第10話 暁蕾、悪女と会う

 董艶トウエン妃の位は婕妤しょうよである。皇后、四夫人、九嬪きゅうひんの下の位となる。本来なら独立した貴妃宮を与えられることはないのだが、砂狼さろう国への配慮からだろう、特別に貴妃宮を与えられていた。


 北宮の回廊で貴妃に仕える女官とすれ違う、その度に暁蕾は立ち止まって拝礼するのだが、まるで汚いものを見るような視線を向けられるだけで挨拶を返してくれる女官はいなかった。


 (本当にイヤな場所! さっさと用事を済ませて帰ろう)


 鮮やかな朱色に塗られた廊下を進んで行くとやがて炎陽宮えんようきゅうへつながる渡り廊下が見えてきた。


 ―― 炎陽宮えんようきゅう


 それは北宮にある他の貴妃の宮とは全く違う雰囲気をまとっていた。石の台座に見たことのない装飾を施された柱、屋根は奇妙な弧を描いており緑色の瓦で覆われている。建物の外壁はまぶしい青で塗られていた。


 あるじである董艶トウエン妃の意向で建てられたのだろうか?


 暁蕾は、溏帝国の遥か西方にある砂狼さろう国がこの一角だけに突如出現したような錯覚に襲われた。異様な雰囲気に足がすくんだが、こんなところで立ち止まっている訳にはいかない。意を決して渡り廊下を進んでいき入り口の戸を叩いた。


 ややあって戸が少しだけ開いた。隙間から背の高い女官が顔を出した。


「何のご用でしょうか?」


 事務的な口調で女官が言った。細く鋭い目に、高く尖った鼻、薄く色の薄い唇と飾り気のない顔が暁蕾を見下ろしている。


「私は、後宮の備品係でツァオ暁蕾シャオレイと申します。炎陽宮えんようきゅう様が提出された発注書のことで確かめたいことがあり参りました」


「発注書?」


 怪訝そうな表情になった女官はしばらく暁蕾を見つめていたが、やがて「しばらくお待ちください」と言って奥へ引っ込んでしまった。


 なかなか女官が戻ってこないので不安になりかけた頃、やっと女官が戻って来た。


「どうぞ、中へお入りください」


 女官は暁蕾を招き入れると応接間へと案内してくれた。炎陽宮えんようきゅうは外観だけではなく内装も独特であった。部屋へと続く廊下を囲む壁には複雑な唐草紋様が描かれており、嗅いだことのない香の匂いが漂っていた。


 暁蕾が通された応接間の壁にも独特の書体で書かれた文字が幾何学的な配列で描かれている。床には動物の毛皮で出来た絨毯が敷かれていた。


 奥の壁沿いに、西国風の意匠がこらされた大きな椅子が置いてあるが、まるで玉座のようだと暁蕾は思った。


 廊下から応接間に向かって誰かがやって来る気配があった。衣擦れの音が聞こえてくる。侍女に続いて入室してきた女性を見て暁蕾は唖然とした。


 見たことのない襦裙じゅくん。いや襦裙ではない……肌を覆う布の量が少ない。首、胸元、肩、両腕が露出している。胸元が大きく開いた上着は見たことがあるがこんなものは見たことがない。さらに腰からおへそにかけての部分も布で覆われていない。鮮やかな青緑色の光沢のある布で胸の部分が覆われているだけだ。


 露出している肌の色は褐色とまでは言えない薄い茶色だが、キメが細かいのかあやしく光を反射していた。女性の背丈はかなり高く五尺二寸(173cm)はありそうだった。


 裙(スカート)は、青緑色と赤のひだが交互に重なり合って腰から下をふんわりと覆っている。最も驚いたのは頭部を覆っている黒い布だった。目の周辺だけを残して鼻、口、髪の毛まで全て覆われている。布の隙間からは大きな碧い瞳と目のすぐ上にある細い眉が見えた。

 

 女性はゆったりとした動作で暁蕾の目の前にある椅子に腰を下した。


 間違いない。この女性こそ、この炎陽宮えんようきゅうの貴妃


 ――董艶トウエン妃だ。


 暁蕾は急いでひざまづくと拝礼を行う。


「備品係の女官、暁蕾シャオレイと申します」


 うつむいた姿勢のまま名乗る。


おもてをあげよ」


 腹の底に響くような重みのある美しい声だった。


 暁蕾は言われるがままに頭を上げた。


 ――透明な、どこまでも透明な碧い瞳。


 だが、その瞳の奥には覗いてはならないどす黒いおりがあるように思えた。


 暁蕾シャオレイは思わず息を呑む。秀英シュインの琥珀色の瞳で見つめられた時とは違う禍々まがまがしい胸の高鳴りで、全身の皮膚に鳥肌が立つのを感じた。


「わらわに聞きたいことがあるのであろう?」


「はい、炎陽宮えんようきゅう様より頂きました、こちらの発注書についてでございます」


 まさか、董艶トウエン妃に直接聞くはめになるとは全くの想定外だった。


 暁蕾がうやうやしく差し出した発注書を侍女の1人が受け取り董艶トウエン妃へ渡す。


「ふむ……これか。確かに我が宮が出したものじゃな。でこれがどうしたというのじゃ?」


 どうしたもこうしたもないだろう、こんなもの受け取れないのです、と言い返したくなる衝動を暁蕾は圧し殺す。


「そちらの発注書に書かれている品はどれも後宮の生活に必要なものではございません。国を守る兵士にこそ必要なものでございます」


 董艶トウエン妃は再度、手に持った発注書に視線を落とした。


 「硝石と硫黄もあるぞ、これは必要であろう?」 


 (違う! それが一番危険なのよ)


 硝石と硫黄、そして木炭、これらを配合すれば火薬というものが出来る。まだ新しい技術であるが激しい爆発を引き起こす危険物だ。


董艶トウエン様は火薬をお作りになりたいのですか?」


「ほう、火薬を知っておるか。ならば話は早い。わらわは新しいものが好きでな、火薬とやらがどれほど役に立つのか知りたいのじゃ」


 暁蕾は耳を疑った、後宮の貴妃が火薬を使ってみたいとは。玲玲リンリンから聞かされた董艶トウエン妃の行いに関する噂を思い出し、全て事実なのではないかと暁蕾は思う。


「では、こちらに書かれている品物は全て董艶トウエン様が実際にお使いになる目的でご注文されるということで間違いございませんか?」


 暁蕾は床に視線を落とすとキッパリとした口調で言った。


 董艶トウエン妃は黙ったままだ。ジリジリとした時間が過ぎていく。下を向いているので董艶トウエン妃の表情はうかがい知れない。だが自分に向けられて発せられている異様な気を暁蕾は感じていた。

 

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