第35話 暁蕾、己を貫く

甘淑かんしゅく。なぜお前が来るのじゃ? 中常侍ちゅうじょうじが来ればよかろうて」


「何をおっしゃいます。私が願い出たのです。是非とも是非とも、董艶トウエン様のところへ伺わせて欲しいと。寛大な中常侍ちゅうじょうじ様はこころよくお許しくださいました。愛です。わたくしの董艶様への愛が認められたのです。なんと喜ばしいことでしょう」


 董艶トウエン妃は目を細めて甘淑かんしゅくを見下ろしている。甘淑かんしゅくは話を続ける。


中常侍ちゅうじょうじ様はおっしゃいました。董艶トウエン様よりお手紙を受け取ったと。きっと後宮で退屈されておるのだろうと。そして私にお命じになられました。董艶様のお気持ちに寄り添い、本当のお望みを伺ってくるようにと」


 いったいこの男は何なのだ?暁蕾シャオレイは鳥肌が立つ思いだった。歯の浮くようなセリフを吐くこの宦官にはわざとらしさのカケラもない。陶酔しきった潤んだ瞳、澱みなく言葉を吐き出す形の良い赤い唇。おぞましさの中に情熱の炎を感じさせる。この男は本気なのだ。


「控えよ! 甘淑かんしゅく。お前のような外道がわらわに愛を語るか」


「申し訳ありませんー! この甘淑かんしゅく、董艶様のお顔を拝見できるだけで至上の幸せだというのに、こうしてお声を聞くことまで出来て舞い上がっておりましたぁぁーっ!」


 甘淑かんしゅくは平伏すると額を広間の床に擦り付けた。


「どうかお許しをぉー」


 冷静に見れば何の茶番劇だと呆れ返る場面なのかもしれない。だが甘淑かんしゅくの所作は流れるようであり、声も感情に訴える美しい響きを持っている。少なくとも暁蕾シャオレイにはそう感じられた。


(まるでお芝居を観てるようね)


 暁蕾シャオレイはふと広間に広がりつつある異様な雰囲気に気づいた。こっそりと視線を広間全体に走らせる。広間にいる侍女や女官たちの様子がおかしい。女たちの視線は甘淑かんしゅくへと真っ直ぐに注がれている。肩が大きく上下しているので呼吸も荒くなっているようだ。中には祈るように胸の前で両手を握りしめている者までいる。


 この部屋にいる女たちは目の前で繰り広げれている出来事に興奮しているのだ。もしかして、こんなことが定期的に行われているのではないか?娯楽の少ない女官たちにとって、これほど刺激的な見せ物はないだろう。


「気持ちの悪い下郎め。わらわの名をその薄汚い口で何度も発しよって、虫唾むしずが走るというものじゃ」


 董艶妃の口元が布で覆い隠されているので、目元の表情しかわからない。それでも深く寄せられた眉根が強い不快感を表していた。口調には怒りが加わりつつある。


 甘淑かんしゅくは、何も答えない。額を床につけた姿勢のままだ。一瞬の静寂が広間を包んだ。


 ころんと軽い音とともに、何かが甘淑かんしゅくの方へ飛んで行った。よく見るとそれは、片方の靴であった。美しい刺繍が施された小さな靴。まさかと思って董艶トウエン妃の方を見ると片方の足が靴を履いていない。


 甘淑かんしゅくが少しだけ顔を上げて靴を見た。


「靴が脱げてしもうた。口で拾え」


 董艶トウエン妃の冷たい声が広間へ響く。女官の誰かがゴクリと唾を呑み込むのがわかった。暁蕾シャオレイは腹の底から苦いものが込み上がってくるのを感じていた。いくら何でもやりすぎだ。後宮で卑しい存在としてさげすまれている宦官であったとしてもこんな扱いを受けていいのか?


 甘粛は四つん這いのままはって進み、頭を下ろすと靴を口で咥えた。暁蕾シャオレイの座っている場所からは甘淑かんしゅくの表情は窺い知れない。だがその動きにためらいは少しも感じられなかった。赤ちゃんのよちよち歩きのように靴を咥えたまま、董艶妃が座る長椅子へ向かって進んでいく。


(もうこれ以上見てられない!)


 もし、自分が甘淑かんしゅくへ歩み寄り、靴を奪って董艶妃の元へ持って行ったらどうなるだろう?董艶トウエン妃はおそらく自分を許さないだろう。これはおそらく予定調和の世界なのだ。董艶妃は自分の力を見せつけ、女官たちは痺れるような刺激を得られる。そして甘淑かんしゅくは――彼の本意はわからない。


 だが、こんなことが許されるわけない。誰でも平等に学問を学べる世の中を作るという自分の夢。民が安心して暮らせる世の中を作るという夢。今目の前で起こっている理不尽な出来事を放置して夢がかなうだろうか?


 ――答えは決まっている。行動を起こせ!


 暁蕾は甘淑かんしゅくに向かってゆっくりと歩き出した。暁蕾シャオレイの行動に気が付いた女官が声を上げた。


「何をしている! 止まれ!」


 途端にざわざわとし始める女官たち。暁蕾シャオレイは振り返ることなく真っ直ぐ前を向いて歩き続ける。女官たちの驚きと憎悪の視線を全身に感じていた。


「あやつを止めろ!」


 女官のひとりが暁蕾シャオレイにかけ寄り強い力で肩を掴んだ。


「待て!」


 董艶妃の大きな声が広間に響いた。ざわめきが一瞬にして静まり、静寂が戻る。


「面白い、そのまま続けさせよ。手を出してはならぬ」


(いったいどういうこと? 董艶トウエン様は何をお考えなの?)


 暁蕾シャオレイの頭は混乱していた。女官に取り押さえられて、この余興を台無しにした愚か者として罵倒されるものと思っていた。だが、今は己を信じてやり遂げるしかない。


 肩から女官の手が離れ、暁蕾シャオレイは無事、甘淑かんしゅくのところまでたどり着くことが出来た。甘粛の傍らに両膝をつくとその顔を覗き込んだ。


 暁蕾シャオレイは息を呑んだ。靴を口に咥えた甘淑の相貌そうぼうは真っ直ぐ正面に向けられている。その瞳にはひどい扱いを受けていることに対する恥辱も怒りも浮かんでいなかった。形の良い赤い唇の間からのぞく白い歯でしっかりと靴をくわえている。長衣の襟元から青白い首筋がのぞいていた。


 ――美しい


 それは今まで見たことのない、どす黒く、禍々しい、それでいて決して目を逸らすことのできない美しさだった。


 

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