愛を伝える

鴻月 麻

第1話 愛を伝える





全く、こんなことが現実に起こるとは想像もしていなかった。

それまでの僕は神はいるかどうかは分からないけれど、信仰するには個人の自由だと思っていたし否定もしていなかった。

けれどたった今、僕はそれらの可能性を捨てた。


(この世に神はいない)


 降りしきる雨の中、僕の目の前には二人の人物がいた。

一人は僕と同じ、暗闇に呑まれたような暗い目をした男。もう一人は奇声にも似た悲鳴を上げながら必死になって弁解をしている男。

後者の男の言葉は容赦なく僕の心を抉り、怒りを煽っていた。

そんな中、僕を横目に見ながら前者の男がゆっくりと歩み出すのが視界の端に映る。こんな大粒の雨が降りしきる中、足音など聞こえるはずもないのに、僕の耳にはその男が踏みしめる砂利の音が確かに聞こえた。

同じように僕も横目で見ると目が合い『何か』を告げられたような気がした。その『何か』は明確には告げられなかったが、きっと、僕が感じたことで当たっているのだろう。


神はこの時の僕らにはいなかった。


だから、僕らはこの時、互いの心の中で同じ、罪を犯す決断をした。

降りしきる雨は彼の歩を止めることは出来ず、僕の目の前にいる二人の距離はどんどんと詰められて行く。

一層に激しさを増していく雨。叩きつけられる雨音に言葉が途切れ途切れになり意味を成さなくなり始めた頃。


「罪を犯す人は罪の奴隷なり」


聞こえたような、聞こえなかったようなその言葉は僕にとって最後の選択の機会だった。

強まる雨に全身を打たれながら僕は天を仰ぐ。閉じたままの目の、その目尻から温かいものが流れ落ちていくのを感じながら。

僕は答えを選ぶ決意をした。視線を戻し、二人を見据える。

「ごめんな・・どうしても許すことが出来ないよ・・・お前が生きていることがどうしても許せないんだ」

体の奥底から込み上げてくるこの感情。それは『燃え盛る怒りが胸を焼き尽くす』なんて生易しいものではなかった。

抑えきれないままに僕が選び取った選択。

「だから」

こんな言葉を吐く日が来るなんて想像しただろうか。

よりにもよって、この僕が。

苦しみ抜いた末に待っていた結末は、僕の想像を遥かに凌駕していた。

この世界に神はいない。

いたらこんなことにはなっていない。

「死ね」

たった一言をつぶやく唇は驚くほどに震えていなかったのを覚えている。

そうして僕はこの日、人殺しになった。

 



斉木由佳は学校からの帰途についていた。

つい先ほど友人の田島和歌子と駅の入り口で別れ、今は一人でホームに立っている。

辺りには同じ高校の制服を着た人間がちらほらといるくらいで、ほとんど一般の乗客はいない。

由佳はカバンから携帯電話を取り出すと無意識に操作を始めた。自分が参加しているSNSに繋げ和歌子とまた「合流」したのだ。

他愛のない会話をネットの中でしていると、

「本当なんだって!」

 突然張り上げられた少女の声が耳に届き、由佳は携帯電話から意識を離した。

「えー、そんなの絶対偶然だって。あんた騙されてるよ」

「偶然なんかじゃないの、だって本当に見せてもらえたんだもの!」

「だからそれが偶然だって。夢なんていつどんなものを見るかなんて誰にも分からないじゃない」

 続けざまに後ろに並んでいる同じ高校の制服を着ている女子の会話が耳に入ってくる。

気づかれないように耳を傾けていると、どうやら最初に声をあげた子が言うには「見たい夢を見せてくれるお店」で「見たい夢を見せてもらえた」らしいのだ。

それを聞いていたもう一人の女子が半信半疑の声を上げたのが聞こえてきていたようだ。

会話だけを聞いていた由佳も「そんなことあるわけないじゃない」と内心思った。 だって夢はしょせん夢であって誰かの手が加えられるようなものではないからだ。

夢を見せてもらったと言っている子は体よく騙されただけなのだろう。

お金まで払ってバカみたい、と由佳はちらりと背後に視線を投げかけ、そして再び視線を前に戻す。

と、ちょうどそこへ電車が入ってきた。

待ちかねていたようにホームにいた人々がその大きな鉄の箱へと乗り込んでいく。

由佳もそれに続いて乗り込んだ。

すると今度は自分がさっきの子達の背後に立つ形となり、その後の話もなんとはなしに耳に入れることとなった。

延々と彼女の話は続き、結局由佳はたいして聞きたくもないような内容の話を

すべて聞かされる羽目になった。

その店がどこにあるのか、どんな従業員だったのか、どんな夢を見せてもらえたのか。その全てを。

馬鹿らしい、本当にくだらないことばっかり。由佳はその子達に気づかれないように小さくため息をついた。

車窓に目をやり流れていく見慣れた景色をジッと見つめながらそんな風に思う。

「・・・でも、うらやましい」

呟いた言葉は電車の騒音で誰の耳にも届かなかっただろう。けれど、自分で発したその言葉は由佳の耳には確かに届いていた。

毎日がきっと楽しいことばっかりで、きらきらと目の前は輝いているんだろう。由佳は持っていた鉄のポールをギュッときつく握りしめ、床に目を伏せた。

自分だってこの子達と同じ女子高生なのに。今が一番楽しい時期のはずなのに。

そうは出来ない自分がいる。

こんな風に思ったらダメだって分かっているし、何度も言われているけれど、どうしても考えてしまう。ぐるぐると同じことを考えていつまでも止まることが出来なくなってしまい始めそうになったその時。

丁度そこへ車内アナウンスが流れ由佳はハッと意識を戻した。降りなければいけない駅名を連呼する車掌の声が、由佳の意識を引っ張り戻してくれたのだ。徐々にスピードが緩くなって、電車がホームへと入っていく。ホームでは多くの乗客が今か今かと電車の到着を待ち侘びているような表情を浮かべていた。

電車が止まり扉が開くと由佳はそこへと降りた。入れ替わるようにホームに居た人々が電車になだれ込んでいく。

いつもの光景。見慣れた風景。何も変わらない日常。

その他大勢の中の一人。それが由佳に安堵を与えた。

注目なんてされなくていい。

視線は矢のように突き刺さり、これまでに何度も自分を傷つけてきたのだから。

発車のベルが鳴り響き、扉が閉まりゆっくりとホームから出ていく電車を由佳は見送った。

さっきの子たちはまだ電車の中で楽しそうにおしゃべりをしていた。その光景もどんどんと遠くなっていく。

由佳は電車が見えなくなるまで見送ってから、ホームを後にした。



改札口を抜けてまっすぐに向かった先は通い慣れた病院だった。

きっとこの町で一番大きいであろう大学病院に、由佳の兄は入院している。

もう十二年になるだろうか。由佳が物心ついた頃にはもう兄はこの病院に入院をしていて、由佳は訳も分からないままにずっと兄を見舞い続けてきたのだ。

今でも、兄の病気が何なのかは知らない。

病院の門を潜り抜け正面入り口に向かって歩いている時だった。

病院から出てきたらしい男の人が由佳の横を通り過ぎようとした時、何かを落とした。

男の人は気づかない様子でどんどんと歩いて行ってしまう。由佳は慌てて落ちたものを拾い上げた。


「あの!」


張り上げた声は思いの外大きく、その男の人を含めた多くの人が由佳を振り返る。

赤面しながら由佳は男の人に向かって手を差し出した。最初は何事かといぶかしげに見ていた彼も、由佳の手の中にあるものに見覚えがあったのだろう。

ふと、表情を緩めて近づいてくる。

「ありがとう。気づかない所だったよ。」

その男の人はニコリと微笑みながら由佳の差し出す茶色い封筒を受け取った。

暑くなり始めているのにその人は薄手の白い手袋をしていて、由佳は奇妙な感覚を覚えた。

そこで顔を上げ初めてはっきりとその人の顔を見る。

優しい笑顔、穏やかな少し低い声。二十代後半くらいだろうか、ちょっとイケメンなその男の人に由佳はつい胸をドキドキと高鳴らせた。

由佳がジッとその男の人を見つめていると彼も由佳を見つめ、そして何気ない動作で視線を病院へと動かした。

「お見舞い?」

「あ、はい。兄の・・」

「そう、お大事に。」

最後にもう一度だけ視線を合わせ男の人は微笑み、踵を返し歩いて行ってしまった。

ちょっと素敵な人だったのに。


「やっぱりドラマみたいなことになんてならないよね。」


そうは言ってみても、発した自分の声はかなりがっかりとしていて、由佳は自嘲気味に笑ってしまう。スカートの裾を翻しながら体の向きを変え、本来の目的地である病院へと歩を直すと、あとはもういつもと何も変わりはせず。

病院のにおいも、ナースステーションの人の顔ぶれも、開け慣れた病室の扉も何もかも。

「お兄ちゃん。」

カーテンの開かれた部屋は陰気な雰囲気などこれっぽっちもなく、降り注ぐ日差しが兄の顔を明るく照らしていた。

空調が効いた病室は快適で暑さも寒さも微塵もない。

由佳はベッドの横に置いてあった椅子を引っ張って寄せると、腰かけた。

ずっと眠り続けている兄は痩せ細り、腕など由佳の方が太いくらいだ。そんな細い腕に通されている点滴が今日は妙に痛々しく見えてならない。

「お兄ちゃんってどんな声してたっけ」

さっきの男の人はきっと兄と同じくらいの年頃だ。兄もこんな植物状態でなければ、あんな風に笑う人なのだろうか。

何せ由佳が四歳の時には家を出てしまっていて、六歳くらいの時にはもうこんな状態で入院をしていたのだから、記憶に残る兄なんてかすんでしまってもうよく覚えていないのだ。

だから由佳の中の兄は、もうずっと寝たきりのこの姿だけ。声なんて記憶の中にもない。

それでも、由佳にとって大切な家族であることにかわりはない。

いつか目を覚ましてくれたら、そんな風に思いながら由佳はいつものように、その日あったことを兄に聞かせるように話し始めた。

病室に入って十分くらいした頃だろうか、扉がノックされた。返事をすると見慣れた医師がその向こうから姿を現す。

「榊先生、こんにちは。」

「由佳、来てたのか。」

手に大きなファイルを持って入ってきたのは兄をずっと担当してくれている榊医師だった。

「毎日見舞いに来て偉いな。」

ベッドを挟んだ向かいに立った榊は優しい笑みを由佳に向けるとそう言った。

「もう先生ったら、そうやっていつも子ども扱いする。」

「だって子供だろう?」

「失礼しちゃう、もう高校三年なのよ。」

「はは、そうだったな。」

榊は声をあげて笑うと、いつもと同じように兄の目にペンライトの光を当てたり、脈を診たりし始める。

「うん、変わりはないな。」

そう言って持っていたファイルに何かを書き込むと、開いていたそれを音を立てて閉じる。由佳はそれを見届けてから、言葉を発した。

「ねえ先生。」

「ん?」

 榊はいつもと変わらない優しい笑みを由佳に向けた。

「お兄ちゃん。目は、覚まさないの?」

「・・・・ああ、そうだな。」

「どうして?」

「わからない」

「だって病気なんでしょ?病気が原因なら、先生、調べれば治す方法も分かるんじゃないの?」

問いかけながら由佳は内心自分を蔑んだ、馬鹿だと思う・・と。

だってもう何度も何度も尋ねた問いなのだ。榊だっていい加減うんざりしているだろうに、それでもこの人はいつも変わらない答えを由佳にくれていた。

「医学的に診て彼は何の疾患も患ってはいない、健康体そのものなんだ。病気でないなら俺に原因の追究は出来ないさ」

「・・・・」

「でも、だからこそ。希望が持てるだろう?ある日ひょっこり起きるかもしれない。」

「・・・そうね」

由佳は眠っている兄を見下ろした。

榊が言うには、この兄は事実健康体らしいのだ。由佳と同じように。

それも何度も聞かされてきたことだった。由佳がもっと小さい時はこの説明を理解することは出来なかった。悪い所がないのなら起きないはずがないのにと、その場に居た医師や看護師を泣きながら責めたこともあった。

今ではあんな駄々をこねたりはしないが、納得していないから今でもこんな風に時折聞いてしまうのだろう。

「何もしてやれなくてすまんな」

「ううん、先生が悪いんじゃないもの」

そう言って由佳は時計を見た。もう帰らなければならない時間だった。由佳はパッと椅子から立ち上がるとベッドに置いていたカバンを手に取る。

「先生、私もう帰るね」

「ああ」

 榊の横を通り由佳は扉の前に立った。

「由佳」

 不意に声をかけられ由佳は間を置いて振り返った。

「・・・何?」

「毎日毎日こんなところに通ってないで彼氏の一人でも作れ。高校生活なんてあっという間に終わるんだぞ。」

由佳にとってもその言葉は聞き飽きてしまっている程に聞かされてきた言葉。

由佳があの問いをした日、お返しのように榊はそんなことを言うようになった。

「ダメよ。お兄ちゃんがこんななのに自分だけ楽しく過ごすなんて、私には出来ないわ」

「しかしだな」

「もう言わないで、先生。・・・・じゃあまたね」

 手を振るとそれきり後ろを振り返らず、由佳は兄の病室を後にした。






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最後にかわいらしい笑みを浮かべて出て行った由佳を見送った榊は深くため息をつくと同時にそれまでの表情を一変させる。

優しく穏やかだった榊の顔から笑みは溶けるように失せ、まるで能面のように、表情は消えてなくなった。

「良い妹じゃないか」

声は冷たく突き放すようなそれに取って代わり、さっきまでとはまるで別人のようだった。

ベッドに横たわる由佳の兄を見下ろす眼差しは揶揄するように歪んでいたが、しかし侮蔑のそれも混ざっていた。

「安心しろ、お前を死なせはしないさ・・・死んで楽になど、決してさせない」

だが意識を取り戻させもしない。

榊は心の中で何度も繰り返してきた決意をまた固めた。由佳には悪いがこの男に人生を取り戻させる訳にはいかない。


永遠に、このまま。


「何も変えさせない、絶対に。」

どれだけ由佳が兄の目覚めを望んでいても、それだけは叶えてやれないのを榊は知っていた。

そう、自分は知っているのだ。

なぜこの男が永い眠りについているのか。けれどそれを由佳に話す訳にはいかなかった。


「お前には死ぬまでそこで生きてもらう」


 吐き捨て榊は病室を後にした。

「榊先生いる?」

田島香織はナースステーションに戻ってくるとそこにいた同僚の宮坂文に尋ねた。

パソコンに向かって作業をしていた文は「少し前に立ち寄ったけど」と言いながら振り返り、

「由佳ちゃんが来てたから多分あそこでしょう」

「ああ、斉木さんとこの」

 それならばすぐに戻ってくるはず、と香織は側にあった椅子に腰掛けた。

「さっき由佳ちゃん帰ったからすぐに来ると思うわよ」

「そう」

この病棟で彼女のことを知らない看護師はいなかった。

何せ十二年も目覚めない兄の元へ毎日のように通って来ている娘なのだ。知らない方がおかしい。

香織も八年前からこの病院で働いているが、由佳を自分の妹のように思ってしまっていた。

と言うより、実の妹である和歌子の友達なので実家でもよく会うからまるで本当の妹と同じようなものだった。

「今日もお目覚めでない?」

「みたいね。目覚めたらこの病院の一大ニュースよ」

十二年間眠ったままの王子様、そんな風に看護師達の間で、由佳の兄はそう呼ばれていた。

実際彼が寝たきりなどではなく、例えば同僚として一緒に働いていようものなら壮絶な彼の争奪戦が繰り広げられるだろう・・と、そんな風に思わせるほどに由佳の兄は整った容姿をしている。

痩せこけている現在でそう思わせるのなら、目覚めていればかなりのものだろう。


「ところで、榊先生に何か用なの?あなたもう上がりの時間じゃない」

「この件が終わったら帰るわよ。ちょっと患者さんのことでね」

「どうかしたの」


 文からコーヒーを手渡され、香織は「ありがとう」とそれを受け取り口をつけた。

「一昨日入院してきた若い男性患者さん、いるでしょう?」

「いたね」

「新人の子がちょっとしたセクハラまがいの行為を受けたらしくって、泣きついてきたのよ。先生から注意してもらいたくて」

南場という男で、良くも悪くも普通の成人男子だった。

どこで仕入れた情報なのか看護師に妙な夢・・ではなく下品な妄想を抱いており、これまでに二人からのべ六回の被害報告を香織は受けていた。

単純に考えてこれは多すぎる回数だった。香織自身が注意に行ってもいいのだが、これまでの様子を見ていると女である自分が注意した所で何の効果も無いかもしれない。

そう思ったので香織は上司である榊に頼もうと思ったのだ。


「榊先生に叱られたら効果テキメンね」


文はおかしそうに笑ってから机に置いてあったファイルを持って立ち上がる。

時計を見るともう巡回の時間だった。

「間違いなく彼、大人しくなるわよ。何せセクシャルな問題には特に厳しい榊先生からのお灸だもの」

そう言って、笑いながら文はナースステーションを出て行った。それを見送った香織は盛大にため息をつき、コーヒーに口をつけ残りを一気に飲み干した。

「医療に関わること以外で問題を起こさないで欲しいもんだわ、全く」

この上なく切実な願いだったが、そうは行かないのが昨今の医療現場でもあった。


榊が来るまで待っている間、ついでに溜まっている仕事を片付けてしまおうと香織は椅子に腰掛け机上の作業に取り掛かった。それらがいくらか片付いた頃、背後に人の気配を感じた香織は振り返った。

「榊先生」

いつの間に来ていたのか、見慣れた上司の姿がそこにはあった。

黒々とした短髪の髪を清潔に整え、笑みを浮かべる表情には男らしさが滲み出ている。

学生時代にアメフトをやっていたというたくましい体躯にはファンの女性患者も多いらしく、「会えなくなる」と退院を渋る人も過去に居たという伝説すら残っていた。


「田島、今日はもう終わりじゃないのか?」

「はい。もう帰りますがその前に先生に話があって、残ってました」

「わざわざ?伝言を残しておいてくれれば・・・・まあいいか。で、何だ?」

「あの・・・・」


話し出そうとする香織の前に立った榊はジッとこちらを見つめてくる。

その顔を見て一瞬香織は口篭る。笑みを浮かべているが瞳の奥が笑ってはいないように見えたのだ。

「・・・・・・・」

それは直感だった。

もしかすると今はタイミングが悪いのかもしれない。

普段は厳しくも優しく思いやりのある榊だが、時折酷く冷徹な時がある事を香織は知っていた。

この時、何か嫌な予感のようなものを覚えてしまったのだ。

けれど切り出してしまった以上は話さなければならない。

案の定、榊は訝しげに眉根を寄せ自分を見てくる。

「どうしたんだ?」

「いえ・・・あの・・・一昨日入院された南場さんなんですが」

「大腿骨折の若い奴か?」

「はい。その南場さん、看護師への・・・セクハラ行為があるようです。スタッフ二人から相談を受けました」

「セクハラ?」

「身体への接触と、執拗に連絡先を聞きだそうとしてくるようです」

香織がそう言うと、榊から表情が消えた。ピリッと空気が凍りついたように感じたのは恐らく気のせいではないだろう。

思わず香織は肩を竦めてしまった。

「・・・榊先生?」

「・・・・・・・・・」

恐る恐る声をかけるも返事は無く、しばらくの沈黙の後「分かった」と言うと榊はそのままナースステーションを出て行こうとした。香織がその後姿から目を離せないでいると榊は一度振り返り、


「俺が対処をする。この件はもう他に口外しないように」


そう言い残し香織の返事を聞きもせずその場を立ち去って行ってしまった。


少しの間、香織は呆然とその場に立ち尽くしていた。

今までも榊にはこういった患者によるセクシャルな問題の処理を多々頼んできたが、今回はどうもいつもと様子が違う。

虫の居所が悪かったのだろうか。それならばタイミングが悪かった。


「・・・しまったな」


呟いて、片手で口元を覆った。

自分で頼んでおきながら何勝手な心配をしているのかと笑ってやりたい所だが、正直言って笑えない展開になってしまいそうな気配を榊が発していたのをひしひしと感じてしまう。

