第36話 暁蕾、難題を吹っ掛けられる

 暁蕾は、両手を甘淑かんしゅくに差し出す。甘淑かんしゅくの両目は、正面を見据えたままだ。


「靴をお預かりします」


 暁蕾の言葉に甘淑かんしゅくは一度まばたきをした。次の瞬間、甘淑かんしゅくの口から靴がこぼれ落ちた。


 だがその靴は暁蕾の手ではなく、甘淑かんしゅく自身の両手で受け止められる。唖然として見守る暁蕾の前で、素早く甘淑かんしゅくは立ち上がった。


「あーあー、つまんねーなー。空気の読めねー小娘のせいで台無しじゃねーか」


 甘淑かんしゅくは、音もなく董艶トウエン妃に歩み寄る。


「さあー、董艶トウエンさまぁーっ。おみ足をこちらへ」


 甘淑かんしゅくは、董艶妃の前で再びひざまずくと満面の笑みで靴を差し出した。


「だ、誰が立ってよいと言った? もうよい靴を置いて下がれ」


 (えっ! 動揺してる?)


 董艶トウエン妃の声がわずかにうわずっていることに暁蕾は気がついた。


「仰せのままに……」


 甘淑かんしゅくは、董艶トウエン妃の足元にそっと靴を置くと後ろ向きのまま広間の中央まで後退した。すぐさま侍女が靴を拾うと董艶妃に履かせる。


「暁蕾、その方、そこにいる気持ち悪い男に聞きたいことがあるのじゃろう?」


 唐突に董艶妃が言った。暁蕾と甘淑かんしゅくは初対面だ。個人的に聞きたいことなどあるはずはなかった。そうであれば宦官としての甘淑かんしゅくに聞きたいことがあるのか?という意味なのか。


「おそれながら、宦官の皆様へ聞きたいことがあるのか?ということでしょうか?」


「董艶さまーっ、いったいこの小娘はなんなのです? 炎陽宮えんようきゅうにこのような華のない下女がおりましたでしょうか? いや見かけたことがないな。さてはお前、間違って入り込んだドブネズミだな」


 暁蕾シャオレイの問いを無視するように甘淑かんしゅくがあざけりの言葉を発した。


(ドブネズミですって!)


 後宮に来て妹と言われたり、娘のようだと言われたりいろいろしたが、とうとうドブネズミまで落ちたか。ここはさまざまな人間のさまざまな感情が渦巻いている場所だ。先程までひどい扱いを受けていた甘淑かんしゅくが今度は自分に悪意を向けてくる。悪意が常に弱いものに向けられ続けるこの世の中そのものではないのか。

虚しい思いが胸にひろがるのを暁蕾は感じていた。


「黙れ、甘淑! わらわはその娘と話しておるのじゃ」


 董艶妃に一喝され甘淑は口をつぐむ。


「さて、暁蕾。お前は最近、翠蘭スイランのお気に入りになったらしいの? お前の献策によって紅玉宮こうぎょくきゅうの評判はうなぎ上りじゃ」


 やはり来たかと暁蕾は思った。董艶トウエン妃から命じられた仕事は、最低限はこなしたものの董艶妃の望む結果は得られていないのだろう。一方で、武器横流しの噂を調べるために潜入したはずの紅玉宮こうぎょくきゅうでは頼まれてもいないのに翠蘭スイラン妃の問題を解決してしまった。


 返答に窮して固まっている暁蕾を見て董艶妃は短い笑い声を上げた。


「フフフ、冗談じゃ。わらわは全く気にしておらん。所詮、民の評判なぞ一時のものじゃ。人の気持ちは常にうつろうでの。わらわが興味を持っておるのは紅玉宮こうぎょくきゅうの慈善販売会で起こったおぞましい事件のことなのじゃ」


 暁蕾の胸がドキリと脈打った。同時に焦りと不安がないまぜになった感情が全身を覆っていく。董艶トウエン妃は空家で骸骨男が死んだことを知っているのだろうか?そしてその現場に暁蕾シャオレイが居たことも知っているのかもしれない。


「準備をせよ」


 固まっている暁蕾シャオレイに構うことなく董艶トウエン妃は女官に指示を出した。広間の真ん中に丸机が運び込まれて、暁蕾と甘淑かんしゅくが立っている間に置かれた。次に女官が持って来た品物を見て暁蕾は目を見張った。――竹で編んだ籠。暁蕾シャオレイにも見覚えがあるその籠は、慈善販売会で購入する商品を入れる籠だった。


 女官は籠を丸机の上に置くと、籠の中に手をいれ何かを取り出した。


 ――金メッキの香炉こうろ銀盒ぎんごう


 まさか! 暁蕾は机に置かれたふたつの品をつぶさに観察した。香炉に刻まれたブドウの紋様が目に入る。銀盒ぎんごうのふたに目をやると中央に翼を持った鹿、周囲につる草模様が刻まれているのがわかった。もう疑いようがなかった。この二つの品は暁蕾が骸骨男に売ったものだ。


「どうして……ここに?」


「どうやら見覚えがあるようじゃのう。手に入れるのに随分と苦労したのじゃぞ。何しろ闇の市場に出回っておったのじゃからな」


「闇の市場!」


 暁蕾は絶句する。安慶の都に盗品や密輸品を売買することができる裏の市場がある。そんな噂を暁蕾も耳にしたことがあった。


「本来なら……」


 ここで董艶トウエン妃は広間全体に呼びかけるような調子で話し始めた。広間の空気がピリリと張り詰める。


「わらわが直々に甘淑かんしゅくめを尋問してやるところじゃが、わらわはこの宦官とこれ以上口をききたくない。そこでじゃ。暁蕾シャオレイ紅玉宮こうぎょくきゅう翠蘭スイランに奉じたその才で甘淑かんしゅくの口を割らせよ!こやつがここに来た目的を語らせるのじゃ」


 (は? いったい何を言い出すの? 意味がわからない)


 あまりのムチャぶりに暁蕾シャオレイはあきれを通り越して、笑いさえ込み上げて来た。甘淑かんしゅくを尋問してここに来た目的をしゃべらせる?そんなことできるわけがない。そもそも甘淑かんしゅく董艶トウエン妃が危ない発注書を皇城に提出したから、その真意を探りに来たと言っていたではないか。


 それ以上でも以下でもないだろう。ご機嫌取りに最適ななぐさみ者として派遣されたのではないのか?


 ……いや、待て。


 なぜ、高位の宦官がわざわざやってくる必要があるのだ?


 暁蕾シャオレイの頭脳が高速で回転を始めた。

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