾シャオレイが黙っていると、甘淑かんしゅくはニヤニヤと嫌らしい笑いを浮かべた。


御史大夫ぎょしたいふフー 秀英シュイン。堅物で有名なあいつが情報を漏らすとは思えんが、あいつも男だからな。しかしもしそうならあいつの女の趣味は……なんというか……フフッ」


 そう言って甘淑かんしゅく暁蕾シャオレイの全身を舐め回すように見てくる。暁蕾シャオレイは思わず身震いした。広間には再びヒソヒソ話が広がりつつあった。


「嘘でしょ。御史大夫ぎょしたいふ様があんな娘を相手にされるはずないわ」


「そうよ、あんな冴えない娘が御史大夫ぎょしたいふ様と釣り合うわけないのにね」


 嫉妬とあざけりがないまぜになった言葉がいやでも聞こえてくる。気がつくと暁蕾シャオレイは、ふところに忍ばせている魚符に手を当てていた。秀英シュインと自分はそんな関係ではない。秀英シュインは自分のことを仮の妹だと言ったのだ。


 それでも甘淑かんしゅくから「御史大夫ぎょしたいふの女」と言われた時に感じたこそばゆいような感じは否定できない。決してイヤな気持ちではなかったのだ。


 (ダメよ! それこそが甘淑かんしゅくの狙いに違いないわ)


 暁蕾シャオレイは心の中で頭を振り、邪念を振り払う。


「何のお話でしょう? 御史大夫ぎょしたいふ様が私のような下賤の女官を相手にされるはずがありません。それよりも私は自分の考えをお伝えいたしました。次は甘淑かんしゅく様のお考えをお聞かせください」


「聞きたいか? 小娘ぇーっ」


 もったいぶる甘淑かんしゅくにムカッとしてくる。


「ぜひお聞かせください」


「人が殺された場合、まずいちばんに疑う必要があるのは誰だ?」


 こちらの質問に対して質問で返してくるあたりめんどくさいことこの上ない。暁蕾は気持ちを落ち着かせるために深呼吸をする。


「被害者の身内、知り合いでしょう」


「無難な答えだ。つまらんつまらん」


 甘淑かんしゅくは目の前に置かれた机に両手をつくと前のめりになった。


「普通に生活していて殺されたのなら、それもあるやもしれん。だが、奴は空き家で死んだのだ。普段人気のない場所だ。いるかどうかわからない第三者を疑うよりもやることがあるであろう?」


 甘淑かんしゅくの言いたいことは暁蕾シャオレイにはよくわかった。骸骨男を追って狭い路地へ入り込んだ暁蕾シャオレイが空き家に向かうのを止めたのは誰だ。突然現れた秀英シュインだ。狐のお面を被った秀英シュインは少し強引すぎではなかったか?


 秀英シュインと御史台の役人たちが空き家へ突入して行った後、いったい何が起こったのか? その真相を知っているのもまた秀英シュインとその部下たちだけなのだ。


「第一発見者を疑えとおっしゃるのですね?」


「いいことを教えてやる。お前は無意識のうちにその可能性を排除した。なぜだかわかるか?」


 暁蕾シャオレイが黙っていると、甘淑かんしゅくはそのまま続ける。


「お前は自分の見たいものしか見ようとしないからだ。董艶トウエン様の靴を咥える俺を見てお前は可哀想だと思った。おそらく卑しい宦官であっても自分が救わねばならぬ、とでも考えたのだろう。あの靴はいったい何であったか? あの靴は董艶様の『愛』なのだ。おお、いけないいけない宦官の分際でまたもや『愛』を語ってしまった」


 甘淑かんしゅくはチラリと董艶妃へ目をやるが、反応はない。


「俺は董艶トウエン様とふたりきりで話をすることが許されておらぬのだ。もしあの靴を咥えたまま董艶様の側まで行くことができたら、靴を履かせて差し上げることができたら、ふたりだけの会話を交わすことができたやもしれん。お前はその機会を奪ったのだ」


 今度は暁蕾シャオレイ董艶トウエン妃へ目を向ける番だった。甘淑かんしゅくが今言ったことの真偽を確かめたかったからだ。董艶トウエン妃はいつの間にか団扇うちわで顔を隠していた。これでは表情を読み取ることができない。


 だがもし、甘淑かんしゅくが言うように彼が董艶妃へ靴を履かせる間、董艶トウエン妃が顔を団扇うちわで覆っていたのなら、周囲に悟られずに言葉を交わせたかもしれないと暁蕾シャオレイは思った。


「そんな……」


 口を開きかける暁蕾に構わず甘淑かんしゅくは言葉を続ける。


「お前が御史太夫を疑わないのはなぜか?お前のなかに、御史太夫は善であり宦官は悪であるという考えがあるからだ。もし死体を発見したのが我々、宦官であったならお前は真っ先に犯人として疑ったであろう……」


 甘淑かんしゅくはそこで一旦言葉を切る。やがて、暁蕾にねめつけるような視線を送りながらゆっくりと言った。


「それを偏見へんけんと言う」


 偏見、偏見……、甘淑かんしゅくの発した言葉が暁蕾の頭のなかをぐるぐると回る。誰もが平等に幸せになることができる公平な世の中をつくる。そのためにはまず自分自身が他人を公平に扱わないとならないはずだ。それなのに……。


 後宮へ送り出してくれた、父さん、母さん、学問を教えている近所の子供たち。いろいろな顔が浮かんでは消える。


「ごめんね、みんな」


 暁蕾シャオレイはゆっくりと腰を落とすと床に片膝をついた。拳を突き出すと拱手の礼をとる。


「失礼いたしました。甘淑かんしゅく様。あなたのおっしゃる通りです。私は自らの目で物事を判断できるようになろうと、様々な書物を読み学んで参りました。ところが知識を得たことで知らず知らずのうちに慢心していたようです。いらぬ駆け引きはもうやめましょう。甘淑かんしゅく様が董艶トウエン様へお伝えされようとした話、私へお聞かせ頂けますでしょうか。私から董艶トウエン様へお伝えいたします」


 甘淑かんしゅくの顔に勝ち誇ったような笑みが広がっていく。

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