セクハラを働いた南場の自業自得ではあるが、相当きついお灸になってしまうのは目に見えていた。

 機会を改めるべきだった。そう後悔してももう遅いのだけれど。

「あー・・、まずったかも」

思わず天井を仰ぐと、そこへちょうど巡回を終えたらしい文がナースステーションへ戻ってきた。

そして開口一番、


「まずったって、何が?」

 香織の言葉が聞こえていたらしく、そう聞いてきた。

「文。もう巡回終わったの?」

「だって今日、患者さん少ないもの。それよりまだ帰ってなかったの?確か明日からの連休を使って彼氏の実家に挨拶に行くんでしょう。準備あるんじゃないの?」

「そうなんだけどー・・・」


まさか帰る直前にこんな心配事が出来てしまうなんて露ほどにも思っていなかった。

おまけに文の言う通り自分は明日から三連休に入ってしまう。

その前に相談事を片付けてしまいたかっただけだったのに、より一層気がかりな事態になってしまうとは。

こんな状態で連休に入れない、そう思った香織はチラッと文を見やった。


「確か三連勤だったよね、文」

「あなたが休むからねぇ。・・・何」

嫌味は聞こえなかったフリをして香織は続ける。

「ちょっと榊先生に注意向けててくれない?南場さんの件、先生に頼んだんだけどかなりピリピリしちゃって」


お願い、と顔の前で合掌をして香織は文を上目遣いに見上げた。

すると文は大きくため息をついて苦笑を浮かべる。

「思い過ごしなんじゃないの?さっきすれ違ったけど、先生普通だったわよ?」

「念の為よ。何もないならそれでいいから」

「・・・しょうがないわね。じゃあ見るだけ見ておくからあんたはさっさと帰って準備する」

その文の言葉に香織は、自分がどうして連休を取るのか思い返した。

「しっかし、あんた達も長かったわよね。よく彼も踏み切ったじゃない」

「ん、やっとね。おじいちゃんとおばあちゃんがもう年だから」

香織には長く付き合った恋人が居た。

その付き合いはもう十年が近く、最近になってやっと結婚の動きが出てきたのだ。

香織自身は随分前から結婚を意識していたのだが、恋人が中々乗り気になってくれなかった。

そのことで恋人を責めた時、彼から結婚を踏み出せない理由を聞かせられた。

それを聞いた香織は複雑な気持ちになったが、しかし彼の気持ちが動くのを待とうと決めたのだ。それが三年前の話。

そして歳月を経て、最近やっと結婚への動きが出てきた。

しかし待ちに待った展開になってきたにも関わらず、香織の心は晴れやかではなかった。

その理由も分かりきっていて、結局彼の結婚に踏み出せない理由が解決出来たのではなく、彼の祖父母が高齢になってきた為、と言うのがこの結婚話に至った理由だからだ。

全ての心残りを払拭して、何の迷いも無く香織は彼と結婚をしたかったのに、現実はそう上手くはいかない。

ただ、彼の事情が解決出来る事柄であるのかと聞かれると、それは「否」であった。

待っていたらいつまでも結婚には至らなかったのかもしれない。

ならば話が進展したのだから、喜べばいい。自身が望んでいた未来へと足を踏み出しかけているのだから。

香織はそう何度も自分に言い聞かせてきたのだ。


「とりあえず、行ってくるわ」


内心の葛藤は微塵にも顔には出さず、笑顔でそう言うと香織は文に手を振りその場を後にした。



家に帰ると時間はすでに七時を回っていた。

1DKの一人暮らし用の部屋は、旅支度で散らかっている。洋服が積み重なっているベッドに持っていた仕事カバンを投げ出すと香織はキッチンへ入り冷蔵庫を開けた。

丸三日留守にするため中身はほとんど空っぽで、残っていた卵と冷凍してあったミンチを取り出すと手早く調理し、ジャーの中のご飯をお椀に盛って電源を切った。

そして部屋に戻りベッドの横に腰を下ろすとテレビの電源を入れ、黙々と食べる。

テレビの内容は頭には入ってこなかった。

頭の中にあるのは、恋人である野中秀文のことだった。

明日恋人の実家に挨拶に行く女の心境なんて、不安がありつつも浮かれているものだろうに、自分にはそんな気持ちがほとんどない。

それは秀文との付き合いも長く、彼の祖父母とも顔見知りでもう何度も会っているせいでもあるのだと思う。

しかしそれを除いても、どうする事も出来ない彼の問題を解決しないまま結婚をすることに、心残りを覚えるのだ。

待つと決めた理由を解決しないまま通り過ぎようとしていることが、どうしても嫌だった。元来、中途半端が嫌いな性格なのだ。

「やっぱそのせい・・だよね」

明日、二人で秀文の故郷へ行き祖父母に結婚の報告をして、その後墓参りに行く。

秀文の両親の墓参りだ。

彼の両親は彼が幼い頃に事故で亡くなっている。結婚に踏み切れなかった理由は彼の両親に起因していた。

「・・・あー、なんか・・・・胸がツカえる」

香織自身が納得出来ていないなら当の本人はもっと納得出来ていないだろう。

こんな気持ちのままで、大好きなおじいちゃんとおばあちゃんに挨拶なんて出来ない。

やっぱり駄目だ。

きちんと解決しないと、きっと結婚してからも嫌な気持ちを抱えたままになってしまうのは目に見えていた。

「・・・・・」

香織は食事していた手を止め、テーブルに置いていた携帯を手に取った。

すぐに秀文の番号をディスプレイに表示させ通話ボタンを押そうとした、


 その時。


「わっ!・・・びっくりしたー」

まさに押そうとしたその瞬間、携帯が鳴り出したのだ。表示を見なくても分かる、この着信音は職場である病院からだった。

「えー、なになに?・・・・・・、はい田島です」

一気に仕事モードになった頭で電話に出た香織は、受話口から友人の声を聞いた。

てっきり引き継ぎミスでもあったのかしら、などと考えていた頭は彼女の話の内容を聞く内にすぐに真っ白になってしまう。

そこから聞こえてきた言葉は自分が思っていた仕事の話ではなかったからだ。


「・・え?文、ちょっとわかんない・・・もう一回」


頭がぼんやりして、電話の向こうの文の言葉が上手く飲み込めない。そんな香織に気付いたのか、文は受話器の向こうから言い聞かせるように、落ち着いた声音で何度も同じ言葉を繰り返した。

「・・・・・ヒデが、事故に遭って・・・運ばれてきたの?ほんとう?」

体の奥底から震えが湧き上がって止まらない。それを押さえつけようと携帯を持っていない手で自身の体を強く抱き締めた。

「うん・・・・聞いてる、大丈夫。・・・・・うん、分かってる・・・すぐ行く」

通話を切ると香織は少しの間、その場に立ち尽くした。今電話の向こうから聞いた内容がとても信じられなかったのだ。しかし冗談などではないのだろう、文の声は強張っていた。

「落ち着け、私・・・」

一つ深呼吸をしてから香織はベッドに投げ出してあったカバンを引っ掴むと全てをそのままに部屋を飛び出した。

「あの馬鹿っ、事故に遭うなんて」

病院に着いたら真っ先に怒鳴りつけてやる、そう思いながら香織は病院へ向かった。

 そんな香織の眦からいくつかの雫が散り、落ちていった。



「・・・・・・・元気そうね、秀文。」

息を切らせながら病院に着いた香織は真っ直ぐに秀文のいる病室へ向かった。

走ってはいけない廊下を全力で走り抜け、たどり着いた病室に恋人の姿はあった。

その姿を見た後、開口一番の香織のセリフがそれだった。

「おう香織、早かったな」

秀文は確かに包帯でぐるぐる巻きにされ、足はギプスをはめられ吊るされており、身動き一つ取れなさそうな状況にあった。

重傷には間違いないが、

「意識不明の重体ではないわよねぇ、文」

チロリと視線を投げかけると文は首を竦めた。


「運ばれて来た時は血だらけで意識がなかったのよ・・・本当にごめんってば」


本当に申し訳なさそうな声で体を縮こまらせながら文は俯いてさえしまっていた。

要するに文の早とちりだったのだ。普段から少しおっちょこちょいな文は、知人である秀文が血まみれで運ばれて来たのを見て相当びっくりしたようで、パニックになってしまったらしいのだ。

シュン、と縮こまり平謝りする文に香織は盛大にため息をついて見せた。

「まあ・・・・文が悪い訳じゃないものね。連絡、くれてありがとう」

肩をポンポンと叩くと文は「ごめんね」と小さく呟き体を小さくしたまま病室から出て行った。

それを見送ると香織は秀文に向き直る。


「まさかこんな展開になるなんて思ってもみなかったわ」


苦笑しながらベッドの端に腰を下ろした。

きし、と音を立てるベッドも気にせず香織は身動きの取れない秀文に顔を近づけると深く唇を重ねる。

温もりが伝わってきて、体から緊張が解けていくようだった。

「でも、良かった。あなたが生きていて」

「・・・・ああ、悪かったよ」

「おじいちゃん達には私から連絡を入れておくわ。帰省は当分延期って」

「頼む」


これも何かの思し召しだとしか思えないのは、女の考えだろうか。何かに阻まれた気さえしてしまう。


「ねえ。結婚の挨拶も、怪我が完治してあなたの気持ちに決心がつくまでは延期にしよう。きっとそうした方がいいのよ」

これで良かったのかもしれない。怪我を負っている秀文には悪いが、さっきまでと違って自分の心はこんなにも穏やかになっているから。

「・・・・香織」

「待てるわ、私。だからきちんと解決してから進もう」

「だけど」

香織の本心を知っている秀文が香織の言葉を聞いて、困ったように眉を下げた。

きっと申し訳ない気持ちの中に、ほんの少しの安堵を覚えているのだろう。

香織はクスッと笑いながら、


「私はそれでいいんだけど、あなたはどう?」


目深に秀文の顔を覗き込みながら聞いた。

擦過傷だらけの顔は痛々しいけれど、香織の言葉を聞いた秀文の表情から、少しずつ迷いが消えて去っていく。

そして、秀文は穏やかに笑った。


「・・・・ありがとな」


近距離で視線を交わしながら二人は微笑みあう。コツ、と額をくっつけると互いの息が頬を掠めた。温もりが愛おしい。

そっと目を伏せると自然と唇が重ね合わさり、触れ合うだけのキスを何度も繰り返した。

生きて側にいてくれるのなら。今は他には望まない。

長いキスを終え、名残惜しくも顔を離すと香織は壁にかけてある時計を見た。

針は十時を指そうとしている。

途端に秒針が時を刻む音が耳に飛び込んできて、香織は思い出した。


「おばあちゃんに電話しなきゃ!」


飛び上がりサイドテーブルに置いていたカバンを手に取るとドアへ向かって駆け出そうとする。

それをふと思い留まる様子を見せたかと思うとくるりと踵を返し秀文の下へと戻った。

「なに?」

苦笑を浮かべていた秀文が問うと香織は彼の顔に自分の顔を近づけた。

「忘れもの」

そう言うともう一度だけキスをして、香織はじゃあね、と秀文に手を振りながら病室を後にした。

早足に病院を出ると、香織は歩きながら秀文の実家に電話をかけた。

数回のコールの後、聞きなれた彼の祖母の声が受話口の向こうから聞こえてきたので香織は明日行けなくなった旨を伝えた。

事情を説明すると彼の祖母は心配そうな素振りを見せたが、大事ではないことを告げ、元気になったら必ず顔を見せるからと約束をすると納得をしてくれた。

香織は最後にもう一度「ごめんね」と付け加え、電話を切った。

その足で駅へ向かいながらもう一つのことについて考えを巡らせていた。

駅の改札口をくぐりホームに入ると電光掲示板を見る。次の電車が来るまで十分程時間がある。


「さて・・・どうしようか」


秀文の問題をどう解決すれば良いのか、香織は思案した。普通に考えていては駄目なのだ、何せ普通の問題ではないのだから。

もしこれが本当に解決出来るのだとすればそれはもう現実などではなく、


「夢みたいな話だわ」


非現実的な問題。むしろ、彼の心の葛藤・・とでも言うべきだろうか。

香織は携帯を取り出しインターネットに繋いだ。ワード検索をかけようとして、頭の中にいくつかの言葉を浮かべる。

どうすれば彼の望みが叶うのか。考えて考えて、香織はいくつかの言葉をそこに打ち込んだ。

そして検索をかけては現れた結果に落胆をして言葉を消す。何度も何度もそれを繰り返しているとあっという間に時間は過ぎ、やがて轟音と共にホームに電車が入ってくる。

風に煽られて靡く髪を押さえながら香織は開いたドアから電車内に乗り込むと空いていた席に座った。

結局とっかかりになるものさえ見つからなかった。

携帯の電源を落とすと、香織は顔を上げた。電車内はサラリーマンやOLなどで半分の席が埋まっていて、ちらほらと学生も佇んでいた。

斜め前の席には妹の和歌子と同じ制服を着た少女が二人座っている。

こんな時間まで塾なのだろうか。

「最近の学生は大変ね」

彼女らに聞こえないように呟くと、目の前の少女達がおしゃべりを始めたので、俯きながらついそれに聞き耳を立てていた。

その少女の話は実に突拍子もなく、いつもの自分なら笑い飛ばしてしまうような、稚拙で有り得ない夢の話だった。しかし聞いていくうちに香織はその少女の話を食い入るように聞き入ってしまっていた。


そこにあった一つの可能性に体が震える。


そうだ、現実的でない問題なら現実でない所で叶えられないだろうか。

「・・・・夢・・」

そもそも夢みたいな話なのだ。だったら。

香織は顔を上げた。さっきまでの場所に少女達は居らず、慌てて辺りをキョロキョロと見回す。

すると次が降りる駅なのだろう、少女達は近くの扉の前に立っていた。

あまりに考えに耽っていたので、電車のスピードが落ちている事にも気付かなかった。香織が立ち上がると同時に電車はホームに停車し、扉が開く。

香織の存在を知らない少女達はそのまま降りていってしまう。


「待って!」


人目も憚らず叫び、電車を飛び降りると少女達の後を追うように走った。

今が夜で、人ごみでないことが幸いした。すぐに追いついた香織はその少女の腕を強く掴んだ。

「ちょっと待って!あなた!」

突然腕を掴まれた少女は振り返り、怯えた視線を香織に向けてきた。表情は強張っている。

「お願い、さっきの話、もっと詳しく聞かせてくれない?」

唖然とした少女の表情が凍りついたように固まっている事に、ついに香織は気付かないままだった。




こんな人生になるはずではなかった。斉木千歳は自分の人生を嘆いていた。

「どこで間違えたんだろう」

ぼんやりと鉄格子越しの空を見上げながら、千歳はただ呟いた。

あんな男と結婚するんじゃなかった。

そもそもそこが間違っていたのではないのよ、絶対に。

いくら考えを巡らせても、行き着く先はいつもそこだもの。

私いつだって幸せなんかじゃなかった。子供を生んでも、子育ては丸投げされて全然協力してくれなかったし、愛人は作るし。

お金だけはあったけど、それでも全然幸せなんかじゃなかった。だから別れようと思った矢先にあの男、交通事故に遭って半身不随って。

笑えないジョークみたいな現実って起こるものなのね。

事故の一報を聞いた時笑っちゃったけど、私悪くないわよね?

おまけにそれで死んでくれてたら万々歳だったのに、よりにもよって半身不随。生きる屍みたいになったあの男を愛人は簡単に捨ててしまったから、面倒を私が見なくちゃならなくなってしまった。

冗談じゃないわ、愛してもないのにどうして面倒をみなきゃならないのよ。

お金はあるんだから施設に預ければ良かったのに、義母が「世間体が悪いしお前が居るのだから無駄に金をかける必要なんてない」なんて言うから強制的に在宅介護させられることになってしまった。

不満ばかりが募っていった。

何も出来ないの、あいつ。食事の世話も下の世話も、寝返りもうてないからこっちがしてやらなきゃならなくて、私の生活は一変したわ。朝も昼も夜もなくなった。

最初の方は何とかやったけど、でも感情のない相手にいつまでも尽くせやしなかった。

動けない相手に日々憎しみだけが募って、募って。

最後の辺はね、毎日死んでくれって思ってた。だけど中々死なないから。

まあ面倒みてたから当たり前なんだけどね。

それがついに爆発してしまった。

あの日、私はあの男を車椅子に乗せて外出した。初めから殺すつもりだったわ、冗談なんかじゃなくね。だってもう耐えられなかったもの。

この生活が終わるのなら、もう何だって良かった。子供のことも考える余裕なんてなかったわ。

それくらい、全てがどうでもよくなっていたの。

そしてあの日、あの男と結婚する前に何度か行った山の展望台に行ったわ。

車椅子ごと突き落としてやった。でも何の感情もわかなかった。

ただ、開放されて嬉しい。それだけ。

あの男に、私の人生はめちゃくちゃにされてしまったの。だから取り戻そうとしただけ。

先生、それでも私が悪いの?




斉木千歳の独白のような心情吐露を聞いた弁護士の和久利は、内心覚えた吐き気を表に出さないように強く、奥歯を噛み締めていた。

夫を殺した妻は、後悔など微塵も覚えておらず、むしろ何故罰せられなければならないのかと怪訝な顔をしている。

面会室のガラス越しの彼女の言葉は、和久利には到底理解出来るものではなかった。


「・・・また来ます」


それ以上そこに居たくなくて、和久利は千歳とは目も合わさず退室した。

長い廊下を通り抜け、建物の外に出ると和久利は振り返った。無機質なコンクリートの建物の中に彼女は居る。これからもきっと、長い間出る事は出来ないだろう。

何せ、自供も証拠も目撃証言も動機も全てが揃っているのだ。彼女は自身の夫を殺意を持って殺した。そして反省の色は見せてはいない。

裁判をして、収監されて、刑期を終えても今のままの彼女では罪は償えないだろう。悪いとも思っていないのだから。しかしそれでは何の意味もない。

罪を悔いて、その上で罪を償わなければ裁判など茶番でしかなかった。


「そんな高尚な説得が、俺に出来るのか?」


いささか弁護士として情けない言葉だとは思うが、しかしここまで強固に自身の罪を認めない被告人を担当したのは初めてで、和久利はつい弱音を吐いてしまった。

ふと、辺りをキョロキョロ見回して誰もいないことを確認する。付近には誰も居らず、今の言葉を聞いた人間はどうやらいなさそうで、安堵から小さくため息をついた。

この気弱をどうにかしろと、いつも上司に言われているが生まれ持ったものなのだ。

中々変えていくのは難しかった。

「とりあえず・・・行くか・・・・・・」

トボトボと和久利は歩き出した。



斉木千歳の裁判はどんどん進行していった。通常、裁判には膨大な時間がかかるものだが、今回の場合は少々違った。被告人が全てを認めている上、検察からの質問にほぼ全て「その通りだ」と返してしまうので、トントン拍子に進行してしまっていたのだ。

和久利はどんどんと追い詰められて行った。弁護しなければならない立場である自分が、何の弁護も出来ず、彼女を僅かすら救うことも出来ずにいる。

和久利は無力感と焦りに苛まれていた。

そんなある日、一本の電話がかかってきた。それは旧友である医師の榊からだった。

久々の再会の誘いを受けた和久利は二つ返事でその誘いに乗った。たまりに溜まったものを吐き出したくてしようがなかったのだ。



「どうやら大変らしいな」

生ビールで乾杯をして一口煽った後、友人の榊が言った。音を立ててジョッキをテーブルに置くと和久利は苦虫を噛み潰したような顔をした。

大衆的な居酒屋の店内は自分達と同じような年代の人間で半分以上の席が埋まっていて、ザワザワとした空気が酷く心地良かった。それなのに現実を思い出させるような言葉を吐かれ、和久利は眉根を寄せる。


「その話はやめてくれ」

「どうしてだ、時事ネタじゃないか」

 どこか面白おかしく言う榊に対し「話せる内容じゃない」と牽制をかけ、運ばれてきた枝豆を口に放り込む。

「茶化す為に呼び出したのか?」

じろりと睨みつけると榊はニヒルな笑みを浮かべた。

これが医者をやっていると言うのだから世も末だ。

「いや、お前のことだ。そろそろ煮詰まってる頃じゃないかと思ってな」

楽しそうな声音を変えず、榊は続けざまに今自分が気になっているらしいことをどんどん和久利に尋ねてきた。その質問の全ては斉木千歳の裁判についてのことだった。

興味を受けるような大きな裁判ではない。ありふれた、良くある小さな今回の裁判の、どこにそんな興味を抱いたのか。

しかし公判中の内容など漏らせるはずもない。和久利はのらりくらりとかわしながら、ただ、どうすれば彼女を変えられるかと、それだけを口にし続けた。

すると榊は言った。


「斉木千歳は反省をしていないのか」


それまでとは打って変わった、冷たさを含んだ榊の声に、和久利の胸中はヒヤリとなる。

こんな話し方をする時の榊が決まって怒っているからだと、経験上知っていたからだ。

「・・・・・・何だよ、急に」

「お前の口ぶりだと、そう聞こえたんだが」

「・・・・・あぁ」

「夫を殺して、家庭を滅茶苦茶にしておきながら何の罪も自分には無いと、そう言ってるのか?」

「榊?」

昔からそうなのだが、榊には冷徹な一面があった。『地雷を踏んだ』と和久利はその豹変ぶりをそう呼んでいるのだが、今正しくその状態のようだ。

「斉木千歳を精神鑑定にかけろ」

「は?」

「いい医者を紹介してやるよ」

「いや、しかし・・・もうそんな段階じゃなくて」

「どうとでも理由はつけられるだろう。いいからそうしろ。そうすれば・・」

そこで言葉を切った榊は浮かべていた笑みすら消し、表情のない顔を和久利に向けた。

「お前の希望通りその女は変わるさ」

迫力に飲み込まれた和久利は生唾を飲み込むと、頷いた。

頷くことしか出来なかった。そうしなければ自分にこの感情を向けられるのではないかと恐怖してしまったのだ。

そんな頷いて見せた和久利に満足をしたのか、それきり榊は斉木千歳の話をすることはなくなり、再び雰囲気は元に戻った。

その様子に和久利も緊張が解けたのか、その後は楽しい一時となり、互いの酒は進み楽しい飲みとなった。

どれくらい杯を重ねたのか、気がつくと時間は日を跨ごうとしていて、明日に差支えが出るからとそこでお開きにすることにした。

店を出て、それぞれの方向へ進もうとしていると、和久利の背に声がかけられる。

「許可が出たら連絡しろ。いつでも準備をしておく。」

その言葉の意味が初めは分からなかった和久利だったが、すぐに意味を察すると引きつった笑みで頷き返した。

榊は本気で言っていたのだ。


『斉木千歳を精神鑑定にかけろ』と。


彼女は誰がどう見たって正常な精神をしている。恐らく榊もそれは分かっているはず、分かっていてあえて彼女を精神鑑定にかけるような真似をしようとしているのか。

榊の意図が読めず和久利は困惑したが、それでも約束をした。

それほどまでにこの時の榊に畏怖を覚えたのだ。

「じゃあな」

そう言って立ち去っていく榊に後姿を、見えなくなるまで見送ると、和久利はホッと胸を撫で下ろした。その額には薄っすらと汗が滲んでいた。

「あなたには精神鑑定を受けてもらいます」

「・・・・・え?」

裁判が終盤に近づいての精神鑑定は誰もが意外だったようで、上司など呆気に取られた顔をしていたのを、思い出し和久利は一人苦笑いを浮かべながら、目の前の女性に決定事項を告げた。

「でも私、おかしくなんてないわよ?」

「それでも、受けてもらいます。決まったことですから」

自分にしては迅速な行動だったと思う。榊と飲んだあの日から一ヶ月も経ってはおらず、こんな時だけ行動が速いなんて我ながらおかしくてしようがなかった。

精神鑑定の日時が決まり榊に連絡をすると「一つ用意しておいてもらいたいものがある」と言われた。指定されたその物は、果たして精神鑑定に必要だろうかと首を傾げるものであったが、言われるがまま和久利はツテを使ってそれも用意させた。

