第9話 暁蕾、北宮へ行く

 結局、暁蕾シャオレイ泰然タイランの忠告を受け入れることにした。


 (今は目の前の仕事に集中しよう)


 宦官のことは気になったが今は心の底にしまうことにして日々の仕事を淡々とこなしていった。


 *****


 後宮の庭にぽかぽかと暖かい日差しが降り注いでいる。あでやかな花桃が満開となり春の訪れを告げているようだ。暁蕾シャオレイが後宮に来てからひと月が経った。


 暁蕾シャオレイが計算能力を使って発注書に書かれた品物の種類と数を集計する。玲玲リンリンがそれを紙にまとめる。泰然タイランのところにはふたり交互に発注書を持って行くことにした。この分担作業がとても上手くいって部屋に発注書の山が出来ることもなくなった。紅玉こうぎょく宮の青鈴チンリンのように侍女が苦情を言ってくることもない。


 苦情がないところを見ると品物はちゃんと納品されているのだろう。倉庫へ届いた品物の確認と貴妃宮への伝達をしなくていいのなら、慣れてしまえば簡単な仕事である。


 氷水ビンスイによる礼儀作法の授業は相変わらず厳しかったが、少しづつ慣れて叱責されることも少なくなってきた。まわりの女官の目は厳しいままであったが、気にしなければまあまあ快適な生活と言えないこともない。暁蕾は皇城にいる泰然タイランのところへ行く時に後宮の南側にある通用口をそのまま使い続けていた。この場所で偶然会った御史大夫ぎょしたいふフー 秀英シュインとはその後会っていない。それでも扉をくぐったらいるのではないか?と毎回少しだけドキドキするのだった。


 いつものように発注書の入った箱から紙の束を取り出すと、薄暗い仕事部屋へ運ぶ。ペラペラと慣れた手つきで紙をめくる暁蕾シャオレイの手がぴたりと止まった。


「なんなの……これ?」


 それは一見、普通の発注書のように見えた。他の発注書と同じように品物と必要な数が書かれている。だが問題は品物の中身であった。


 弓 10張

 矢 360本

 木槍 10本

 横刀 10振り

 硝石 1袋

 硫黄 1袋


 最初は禁軍の装備品を調達するための文書が間違って置かれたのかと暁蕾は思った。だが発注者の名前として記されていたのは別の名だった。


 ――炎陽宮えんようきゅう


 それがこの物騒な注文をしてきた張本人の名であった。


 (後宮でいくさでも始めるつもり?)


「ねえ、玲玲リンリンこれを見て!」


 隣で発注書の内容を一枚の紙にまとめる作業をしていた玲玲リンリンに問題の発注書を差し出した。


「うわっ! これ何?」


 玲玲リンリンも受け取った発注書に記されている物騒な内容を見て、眠そうだった目を丸くした。


「これってこのまま皇城へ持っていくのはマズいよね?」


「うん……こんなの持っていったら大騒ぎになる」


 確かに発注書の書き間違えというのはある。漢字が間違っていたり、字が汚くて読めなかったり、数の桁が大きすぎたり、そういう間違えはどうしても出てくる。そんな時は貴妃がいらっしゃる北宮ほくぐうまで出向いて確認を行わなければならない。暁蕾シャオレイもなるべく北宮へは行きたくなかったが、何度か確認で行ったことがある。


 だが、今回は文字や数という単なる間違いとは思えない。何らかの意図で書かれた可能性がある以上、書いた人の真意を確かめなければならない。


氷水ビンスイ様に相談してみようか?」


 まずは自分たちの上司と言える氷水ビンスイに相談するのが筋だろうと暁蕾は思った。


「そうだね、そうしよう」


 玲玲リンリンも同意したので、暁蕾が少し離れた部屋で女官の指導を行なっている氷水ビンスイのところへ行くことになった。


氷水ビンスイ様は北宮へ行かれてまだお戻りではありません」


 自習を命じられて部屋に残された女官のひとりが困惑気味に答えた。どの貴妃宮へ行かれたのか?いつ頃戻られる予定なのかを尋ねてもいっこうに要領を得ない。仕方なく暁蕾は自分たちの作業部屋へ戻ることにした。


「仕方ないね。北宮へ聞きに行くしかないか……私が行ってくるよ。ええっと……炎陽宮えんようきゅうか」


炎陽宮えんようきゅう……待って」


 さっそく出かけようとする暁蕾シャオレイ玲玲リンリンが眉根を寄せてポツリと言った。


「どうしたの? 玲玲リンリン


 何か引っ掛かることがあるのかと思った暁蕾が尋ねる。


炎陽宮えんようきゅう、良くない噂ある。ふたりで行った方がいい」


「えっ……どんな噂なの?」


 玲玲リンリンの話によると、炎陽宮えんようきゅうの貴妃である董艶トウエン妃は、西方の蛮族の血を受け継いでいるため背がとても高く、褐色の肌に大きな碧色あおいろの瞳を持ち、筋骨隆々の女性とは思えない体躯で時折、聞いたこともない異国の言葉で話すのだと言う。


 また噂では、禁軍の兵士数名相手に体術の試合を申し込み、立ち上がれないほどに叩きのめしたり、弓の試射と称して的の代わりに宦官を射たことがあるそうだ。それ以外にも炎陽宮えんようきゅうでは時折、怪しげな呪術の儀式が行われているのを見たという女官の証言があるらしい。


 こういった様々な噂から董艶トウエン妃は『北宮の悪女』と呼ばれているとのことだった。だが玲玲リンリン自身は董艶トウエン妃をじかに見たことはなく、事実かどうかはわからないとのことだった。どうも大人しい玲玲リンリンに噂好きの女官が無理やり噂を聞かせたらしい。


「北宮の悪女かあ……」


 (悪女と言うよりは、もはや化け物みたいな扱いになってるわね)


 暁蕾は自分の頭の中にある董艶トウエン妃に関する情報を呼び出してみた。


 董艶トウエン妃は溏帝国と西方で隣接する砂狼さろう国の姫であり、両国が国交を結んだ際、親交の印として砂狼さろう国より贈られた。親交の印と言えば聞こえはいいが、言わば人質である。砂狼国は強大な軍事力を持つ強国であるが故に溏帝国も董艶トウエン妃をむげには扱うことが出来ない。


 だが砂狼国はひとつの神を信仰する異教徒の国であるだけではなく、文化や風習もまるで違う。董艶トウエン妃が溏帝国のしきたりに全く従わないので、周囲で浮きまくり溏帝国としても扱いに困っているようだ。


 いずれにしろ玲玲リンリンから聞いた噂の真偽を確かめるのに役立ちそうな情報は無かった。


「ありがとう。でもひとりで大丈夫だよ。玲玲リンリンはここで仕事を続けて」


 玲玲リンリンは心配そうな視線を暁蕾に向けたが「わかった」と言ってうなずいた。


 部屋を出た暁蕾は南宮なんぐうの回廊を進み北宮ほくぐうの回廊へ続く渡り廊下を渡って北宮へと足を踏み入れる。化粧と香の香りがひときわ強くなり何とも嫌な雰囲気だった。

 


 

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