第29話 暁蕾、記憶を取り戻す

 (しまった! 油断した!)


 後悔の気持ちを感じる暇もなく、つかまれた腕をぐっと引き寄せられた。


(助けて!)


 暁蕾は声をあげようとしたが、手のひらで口を塞がれる。そのまま抱き抱えられるように建物の隙間へ引き込まれた。腕をつかむ力が少し弱まった。体をひねって逃れようと体をバタつかせる。涙目で見上げた狐の面から形の良いあごがチラッと見えた。


 (えっ? もしかして……)


「ばか! 暴れるんじゃない。落ち着け!」


 聞き覚えのある男の声だった。狐のお面が外され、琥珀色の瞳が現れた。


秀英シュイン様!」


 秀英シュインはいつもの紫の袍服ほうふくではなく、深緑の袍服ほうふくに銀の帯をしている。花鳥史として初めて暁蕾シャオレイの家を訪れた時と同じ服装だった。


「いったいお前は何をしているのだ?」


秀英シュイン様、痛い!」


 秀英シュインは、暁蕾シャオレイの腕をつかんでいた手を慌てて離した。


「す、すまん、痛かったか?」


 本当にすまなそうにしている秀英シュインを見ているうちに暁蕾シャオレイはフフッと吹き出してしまった。


「何がおかしいのだ?」


「だって、そんなに殊勝な秀英シュイン様を見るのは初めてだったもので」


「俺だって、悪い時は謝る。当然だ」


 少しすねたように言う秀英シュインを見て、暁蕾シャオレイはかわいいと思った。


「今、お前が向かっていた家はとても危険な場所だ。お前わかっていたのか?」


 真剣な表情になった秀英シュインが言った。


「私は、怪しい男を追ってきたのです」


 暁蕾シャオレイは、慈善販売会で骸骨のような容貌の怪しい男を見つけたこと。その男を追ってこの路地までやって来たことを説明した。


「お前の話だと、その男は普通に商品を買って会場を出て行っただけではないか? なぜ怪しいと思ったのだ?」


「迷わず一番高価な品と2番目に高価な品を買ったのです」


「商品には値札がついていたのだろう? 値札を見たのではないか?」


 確かにそうかもしれないと暁蕾シャオレイは思った。値札を見比べれば高価な品を選ぶことは可能だ。だが、男が並んでいる品物を見比べたようには見えなかった。


「それに……あの男は……」


 暁蕾シャオレイは、あの男が目の前に来た時点で何かを感じたのだ。その何かが引っ掛かり後を追うことを決めたのだ。


 ふーっと路地に風が吹き込んでくる。沈香じんこうの甘い香りが暁蕾シャオレイの鼻をくすぐった。秀英シュインがつけている香の香りだろう。暁蕾の脳裏に電流のような衝撃が走った。


 あの骸骨男から微かに感じた香り。確かあれは白檀びゃくだんに近い香りだった、だが香りを感じた時、一瞬頭がクラっとする感覚があったのだ。そして以前にも同じ感覚を覚えたことがあった。


 暁蕾シャオレイは、文章や言葉など見たものを一瞬で記憶し、後からその記憶を呼び起こすことができる特殊な能力を持っている。だがその能力に頼ってしまい、臭覚や味覚という他の感覚を磨くことをおろそかにしていた。そのせいで男から感じた違和感の正体に気づくのに時間がかかってしまった。


 ――暁蕾シャオレイは記憶を呼び戻す。北宮の回廊。前から歩いてくる宦官の一団。宦官の一人とすれ違った時、ちょうどその時、白檀びゃくだんのような香りがした。暁蕾シャオレイは一瞬、ほんの一瞬めまいを感じる――


「宦官です! あの男は宦官なんです。香りがしました。白檀びゃくだんのような香りです」


 秀英シュインの琥珀色の瞳が驚きで見開かれる。そして納得したように秀英シュインはうなずいた。


「おそらくそれは白檀びゃくだんではない。麻薬だ」


「麻薬!」


「しっ、声が大きい」


 暁蕾シャオレイは慌てて自分で口を押さえる。


槃天花はんてんかと言う植物から作られる槃麻はんまという麻薬がある。常習者の体からは白檀に似たような匂いがすると言われている」


 暁蕾シャオレイは急いで槃麻はんまに関する記憶を検索した。だが何も出てこない。過去の公文書にも槃麻はんまの名前は出てこないのだ。


「そんな名前の麻薬は記録にありません、どう言うことですか?」


 暁蕾シャオレイが小声で尋ねた時、秀英シュインの背後で人の気配がした。


御史大夫ぎょしたいふ様、準備ができました。……その方は?」


 現れたのは、秀英シュインと同じ深緑の袍服ほうふくに白い帯を巻いた若い男だった。おそらく秀英シュインの部下なのだろうと暁蕾シャオレイは思った。


「こいつは、後宮で情報収集をさせている女官だ。よし合図をしたら一斉に踏みこめ」


「承知しました」


 男は現れた時と同じように素早く姿を消した。


「すまんが、お前に説明している時間はない。よいか、お前はここにいろ。勝手に動くんじゃないぞ!」


 暁蕾シャオレイがうなずくのを確認してから、秀英シュインは路地へ出ていった。秀英シュインは部下に一斉に踏み込むようにと指示していた。おそらくあの家に踏み込むつもりなのだろう。秀英シュインの話が本当なら、あの骸骨男は槃麻はんまと言う麻薬の常習者ということになる。


 暁蕾シャオレイは、そっと路地の隙間から頭を出して例の家をのぞき見た。いつの間にか家の入り口の両脇には深紫の袍服ほうふくを着た数名の男が壁に体を寄せて立っている。男たちの背後には秀英シュインの姿も見える。


 遠くから見ていても男たちの緊張感が伝わってきた。全員が秀英シュインの方を見ている。


 ――秀英シュインが右手を上げた。


 全員が腰の刀を抜く。


 続いて秀英シュインの右手が前へ突き出される。先頭のひとりが扉を開けると家の中に次々と入っていった。  


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る