そして当日。鑑定の行われる場所へ行くとある一室に案内された。

そこにはすでに榊が来ていて、和久利が斉木千歳を連れて入ると妙な笑みを浮かべ、待ちかねていた様子を見せた。

「精神科の先生は?」

「もう来ている」

榊は自身の背後にある仕切を指差した。

「頼んだものは?」

「・・・ああ」

和久利は持っていたカバンの中から袋に入れたそれを取り出すと、榊に手渡した。

中を改めた榊はそれを持って仕切の向こうへと姿を消す。

そして次に現れた時、その手には何もなかった。仕切の向こうの人物に渡したのだろうか。

「では、始めようか。・・・和久利、お前は席を外してくれるか」

「!・・しかし」

「大丈夫だ」

有無を言わせぬ強い口調に、和久利は従わざるを得なかった。

「・・・廊下に居る。終わったら言ってくれ」

「ああ。心配するな」

和久利は斉木千歳を部屋の中央へ行くように促し、自身は部屋の扉をくぐった。

扉を閉めながら後ろを振り返り、部屋の中を見ると、榊が彼女を仕切の向こうへ行くようにと背を押しているのが見える。

不安そうに振り返る斉木千歳と目が合った。

和久利は笑みを浮かべ、小さく頷いてみせる。

すると、斉木千歳は前を向きそのまま仕切の向こうへと姿を消した。


扉が閉まり和久利は扉の前に立ち尽くす。これからこの部屋で何が行われるのか見当がつかなかった。しかし分かるのは一つ、通常の精神鑑定などではないということ。

「・・・・榊、お前は何をしようとしてるんだ」

不安に苛まれながらも旧友を信じるしか、この時の和久利に出来ることはなかった。



部屋の扉が開かれたのはそれから一時間が経った頃だった。

突然目の前の部屋の扉が開かれ榊が顔を出したのだ。

こちらへ来い、とでも言う様に顎をしゃくり部屋に戻った、その後を追うように和久利は部屋に入る。

部屋を見回した和久利は怪訝な表情を浮かべた。

この部屋で何か行われたのだろうかと聞きたくなるくらい、室内は変わりを見せないまま。

そこには斉木千歳と榊、そして和久利の姿があるのみだった。


「もう・・・終わったのか?」


早すぎる、暗にそう告げるが榊は飄々とした笑みを浮かべ頷くだけだった。

「終わったよ。終わったからお前を呼んだんじゃないか」

斉木千歳に視線をやると、彼女の様子も何も変わってはいないように見えた。

大丈夫なのか、そう聞きかけた言葉を飲み込み彼らの側に近づくと、榊が手に持っていた大きな茶封筒を渡してくる。受け取り中を確認すると厚みのある紙の束が収められていた。

「彼女の鑑定書だ。裁判に提出するなりすればいい。」

「ちょっと待て。いくらなんでもおかしいだろう、どうして鑑定書がもう出来上がってるんだ」

たった今行われた、通常より遥かに短い時間の鑑定。

かつ作成された書類はその時間内で作られるにはあまりに膨大な量の報告書だった。

いくらなんでもこれはおかしい。


お前は一体今、何をしていたんだ。


「・・・・・・・・」

そう訊ねたかった。しかし和久利は聞けず言葉を飲み込んだ。

何かおかしいと分かっていたのだ、自分は。

それを今更聞いた所で何も変わりはしないのだ。

分かっていて彼女を差し出した自分も、もはや共犯でしかなかった。

「お帰りいただいて結構だぞ」

和久利は斉木千歳をまじまじと見つめた。

ここへ連れてきた時と同様、特に変化は認められなかった。

榊は、この精神鑑定にかければ彼女が変わると言った。

あの言葉が正しいと言うのならば、自分の目が節穴なのか。

「本当に大丈夫ですか?」

「・・・・ええ。大丈夫です」

彼女自身も首を傾げながらそう言った。

自分に何が為されたのか分かっていないのか、何もされなかったのか。判断がつけられないままだったが、しかしいつまでもここにいる訳にはいかない。

「・・・何かあればまた連絡する」

それだけを口にすると斉木千歳を促し、後ろも見ないまま渡された茶封筒を小脇に抱え室外へと出た。廊下を歩きながら和久利は聞いた。


「何があったんですか」

「・・・・」

「斉木さん?」

「それが・・・・・分からないんです。私、あの仕切の向こうにあった簡易ベッドに横になって目を閉じるように言われて・・・・そして次に目を開いた時にはもう、終わったと言われて・・・・でも」


言葉を切った斉木千歳は立ち止まった。そして空ろな瞳で廊下の天井を見上げる。


「夢を見ました。」

「・・・夢?」

「はい・・・夢を」

無言でその場に立ち尽くす彼女に、和久利は榊の言葉を思い返した。

この件で彼女は変わると榊は言った。しかし和久利の目にはそうは映らない。

今回の件に一体どんな意味があったのか、彼女にどんな変化が与えられたのか。この時の和久利は事態を理解出来ないでいた。

「先生」

不意に強い口調で呼ばれ、ハッと我に返ると斉木千歳がこちらを見ていた。

「何ですか?」

「・・・一度でいいので、家に・・・・帰れませんか」

「家に?」

「三十分でいいんです。お願い出来ませんか・・・」

彼女の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。その言葉は何を意味しているのか。しかし和久利は首を振った。

「・・・・出来ません」

「先生」

「あなたが次、家に戻れるのは・・・裁判で確定した刑を終え、罪を償ってからです」

「・・・・・そう、ですよね」

 それきり彼女は口をつぐんだ。

「何か気になることでもあるんですか?」

和久利の問いに彼女は首を振るだけだった。


この時、斉木千歳はどんな気持ちでそれを尋ねたのだろうか。和久利には終に分からないまま斉木千歳の裁判は進行し、そして結審の日が訪れた。

斉木千歳は懲役八年の実刑判決を告げられた。

彼女は裁判長を真っ直ぐに見つめ、それを受け入れた。控訴はしなかった。


これで良かったのだろうかという思いを和久利は抱いていた。心残りが後悔となって付きまとうのだ。

もう少し、量刑を軽く出来なかっただろうか。なぜなら斉木千歳にはまだ幼い娘がいるのだ。

その少女が大人になるまで、会うこともままならないなんて。それでなくとも裁判に二年を費やしたのだ。子供にはあまりに長すぎる時間ではなかろうか。

しかし、斉木千歳が罪を犯したが故のことであり、仕方がないと言ってしまえばそれまででもあった。

和久利はウイスキーの入ったグラスを煽った。

自宅のリビングで一人酒を飲みながら、テーブルに置かれた茶封筒を睨みつけていた。

榊から渡された斉木千歳の精神鑑定書のコピーだ。

封筒を手に取ると中身を取り出す。最初のページに鑑定医師の名前が印刷されている。


「・・・・青柳穂紬・・・」


聞いた名前だった。しかし、どこで聞いた名前なのかが思い出せない。

そうそうある名前ではないので、恐らく記憶に引っかかっている人物と同一である可能性が高いのだろうが。

「そのうち思い出すか・・・?」

呟くとコピーを封筒内に戻し、またグラスを煽る。

中身を飲み干し空になったグラスをテーブルに置くと、立ち上がり大きく伸びをする。そしてその足で寝室へと向かった。

終わってしまえば過去になる。今は気にかけていても時間が過ぎればこの感情も薄れていってしまうのだろうと、この時の和久利は思っていた。

まさかまた、再び彼女らに関わることになるなどとは露ほどにも思わないままに。







ザワザワと人の気配はそこかしこにあった。僕は病院の白く長い廊下を歩きながら、時折すれ違う看護師達からの会釈に笑みを返しつつ、目的の部屋へと向かっていた。

そこは本来ならば関係者以外立入り禁止なのだろう、ミーティングルームとおぼしきその部屋はもう何度訪れたのかは分からない。

扉の前に立ち、ノックをすると聞き慣れた声が返事をしてくる。

無言のままに扉を開けて中に入り部屋の中央まで歩いて進み、立ち止まる。

窓際に立っている、白衣を着た大きな男が振り返った。


「久しぶりだな、先生」

「そっちこそ、久しぶりだね。先生」


つい一ヶ月前に会ったにも関わらず、この目の前の男はいつだって捻くれた言葉を投げかけてくるのだ。

精悍な顔つきを皮肉めいた笑みで覆い、いつだって本心など見せない。

この榊と言う男は昔からそんな男だった。

「さて、今月分だ」

大きな茶封筒を差し出す無骨な手が僕に向けられる。

「いつもより件数は多いが全て受ける必要はない。どうするかはそちらに任せる」

「分かった」

僕は差し出された封筒を受け取ると持っていたカバンに入れた。

用件はこれだけ。なので、僕は「じゃあ」と榊に背を向けた。

真っ直ぐに扉に向かって歩き出すと、


「おい」


と声をかけられ引き止められる。渋々振り返ると榊は唇の端だけを吊り上げたような嫌な笑みを浮かべていた。次に発せられる言葉を察し僕が不機嫌な表情を浮かべると、榊は更に皮肉めいた笑みになる。

「会っていかないか」

「・・・・顔も見たくない。いつも言ってるだろう」

「もう何年経つと思う?」

「・・・・・」

「十二年なんてあっと言う間だった。これからも、早いんだろうな」

「何が言いたい?」

「まだまだこれからも長い付き合いになるってことだ」

「その件はそっちに任せるよ。もう、僕には関係ない」

そう吐き捨てると僕はそのまま部屋を出た。

通り慣れた病院の廊下を真っ直ぐに出口に向かって歩き始めると、後ろで扉の開閉する音が聞こえ、足音がついて来る。


「おい、先生」

「・・・・」

「おいってば」

「何か用?・・・それと、その先生って呼ぶのやめろよ」

「いいじゃないか、ついこないだまで先生をやってたのは事実だろう」

「もう二年も前の話じゃないか」

しつこく呼び止める榊に僕は苛立ちを隠さず立ち止まり振り返った。

すると追いついた榊は手に持っていた物を僕に手渡してくる。

さっき受け取った茶封筒より小さな、普通サイズのよくある封筒だった。

「何」

「弟に渡してくれ」

「・・・自分で送れば?」

「今、お前が居るのにどうしてわざわざ郵送しなきゃならんのだ。じゃあ頼んだぞ」

それで自分の用件が全て済んだのか、榊は僕を追い抜くと後ろ手に手を振りながら廊下の角を曲がり、姿を消した。つくづく勝手な男だと思う。

この仕事の依頼だっていちいち書面に起こしてそれを手渡ししなくても、メールでデータを送ってくれば済む話なのに、榊はいつだって自分のやり方を変えようとはしない。

あのマイペースにいつまで付き合わねばならないのか。考えるだけで気が重かった。


「・・・・・帰ろう」


月に一度、ここを訪れた日はどっと疲れが出る。盛大なため息をつくと、再び僕は歩き出した。

病院を出るとバスのロータリーになっているひらけたその場所には老若男女を問わず、たくさんの人が歩いている。

良い天気だった。ここへ来るのでなければ気分も良かっただろうに。

そんな事を思いながら駅に向かって歩き出した、その時。

「あの!」

突然背後から少女の高い声が響いた。誰かを呼び止めるその声に、立ち止まり振り返るとその付近に居た人々の多くが僕と同じように振り返っていた。

声を発したのは数駅向こうにある高校の制服を着た少女だった。

肩まであるストレートの黒髪が風に吹かれてさらさらと舞っている。

注目を集めてしまったのが恥ずかしいのか、耳まで真っ赤になってしまっている姿が可愛らしかった。

その少女は真っ赤な顔をしたまま、真っ直ぐ僕に向かって手を差し出してきた。

その手には茶封筒がある。よくよく見て、それは自分が落としたものだという事に気がついた。


「ありがとう。気付かないところだったよ」


ゆっくりとその少女に近づき手を差し伸べる。封筒を受け取り、笑みを向けた。

「お見舞い?」

「あ、はい。兄の・・」

「そう、お大事に」

 もう一度微笑みかけ、僕は踵を返し歩き出した。




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それは事務所のある雑居ビルに戻り、部屋に続く階段を上ろうとした時だった。

「あの!」

間違いなく僕の背に投げかけられた言葉だと気づき、今日はよくもまあ、同じようなシチュエーションに遭遇するものだと思った。振り返ると今度は二十代後半だろうか、若い女性がビルの入り口に立っていた。

さっき入る前にすれ違った、このビルの入り口に立っていた女性だと気がつく。

「何か」

「あの・・・・・あの、夢を見させてくれるお店の方ですか?」

女性の言葉にスッと目を細め彼女を見つめた。

僕は少々特殊な仕事に就いている。別に自慢するようなものでもないが、しかしあまり公に広まると面倒くさい思いをすると知っているが故に、完全な紹介制度を取っていた。

主な紹介者は榊からで、さっき預かった封筒がそうだった。

「どなたかの紹介でいらしてますか?」

「いえ、違います。でも・・・」

「それならばお帰り下さい」

人の口を完全に封じることは出来ず、誰かから聞いたのかたまにこんな人間が僕の前に現れたりもするのだが、彼女に取り付く島を与えずばっさりと切って捨て、僕は正面に向き直ると階段を上り始めた。

しかし彼女は諦めなかった。ヒールの高い足音をカンカンと響かせ、僕を追いかけてきたのだ。


「待って下さい!話だけでも」

「どんな場合でも例外は作らないとことになっているんです。御用ならば紹介者と一緒にお越し下さい」

「それは無理なんです!何とかお願い出来ませんか?」


女性は食い下がった。僕が三階にある事務所に着きドアを開け中に入ってもその女性は諦めなかった。


「こちらしか頼れる所が無いんです!」


廊下に立ち尽くし、悲壮な表情を浮かべながら女性は半ば叫ぶように言った。

事務所内はシンとしたが、その声を聞きつけたのか物陰から事務員の奥園まどかがひょっこりと顔を出し、

「所長、どうかしたんですか?」

と呑気そうに言う。張り詰めかけた空気がフッと和らぎ、僕は深くため息をついた。

「何でもないよ。こちらはすぐにお帰りになるから」

「お話を聞いていただけるまでは帰れません」

「紹介でお越しならいくらでも話は伺うと言っているんです」

振り返りきっぱりと言い切る僕に、女性は悔しそうに顔を歪めた。

そんな僕とその女性の押し問答を見ていたまどかは「あれ?」と怪訝な顔をする。


「もしかして香織?」


彼女の発した意外な言葉に僕らはほぼ同時にまどかに視線を向けた。

するとまどかを見たその女性は一瞬ぽかんとした表情を浮かべると、

「・・・・・・・・・まどか?」

吐息を漏らす様に言った。それで確認が取れたのか、まどかは僕を押しのけ扉の前にまで歩いて行き、間近で彼女の顔をもう一度まじまじと見つめる。

「やっぱり香織だ。どうしたのこんなトコで」

「まどかこそ、ここで何してるの?」

「何って、ここが私の職場だもの。で、香織は?」

「私は・・・こちらに依頼があって・・・でも」

そこで言葉を切ると女性はちら、と僕に視線を投げかけた。

「突然押しかけたものだから・・・・」

この時僕は嫌な予感を覚えた。

なんだか先の展開が予想出来てしまったのだ。

まどかは聡い女性だ。僕と彼女を交互に見比べ、そして一瞬で事態を察したのだろう。

「ああ、うち紹介制だからね。香織、紹介者居ないの?」

「・・・うん。」

残念そうに俯く女性、香織に共感したのか、まどかは侮蔑を交えた視線を僕に投げかけてくる。

僕はそれを受けつつも大きく咳払いをした。

「悪いけどどんな時でも例外はないよ」

再度きっぱりと言い切る。するとまどかはニッコリと微笑んだ。

「あらやだ所長、紹介者ならいるじゃないですか」

「たった今、彼女自身がいないと言っただろう?」

「もうー、所長の目は節穴なんだから」

予感的中。僕は苦虫を噛み潰したようにしかめっ面を浮かべた。そんな僕に追い討ちをかけるように、楽しげにまどかが言う。

「目の前に、いるじゃないですかー。私ですよ、わ・た・し」

「・・・・・・っ」

まどかの勝ち誇った笑みは最強で、これまで一度も勝てたためしはない。

僕は早々に白旗を掲げたのだった。

せめてもの意趣返しに髪をぐしゃぐしゃと掻き乱してから、たった今依頼者となった香織に向き直る。

「どうぞ、お入り下さい」

奥へ促すように手を差し伸べると彼女の表情から不安が消え、ホッとしたような笑みが浮かぶ。

何故だかそれが救いのようにすら思えるのはどうしてなのだろう。

ついたため息は思いの他深かった。



「あなたの恋人に亡くなったご両親の夢を。それが依頼の内容でよろしいですか?」

「はい」

応接室で向かい合い、僕は田島香織の依頼内容を聞いた。

極めて簡単な内容に僕は少々拍子抜けをした。あれだけ食い下がったのだからもっと難解であると思っていたのだ。

「理由をお聞きしても?」

「・・・・・」

香織は俯き、少しの間沈黙した。

そして再び顔を上げると何かを決心したかのような、決意のようなものがその表情にはあった。

「詳しい事は話してはくれなかったんですが、ただ・・・どうしても会って話がしたいみたいなんです。聞きたいことと、伝えたいことがあって、そうしなければどうしても前に進めないと」

「彼に、僕たちのことは話しておられますか?」

「いえ、非現実的なことを・・・あまり信じる人ではなくて。すみません。ただ、亡くなった人に会いたいと願うこと自体がもう非現実的なことだから、解決するにはこちらしかないって、思って」

「・・・そうですか」

なるほど、他に手段がない為にあそこまで食い下がったのか。

彼女の言う通り、彼女の婚約者の願いを叶えることが出来るのならば、それはおそらくここだけだろう。

非現実的には非現実的をもって迎える。

考え方として道理に適っているような気もする。

「些細なことだと思うんです。ご両親が亡くなった時、彼はまだ小学生でそんな大きな問題なんて抱えていなかったはずなんです」

香織は眉を寄せると指を絡めるように手を組んだ。

それは小さな事柄に固執する恋人を責めているように、僕の目には見えた。


「大事か小事かは本人にしか決められません。どんな些細なことでも乗り越えられない人は乗り越えられないんですよ」


僕の言葉に香織はハッとした様子で顔を上げ、唇を噛んだ。

だからこそ僕らのような生業の需要があるのだ。人から見ればインチキとも取れるような「望みどおりの夢を見させてくれる」店なんて。


「あなたの恋人の野中秀文さんに、必ずこの件を伝えて下さい。ご本人の了承なしに夢を見させることは出来ません」

「分かっています」

「了承が取れたら依頼を遂行します」

「はい」

香織は真剣な眼差しを僕に向け、強く頷いた。

「もし万が一了承が取れなかった場合は、契約破棄となります。よろしいですか?」

「・・・・はい。よろしくお願いします」

深く頭を下げる香織を、僕は見つめた。

本人が望んでいたとしても、他者が勝手に、それも強引に進めていいことなど何一つない。

それが最後の手段であったとしても。

「料金に関しては、奥園から説明を受けて下さい」

「分かりました。・・・・あの、一つだけ聞いても?」

「何でしょう」

「夢を見させてくださるのは所長さんですか?」

その問いに僕はサッと心が黒く塗りつぶされたような気分になってしまった。

不快から、皮肉めいた笑みを彼女に向ける。


「違いますよ」


言い捨て席から立ち上がると後ろも振り返らず僕は応接室を出た。

外へ出ると待機していたまどかに後を引き継ぎ、僕は事務所を出た。

そして階段を更に上り、四階の自宅の扉をくぐりリビングのソファに倒れこむ。

悪気の無い好奇の眼差しが向けられることには慣れているはずなのに、ふとした拍子に苦しく感じる時がある。

当人でない僕でさえここまでうんざりするのならば、『当人』は一体どれだけのストレスを受けているのか。

僕はポケットから携帯電話を取り出し、かけ慣れた番号に発信した。

数コールの後、相手が出た。


「僕だけど」


電話の向こうからは喧騒が聞こえてきて、またいつものパチンコかと思う。

相変わらずだなぁなどと思いつつ、向こうのおざなりな返事を聞いてから、

「仕事が入る。打ち合わせするから帰って来い」

それだけ告げると僕は通話を切った。

体を起こし大きく伸びをしてから立ち上がると、僕は自宅を出て階下の事務所へと戻った。

「所長」

戻った途端、まどかに呼ばれ事務所の奥へ行くと僕のデスクの上に三つの束に分けられた紙が置いてあった。

「何」

「右側から、受けた方が良さそうな案件です」

「・・・ああ」

 榊からの依頼分を振り分けてくれたのか。僕は一番右の束を手に取り目を通し始めた。

「副所長はどうされたんですか?」

ざっと目を通し、次いで真ん中の束を取り書面を見ていると、まどかがそう言ってきた。

「副所長殿はいつものパチンコですよ」

「・・どうして副所長を自由にさせるんですか?」

 声には棘があった。僕は顔を上げた。

「急にどうした?」

「急じゃありません。所長、この際だから言わせてもらいますけど、副所長に甘くないですか?」

「この際って何。別にパチンコくらいいいじゃないか。うちで一番の重労働者なんだから」

そして再び手元の書類に目を落とす。


「確かに夢を見せることが出来るのは副所長だけです。だけど」


まどかは憤慨していた。彼女が副所長と呼ぶ男を実は嫌っていることを、僕は知っていた。

だからと言って顕著に差別を表す馬鹿な女性でないので、雇っているのだけれど。


「僕は、僕の弟だからって理由であいつを甘やかしてないし、そもそも甘やかしなんかじゃない。他者に夢を見せることは、君が思っている以上に大変なことなんだよ」


持っていた書類を一つにまとめると僕は弟のデスクの上に放った。そして残りの一束を手に取り目を通していると。

「違います。大変なのは所長の方じゃないですか」

「・・・・今日はやけに饒舌だね」

「だってそうじゃないですか!所長の方がずっと辛いのに!」

僕は再度顔を上げ、まどかを見る。彼女の頬は紅潮し、僅かに目が潤んでいるようにも見えた。

「だから『僕宛』の依頼が一番左側にあるんだ?」

僕は持っていた紙を反対の指でトントンと叩いた。

「・・・・・・っ」

「君を雇う時に言ったよね。ここで見聞きした出来事を口外しないこと、僕らを差別しないこと、必要以上に口を挟まないこと。・・・・この意味分かる?」

「・・・所長」

「君は確かにここの社員だけど、厳密に言うと他人なんだよ。それを、踏まえておくように」

まどかは僕の言葉に、悲しげに眉を寄せた。

「・・・・すみませんでした」

それだけ言うと深く頭を下げ、自身のデスクがある仕切の向こうに姿を消した。

僕は手に持っていた自分宛の依頼を引き出しにしまい、その足で応接室へと入る。

ソファにごろりと横になり側にあった雑誌を顔に伏せて目を閉じた。

妙にイライラしている。さっきのまどかへの態度は八つ当たりに近いものがあったかもしれない。

すまない気持ちを覚えつつも、どうしても気分が晴れなかった。

突発的な依頼が調子が乱れたのもあるかもしれないし、何より榊に会った日は精神的に磨耗するのだ。

榊に問題があるのではなく、僕はあの場所が嫌いだった。

弟などもっと嫌いで、徹底してあの病院を避けていたりする。


あの場所は嫌いだ。

あそこには僕たちの『罪』がある。

思い出したくないのに、あそこへ通わなければならない限り嫌でもその事実を突きつけられる。


忘れるなと言われているようだった。


「・・・・十二年、か。」

榊に言われても、そんな実感はなかった。

あの日、あの時から僕たちの時間は止まってしまっている。

前に進めないのだ。あの日から、僕たちの誰もが立ち止まったままで、その事実が近頃妙に重く圧し掛かってきて、息苦しさすら覚えていた。



忘れたい記憶。

失いたくない思い出。



「・・・・由妃奈」

君がこんな僕たちを見ていたら、何て言うだろうか。




一週間後、香織から「改めて正式に依頼をしたい」と連絡を受けた。

香織の恋人である人物がきちんと理解し納得した上で受け入れたのならば、こちらとしても引き受けない理由はなかった。

一つ問題があるのなら、それは彼女の婚約者が現在入院中で、榊の勤めている病院に入院しているということだ。

あの病院に弟が行くことを是とするだろうか。

今からもう、頭が痛くなってきてしまう。

しかし一度受けると決めた以上、反故するわけにはいかない。

とりあえず僕は、一人で彼らの元へ行くことにした。

改めて本人から話も聞かなければならないだろうし、香織から聞いた限り彼の願いが幼少期のトラウマのようなものであるのなら、カウンセリングで幾ばくか解決出来ないだろうかと思ったのだ。

何故だかこの件に関して僕は酷く気が重かった。

しかし一旦引き受けたからには達成せねばならない。どんなに気が重かろうがこれも仕事だ。


そして約束の日、僕は病院の入り口に立っていた。

足を踏み入れる前に両頬を思いっきり平手で叩くと、一歩を踏み出す。

入口のエントランスホールにはいくつかの自販機が並べられている。

何となく落ち着かないし何より喉が渇いているような気がした。その前で立ち止まると僕はポケットに手を突っ込んだ。小銭入れを取り出すとジャラジャラと小銭が入っているその中からいくつかを選び、小銭を入れてコーヒーのボタンを押した。

大きな音をたてて受け口に落ちてきた缶コーヒーを取り出すとプルトップを引く。

口をつけ飲もうとしたその時。

ドン、と腰の辺りに何かがぶつかってきた。


「わっ!」


 驚いて振り返ると僕の腰に男の子がしがみつくように引っ付いていた。

「パパ!」

「え・・?」

目を丸くしていると男の子の母親らしい人物が慌ててこちらへ小走りにやってきた。

「マー君、その人はパパじゃないわよ。・・・本当にすみません」

ぺこりと頭を下げる女性に「いえいえ」と僕は笑いかけた。

「でも・・・」

それでもすまなさそうな視線を向けてくる女性に、僕はその視線の先を追った。

「・・あー」

自分の手元に視線を向けて、やっと女性の視線の意味が分かった。

はめている手袋にコーヒーが零れてしまったのだ。

「すみません、うちの子がぶつかったから、ですよね」

頭を下げると女性は持っていた大きなカバンの中をゴソゴソと探り出す。

中から綺麗なハンカチを取り出すと僕に差し出そうとしてくるので、慌ててそれを制した。

「気になさらないで下さい。洗えば落ちますから」

「でも」

「本当に、大丈夫ですよ」

言いながら僕は嵌めていた手袋を外し、ポケットにしまった。

僕と母親の間で立ち尽くしている男の子に微笑みかけると、頭を撫でた。

「お父さんを、迎えに来たの?」

ゆっくりとした語調で聞くと、不安そうにしていた表情を一変させニッコリと笑う。

「うん!パパ、ずっとここにお泊りしてたの。だけど、今日からおうちに帰ってもいいんだって!だから僕、ママとお迎えに来たの!」

「そっか、良かったね」

「・・・お兄ちゃん、ごめんね。パパに似てたから、間違えちゃったの・・」

「気にしなくていいよ。ほら、早く行かないとお父さん待ちくたびれるぞ?」

「そうだ!ママ早く行こうよ!・・・お兄ちゃん、バイバイ!」

「バイバイ」

満面の笑みで母親の手を引っ張っていく男の子に手を振ると、母親が振り返りもう一度だけ会釈をして、二人は病棟の奥へと姿を消した。

完全に母子の姿が見えなくなると、僕は小さくため息をついてから持っていたコーヒーを飲み干した。缶を捨てるとガシャンと音がする。


「・・・・さて、仕事仕事、と」


妙に皮肉めいた気分に陥り、僕は少しだけ口元を歪めた。

そして野中の病室へと向かった。



言われていた病室に着くとそこには白衣を着た香織と、ベッドに足を吊るされた青年が横になっていた。

彼が香織の恋人であり、依頼者でもある野中秀文だ。

「初めまして」

声をかけると彼は少し強張った表情でぺこりと頭を下げた。

「所長さん、お一人なんですか?」

香織が何を言いたいのかに気付き、僕は唇の端に笑みを浮かべると、真っ直ぐに彼らを見た。

「ええ。今日はカウンセリングを」

「カウンセリング?」

「色々手順を経て話を聞かせて頂いてから夢を見てもらいますから」

僕は用意されていたベッドサイドの椅子に腰を下ろした。

香織は仕事中らしく、小さく頭を下げると早々に部屋から出て行った。

病院の個室に男二人が残された。

僕は野中をジッと見つめる。

あらかじめ香織から聞かされた限りでは、およそ自在に夢を見られるなどと聞かされても信じるタイプではないらしい。

実際に対面した今、彼から滲み出る男気質は初対面の僕でも感じ取れる程なのに、その彼があからさまに胡散臭い僕たちを何故信用する気になったのか。

「あなたは望んだ夢が見られると聞いて、信じられますか?」

声に色を付けず、僕は淡々と言った。

彼は無表情のまま唇を僅かに噛む。

「正直・・・あまり信じてはいません。仮にそんな夢を見られたとしても夢は夢でしかないでしょう。俺は、これに何の意味があるかは見出せていない。・・・でも、あいつが。香織がどうしてもと言うので」

彼女の押しの強さは僕も目の当たりにしたので良く知っていた。

容易に想像できる二人のやり取りを脳裏に浮かべ、僕は苦笑した。

恐らく問答無用で香織に押し通されでもしたのだろう。

「納得はしていないけれど、それでもあなたは受けることにした」

「・・・・・」

「別にそれでいいと思いますよ。あなたの言う通り所詮は夢なんです。全ての事象に意味や意義を見出さなくてもいい。ただ、僕たちがお見せする『夢』に・・価値が無いわけではない」

野中は困惑したような表情を浮かべた。僕は続けた。

「あなたの望みは死者であるご両親に会うことです。現実世界では不可能なことですが、単純に考えて・・・夢ならば出来ると思いませんか?」

「・・・・ええ」

「では会うだけでなく話せたら?触れ合えたら?もちろんそこにあなたの意思もある。意思を持って会話も出来る。そんな夢を、僕たちは提供させてもらっているんです」

はたから聞いていれば詐欺商法のようなセリフに、僕は自分で言っておきながら内心笑っていた。

こんな言葉では何も伝わらないのは百も承知している。


実際に夢を見るまでは、ほとんどの人は半信半疑なのだから


「たとえ今、あなたが僕の言葉を何一つ信じていなくてもいいんです。僕たちも、別にあなたを救いたいわけではない。ただそのきっかけを作るだけです。全てが終わったその後に、見た『夢』をどう思いどう受け入れるかは、あなた次第なんです」


野中は僕の言葉を聞き終えると神妙な顔つきになり、俯いた。そのまましばらくの間沈黙が続いたが、ふと野中が顔を上げた。

「本当に会えますか」

目の奥が揺れていた。

「ええ。必ず」

きっぱりと僕が言うと、野中はほんの少しだけ笑みを浮かべて見せた。

僕も口角を上げ、姿勢を正す。

「あなたに夢を見ていただく為に、必ず用意してもらいたいものがあります」

「何でしょう」

「亡くなったご両親の遺品を、当日までに用意しておいて欲しいんです。もし可能ならば事前に預からせてもらえたら助かります」

「遺品・・ですか?」

「ええ。正真正銘、あなたのご両親に会って頂く為に必要なんです」

すると野中は少し考え、そしておもむろにサイドテーブルの引き出しの中から何かを取り出した。

チェーンに通された指輪が二つ、野中の手の平の内にある。

「父と母のものです。これでは駄目ですか?」

鈍い光を放つそれは、おそらく大切に保管されていたのだろう。くすみ一つなかった。

僕は頷き、それに手を伸ばした。

「大丈夫ですよ。しばらくお預かりしても?」

「構いません」

言葉と同時に野中が僕の手の平にスルリとそれを落とした。

チャリ、と微かな金属音が鳴る。

野中の手の中から僕の手に落ちてくる金属。

それを何でもない物を受け取るかのように僕は無防備に構えていた。

ハッとしたのは指輪が僕の手の平に触れる直前だった。


手袋をしていない。


しまった、そう思ったがもう遅かった。

「・・・っ!」

それが手の平に触れた瞬間。

ガン、と頭を鉄の棒で殴られたような衝撃を受け、僕は苦痛に顔を歪めてしまう。

声を押し殺せたのは奇跡に近かった。

頭の中をキリでぐちゃぐちゃにされているような激しい痛みに襲われ、僕は苦痛に呻き椅子から崩れ落ちた。

「大丈夫ですか!?」

野中の声が遠くに聞こえてくるが返事など出来る状態ではなかった。

手に持っているものを放せば解放される、分かっているのにまるで凍ってしまったかのように手は中にあるものを掴んで放そうとはしなかった。

「どうしたんですか!?」

焦りを帯びた野中の声が耳に届く。

しかし答えたくとも襲い来る痛みに呻き続けることしか出来なかった。

そのまま床に蹲り痛みに耐えていると、忙しない足音が遠くから聞こえてきた。

直後、扉を開けるような音。

この辺りから僕の意識は遠のき始めていたようで、周りで何が起こっているのか理解出来ずに居た。

ただ、痛みとなって襲い掛かる『彼ら』の激情を必死に受け止め続けるだけだった。


その時。


「おい!」

突然、ぐいと体を起こされ耳元に怒鳴りつける聞き慣れた声に、薄っすらと目を開く。

そこには榊が居た。

「どうしたんだ!」

「・・・さ、か・・き」

額から脂汗を流しながら僕は必死になってそれを握り締めている手を持ち上げた。

それで全てを察したのか、榊は強引に僕の手を開くとチェーンを引き剥がす。

プツリと糸が切れるように『彼ら』の想いの波は僕の中から消え去る。

解放され、安堵から僕は浅く震える息を吐いた。

「馬鹿か」

怒りとも呆れともつかない榊の声が降ってきて、僕はゆっくりと顔を上げた。

「・・・・ごめ・・、油断・・した」

そう言ったところで、僕の意識は途切れてしまった。


目覚めるとそこは病室だった。

真っ白の天井と風にはためくクリーム色のカーテン、そして病院独特のにおい。

窓枠に腰掛け外を眺めていた榊が衣擦れの音に気付いたのかこちらを向いた。

「気分はどうだ」

声に僅かな怒気を感じ取り、僕は苦笑した。

「大丈夫。ごめん」

「謝るくらいなら初めからもっと注意を払っとくんだな」

「だって、まさかあんな爆弾みたいな感情だなんて思わなかったから」

肘をシーツに突き、重い体を何とか起こす。頭の奥がまだしびれているようだった。

「久々にくらったよ」

「全く、ここが俺の働いている病院だったことに感謝しろ」

つっけんどんな言い方に、いたたまれず僕は頭を掻いた。

「田島のは依頼なのか」

「・・・ああ、聞いたの?」

「詳しく聞かせろ」

その俺様な物言いもいつものことで、僕は少々ぼんやりしている頭を振ってから、ゆっくりと話しはじめた。

この病院に入院中の香織の恋人、野中に彼の両親を夢で会わせること。

そしてそこへ至った経緯も順を追って僕は話した。

榊は香織の強引さを聞いて小声で何か悪態のようなものを呟いていたようだったけれど、最後には盛大なため息をついた。

「あいつの話を聞いてやるべきだったな。そうすればこうはならなかった」

「まあ、仕方ないよ。それに職場の上司にそんなこと相談出来やしないだろう」

「それは・・・そうだが。もう引き受けたんだな?」

「ああ。さっき、カウンセリングをしてたんだ。そこでご両親の遺品を用意して欲しいと言ったら、彼、いつも身に着けてるみたいで」

「あの指輪か?」

僕は頷いた。榊の眉が跳ね上がった。

「お前は人が死ぬ時でも身に着けているようなものを何の考えもなしに触れたのか」

「・・・・・・」

「少し考えればどうなるかなんて分かりきったことだろう。お前自分の能力、みくびってんのか?」

「・・・いや」

違うけど、と言いかけた言葉は榊の険しい形相を前に消えてしまった。

今回の件は完全に僕の落ち度だった。


榊の言う僕の能力。それは死者の声を聞くことだった。


その人物の最期の想いや遺された言葉を、亡くなった当人もしくは遺品から読み取る、と言えば近いのかもしれない。

そうして僕が読み取った言葉や人の心を、夢にして見せることが出来るのが僕の弟なのだ。


僕たちの元へ舞い込んでくる依頼はいくつかあるが、その中で特に多いものが二種類ある。

一つは僕が故人の言葉を聞き、内容を伝える為に弟がそれを夢にして見せ会話をしたりするもの。

そしてもう一つは、依頼をしてくる本人が見たい願望の夢を見せるものだ。

仕事内容としては後者が圧倒的な割合を占めている。

例え夢の中だけであっても、せめて思い通りになればいいと願っている人間は驚くほどに多いのだ。

この仕事を始めて二年になるが、途切れない依頼に驚くばかりだった。

「少し休めば落ち着くだろう。体調が良くなれば勝手に帰っていい」

「・・・分かった」

榊は病室から出て行った。一人きりになると、いよいよ自分の失態を痛感し僕は項垂れる。

帰る前にもう一度野中の所へ顔を出しておかなければと思うと、もう居てもたってもいられず、僕はベッドから降りると身支度を整え、野中の病室へと戻った。

しかし、さぞ憤慨しているだろうと思っていた僕の気持ちとは裏腹に、野中は怒りどころかむしろ心配をしていたようで、僕が病室に顔を覗かせると安堵のため息をついてくれさえした。

僕は彼に謝罪をし、日を改めてまたカウンセリングをすることを伝え頭を下げた。

野中は快くそれを了承してくれた。

野中の病室を出ると廊下を歩きながら僕はさっき読み取った、野中の両親の言葉を思い浮かべた。

それはとてつもなく悲痛な叫びで、今も尚、訴えかけられている気さえしてしまう。

本当にこの叫びをそのまま彼に伝えていいのだろうか。彼は受け止めてくれるだろうか。

僕は熱くなった目頭をギュッと押さえ、唇を噛んだ。




--------




由佳はその日も学校帰りに兄の居る病院へとやってきていた。

いつもと違うのはその両手に大きなダンボールを持っていることだった。

和歌子の姉・香織から借りた本を溜めていたらいつのまにかこんなになってしまっていたのだ。

これくらいなら持って行けるだろうと思っていたのだが考えが甘く、病室にたどり着くより前に由佳の両腕はすでに痺れきってしまっていた。

後もう少しで兄の病室にたどり着く、と最後の力を振り絞り、箱を抱えなおすとふらふらと覚束ない足取りで廊下を歩く。そして角を曲がった時。

「きゃっ!」

丁度角を曲がってきた人と正面衝突をして、思いっきり尻餅をついてしまった。

箱も床に落ち、中に入っていたたくさんの本が辺りに散らばってしまう。

「ご、ごめんなさい!」

慌てて起き上がり本を拾い集めていると、ぶつかった人も一緒になって拾ってくれていた。

いくつかの本を拾うとその人は顔を上げて、由佳に済まなさそうにそれを差し出した。

整った顔立ちをした男の人だ。


「申し訳ない、考え事をしていて・・・」

「こっちこそ、ごめんなさい・・・・あ」


顔を見て、声を聞いて。由佳はその男の人を思い出した。

ちょっと前に病院の前で封筒を拾ってあげたあの男の人だ。

由佳が食い入るようにその男の人を見ていると、見られていることに気付いたのか彼も由佳を見て

「あれ?」と首を傾げた。


「もしかして少し前にここの前で」

「あ!はい!封筒を」

「やっぱり」

男の人はふわりと笑みを浮かべた。

こんな偶然ってあるのだろうか。やっぱりこの人かっこいいな、と内心思いつつ由佳はドキドキする胸をそっと押さえた。


「今日もお兄さんのお見舞い?えらいね」

「・・そんな事ないです」


顔を真っ赤にしながら残りの本を全部拾い上げると箱を持ち上げようとした。

そんな由佳を制するようにその男の人が先にひょい、と持ったのだ。

「重たそうだから手伝うよ」

「そんな、申し訳ないです」

「いいよ、この間のお礼」

慌てて箱を取り返そうとしたが彼は軽々と箱を持ちあげると「こっち?」と由佳が向かう方向へ歩き出してしまった。慌てて後を追いかけ、その後ろ姿について行く。

由佳は歩きながら彼の背中を見つめた。

クラスメイトの男子とも先生とも違う普通の男の人と接する機会なんてほとんどないから、なんだか胸がくすぐったかった。

この胸がふわふわする感覚は何なのだろう。

「病室はどこかな?」

ぼんやりと後をついていくだけだった由佳に、その人は振り返ると訊ねてきた。

由佳は慌てて「その先の八〇八号室です。」と言った。

兄の病室はもうすぐそこだった。せっかくなら、もっと長い距離を一緒に歩きたかったのに。

小さくため息をついたが、その時にはもう病室にたどり着いてしまっていた。

由佳は彼の前に回り込むと扉を開き、中に入ってもらうように促した。

そしてベッドの足元にある小さなテーブルセットの前に立つと「ここにお願いします」と指差した。

軽々とした動作で箱をそこへ乗せると彼が振り返る。由佳はぺこりと頭を下げた。

「ありがとうございました、助かりました」

「どういたしまして」

お礼を言うと彼は、また笑いかけてきてくれた。優しい笑顔だ。

「しかしまた、随分たくさんの本だね」

「友達のお姉さんがここで看護師をしてて、私がいつもここに来てるから時間つぶしにってたくさん貸してくれたんです。面白かったから家に持って帰ったら、こんなにたまっちゃってて」

「いつもって、そんなによくお見舞いに来てるんだ」

「あ・・・毎日、来てるんです」

由佳の言葉に彼は少し驚いたように目を開いた。引かれただろうか、と由佳は震えた。

女子高生が毎日兄のお見舞いだなんて、普通に考えてもおかしいのだから。

けれど彼は違った。

すぐに目を細めて、眩しそうに由佳を見てきたのだ。

「お兄さんが好きなんだね」

「・・・・・・・え、と」

由佳は顔を伏せた。真っ赤になってしまっているのを隠す為と、もう一つ。

彼の問いに正直に答えられなかったから。

兄は好きだ、早く目を覚まして欲しい気持ちもある。けどそれらは一番の理由ではなかった。

そのまま由佳は黙り込んでしまった。静まった部屋に広がる沈黙を破ってくれたのは彼だった。

開いたダンボールの中身が見えたのか、彼が少しだけ箱を開け中を覗き見ると言った。

「これ、もう全部読んだんだよね?僕この作者の本、他のシリーズをたくさん持ってるんだ。良かったら、貸そうか?」

彼の言葉は由佳の意表をついた。ハッと顔を上げた由佳は真っ直ぐに彼を見つめた。

「迷惑?」

「・・・い、え。いいえ。貸して下さい!」

「じゃあ、近いうちに持ってくるよ。大体いつもこれくらいの時間に来てる?」

「はい」

「それじゃあ、都合がついた時に持ってくるから」

そう言うと彼は、兄の寝ているベッドを覆うようにひかれているカーテンをチラ、と見た。

「お兄さん、寝てる?長居して申し訳なかったね」

「あ!・・いえ、大丈夫ですから」

「そう?じゃあ、また」

そのまま彼は病室を出て行こうとした。そこで由佳はハッとした。

「あの!」

今まさに扉を開けて出て行く背中に呼びかけると、彼は顔だけで振り返った。

「私、斉木由佳と言います」

「・・・そうか、名前も名乗らず失礼しました」

彼は由佳の居る方へ向き直るとゆっくりとした足取りでこちらへ戻ってきた。


「僕は青柳穂紬と言います」 


差し出された右手は大きくて、男の人の手だった。

恐る恐る自分の手を差し出し緩く握り締める。その手はとても温かかった。


それから青柳が再び由佳の元に訪れたのは一週間後のことだった。

由佳がいつものように花瓶の水を換えているとノックの音がして、振り返ると紙袋を持った彼がそこに立っていた。

青柳の姿を見た瞬間、由佳は自分の心が躍るのを自覚した。ドキドキと胸が高鳴って、頬が熱く感じる。

小走りに彼の元へ行くと紙袋を渡された。

「遅くなってごめん。これ、約束の本」

「・・ありがとうございます」

「それで・・一週間後にまた来れそうなんだけど、その時は中庭の噴水の前に来れる?」

「え?」

「感想、聞かせて下さい」

「あ、あの・・・」

「迷惑?」

「いえ、そんなことは!」

「じゃあ決まり。・・・心配しなくても変なことなんてしないから」

それだけ言うと彼は手を振って行ってしまった。由佳は半分ぼうっとしながら彼の姿を見送った。

こんなことが本当に起こるなんて。これは夢だろうか。

由佳は思わず自分の頬を思い切り抓ってしまっていた。

「痛い!・・・・・夢じゃないんだ」

頬をさすりながら、由佳は青柳の言葉を思い返した。

どうして誘ってくれたんだろう。まさか、まさか。

そんなまさかがある訳ない、だってあの人は大人の男の人だ。

高校生なんて相手にするはずがない、のに。

それでも、心のどこかで期待してしまっている自分が居た。

ほんの少しだけ、浮かれてしまってもいいだろうか。

由佳は病室内を振り返った。

「・・・お兄ちゃんごめんね、少しだけ」

夢を見させて下さい。

そう、小さく呟いた。


待つと一週間というのはとても長く、由佳は毎日やきもきしていた。時間が経つほどに、あれは彼の気まぐれで本当は冗談だったんじゃないか、とか。からかっているだけ、とか。

とにかく色々マイナスなことをいくつも思いついては一人落ち込む日々を繰り返していた。

けれど。一週間後。

約束の日の約束の場所に、恐る恐る向かった由佳は、そこに彼の姿を認めた瞬間。

嬉しさに目に涙を滲ませてしまった。

青柳は噴水脇のベンチに腰掛け、静かに本を読んでいた。

由佳はゆっくりと、一歩一歩彼に向かって歩く。

後もう数歩で青柳の前に立とう、というところで足音に気付いたのか彼が顔を上げた。


二人の目が合った。


青柳は由佳の姿を認めるとホッとため息をつき、はにかみながら頬を掻く。

「良かった。来てくれた」

その言葉とその姿に、由佳は胸が熱くなるのを感じた。

いつの間にか、名前しか知らないこの人のことを自分は好きになってしまったのだ。

ほんの数回しか会っておらず、まともに言葉すら交わしてもいないのに。

胸を高鳴らせながら由佳は青柳の隣に腰を下ろした。

どうしていいのか分からなくて、顔が上げられない。

どんどん熱くなってくる頬を隠したくて、由佳は両手で頬を覆った。

「どうぞ」

声をかけられ、俯いた視線の先にスッと缶ジュースが差し出される。由佳はそれを震える手で受け取ると青柳の方に向き直った。

「あの・・・・」

何か、言わなければと口を開いても、緊張しているせいで上手く言葉を発せられない。

由佳はどんどんと焦っていった。

青柳はそんな由佳を目を細めながら見ていたが、おもむろに自分の横にあった紙袋を手に取るとそれを由佳に差し出した。

「これ、本の続き」

「あ」

「どうだった?面白かったでしょ」

そうだった、本題は借りた本の感想を言うんだったと、由佳はここへ来た一番の理由を思い出した。

そう言えば借りた本を持ってくるのを忘れてしまった。

でもまた貸してくれたから、今日で終わりじゃない。


そう思ってもいいだろうか。


少しの不安を覚えつつ、由佳は本の内容を思い起こした。

「すごく、面白かったです。あの――」

そこからの由佳は饒舌だった。青柳から借りた本は非常に面白く、また考えさせられるものだった。

抱いた感想を口にすると青柳も強く同意を示してくれて、自分たちの価値観は似ているのだと気付かされ、それがまた由佳には嬉しかった。


その日、二人は初めてまともに話したとは思えないくらいに饒舌に語り合い打ち解けあった。

会話は尽きず、日が暮れかけるまで話し込んだ。そして時間が来て帰らなければならなくなった時、当然のように次に会う約束をしてから別れた。


それから由佳は青柳と一週間に一度のペースで会うようになり、会うごとに親密さが増していった。

そうなれば互いのプライベートの話になるのは自然の流れだった。

そこで由佳は彼の名前以外のことを聞いた。弟が居ること、その弟と小さな会社を経営していること。

年は今年で三十歳だという事。

さして重要ではないそれらの情報に、それでも由佳は彼のことを知れた喜びを覚えた。

由佳も同じような内容を彼に告げた。

しかしそれ以上は言い淀んでしまう。

普段、由佳は決して自身のことを他人には語らなかった。話せば根掘り葉掘り余計な詮索を受けると知っているからだ。

それほどまでに由佳の身上は他人の興味を引くものだった。


由佳が青柳と会うようになって一ヶ月が過ぎたある日、青柳にも聞かれた。何故毎日兄の見舞いに来ているのか、どうして由佳以外の親族が見舞いに来ている気配がないのか。

そう聞かれた時、由佳は閉口した。言いたくない気持ちと、言いたい気持ちが同じくらいの大きさで胸の中を占めていて、悩んだのだ。

知れば青柳もきっと自分のことを奇異な目で見て、避けるようになるかもしれない。それが怖くて今まで自身のことを何も言えずにいた。

この人には嫌われたくなかったから。


「言いたくないことなら無理して言わなくていいよ」


言いよどむ由佳に、何かを察したのか青柳は優しくそう言ってくれたが、由佳はその言葉を聞いて、小さく首を振る。

話したくない気持ちよりも、話したい気持ちが勝っていた。この人なら他の人のように酷いことを言ったりしないかもしれないと、信じたかった。

由佳はニコリと微笑んで見せた。

「大丈夫。だから、聞いて下さい」

由佳は話し始めた。


「私、人殺しの娘なんです」

「人殺しって」

困惑したような青柳の声、しかし由佳は顔を上げずまっすぐに前を見据え続ける。

「母が父を殺したんです」

「・・・・」

「まだ小さい頃だったからあまり実感はないんです。でも私・・・人殺しの娘なんですよね。小学校でも中学校でも、そのことが周りに知れると必ずいじめられました。本当に辛かったけど、事実だから仕方がなかった。私のお母さんは、人を、父を殺したんだって」

由佳はなおも真っ直ぐに前を見つめながら淡々と話した。

横で、青柳が痛ましげに顔を歪めていることに気付かないまま。

「・・母が父を殺した時よりも前に、兄は植物状態で寝たきりになっていました。私、兄がどうして寝たきりなのか、理由を知らないんです。それに兄は私が物心付く前に家を出ていたから、その存在もどこか希薄に感じるんです。兄のことは何も知らない。ただ血の繋がった兄というだけ。だけど唯一側にいる肉親だから。私、お兄ちゃんがいなくなったら本当に独りきりになってしまう」

由佳はそこで言葉を切った。胸がいっぱいになって言葉が痞えてしまったのだ。

何度か深呼吸を繰り返し息を整えると由佳は再びしゃべりだした。

「・・・前、青柳さん言いましたよね。毎日お見舞いに来て、お兄さんのこと好きなんだねって」

「ああ・・・そうだね」

「私、それ言われた時、ドキッとしてしまったんです。だって、すぐに『そうだ』って返せなかった・・・私、本当はお兄ちゃんのこと好きでお見舞いに来てるんじゃなくて、独りが嫌だから・・・ここに来てるんじゃないかって」

真っ直ぐに前を見つめる由佳の目から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。

「お兄ちゃんだって、私のこと本当は好きじゃないかもしれない。だけど・・・だけど目を覚まさないでずっと寝てるから、私自分の都合のいいように取って」

「・・・由佳ちゃん」

「卑怯ですよね。自分の為に寝たきりの兄を、利用してるんです。・・・先生も看護師さんたちも、いつも来てて偉いねって言ってくれるけど・・・本当は違うの。私、自分の為にしてる・・私は独りじゃないって思い込む為に、お兄ちゃんの存在を利用してるって・・」

込み上げる嗚咽を必死で押し殺しながら由佳は自分を責める言葉を吐き続けた。本当は、純粋な良い子のふりをしているだけで、『いい子』などではないのだ。

それがもうずっと辛かった。

ある日気付いてしまった、その時からずっと。

でも。何よりそうでもしなければ、自分の中に誰からも愛された記憶がまるでないのが、辛くて仕方なかった。

だから、愛してもらえる自分を作っていた。

こみ上げてくる涙を何度も抑えた。でも、もう何年も溜め続けた気持ちがもう抑えきれなかった。

音もなく由佳の頬を幾筋の涙が伝って落ちていく。

由佳はまるでそれに気づいていないかのように拭いもせず前を見つめていた。

「それは違うよ」

「・・・え?」

由佳の言葉を遮った青柳の言葉は強く、由佳は涙に濡れた顔を彼に向けた。

青柳は労わるような優しい眼差しを由佳に向けていた。

「君は一番大事なことを忘れているよ」

「・・・」

「本当にその人のことを好きでなければ、毎日お見舞いに来るなんて出来やしないんだ。人間は怠惰の生き物だからね。だから君がどんなに自分を否定しても、毎日お兄さんの所へ通っている事実が、君がお兄さんをどれだけ好きなのかを物語っている」

「・・・・青柳さん」

 由佳が名を呼ぶと、青柳はふわりと、優しい笑みを浮かべた。


「ずっと一人で辛かっただろう・・・・・偉かったね」


そんな言葉と共に青柳の大きくて温かい手が由佳の頭を撫でた。

優しく何度も撫でられて、それは由佳の孤独だった心を少しずつ溶かして行く。


由佳の中で張り詰めていた緊張の糸がプツリと途切れた。


次の瞬間、由佳は大きな泣き声を上げながら泣いた。

苦しかった、本当はずっと誰かに知ってもらいたかった。

自分の苦しかった心を、こんな風に受け止めてもらいたかった。ずっと、ずっと。

由佳は泣き続けた。

長い間ずっと由佳を苦しめていた感情が、ほんの一欠けらすらなくなるまで。

青柳はそんな由佳を優しい眼差しで見つめながら、いつまでも少女を慰め続けた。

そしてひとしきり泣き続けた由佳の嗚咽が止み、再び顔を上げた時、その顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。

けれど、晴々とさえしていた。

二人の視線が重なり、少しの間そこに沈黙が流れた。

それを破ったのは由佳だった。

「・・・・・泣いちゃった」

「うん、泣いたね」

「でも、スッキリした・・・・・・・ありがとう、青柳さん」

えへへ、と涙に濡れた頬を両手で拭うと由佳は微笑んだ。さっきまであった胸の奥のもやもやがなく

なっているのが分かる。由佳は両手を握り締めるとそれを胸に当てた。


「お兄ちゃんが好きって・・・・何か、やっと胸を張って言える気持ちになった。」


地に足が着いたような、不安定だったものがなくなった、そんな感覚だった。

由佳は病院の方へ視線を投げた。そして兄の病室がある辺りで視線を止める。

「本当にありがとう」

ふわりと吹いた風に靡いた髪を由佳は手の平で抑え、もう一度言った。

心が穏やかになる、それだけで全ての見え方が違っていた。こんなに辺りは明るかっただろうか、草花の香りが鼻に届いていただろうか。

たったこれだけのことで、こんなにも見え方が違って見えるなんて。

ちょっと単純かしら、と由佳は一人笑った。


「今度」


「・・・え?」

「今度、お兄さんのお見舞いに行ってもいいかな」

「・・・・・・はい」

由佳は頬を染め、はにかんだ笑みを浮かべながら小さく頷いて見せた。

やっぱりこの人のことが好きだ。大好きだ。

覚えたばかりの恋心を、由佳は抑えきれなくなり始めていた。




---------




田島香織の依頼は僕が予想していた通り難航した。

弟が「絶対にこの病院に足は踏み入れない」と宣言をしたからだ。

僕は何度も説得したが、けんもほろろとはこのことで、取り付く島すらなかった。

仕方が無いので今度は香織側に場所を変更してもらえないか頼みに、現在病院へと足を運んでいるのだが。

足を踏み入れるのも嫌だった病院に足しげく通っている自分を僕は笑った。

確かに他の仕事もあってここへ来ているのも事実だが、本当はそれだけではないからだ。

最近知り合った、斉木由佳の存在があるからこそここへ来ているのだと、僕は自覚していた。

何故あの時、彼女にあんな提案をしてしまったのか自分でも良く分かっていない。

けれど、由佳を誘う言葉が自然と口をついて出てしまっていた。

好意を持っているかと聞かれれば、分からないと答えるのは卑怯かもしれない。

ただ、気になったのだ。彼女のことが。

「・・・・・」

記憶の奥底に閉じ込めてある一人の少女と、姿が重なってしまっているのだろうか。

彼女と同い年の由佳は、どこか雰囲気が似通っている。

微笑みかけてくる眼差しが、時折重なって見えてしまう。

僕は廊下に立ち止まり窓の外を見た。いつも待ち合わせ場所にしている中庭の噴水横のベンチにまだ由佳の姿はなかったが、チラリと腕時計を見ると、もうじき待ち合わせの時間になろうとしていた。


その前に野中の件をどうにかしなければ。

そう思い一歩を踏み出そうとした時、僕は背後から強く肩を掴まれていた。咄嗟に振り返ると、そこに居たのは榊だった。

いつになく険しい表情をしている。

「何?」

「ちょっと来い」

そして腕を掴まれ有無を言わせず、いつもの部屋へと連れて行かれる。

部屋の中央に突き飛ばされた僕はよろけた体勢を整えると振り返り、榊を睨みつけた。

「何だよ、急に」

「斉木由佳にこれ以上関わるな」

「・・・・は?」

予想外の言葉に、僕は間の抜けた返事をしてしまう。

しかし榊にはそんなものは関係なかった。

「お前が最近あの子と会っているのは知っている。先日は盛大に泣かせていたのも知っている。だがそんなことはどうでもいい、もうこれ以上あの子に深入りするな」

ここは榊の勤めている病院だ。僕らの動向がこの男に知られていても不思議ではないが、深入りするなとは何だ?

捲くし立てるような榊の物言いに僕は口を開こうとした。

「ちょっと待てよ。急に何を」

「お前の意見を聞く気はない。いいか、もう二度とあの子には会うな」

榊は聞く耳を持たず、しまいには僕を指差し、睨みつけてすらいる。

どこか苛立っているようにも見えた。しかしそれ以上に榊の言い方に僕は怒りを覚えていた。

こんなことまで指図されるいわれはないからだ。

「僕がいつどこで誰と会おうがそんな事、お前に関係ないだろう」

「ああ、関係ないさ。だが今回は事情が違う。あの子に関わることは絶対に許さない」

「・・・・許さないって、お前に僕の行動を制限する権利があるとでも思ってんの?」

「あるなしの話しじゃない。今回だけは言うことを聞け」


まるで子供に言い聞かせるように、榊は僕の二の腕を掴んでくる。

それが僕の怒りを煽った。


「いつも聞いてるだろう!」

強引に腕を振りほどくと、僕は榊を睨みつけた。

榊は臆することなく僕の視線を受けると僅かに目を細めた。

「仮にあの子に関わらないとするのなら、その理由は?何が問題なんだよ」

「・・・それは、お前が知る必要はない」

「はぁ?何だよそれ」

「・・・・・・一つだけ言えるのは、それがお前たちの為なんだ」

榊はそれきり言葉を発しなかった。ただ、これまでに見たことのない表情を僕に向けていた。

「意味が分からない。・・話はそれだけ?」

「お前はあの子が好きなのか」

唐突な問いに僕はわずかに目を見開いた。

けれど問いには答えず再度榊を睨みつけると、その横を通って部屋を出た。

この時、どうして榊がこんなことを言ったのか僕は理由を考えもしなかった。

ただ子ども扱いされているようで、それが不愉快だったから、まともに話を聞けなかったのだと思う。


意味のないことを言う男ではないのだと、少し、考えれば良かっただけだったのに。




田島香織からの依頼は、野中が退院してから行うことになった。

急ぎではないし、そもそも無理を言ったのはこちらだから、と。僕はその言葉に甘えた。

都合のいい日を改めて連絡してもらう約束をして、僕はその場を後にした。

真っ直ぐに向かったのは中庭の噴水の前。

別に由佳の兄の病室の前で落ち合ってもいいのだが、どうにもここで会うのがくせになってしまっていたのだ。

少し待っていると「青柳さーん」と手を振りながら駆け寄ってくる由佳の姿が見え、僕はベンチから立ち上がった。

彼女は手に小さな花束を持っていた。

「遅くなってごめんなさい」

「いや、そんなに待ってないから大丈夫だよ」

「お兄ちゃんに花を選んでたらつい迷っちゃって」

「今日って何かの日なの?誕生日とか」

「ふふ。内緒」

由佳は嬉しそうに笑った。それから僕たちは連れ立って由佳の兄の病室へ向かった。

他愛の無い会話をしている時が何よりも楽しかった。

エレベーターで八階まで上がり廊下を歩いていると、すぐ目の前にナースステーションがある。

そこに、榊が居た。

由佳と共に歩いている僕をジッと見てくるが、僕はそれを無視した。


「榊先生!」


弾けるような由佳の呼びかけに、榊は手を振っているようだった。

由佳もそれに振り返し、満面の笑みを浮かべていた。

「あの先生と、知り合い?」

「うん、ずっとお兄ちゃんを担当してくれている先生。十年以上になるから、なんかお父さんみたいなの。」

ふふ、と頬を染める由佳に僕は何か引っかかるものを感じた。

十年以上。ずっと榊が担当している患者。


「・・・お兄さんって、入院してから何年経つ?」


「えーっと、私が六歳の時だったから・・・・十二年かな。」

「十二年」

そんな偶然があるのだろうか。僕は体の奥底から震えが湧き上がるのを感じていた。


そんなまさか。こんなことが、あるはずが無い。


考え付いてしまった一つの仮説を、僕は必死になって否定した。

それだけを頭の中で考えて、考えすぎてパンクしてしまうほどに。

気がつくと僕らは目的の病室の前に立っていた。 

由佳がドアを開けて中に入る後に続いて、病室内に足を踏み入れた。

今日はカーテンはひかれていなかった。窓から差し込む燦々とした日の光は、ベッドに横たわる人物を暖かく照らし出していた。

一歩一歩、僕はベッドに近づく。

全ての情景がスローモーションのように流れていった。

ベッドの真横に立ち、僕はその人物を見下ろした。ベッドヘッドのネームプレートに目をやる。


斉木和真


「お兄ちゃん、お見舞いに来てもらったよ」

嬉々とした由佳の声だけが病室内に響く。 

僕は頭から冷水をかぶせられたような気分に陥っていた。

そこで思い至る。

「・・・・斉木」

ああ、同じ苗字じゃないか。頭を働かせていれば気付いた事実だったはず。

自分が一体どれだけ間抜けになっていたのかを知り、僕は含み笑った。


「青柳さん、どうかした?」


固まって動かなくなった僕に気付いたのか、由佳が覗き込んできた。

愛らしい顔立ちにこの男との共通点は見受けられない。

少しでも似通った箇所があれば、まだ気付いたかもしれないが。

この男とこんな再会を果たすなんて、皮肉にも程がある。


だからこの世に神などいないのだと、唾を吐き捨てたい気分だった。


僕は由佳の兄、斉木和真を見下ろした。

十二年の歳月を寝たきりで過ごしたせいか、斉木は痩せ細りかつての面影は消え失せていた。

だが、それでも本人だと分かる。

姿を見ただけであの頃と何も変わらない怒りが、体の奥底から込み上げてくるからだ。月日は何も癒さなかった。記憶を消し去りもしてはくれなかった。

「・・・・青柳さん?」

不安そうな表情を浮かべる由佳に僕は「すまない」と低く呟いた、丁度その時。

ピリリリリリリ――。

僕の携帯の着信音が病室に鳴り響いた。携帯電話を確認すると榊からメールが届いている。

内容を確認し、僕は由佳に向き直った。

「すまない、急な用事が入ってしまった。また今度、仕切りなおさせてもらってもいいかな」

由佳は残念そうな顔をしたが、小さく頷いてくれた。もう一度「ごめん」とだけ言い残し僕は後ろも振り返らず病室を後にした。


早足で向かったのはメールで榊に指定された、いつものミーティングルームだ。

ものの数分で僕はたどり着き、ドアを破る勢いで中に入った。

榊はこちらに背を向け、窓際に立っていた。

「どうして言わなかった」

抑えられない怒りに僕はツカツカと榊に近づくと腕を掴み榊を振り返らせる。

榊は飄々とした顔をしていた。

「言っただろう、あの子に深入りするなと」

「どうしてあの子があいつの妹だと言わなかった」

僕の糾弾に対し、榊はいつも以上に静かだった。しばらくの間無表情だったが、ふと嫌味を含んだ笑みを浮かべると、言った。


「じゃあ反対に聞くが、聞いていたらどうするつもりだった?」


「・・・どうするって」

「何も言わず、そのまま同じ関係でいられたか?」

嫌味な口調が癇に障ったが、しかし僕は答えられなかった。

それを見透かしたのか、榊は僕から視線を外す。

「お前には出来ないよな。黙っていられなくなって、きっと言ってしまう」

「・・・・それは」

「そうされると、迷惑なんだよ」

「・・・・・・迷惑?」

床の一点をジッと見つめ微動だにしない榊は、まるで知らない人間になってしまったかのようで、僕は無意識に後ずさった。


「どういう意味だ?」


すると榊は何がおかしいのか、突然低く笑い出した。笑い続け、そして唐突に笑い止むとこちらを向く。

向けられた目は光も無く、黒く濁っている。汚泥にまみれているかのような、お世辞にも澄んでいるとは言い難いこの目を、過去に一度だけ僕は見たことがある。

「お前気付いてるか?これまでの由佳の孤独を作り上げたのが誰なのか」

「・・・それは」

「言われなくても分かってるよな。そう、俺たちだ。父親は死に母親は刑務所で身近な家族は兄だけなのに、俺たちが由佳の最後の家族である兄をあんな風にした。せめて兄さえ目覚めていれば、あそこまでの孤独は味わうことはなかっただろうにな。しかしまあ、あれだけ最低な男だったんだ、由佳の望むような兄妹で在れたかどうかは疑問も残るが・・・」


僕はギリ、と歯を食いしばる。

榊は続けた。


「俺たちの身勝手が、由佳を苦しめてきた。そして事実を知れば・・・・更にあの子は一体どれだけ傷つくんだろうな。生きる希望をなくすかもしれないな。何せ、信頼している兄の担当医と、初めてまともに好きになった男が、兄をあんな目に遭わせた張本人なんだからな」

突きつけられた現実に僕は言葉を失った。

僕たちのしたことが、結果的に由佳を孤独へと追いやったのだという榊の言葉に、何も言い返すことが出来なかったのだ。


例えそこへ至るまでの確固たる深い理由があったとしても。


彼女を孤独から助けたいと思っていた。

だがそもそもの元凶が自分にあったなんて笑い話にもならないじゃないか。

僕は手で顔を覆った。

信頼している人間に次々に裏切られてゆく少女が傷つかないはずがない。きっと由佳は絶望するだろう。事実を知った時の由佳を思い、僕は胸が締め付けられるようだった。

しかし僕たちにだって理由はある。どうしてそうしたのか、その理由が。

「・・・・・っ」

この時僕は一番の問題に気付いてしまった。

顔を覆っていた手が震えて力が入らず、僕は腕をだらりと下ろした。

「・・・・僕は正義じゃない。でも、悪でもない」

この現実に後悔はない。斉木和真に対して謝罪をしようとも思わない。

たとえどんな理由があったとしても、僕はあの男を許さない。

だからあいつを、この現実へと追いやった。決して抜け出せない地獄へ。

そんな風に思う僕に、彼女に何かを告げる資格などどこにもなかった。


「あの子には・・・何も言わない」


僕たちの罪を告白するのならばあの男との関わりも告げなければならなくなる。

僕はきつく目を瞑り、爪が食い込むまで拳を握り締めた。

全てを知れば由佳の生きる希望は何一つなくなるだろう。

そんなことは出来なかった。

僕は全ての事実を由佳に告げない決心をした。知って良いことなど何一つ無いのだから。

言い訳のように自分に言い聞かせ俯く僕の横では、榊が満足そうな笑みを浮かべていた。

しかし、現実とはいつだって望んだ通りには進まないのだ。

突然、ガタンと入り口の辺りから物音がして僕らが振り返ると、そこには目に涙を浮かべ青ざめた表情をした由佳が立っていた。

その様子から話を聞いていたのは明白だった。僕は天を仰いだ。

「・・・・・・・嘘だよね?」

震える声。必死に今聞いた話を否定しようとしている由佳に、僕は何も言うことが出来ない。

「嘘なんでしょう?青柳さん・・・・先生も!」

「こいつの後をつけてきたのか?」

榊の言葉に由佳はビクリと体を震わせ、震える手を頭へやるとくしゃりと髪を掴んだ。

「・・・だって、青柳さんの様子が変だったから気になって」

「それで、そこで立ち聞きをしていたのか」

榊のきつい口調に由佳は唇を噛んだ。

見る見るうちに溜まっていく涙は、堪えきれず溢れ、由佳の頬を濡らした。

「本当なの?・・お兄ちゃんをあんな風にしたのは、先生たちなの?」

「それを聞いてどうする」

「だって!だって先生は、分からないって言ってたじゃない!お兄ちゃんがどうしてああなったのか分からないって!・・・ずっと」

由佳は慟哭していた。先日見た涙とは違う、悲しみしかない涙を流し、僕たちを責めた。

そんな由佳に僕は何も言えず、ただ泣く彼女を見つめていた。

真っ直ぐに僕たちを見つめながら涙を流す由佳は、ボロボロと涙を流し続けた。

そしてふと唇を開くと、言った。

「・・・・返してよ、お兄ちゃん。先生たちがあんな風にしたのなら、戻せるんでしょう?」

よろめくように一歩を踏み出すと、由佳はゆっくりと僕たちに近づいてくる。

僕の目の前に立つと、由佳はぼくの服をギュッと掴んできた。見上げてくる顔は涙でぐしゃぐしゃだ。

見ているだけで胸が痛んだが、僕は首を振った。


「それは出来ない」


あの男を目覚めさせる訳にはいかないのだ。

例えどんなに懇願されたとしても。

何も伝えないでいることだけが、今の状態を維持し続けることが、由佳を守るたった一つの方法だった。

だからこの現実を何も変える訳にはいかない。どれだけ彼女になじられても。

僕の言葉に由佳の手から力が抜け、するりと掴んでいた服を放した。しばらく垂れ下がっていた腕は力なく揺れていたが、次の瞬間には僕の頬を強く打っていた。

パァン、と頬が高く鳴り、頬がジンジンと熱を孕む。

由佳は僕を睨みつけ、僕は彼女をただ見下ろした。

由佳は必死に何かを言おうと唇を戦慄かせたが、結局何も言うことが出来ないまま踵を返すと部屋を飛び出して行った。

追いかけることも出来ず、僕は立ち尽くすだけだった。




由佳はまるで病院から逃げるように走り続けた。

たった今聞いてしまったことを信じたくはなくて、まるで振り切ろうとするかのようだった。

走って走って走り続けた由佳は、息苦しさに足を止めた。

肩で息をしながら辺りを見回すとそこは駅の近くで、がむしゃらに走ったつもりだったのに通り慣れた場所に居たことに、由佳は自嘲気味に顔を歪めた。

自分の兄をあんな風にしたのは、初めて恋した男性と、ずっと見守ってくれていると思っていた先生だった。

あれが見守っていたのでなければ、つまり、監視していたのだろうか。

それに気付いた由佳は震えそうになる体に腕を巻きつけると、きつく抱き締めた。

もう何も信じられない。

由佳は絶望した。

その日を最後に由佳は病院へ行かなくなった。




一週間が経った。

由佳が学校から帰宅し玄関の扉を開くとそこに伯父が立っていた。

「おかえり」

「わ、ビックリした。ただいま・・・・・どうかしたの?」

ドアを閉め、ふと足元に目をやるとそこには見慣れない靴が一揃いあった。

きれいに揃えられているその靴は、伯父の物にしては少し大きいようにも見える。

「お客様?」

 尋ねると伯父は難しい顔をしたまま頷いた。

「お前に客だ、由佳」

「私に?」

「こっちへ来なさい」

そう言うと客間へ向かって歩き出す伯父の後を由佳は慌てて追いかけた。

何も言わず歩く伯父は客間の前で立ち止まると、由佳を振り返る。

見たことのないような難しい顔をしている伯父に「何?」と思わず由佳は呟いた。

「一人で入りなさい。」

「・・・・・誰が来てるの?」

「入れば分かる」

「いや!教えてよ」

何も知らされないままでいることが、今の由佳にはとても恐ろしいことに思え、その場に立ち止まり伯父の腕を掴んで離さなかった。すると伯父は由佳の様子に眉を寄せながらも、溜め息をつくと由佳の掴んでいる腕とは反対の手で由佳の頭を撫でた。

「弁護士さんだよ・・・お前のお母さんの担当をした」

思ってもみなかった相手に由佳は不安を増した。

「伯父さんも一緒に来て」

「由佳」

「・・・・お願い、怖いよ」

また母親のことで何かを言われるのだろうか。

散々色々なことを言われて来ているのに、いつまでも母の過ちが由佳に付きまとうなんて。

由佳は俯き唇を噛んだ。

そんな由佳の様子に伯父は小さく溜め息をつくと「来なさい」と由佳の手を取り室内へと共に足を踏み入れてくれた。少しだけホッとした由佳は掴んだ手をギュッと掴んで離さなかった。

中に入るとソファに腰かけていた人物が立ち上がり、こちらを向いて優しげな笑みを向けてきた。

由佳は伯父の背に隠れるようにしながらその人を見た。

「初めまして、こんにちは」

「・・・・・こんにちは」

わずかに頭を下げ、由佳は対面のソファに伯父と共に腰を下ろす。

とても優しそうな人だ。聞いていなければとても弁護士だなんて思えなかった。

「由佳さんですね?私は和久利と言います。以前お母さんの弁護をさせてもらいました。」

「・・・はい。あの、母が何か?」

おそるおそる尋ねる由佳に和久利は目を細めた。

「お母さんが出所される日が決まりましたよ」

由佳は目を丸くし全身を固くした。しかし、考えてみれば母の刑期は聞かされていた限りではもうそろそろなはずなのだから、考えればそれは普通のことでもあった。

けれど由佳はそう思えなかった。

母が、出所する。

覚えたその感覚は恐怖に近かった。

「由佳さんにお願いがあって来ました。」

「・・・何、でしょうか」

のどが一気にカラカラになって、ひきつった声で何とか返事をすると、そんな由佳に気づかないまま和久利は言った。

「お母さんが戻られたら、一緒に住んで頂くことは出来ませんか?」

「・・・・え?」

和久利は由佳が思ってもみなかったことを口にした。

その言葉の意味がよく理解できず、由佳が「もう一度言って下さい」と言うと、和久利は目を細めとても穏やかな表情を浮かべた。

「あまり難しく考えないで下さいね。無理ならば無理とも言って下さい。そしてこれは強制ではありません」

「はい・・・」

「斉木千歳さんですが、実は最近情緒不安定なんです。あ、いや・・・・深刻には考えないで下さいね?医師の見解ではさほど問題はないと聞いてますから。ただ、お母さんなんですが、どうも出所が近付くにつれて不安定になってきていたらしいんです。家に帰りたくないと漏らしたこともあったようです。僕にはそれが何を意味するのかは分かりません、俗に言うシャバに出たくないのかそれとも本当に自宅に帰りたくないのか」

「・・・・・」

「これは僕なりの見解なんですが、僕は自宅に帰るのが怖いと言っているように思えてなりませんでした。では何故怖いのか・・・それも想像しか出来ないのですが、もしかするとお母さんは一人が嫌なのかもしれません。もしそうならば一緒にいる人が居てくれれば良いのではないかと思ったんです」

和久利はゆっくりと、分かりやすく噛み砕いて話してくれているようで、何が言いたいのか由佳は容易に察することが出来た。

「現在のご家族の現状を少し調べさせて頂きました。勝手をして申し訳ありません。そこで調べた限り、一緒に住んで頂けそうなご家族は由佳さんだけでした。なので、この話を由佳さんに持ってこさせて頂いたんです」

「・・・お話は、分かりました」

「先程も言いましたがこの話は強制ではなく、あくまでお願いです。受刑者の多くは出所後に不安を抱いているので、お母さんが不安定になっていることに、おそらくはそれも関係していると思います。どうか、家族として・・・・お母さんを受け入れてあげてもらえませんか」

和久利の話はその一点だけだった。由佳に母と一緒に暮らして欲しいという、それだけの為にわざわざ足を運んできたようだった。

「由佳さん、考えるだけ考えてみてあげてくれませんか?」

「・・・時間を、下さい」

「ええ、もちろんです」

和久利は要件を告げると席を立った。心が決まったら、それがどんな返答でも連絡をして欲しいと言い残し、家を後にした。

由佳は和久利を見送った玄関に立ちつくした。

どうして「今」なんだろう。複雑なことは何も考えたくないのに、考えなければならないことが次々と押し寄せてきて、由佳はもう、息もまともに出来なかった。

こんな時、相談出来る人がいてくれたら。

「おじさん、私・・・どうしたらいいんだろう」

由佳の問いに、伯父は黙って肩を抱いてきた。

「・・それは、由佳が考えて決めなさい」

返ってきた答えは至極まっとうなものだったが、由佳はそれに失望した。

欲しかったのはそんな答えじゃなかったから。

それならばどんな答えが欲しかったのか。その答えをくれそうな人が誰なのか考えた時、思い浮かべた人物は当たり前のように榊であり・・・青柳だった。

自分の中に深く刻まれている二人にはもう相談出来ないなんて。


由佳は嗚咽を漏らし、泣いた。


誰にも何も相談出来ないまま時間だけが過ぎて行った。

刻々と聞かされていた母の出所日は近づいてきていたが、それでも由佳は答えを出せなかった。

そんなある日。学校からの帰り、由佳は兄のいる病院へと向かった。

病院に入るつもりはなかったが、長年の習慣だった兄の見舞いをしないでいるのが心苦しかったのだ。

中には入れないので正門の前から兄の病室がある辺りを見つめた。

もし兄の和真が目覚めたら何と言ってくれるだろうか。

そう考えていた矢先、病院から出てきた一人の人物を目にし、由佳は心臓が跳ね上がる。


青柳だった。


いつもよりラフな格好をしているけれど、間違いない。由佳はとっさに門柱に隠れ後ろを向き気配を殺した。青柳はそんな由佳に気付かず、背後を通り過ぎていった。

振り向くと青柳は足を止めることなく歩いて行ってしまう。

自分が隠れたのだが、気付かれなかったことが悲しかった。

気付かれていてもどうすればいいかなんて分からないけれど。

矛盾する思いを抱えながら、由佳は引かれるように青柳の後を追った。

あんな風に別れたきり顔も合わせることはなかったが、時間が経てば経つほどに会いたい気持ちが募っていくのを由佳は自覚していた。

どうせなら信頼と一緒に恋心も消えてなくなれば良かったのにと、後を追いながら由佳はそう思う。


青柳の姿を見て踊った心に、そうではないことを思い知らされながら、由佳は泣きそうになりながら一人笑った。


いくつかの角を曲がり進んでいく青柳を追いかけて行く内に、気がつくと由佳は人気のない道にいた。

それでも青柳の後を追った。

目前の青柳が角を左に曲がり、それを追って曲がると。

曲がった先に青柳がこちらを向いて立っていた。

とっさに立ち止まると由佳は目線を逸らした。が、少し遅かった。

青柳はつかつかと由佳に近づいてくると目の前で立ち止まった。

「何?」

冷たい物言いに由佳の心は傷ついた。それほどまでに聞いたこともない、冷たい声だったのだ。

「何か用事があるから追いかけてきたんだろ?」

「・・・・あの」

顔を上げると目が合ったが、その目もまた酷く冷え切っていた。

こんな目をした青柳を見たことはなく、由佳は怯えてしまった。

うまく話せず口ごもっていると、青柳は乱暴に由佳の顎を捉え顔を寄せてくる。

へらへらとした表情だった。

「どっかで会った?」

「・・・・・・え?」

「女子高生に知り合いなんていないんだけどなぁ、俺」

青柳の言葉に由佳は違和感を覚えた。

由佳の知っている青柳とは何もかもがかけ離れているのだ、表情も口調も。

この人は本当に自分の知っている青柳なのだろうか。

そう考えた時、由佳は気付いた。

自分の知っている青柳は自身のことを「僕」と言っていた。

しかしこの青柳は今「俺」と言わなかっただろうか。


「・・・・・青柳さん?」


瞬間、青柳から表情が消えた。

真顔になった彼は恐ろしく、由佳は後ずさろうとするが捉えられた顎がきつく掴まれていて、叶わなかった。

「お前誰?」

「・・・・・っ」

「名前は?」

この人は自分の知っている青柳じゃない。

由佳は確信した。

それならあまりに青柳に瓜二つなこの人は誰なのか。


「言えよ、名前。」


名前を言うことに恐怖を覚えたが、しかし言わなければ何をされるか分からない。

そんな雰囲気をこの男は醸し出していた。

由佳は唾を飲み込むと震える口で言った。

「・・・・斉木由佳」

すると名前を聞いた途端みるみる男の表情が緩み、そしてついには声を上げて笑いだしたのだ。

「そうかお前が斉木の妹か」

その言葉を聞いて、この男も自分を知っているのだと、唇を噛んだ。

「私を・・・知っているんですか?」

「知らない訳がないだろ。・・・・・なるほどな、じゃあお返しに俺も教えてやるよ。お前の言った通り俺は青柳だ」

「・・・・・・?」

「俺は青柳有美。お前の知っている青柳穂紬の双子の弟だよ。あいつから聞かされたことがないか?」

由佳は目を見開いた。

確か前に聞かせてもらったことがある。弟が居て、一緒に会社を経営していると。

まさか双子だとは思わなかった、だって青柳はそうとは言わなかった。

「俺を追ってきたのは穂紬と間違えたからか。でもお前ら今、仲違いしてるんじゃなかったのか?」

「・・・なんで」

「知ってるかって?そんな情報、聞きたくなくても耳に入ってくるんだよ」

 ニヤニヤと笑いながら青柳有美は言い、由佳の顎にかけていた手を解いた。

「お前の兄貴をあんな目に遭わせたあいつが許せなかったそうだな」

そう言われ、由佳はあの時のことを思い出した。

やはり苦々しい気持ちを抱いてしまうのは仕方がないじゃないか。だってたった一人の兄を十年以上も寝たきりにさせられているのだ。

普通に考えても許される行為ではないはず。

由佳はキッと有美を睨みつける。

しかし有美はどこ吹く風。

由佳の目には、今にも鼻歌を歌いだしそうにすら見えてしまう。

「言っておくがあの状態にしたのは穂紬じゃないぜ」

「え?」

「やったのは俺だ。あいつを悪夢の中に放り込んでいるのは、俺なんだよ」

あまりにあっさりと言う有美に由佳の頭は混乱した。

この人は何を言っているのだろうと、本気で思う。

「夢を見せられるのは俺だけだからな」

「・・・・夢を、見せられる?」


そう言えば、人を一人寝たきりにさせられる方法があるのだろうか。

病気や怪我でないのなら、一体どうやって。

由佳は兄のことでこの時やっと、冷静になった。

普通の人間にそんなことが出来るはずがない。それならば、彼らはどうやって?


「穂紬から聞いてないのか、俺たちがお前の兄貴に何をしたのか」

由佳は首を振った。

有美は言った。

「夢を見せてるんだよ、とびっきりの悪夢を。それが俺の能力だからな」

「・・・能力?あなた、人に夢を見せることが出来るの?」

そう言えばいつだったかそんな話をどこかで聞いたことがないだろうか、由佳は記憶を手繰った。

望み通りの夢を見られる店があると聞いたのはどこだったか思い出せないが、まさか本当にその店が実在するなんて。

それが青柳に関わることだなんて想像もしなかった。

「お兄ちゃんにも夢を見せているの?」

「そう言ってるだろ」

有美はニヤニヤと笑いながらポケットからタバコを取り出すと咥え火をつけた。

吸い込んだ煙を由佳の顔にフーッと吹きかけてきて、由佳は思いっきりむせた。

「・・・あなたが、そうなら・・・・・お願い。お兄ちゃんを起こして」

「それは出来ない」

返事は即答された。

穂紬とまったく同じ言葉で、由佳の望みは否定されてしまった。

「どうして!なんでなの?お兄ちゃんが一体何をしたっていうのよ!」

激高した由佳は有美に掴みかかった。

服を掴み必死に揺さぶったが、有美はビクともせずそんな由佳を冷たい目で見下ろしてすらいた。

「教えてよ!」

「・・・・そんなに知りたいか?」

吸っていたタバコを地面に落とすとそれを踏みにじり、有美は強い力で自分に掴みかかっている由佳を突き飛ばした。

「っ!」

よろめく由佳に目もくれず、有美は来た道を引き返し始める。一度だけ視線を後ろに投げかけ、

「知りたかったらついて来い」

冷たく言い放つとそれきり振り返らずに行ってしまった。

由佳は立ち尽くしていたが、やがてふらふらと誘われるように有美の後を追いかけていった。





--------------





三十分後。たどり着いたのはどこにでもありそうなありふれた四階建てのビルだった。

前を歩く有美は迷うことなく中へ続く階段を上がって行く。

由佳は一瞬躊躇いを見せたが、強く両手を握り締めると意を決した表情を浮かべ、一気に階段を駆け上った。

三階まで上がると扉が開け放たれていたが、有美の姿はそこにはなかった。

ここなのだろうか、恐る恐る室内を覗くと中には女性が居る。

背が高く、キリッとした顔立ちの美しい人だった。その女性と目が合った。

「・・・・あの」

「どうぞお入り下さい。副所長は奥でお待ちです」

入室を促すように半身を引いたその女性は由佳に笑みを向けてくれた。

その様子に由佳は内心安堵の息をつき、「失礼します」と部屋の中へ足を踏み入れた。

女性の後に続き部屋の奥へ案内されると扉の前で女性は立ち止まる。

「こちらになります。中に椅子がありますので、かけてお待ち下さい」

女性は由佳に中に入るように扉を開くと一礼をしてその場から離れて行った。

由佳はその場から中を伺った。

てっきり有美が中に居るのかと思ったのだが、そこにその姿はなかった。

言われたように椅子に座り待っていると、少ししてから、奥の仕切りの向こうから有美が姿を現した。さっきまでのラフな格好とは違う、整体師が着るような白衣を身に着けている。

由佳には目もくれず有美は部屋の壁際にあるベッドの横にあるテーブルに近づくと、何かをしだした。

「・・・・お香?」

有美の影に隠れて良く見えないが、その向こうから煙が立ち上っている。

そして部屋には心が落ち着くような良い匂いが立ち込め始めていた。

「初めに言っておくが」

手馴れた様子で作業をしながら振り返りもせず有美は言った。

「俺はお前みたいな馬鹿な女が大嫌いだ。どうせ自分のことを、寝たきりの兄の世話をする健気な女子高生を気取る悲劇のヒロインだとでも思っているんだろうが」

あまりの言い方に由佳は怒りを覚えたが、唇を噛みグッと堪える。

そんな由佳に気付いているのか気付いていないのか、有美は続けた。

「事実はお前が思っているような御伽噺なんかじゃなく、限りなく残酷だ。お前は兄が一体何をしたと言ったが、何もしていないのにあんな目に遭わされるとでも思っているのか?」

「・・・え?」

「俺たちはお前の兄にそれ相応の報いを与えただけだ。それほどのことを、お前の兄はした」

有美の言葉に由佳は愕然とした。

確かに自分は兄がどんな人間なのかは知らない。

まともな記憶すら持っていないのだから。


でも自分の兄なのだから悪い人間だなんてほんの少しも思っていなかった。


一体どういうことなのだろうか。

急速に由佳の胸に不安が広がっていく。ドキドキと鼓動が早くなっていくのを感じていた。

「お前は知らずにいることで全てから守られていた。だが、お前は知りたいと言った。知りたいと願ったのはお前だ」

有美は一旦そこで言葉を切ると、こちらを振り返った。

目に感情はなく、見られているだけで殺されてしまいそうな圧迫感に、由佳は知らず身震いをした。

「これからお前に見せるのは俺たちとお前の兄の過去だ。全てを知ったあとには、死にたくなるような現実がお前を待っているよ。・・・だが」

有美は優雅とも取れる動作で一歩一歩由佳に近づいてくると、手を差し出してくる。

由佳は操られるかのようにその手を取った。

そして有美は由佳の良く知っている、穂紬と同じ優しい笑みを浮かべた。


「俺はお前みたいな人間は大嫌いなんだ。だから好きなだけ傷つけばいい」


この時、由佳は自分が何を言われているのか理解していなかった。

充満する香の香りにぼんやりとする頭の中で、ただ目の前には焦がれた人の顔があって。 

それだけでいいとすら思ってしまっていた。

由佳は有美に手を引かれるままに、燻る香炉の横に設置されたベッドに腰掛けると促されるまま横になった。

すぐに目を塞ぐように有美の手に顔を覆われる。

「おやすみ」

低く穏やかな、穂紬と同じ優しい声が耳をくすぐる。

由佳は目を閉じると吸い込まれるように眠りの中へと落ちて行った。





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僕と有美が自分たちの特殊な能力に気付いたのは、祖母が亡くなった五歳の時だった。

僕たちはそれはそれは祖母のことが大好きで、祖母が亡くなったと聞かされてもそれを理解出来なかった。

「おばあちゃんにはもう会うことは出来ない」と母に諭された時、ようやくそれを理解し、二人で随分と号泣したものだった。

いつまでも泣き続ける僕たちを見かねたのか、父がいつも祖母が身に着けていた大きなストールを遺品として手渡してくれた時は、大喜びをして二人でその大きなストールに包まった。

そしてその時、僕は初めて死者の声を聞いたのだ。

穏やかな祖母の声が耳元で囁くように、何かを言った。

「ゆうび、おばあちゃんが今しゃべったよ」

「・・・・おばあちゃんは死んじゃったって、ママが言ってたよ?」

「でも、本当に聞こえたんだもん」

「僕は聞こえなかったよ?」

二人でストールに包まっていたのに聞こえないと言った有美が嘘をついていると、この時僕は思った。けれど、実際に有美には何も聞こえては居らず祖母の声を聞いたのは僕だけだった。

僕はその経験をどう伝えていいのか分からず、それがもどかしくて、泣きながら有美の手を強く掴んだ。すると有美は目を見開いたまま体を硬直させてしまった。

その様子があまりに異様で、僕は大声で泣いた。

泣き声を聞いた母が何事かと僕たちの部屋に飛び込んでくると、咄嗟に僕は有美の手を放し母にしがみつく。

「何があったの?」

優しく訊ねる母に、僕は今起こった出来事を告げた。

「おばあちゃんがね、ママに言いたいことがあるって言うんだ。でも、ゆうびには聞こえなかったって・・・・一緒に居たのになんで聞こえないの?ゆうびも絶対聞こえたはずなのに。・・・・・それでね、僕がゆうびの手を持ったら、ゆうびが動かなくなっちゃった」

泣きじゃくりながらそう説明をした。

母は僕が何を言っているのか分からなかったのだろう、怪訝な顔をしていた。

「穂紬、おばあちゃんはもう亡くなって会えないのよ?」

「だけど本当なんだもん・・・」

確かに聞こえた祖母の声を、どうやって伝えていいのか分からなくて僕はただ泣いた。

「ママ」

有美が母を呼んだ。元に戻ったらしい有美が、僕たちが振り返るのとほぼ同時に母に抱きついてきて、母はそんな僕たちの背を包み込むように優しく抱き締めてくれた。

「・・・・もう、おねむなのかしら。二人ともお昼寝しましょうね。」

僕の言葉を何かの勘違いと取ったのだろう。

母は優しくそう言うと僕たちを寝室へと連れて行ってくれた。

ベッドに横になり、いつものように母と手を繋ぐ。

「眠るまで、こうしていてあげる」

柔らかな笑みに僕は安堵し、目を閉じた。

「ママ。僕にもおばあちゃんの声が聞こえたよ。ママにも教えてあげるね」

眠そうな有美の声が確かにそう言った。

「え?」

母のその声を聞いたのが最後で、そこで僕は深い眠りに落ちてしまい、意識を手放した。

その後、何が起こったのかは知らないままに。

どれくらい眠っただろうか、目を覚ますと母の姿はなく、横を向くと有美はまだ眠っていた。

有美を起こさないようにそっと起き上がると僕は部屋を出た。

僕たちの家は祖父の代から教会を営んでいた。

僕は真っ直ぐ、礼拝堂に向かった。

この時間なら父も母もそこにいると知っていたからだ。


礼拝堂を抜けて奥の小部屋に続く扉に手をかけた時、中から父と母の声が聞こえてくる。

それはこんな内容だった。


有美に手を掴まれた母は何故かそのまま眠ってしまい、そして夢を見た。

その夢の中で祖母に会い、何かを告げられたようだった。

あまりに現実味を帯びたその夢の内容が気になった母は、その夢の中で祖母に告げられた場所へ行き、言われた場所を探った。


「・・・・そうしたら、探していたこれが出てきたのよ。」

「本当なのか?」


 父の声は強張っていた。

「・・・ええ。穂紬がおばあちゃんの声を聞いて、それをどうにかして受け取ったらしい有美が私に教えてあげると言っていたわ。そしてあの夢を見たの。・・・・・こんなことが、本当にあるの?」

「分からんが、しかし・・・・もし事実ならば、それは他人に知られてはならないものだ」

「ええ・・・」

「ただの偶然だったかもしれんが、二人には他言しないように言い聞かせておこう」

声は途切れ会話は終わったかのように思えた。少しの沈黙の後、

「・・・あなた、私怖いわ・・」

怯えた母の声に、僕は幼心にショックを受けた。けれどそれ以上に、次に発せられた父の言葉に衝撃を受けた。


「私たちの子供がそんな恐ろしいものだとは・・・・どうすればいいんだ。どうか偶然であってくれ」


僕はこの時、すごく心臓がドキドキしたのを今でも覚えている。

自分が聞いた祖母の言葉が、良いものでないと聞かされた上、父と母に否定されたのだ。

たった一度の経験だったが、僕は恐怖し、その場から逃げるように立ち去り有美がまだ眠る寝室へと戻った。そしてベッドにもぐりこみ涙の滲む目を閉じていると、そのまま眠ってしまった。

拒否されたことで傷ついた心を見ないふりをしながら。

それから数日が経ったある日、やっと母から言われた。

亡くなった人の声が聞こえること、それを夢にして見せられること。

もしそれが本当に僕たちのやったことならば、それらは決して他言してはならないと。

僕たちにそれを告げた時の母の奇異なものを見る目を、僕はいつまでも忘れることが出来なかった。

その日を境に僕たちは両親の前でも、他人の前でも極力この力を見せないようになった。



翌年。空き家だった隣家に榊一家が引っ越してきた。

両親と兄と妹の四人家族で、妹の由妃奈が同じ年だったこともあり、僕たちはすぐに打ち解け仲良くなった。

仲が良くなればなるほど、子供と言うのはとにかく秘密を胸にしまっておくことが中々出来ないものだと思う。

僕たちはある日由妃奈に自分たちの不思議な力を、話してしまった。

信じさせる為に由妃奈の亡くなった祖父の遺品を用意させ、僕が言葉を聞きそれを有美が夢にして由妃奈に見せてまで教えてしまったのだ。

しかし父や母とは違い、由妃奈は目を輝かせそれを「すごい」と喜んでくれた。

それが嬉しくて、嬉しくてたまらなかった。


今にして思えば、きっとこの時にはもう僕は由妃奈に恋心を抱いていたのだと思う。


僕たちは三人集まるといつも夢を見る秘密の遊びを繰り返した。

そして何度もそうしているうちに、見られる夢が故人の言葉に伝えるものだけでなく、見たいものを見ることが出来ることに気がついた。

僕たちは更にその遊びにはまり飽きずに何度も繰り返した。

由妃奈の七つ年上の兄が大学進学の為に家を出て行くと、両親が共働きの由妃奈は夜まで一人になることが多くなり、よく僕たちの家で夕食を一緒に食べた。

その頃にはもう、幼馴染ではなく三つ子の兄弟のようですらあった。

それほどまでに僕たちの仲は良かったのだ。

中学に進学しても、高校へ進学しても、僕たち三人の関係は変わりなくいつだって三人で居た。

高校へ上がると僕と有美は教会の行事や仕事を本格的に手伝うようになっていた。

そして年の瀬も近づいた十二月中旬のある寒い日。高校二年だった僕と有美はいつものように礼拝堂の掃除をしている時のことだった。

「お前、進学どうすんの?」

「どうって、予定通り神学校に行くよ」

「親父の跡を継ぐのか?」

「ああ」

「お前それでいいのかよ」

有美の声は少し苛立っていた。

それもそうだろう、有美は僕が父の跡を継ぎたくないことを知っているからだ。

僕の亡くなった祖父は牧師をしていて、父も当然のように跡を継いだ。

だから双子であっても長男である僕が跡を継ぐのは当然だと考えているのだ。

家の手伝いもしているしこれまでも特に反抗はしていない。


でも僕は実際に神がいるのかどうか、その存在をいつも疑問に思っていた。


もし本当に神が存在するのならば、どうして僕たちにこんな奇異な力を与えたのか。

実の父母さえ異様なものであるかのように、時折僕たちを持て余しているのを知っているが故に、そう思う。

何故普通の人間として生まれてくることが出来なかったのだろう。

こんな力、欲しくなんてなかったのに。

幼い頃に刻み付けられた母の眼差しは、父の言葉は、深く深く、僕の胸を抉り傷つけた。それは簡単に癒える傷ではなく、今もジクジクと鈍い痛みを伴っている。

だからどうしてもこれらを与えた神を信じることが出来ず、それはいつしか僕の中で負い目となっていた。

だけど神を心の底から信じていないのに、跡目だからと唯一つの理由で、僕は自分の未来を決めざるを得なかったのだ。


「仕方が無いだろ」


諦め混じりにそう言った。次の瞬間、有美に胸倉を掴まれ僕は激しく揺さぶられる。

「少しは他人と争うことも覚えろよ。お前のそう言う所、大嫌いだ」

「・・・神は争うなと言ってるだろ」

「逃げてんじゃねぇぞ穂紬。お前のそれは詭弁だ。諦めは許しじゃない」

「・・・分かってるよ」

睨み付けられ、僕は有美から目を逸らした。

有美は父に反発して、教会と関係のない進路へ進もうとしている。

僕だってそうすれば良いだけの話なのだ。本来なら世襲ではないのだから。

シンと静まり返る礼拝堂に立ち尽くしていると、有美が言った。

「お前、由妃奈のことが好きだろ」

あまりに突拍子の無い内容に、僕は思わず顔を上げる。

有美は真剣な眼差しをしていた。

「急に、何を」

「今年の教会のクリスマスパーティが終わったら由妃奈と二人の時間を作れ」

僕は数度瞬いた。

「有美、お前何言って・・・」

「お前ら二人を見てると、まどろっこしすぎてイライラするんだよ。何年も二人してモジモジモジモジしやがって」

「・・・・・・・・・」

「言っておくが最近の由妃奈のモテ方は半端じゃない。うかうかしてると鳶にかっさらわれるから、いい加減そろそろ腹括れよ?」

有美はニヤリと笑った。そして腕時計を見て時間を確認する。

「あとは本人と話し合え」

その言葉とほぼ同時に扉をノックする音が聞こえ、ギィと音を立てて開かれた。

扉の向こうには由妃奈が立っていた。

はにかんだ笑みを浮かべ、寒さに頬を真っ赤に染めている姿はきっと誰が見ても可愛いと言うだろう。

「お掃除お疲れ様。コーヒー持って来たよ」

パタパタと小走りにやってくる由妃奈を、僕は赤くなった顔で見つめた。

有美には一度も自分の恋心を言ったことがなかったのに、双子だからなのか、ずっと側で見てきたからなのか、どうやらバレバレだったみたいだ。

でもだからって、由妃奈が僕のことを好きだとは限らないのに。

有美の奴、余計なことをしてくれた。

僕はどんどんと鼓動が上がっていくのを感じていた。

「はい、どうぞ」

僕らの真横に来た由妃奈に熱い缶コーヒーを手渡され受け取ると、僕は一つを有美に渡した。

そして由妃奈自身はコートのポケット中からココアの缶を取り出し満面の笑みでプルタブを開けると口をつける。

「まーた馬鹿みたいに甘ったるいもん飲みやがって」

「いいじゃん、好きなんだから」

頬を膨らませる由妃奈を軽く小突くと、有美はもらったコーヒーを一気に飲み干し「じゃーな」と缶を椅子の上に置くと、スタスタと礼拝堂から出て行ってしまった。

その様子を由妃奈はキョトンとした様子で見ていたが、

「有美がここに来いって言ったのに!」

と、一人怒り出してしまった。

有美の意図は分かる。気を利かせてくれたつもりなんだろうけど、自他共に認める奥手の僕がどうこう出来ると思っているのだろうか。こんな時、有美の積極性が酷くうらやましかった。

口から心臓が飛び出してしまうんじゃないかと言うくらいに緊張していると、ふと由妃奈がこちらを振り向く。

その仕草に胸がギュッと掴まれたみたいに締め付けられた。

神学校へ行けば数年は由妃奈には会えなくなってしまう。そして父の跡を継げば、今のように自由には振舞えないのだろう。

恐らく結婚に関しても、口出しをされるはずだから。

自由の無い未来が待っているのなら、せめて今だけでも好きな人と近い距離にいたい。

僕は決心した。

「・・・由妃奈」

「ん、なぁに?」

小首を傾げる由妃奈に恐る恐る手を伸ばし、手を掴んだ。

「あのさ・・・・・・今年のクリスマスパーティ、来るだろ?」

「もちろんよ」

「それが終わったらさ・・・・」

どうしよう、どうしよう、どうしよう。拒絶されたらどうしよう、だって由妃奈が僕を好きでいる保障なんてどこにもないのだ。もし駄目だと言われたら、きっともうまともに由妃奈と口を聞くことさえ出来なくなってしまう。

こんなに近くに居たって相手の心は分かりっこないから。

「それが終わったら・・・」

喉がカラカラになって、僕はその先を言いよどんでしまう。

由妃奈を好きだという気持ち以上に今までの関係が崩れ去ってしまうのが怖くて仕方が無かった。

泣いてしまいそうだ。目元が熱くなるのを感じながら、僕は顔を伏せた。

すると掴んでいた由妃奈の手が、僕の手を強く握り返してくる。

「穂紬・・・私ね、高校に上がった頃から毎年クリスマスは大好きな人と二人で過ごしたくてしょうがなかったの」

「え?」

それはどういうことなんだろう。

好きな人が居るから、その人がいいって言いたい?何も言えなくなってしまった僕に、由妃奈は続けた。

「私の好きな人はね、神様に取られちゃうことが決まっている人なの。だからせめて側に居られる間は「あなたには渡さないんだから!」って一人占めしたかった」

「・・・由妃奈」

うぬぼれていいのだろうか。それが僕だと、思っても。

僕は真っ直ぐに由妃奈の目を見た。由妃奈も僕を見つめ返してきた。

「クリスマスパーティが終わったら、由妃奈二人で過ごしたい」

僕の言葉を聞いた由妃奈は見たことのない柔らかな笑みを浮かべてくれた。

目がキラキラと輝いて見えたのは少し潤んでいたからなのかどうかは分からないけれど、それがとても綺麗だった。

「うん」

そっと僕の胸に額を押し当ててくる由妃奈の華奢な肩に手を乗せ、繋いだ手を放さなかった。



数日が経ってクリスマスがやってきた。

教会のクリスマスパーティが夕方で終わると僕たちは三人で遊ぶと言って出掛けた。

途中で有美と別れると、二人きりでイルミネーションが有名な公園に行った。

嬉しくて幸せで、あまり言葉は交わさなかったけれど、繋いだ手から伝わってくる由妃奈の温もりが愛おしくてたまらなかった。

二時間ほどで二人きりのデートを終え、僕たちは家に戻った。

二人で、なんともなしに教会の前まで歩いていくと、そこはもう人の気配はなく。

繋いだ手がいつまでも離せずにいると、横で由妃奈が「ふふ」と笑う。

「何?」

「初めて神様から穂紬を取っちゃった」

あまりに嬉しそうに言う由妃奈の姿に、僕は胸が苦しくなる。

その痛みは不快なものなどではなく、喜びに近いものだった。

ずっと、ずっと彼女と一緒に居たい。

強い思いに突き動かされた僕はそこで立ち止まった。

自然と引っ張られる形になった由妃奈も立ち止まり、僕を振り返る。

「僕と付き合ってください」

「・・・穂紬」

「子供の頃からずっと、ずっと・・・・君が好きだった」

僕が言葉を発する度、由妃奈の顔がくしゃくしゃになっていった。

目に涙が溜まり、瞬きの瞬間大粒の雫が零れ落ちる。

「由妃奈が、大好きだよ。だから・・・・僕の恋人になって下さい」

これまで僕は由妃奈の笑顔は数え切れないほどに見てきたけれど、こんなに綺麗な笑みは見たことがなかった。輝いているんじゃないかと勘違いしてしまうくらい、由妃奈はとても綺麗に微笑んで、

「はい」

嗚咽交じりだけれど、はっきりとした声でそう、言った。

僕たちは見つめあい、寄り添った。寒空の下、音もなく舞い落ち始めた白い雪が、今この時の僕たちを、せめて隠してくれたら。

僕は身を屈ませ、そっと由妃奈の唇に自分のそれを押し当てた。

初めて触れた由妃奈の唇は柔らかくて温かくて、もう離れたくないとすら思ってしまうほどだった。

名残惜しく思いながら、唇を離すと由妃奈と目が合った。

「来年も一緒に、二人でイルミネーション見に行こう」

「・・・うん」

微笑んで抱きしめ合った僕たちはこの時、確かに幸せだった。

この約束は必ず守られると信じて疑いもしなかったから。



僕と由妃奈の付き合いは順調過ぎるほど順調で、喧嘩も無く毎日を楽しく過ごしていた。

三年になると学校は受験一色になり、窮屈な気持ちになったがそれでも由妃奈が側で笑ってくれていることが、唯一の心のよりどころだった。

僕は神学校を受験するにあたり、合格すれば地元を離れることが決まっていた。

その学校さえ父に決められたものだったからだ。

そうすれば数年は戻ってくることが出来ない。

だけど僕は由妃奈と離れたくない気持ちが、日々大きくなっていくのを感じていた。

大人になってからも、一緒に居られる約束が出来ないだろうか。

ふとそう思った時、その気持ちがストンと僕の中に落ちてくるのが分かった。そして気付いた。


そうか、僕は由妃奈と結婚したいのだ。

だって何より明確な、約束の形じゃないか。


単純な思考回路だと笑われても良かった。

そして僕は決めた。次のクリスマス、由妃奈にそう告げたい。

その場で約束を交わしておきたかった。

共に生きて行く約束が出来ないだろうか。

気持ちを決めた僕は羞恥心を押し殺し、有美に相談をした。

有美はよく女の子と付き合っていたから、そういったことに詳しいと思ったのだ。

僕の気持ちを聞いた有美は、からかいもせず笑いもせず、ただ嬉しそうに目を細めていた。

色々と助言をくれた有美の意見から、やはり女の子は結婚式に憧れを持っているから、真似事でもそういったことをしてみたらどうだろう、となんとも安直な結果に落ち着いたのだが、そうは言ってもドレスを買うお金などなく、途方に暮れる僕に「ベールくらいなら買えるだろ」と有美は言った。

調べてみると確かにベールは思ったよりも安価で、これならバイトをすれば手が届く金額だった。

何より一番それらしいアイテムでもあった。

ネットで色々調べ、僕は一つの候補を上げた。

それはマリアベールというもので、よくあるふわふわしたものでなく、綺麗な刺繍が施されたシンプルなデザインのものだった。

それが一番、由妃奈に似合うと思ったのだ。

時期は折りしも夏休みにさしかかろうとしていて、受験生ではあるけれど多少余裕のあった僕は補講の合間をぬって、短期集中で一気にバイトをして目標の金額を貯めてしまった。

あまりの迅速さに有美は「いつもそれならいいんだけどな」なんて笑っていた。

由妃奈に内緒で買ったベールを綺麗にラッピングし汚れないように袋に入れ、机の引き出しにそれを隠しておいた。

何から何まで全てが順調で、僕は由妃奈がどれだけ喜んでくれるだろうかなんて考える日々を送っていた。


十二月に差し掛かると、受験勉強と教会の手伝いで日にちがあっと言う間に過ぎていき、気がつけばもう明日が教会のクリスマスパーティの日になっていた。

学校は自由登校に入っていて、午前中から手伝いに来てくれた由妃奈はちゃんと僕との約束を覚えていてくれて、笑いながら「明日、楽しみだね」と言って来る。

「うん、楽しみだ」

今年は特別な年になると、僕の心は浮き足立っていた。

由妃奈はどんな顔をしてくれるだろうか。びっくりするだろうか、喜んでくれるだろうか。

想像するだけで心が躍った。

明日のパーティの支度が終わるとまた受験勉強に戻らなければならなかった。

「一緒に勉強する?」

そう声をかけるが、由妃奈は首を振った。

「ちょっと買い物があるの」

「買い物?・・・付き合おうか?」

「大丈夫、一人で行けますー」

じゃあね、と手を振りながら教会を出て行く由妃奈を見送ると、ため息をついてから僕は腰を上げた。

何も変わらない日のはずだった。

いつもと同じ約束された毎日がやって来ると、信じていた僕の日常はこの日、一本の電話によって壊された。



夜十時、僕の携帯が鳴った。着信は由妃奈の家からだ。

「・・・もしもし?」

いつもは携帯からかけてくるのにどうしたのかと思い電話に出ると、それは由妃奈の母親からだった。

焦りを帯びた声が「由妃奈がまだ戻っていない」と言った。

僕は壁の掛け時計を見た。

針は十時十五分を指していて、由妃奈と別れてからゆうに五時間が経過している。僕は胸がすうっと冷たくなるのを感じた。連絡も無く遅く帰るなんて由妃奈にはありえないことだ。

僕は「連絡を取ってみるから」とその電話を切るとすぐに由妃奈の携帯にかけた。

けれど、コールすらしなかった。


電源が落ちているなんて由妃奈に限ってそんな馬鹿なことがあるものか。


僕は自室を飛び出し、有美の部屋へ行った。

「由妃奈から何か連絡来てない?」

ノックもせずに扉を開け中に入ると、勉強をしていたらしい有美が目を丸くして僕を見てきた。

「・・・なんだよ急に。俺に連絡なんてある訳ないだろ」

「じゃあどこへ行ったか知らないか?」

有美は眉を寄せ、一瞬口ごもる。

「何かあったのか?」

「有美、お前何か知ってるのか?」

一度僕から目線を外した有美は、観念したように頭を掻くと、

「お前のクリスマスプレゼントを買いに行ったのは知ってる」

と言った。

「・・・クリスマスプレゼント?」

「お前と同じように由妃奈にも聞かれてたんだ。お前は何が欲しいんだろうって。だからお前が欲しそうなものを何個か言っておいた。で、取り寄せてもらって、今日それが届くんだって言ってたよ。それがどうかしたのか?」

僕は天井を仰いだ。

「由妃奈がまだ帰ってないって・・・今おばさんから連絡があった」

僕の言葉に、有美は目を見開く。

「帰ってないって・・・・マジか?」

何だろう、すごく嫌な予感がするのだ。

体の奥から震えが湧いて出て止まらない。

僕は居てもたってもいられず、有美の部屋を飛び出した。

「穂紬!」

有美の声が背中に届いたけれど、僕は振り返りもせずそのまま家を飛び出した。


由妃奈が行きそうな場所を考えて、思いついた場所から手当たり次第探して回る。

色々な場所を走り回って探し続けたけれど、きらびやかなイルミネーションに彩られた町のどこにも、由妃奈の姿はなかった。

疲れに立ち止まると同時に握り締めていた携帯が鳴り響き、僕は緩慢な動作でそれに出た。

電話の相手は有美だった。


たった今、由妃奈のカバンが家から少し離れた林の側から見つかったという内容の電話だった。


なんでそんな場所に由妃奈のカバンが落ちていたんだろう、とか。考える余裕なんてこの時の僕には無かった。

詳しいその場所を聞いて、僕は有美の返事も聞かず、通話を切るとそこへ向かって走り出した。

僕が由妃奈を探し始めてから一時間が経過していた。


寒さに手足がかじかんで、思うように動かないのに苛立ちながら、ただ走った。

そして有美に言われた場所にたどり着くと、そこには警官の姿がいくつかある。

パトカーの赤色灯がチカチカとしていて、その光がやけに目に痛い。

ふらふらとした足取りで僕がそこへ歩いて行くと、林の中から真っ青な顔をした有美が出てきた。

顔を上げた有美が僕に気付く。


「来るな!穂紬!」


それは悲鳴だった。

こんな有美の声は聞いたことが無い。

そんな、そんな声を出さねばならないようなことが、起こっているのだろうか。

いったいなにが起こっているんだ。

どうして由妃奈の姿がないんだ。


いてもたってもいられず僕は再び走り出した。

有美は僕を引きとめようと体当たりをして、僕の腕を掴んで放そうとしなかった。

それを僕は渾身の力で振りほどき、林の奥へとまっしぐらに走る。

「やめろ!穂紬っ!・・・・見るんじゃない!」

必死に追いすがってくる有美に腕を捕まれ、僕はバランスを崩してその場に転んだ。

有美も一緒に地面に転がってしまったけれど、構っていられない。

倒れながらも僕の目に飛び込んできたものがあったからだ。

のろのろと体を起こし、地面に膝をついたまま僕はそれを見上げた。

見間違えるはずはない。最愛の恋人の、由妃奈の後姿を間違うなんてない。

「・・・・ゆ・・、き、な」

枝に輪っかにしたマフラーがかけてあって、それは由妃奈の首に引っかかっている。

つま先は地面から離れ、頼りなく揺れていた。


そんなことをしたら死んでしまうよ、由妃奈


僕は呆然とその光景を見つめていた。

いくら考えても目の前の状況が飲み込めないのだ。

だけど、ボロボロと溢れ出る熱い涙が頬を濡らし始めていて、理解出来ないままに僕は由妃奈に何が起こったのかを知った。

絶叫が喉から迸る。

それは何を叫んだのか。彼女の名前か、意味の無い音なのか。

発した僕にさえ分からなかった。





ーーーーーーーーーーーーー





気がつくと僕は自分の部屋に居た。

自分がどうやって家に帰って来たのか思い出せない。ベッドから起き上がり、部屋を出るとリビングに向かった。

窓から差し込む太陽の光に、夜が明けたことを知った。

だけど、目に焼きついている光景は消えてなくならない。


あれは夢じゃない。


リビングにやってくると少し開いた扉の隙間から、母のすすり泣きの声が聞こえてきた。

そこで泣きながら父と話す母の言葉が、僕に事実を知らしめた。

由妃奈はレイプされたのだという。

警察の人間も目を覆いたくなるほどに蹂躙されており、それを苦にして由妃奈は自殺した。

約束の日を迎えることなく、自ら命を絶ったのだ。

由妃奈の死が確信に変わった瞬間、僕の中の時間は止まってしまった。

この世界のどこにも由妃奈はもういないのだと、頭が考えることを拒否したのだ。


何も出来ないまま時間だけが過ぎていった。

数日が経った頃、塞ぎ込む僕を見かねたのか有美が部屋にやってきた。

その顔は憔悴しきっていた。

僕はのろのろとした動作で有美の顔を見て、そしてまたのろのろと視線を意味もなく壁に投げかける。

薄く開いていたせいで口の中はカラカラで、唾を飲み込むのにも労力を要していた。

生きているのが酷く億劫に感じられて堪らない。

「穂紬」

有美の声が無音の部屋に響く。

僕はぼんやりとしたまま呼びかけを無視した。するともう一度有美が言った。

「穂紬、由妃奈に会いに行ってやれ」

言葉は強い力を持っていて、僕の耳に確かに届いた。ただ、意味は中々頭の中には入ってこなくて。

「・・・・会い、に?」

「もう、最期なんだ」

「・・さいご」

スイッチの切れた人形のように呟く。

僕の発した言葉は僕自身の中を循環し、徐々に言葉の意味が浸透し、理解していくことが出来た。

すると体の奥底から猛烈な怒りがこみ上げてくる。

「最期って、なに」

「穂紬?」

「最期ってなんだよ!」

 僕は立ち上がると有美に掴みかかった。

「勝手に終わらせるなよ!何でお前はそんな、冷静なんだよ!あの由妃奈の姿を見て・・・・、死んだからってどうしてそんなすぐに、切り替えられるんだよ。なぁ、なんで・・・・」

胸倉を掴んで激しく揺さぶっていると、その手が有美の手に包み込まれるように覆われた。

顔を上げると有美は泣いていた。

後から後から溢れ出る涙を拭いもせず、ただ僕を見つめている。

「切り替えてなんかない。切り替えられるわけがないだろ。もう由妃奈はいないなんて俺だって信じられない・・・だけど、全部現実なんだ」

「・・・有美」

「頼む、由妃奈に会いに行ってくれ。一番・・・お前に会いたいはずなんだ」

その言葉に僕は脱力した。

有美の胸倉を掴んでいた手はダラリと体の横に垂れた。

僕は歯を食いしばって、込み上げてくる慟哭を必死に押し殺した。

少しでも力を抜くと泣いてしまいそうだったのだ。

少しして、僕はのろのろと動き出した。

机の引き出しに入れてあった、由妃奈へ送るはずだったベールの入っている袋を手に取ると、歩き出した。


家を出る時の、扉の閉まる音がやけに大きく響いた気がした。


足を踏み入れた由妃奈の家は沈痛な空気に包まれていて、奥の和室で家族に見守られながら、由妃奈はそこに寝かされていた。

おじさんもおばさんも、久々に会った由妃奈の兄も、目を真っ赤にしている。

「・・・穂紬君、来てくれたの」

そんなおばさんの言葉にもろくに返事も返さず、僕は一歩一歩由妃奈の元へ近づいていく。

そしてすぐ側までやってくるとその場に膝を付いた。

由妃奈は綺麗な顔をしていた。

これで死んでいるなんて、信じられるはずがなかった。

「綺麗でしょう?生きている時と同じみたいにしてもらったの」

そっと頬に触れると、そこはとてもひんやりしていて「ああ由妃奈は死んでいるんだ」と、実感させられた。同時に由妃奈の声が僕の中に響き渡る。

それは耳を覆いたくなるくらいに悲痛な叫びで、聞いているだけで胸が苦しくなってくる。

だけど、由妃奈の最期の声を一言すら取りこぼしたくなくて僕は、痛みを堪えてそれを最後まで聞き取った。

由妃奈の声を聞き終えると僕は持っていた袋からベールを取り出し、由妃奈の頭にかけた。

それは想像していた通り、とてもよく似合っていた。

「・・・由妃奈」

こんな渡し方になるなんて思ってもいなかった。

本当なら今この時、目の前の君は満面の笑みを浮かべてくれていたはずだった。

僕の中で悲しみが怒りに変わっていく。

由妃奈の悲痛な叫びを聞いたことで余計に拍車がかかったのかもしれない。

「おばさん、このベールを由妃奈の棺に入れてもらえますか」


せめて最期まで君のものとして


震える声でそう言うと、おばさんは泣きながら「約束するわ」と小さく呟いた。

誰もが悲しみに打ちひしがれている。

けれど僕の中にこみ上げてくるものはたった一つの怒りだけだった。

犯人を絶対に許さない。必ず見つけ出して報いを受けさせる。

そう決意した。


由妃奈が死んで二ヶ月が過ぎたころ、僕と有美はある一人の男を人気のない公園に呼び出していた。

僕たちはいくつかの残された手がかりと、ネットを駆使し、由妃奈を死に追いやった人間を探し出した。

そしてようやくその目星がついたのが、今日呼び出した男だった。

「こんにちは、斉木和真さん」

声をかけるとベンチに座っていた斉木が僕らの方を向く。

「お前ら何だ?」

吸っていたタバコを地面に投げ捨てそれを踏み躙ると立ち上がり、僕たちに近づいてきた。

「俺を呼び出したのはお前らか?」

「そうですよ、斉木和真さん」

「・・・何の用だよ」

「それはメールで言った通り、二ヶ月前の女子高生暴行事件に関してですよ」

まだ確証はなかった。だからそれを確認する為に僕たちはこの男をわざわざ呼び出したのだ。

僕は後ろに居た有美をチラッと見やる。

すると有美は頷くと斉木に駆け寄り一気に羽交い絞めにする。

「おい!何するんだ!」

「ジッとしてろよ」

僕は有美に動きを封じられた斉木に近づくと、左腕を乱暴に掴み顔の位置にまで上げた。

手首にはレザーとシルバーの、シンプルなデザインのブレスレットが付けられている。

僕はなんの躊躇いもなくそれに触れた。

目を閉じると懐かしい声が聞こえてきて、僕は確信を得る。

「やっぱりあんたが由妃奈を暴行した男だったんだな」

見据えると斉木は一瞬たじろいだ。しかし次には平然とした表情に戻ると、

「何言ってんだよ。何を根拠にそんな馬鹿げたことを言ってんだ?バーカ」

そう言うとヘラヘラと笑った。僕は無表情のまま斉木から視線を外さなかった。

するとそれに苛立ちを覚えたのだろう、斉木が僕の手を振りほどこうと暴れ始める。

僕は手を放した。有美も拘束していた手を放し斉木を突き飛ばす。

勢いを持った斉木はそのまま地面へと体から倒れこみ少しの間呻いていたが、のろのろと立ち上がると僕たちを睨みつけてくる。

「お前ら、証拠もなくこんなことして、ただで済むと思ってんのか?」

「証拠はないけどあんたがやったのは確かだよ。・・・そのブレスレット」

「・・・あ?」

スッと指差し僕は斉木を睨みつけた。

「由妃奈から奪ったものだろう?」

斉木は真顔になったかと思うとすぐに声を上げて笑い出す。

「バーッカ、これは貰いもんなんだよ」

「誰からもらった?」

「それをお前らに言う必要があるとでも思ってんのか?」

「そうでないから言えないんだろう。言っておくけどそれ、限定発売の品で日本に百個しか流通してないんだ。ついでに言うとシリアルナンバーが入ってるから持ち主って簡単に特定出来る。このことはまだ警察に言ってないけど、言えばあんたはすぐに捕まるよ」

斉木の顔から血の気がサッと引いたのが目に見えて分かった。

今僕が言ったのは真実味を持たせるための嘘八百だ、そんな限定品を一介の女子高生である由妃奈が手に入れられるはずがない。

僕が「それ」を由妃奈が手に入れたものだと確信を得たのはそのブレスレットから由妃奈の声が聞こえてきたからだ。


由妃奈が暴行された現場にも鞄の中にも、どこにも由妃奈が買ったはずの物は無かった。

何を買ったのかは有美が知っていたので、店に行って聞いてきた。

確かに由妃奈は僕へのプレゼントとして僕がずっと欲しがっていたブレスレットを買ったのだ。

だけどそれはどこにもなかった。

それはつまり誰かに持ち去られたことを意味している。

もちろん犯人でない可能性だってあるのだろうけれど、あの短時間で他の誰かが持ち去るなんて出来るだろうか?

僕たちは由妃奈を暴行した人間がそれを持ち去った、という仮定にすべてを賭けた。

そしてその人物が今でもそれを持っていると。

そして探し出したこの男、斉木和真はそれを身につけていた。

どう考えても偶然などではないだろう。

当人が触れていなければ、声は決して聞こえてくることはない。

だから僕は、あのブレスレットは由妃奈が買ったものだと断言する。

そしてもう一つ確信的な証拠があった。


僕は犯人の顔を知っていた。

由妃奈の遺体に触れた時、由妃奈の最期の言葉と、そして鮮明に焼きついた恐怖の瞬間の記憶が僕の中に流れ込んできたのだ。

その犯人の顔は目の前に居る斉木和真と全く同じ顔をしている。

しかしこんなことが証拠になるはずがない。

警察だって誰だって信用してくれないことも十分承知している。

だから僕は斉木を騙した。そして斉木はそれに騙されてくれた。

慌ててそのブレスレットを外し遠くへと投げ捨てると、斉木は引きつった笑いを僕らに向ける。

「お前らさ、どうしたい訳?警察に言うっつっても証拠なんて」

「警察に言うつもりはないよ」

「だったら、金か?」

「金も要らないよ。やったかどうかだけ、今言えよ」

警察に届け出たって証拠もない。それに刑は軽く済んでしまうだろう。

由妃奈は死んでいるのだ、そんなもので許せるはずがなかった。

僕たちは無表情で斉木と視線を交えていた。

雲りだった空に重く暗雲が立ち込めてきて、ポツポツと降り始めたかと思うとあっと言う間にスコールのような土砂降りになる。

雨に降られていると斉木が裏返った声で喚き始めた。


「あの女が悪いんだよ!せっかく俺が声をかけてやってんのに無視しやがって!・・・だから思い知らせてやったんだ、身の程をわきまえないクソ女がどうなるかって。あのブレスレットはその授業料に貰ってやっただけだ!」


僕は黙ってそれを聞いていたが、ふと有美に目線を送った。

有美の目は怒りに燃えていた。その深く暗い深淵のような目を、きっと僕もしているのだろう。

「大体、あの女だって最後はイイ声出して感じてたんだ。たった一回ヤられた位で・・・普通死ぬかぁ?まるで俺が殺したみたいじゃねーか。こっちの方がよっぽど被害者だぜ、ったく」




何なのだろう、この男の存在は。こんなものが存在する必要性があるのか。

それを神は選んだのか。

由妃奈を棄てて。


この世に神はいない。居たらこんなことにはなっていない。

こんな下衆が存在しなければならない未来を選び取った神など、僕はもう絶対信じない。

有美が斉木に向かって歩き出した。

途中で一度僕に目配せをしてきたが、僕たちは言葉を交わさなかった。

けれど思うことは一つだった。

斉木が何かを喚き続けていた。

しかし強くなっていく雨にその声は全てを吸い込まれ僕らの耳には届かなかった。

そうしているうちに斉木と有美の距離はどんどんと近づき、そして立ち止まる。

振り返ることなく有美が言った。



「罪を犯す人は罪の奴隷なり」



全てが雨音に掻き消され聞こえるはずのない声だった。

それなのにその声だけは不思議とクリアに聞こえたような気がした。

きっと最後の機会だった。

それは僕たちがどうすべきかを選ぶ最後の選択。

「ごめんな・・どうしても許すことが出来ないんだ。・・・お前が生きていることがどうしても許せないんだ。だから」

僕は空を仰いだ。目じりから零れて行く涙は雨に溶けて消え、僕たちの中の迷いや罪悪を全て流した。

こんなにも怒りに燃える心が抑えられない。

どうしても、許すことが出来ない。

だからといって死など生ぬるい、死ねば終わってしまうじゃないか。


そんなことは許さない。


ゆっくりと有美の手が斉木の顔を覆った。

僕たちが決めた斉木の罪の贖い、それは死も選べない悪夢の中の生。

死すら生ぬるいんだ、由妃奈。

君を失って僕の心は死んでしまった。

それなら、


「死ね」


お前の心も死んでしまえ。




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「目が覚めたか?」

由佳が目を覚ますと頭上から声が聞こえてきた。

体を起こすと声のした方を向き、そこに居た人物を確認する。

白衣を着た穂紬と同じ顔をした人がこちらを見ていた。

「大体全部、お前に見せてやったよ」

そう言われ由佳はぼんやりとする頭で、自分が今何を見ていたのかをやっと思い出した。

そうだ。自分の兄と、彼らの過去を夢で見せてもらっていたのだ。

「・・本当、なの?」

信じたくない気持ちが強すぎて、由佳は自分の声が震えていることには気付かなかった。

「事実だ。でも、信じたくなかったら信じなくていい。それはお前の自由だ」

由佳への興味がまるでなくなってしまったかのように、有美はそう言い放つと白衣を脱ぎ捨てた。

ラフなTシャツ姿になった有美は由佳を振り返ることもせず言葉を続ける。

「ついでにもう一つ教えておいてやる。お前、自分の兄貴の入院費がどうなってるか知ってるか?」

「え・・・?」

「今の医療では長期入院は出来ないようになっている。あの症状で十年以上なんてまず無理だ。だがそれが可能になっているってことはどういうことか分かるか?」

そんなこと、考えてもみなかった。

それが当たり前だと思っていたから。由佳は閉口し唇を噛み締めた。

そんな由佳を侮蔑すら混じった眼差しで、振り返った有美は見つめた。

「金を積んでるんだよ、あの病院に。だからわざわざ榊の勤務している病院に入れたんだ。そして肝心のその金は誰が出してると思う?」

有美はおかしそうにしばらくクツクツと笑っていたが、ふと真顔になる。

「穂紬だよ。お前の兄貴にかかっている金の全てをあいつが出してる」

知らされた事実に由佳は衝撃を受けた。

まさかそんなことになっているなんて露ほどにも思っていなかった。

考えもしなかった、だってどうして。

「・・・・穂紬さんが・・・どうして」

「理由が知りたいのなら本人に聞けよ」

「・・・だけど、私は」

最後に会った時、酷く穂紬を詰ってしまった。

それに今は何も考えられなかった。

有美によって見せられた夢が事実であるのなら、由佳に彼らを責める資格などどこにもない。

だってあの夢が本当なら自分だって兄のことが許せない。

そう思ってしまった。

そして自分はそんな男の妹なのだ。

由佳は両手で顔を覆った。


「ウジウジされるのは嫌いなんだよ」


俯く由佳の頭にバサッと音を立てて何かが被せられた。

薄っすら目を開くと大きなタオルがかけられている。

「知ったからには進めよ。その為にお前に見せたんだ」

発せられた有美の声はそれまでとは違うものだった。

冷たく突き放すばかりだったものが少しだけ和らいだような気がして、由佳はかけられたタオルの隙間から有美を見た。相変わらずこちらには目もくれない。

有美の姿が次第にぼやけていき、頬を伝う温かい感覚に、由佳は自分が泣いているのを知った。


あれ程知りたかった彼らの過去は由佳が想像していた以上のものだった。

兄を許せなかった二人の気持ちは良く分かる。

由佳自身も女として、兄のしたことは卑劣極まりなく許せなかった。

これから兄として接することが出来るのかも分からない。

今まで自分を支えていてくれた存在であったのに、呆気なく、もろくも崩れ去ってしまった。

それでも、家族である事実は変えられない。

あの人は確かに自分の兄なのだ。断ち切れない血の繋がりがある。

がんじがらめに縛られて、身動き一つ取れない。

由佳は歯を食いしばった。

「・・・・どうやって前に進めばいいの?」

本当に有美の言った通りになった。

真実を知れば死にたくなるような現実が待っていると、彼は言った。

その言葉通り、知ってしまった事実はあまりにも重苦しく巨大な闇の中にあり、その途方のなさに由佳は心の底から死んでしまいたいとすら願っていた。

死んで消えてなくなれば楽になれるのだろうか。

もしそうならそうしたい。

由佳にとって全てがあまりにも辛すぎて、もう何も考えたくなかった。

「お前の未来を俺が決めることは出来ない。知りたいと願ったのはお前なんだから、自分で判断して進んでいけばいい」

「・・だって、だってもうどうしたらいいのか分からないよ」

ボロボロと涙が頬を伝い落ちていく。涙に濡れたその声に、有美がこちらを向いた。

その表情は痛ましげに歪められていて、由佳は思わず息を呑む。


「・・・・本当にな」


有美は自嘲気味に呟くと再び由佳に背を向けた。

どうして有美の方がそんな傷ついたような顔をしていたのか。

どうしてそんな苦しそうに言ったのか。

ただその向けられた背は、苦しみもがいているようにも見えて、由佳はそれきり言葉をかけることが出来なかった。





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穂紬たちの過去を知っても由佳は何も出来ず、時間だけが過ぎていった。逃げているのだと分かってはいてもどうすることも出来なかったのだ。

そして何も解決しないまま、ついに母が出所する日がやってきた。

その日、朝から緊張した面持ちの由佳は家で待っていた。

昼を過ぎた頃にチャイムが鳴って、由佳はビクリと体を震わせる。そんな由佳の肩をギュッと抱いてから伯父が玄関へと立った。

隙間の開いた扉の向こうから話し声が聞こえてきて、やがて複数の足音がリビングへと近づいてくる。

由佳の心臓は口から飛び出してしまいそうなくらい、飛び跳ねていた。

カチャリと扉が開かれその奥から伯父、弁護士の和久利、そして母が入ってくる。

由佳の視線は母に釘付けだった。

会うのは十年ぶりだが、あまりに姿が変わっていたのだ。

こんなに年老いていただろうかと、由佳は目を見開いた。

「・・・由佳、ごめんなさいね」

母、千歳の声を聞くのも十年ぶりだ。

その声も記憶の中にあるものより少し老いている気がした。

「・・・お母さん」

「本当にごめんなさい」

俯いて立ち尽くす母に、由佳はどう声をかけていいのか分からなかった。

助け舟を出してくれたのは伯父だった。

「とりあえずかけて下さい、和久利さん。・・・・千歳もほら」

促されると千歳は由佳と対面する位置のソファに腰を下ろした。

ほつれた髪が顔の半分を覆い、表情は伺えない。

こんな人だっただろうか。記憶の中の母はいつも怖い顔をしていて、話しかけにくい雰囲気を纏っていた。しかし今目の前にいる母は弱々しく、目の前にいても存在感が薄い。

「由佳さん、あの件は考えてくれたかな」

優しげに目を細め、丁寧な口調で和久利が尋ねてくる。

由佳はチラ、と和久利を見てから目を伏せた。

「あの、どうしたらいいか本当に分からなくて・・・」

「まだ決められない?」

由佳は小さく頷いた。

「そうか・・・でも、簡単に決められることじゃないだろうから、ゆっくり考えて下さい」

「・・・・はい」

由佳は膝の上できつく手をきつく握り締めた。

自分がどうしたいのか、本当に何も考えられないのだ。

目の前に母が居ても、周りがサポートしてくれると分かっていても、素直に受け入れられない自分は歪んでいるのだろうか。

由佳はガラス越しに窓の外を見た。

青空は迫ってくるかのように低かった。

ああ、そう言えば明日から十二月になる。いつもならそわそわし出す時期なのに、今は心が重く沈んでいて、由佳は指先を動かすことすら億劫でならなかった。



十二月に入り一週間が過ぎた。

母が出所してから毎日夕食だけは一緒に取るようにしていた由佳も、少しずつではあるがぎこちなくも母を受け入れるようになり始めていた。

本当に母と一緒に暮らせるだろうか。

そんな考えを抱きつつも、けれどやはり決心はつけられないままだった。

誰かの後押しがあれば・・・そう考えた時、思い浮かべたのはやはり忘れられない人の姿。

もう随分会っていない。

結局あれきり穂紬とは会っていない。

由佳は携帯電話を取り出すとディスプレイに穂紬の番号を表示させた。

もう何度もこの動作を繰り返してはいつもかけることが出来ないまま終わっている。

通話ボタンを押すだけでいいのに、怖くてかけられないのだ。

由佳はため息をつくと終了ボタンを押した。

ピンポーンとチャイムの音が鳴り響き、由佳は携帯をポケットにしまうと玄関に向かった。

誰が来たのか確認もせずに由佳は玄関の扉を開けた。

「いらっしゃい、お母さん」

千歳ははにかんだ笑みを浮かべながらマフラーを取ると中へ入ってくる。

「寒かったわ」

「夜から雪だって、天気予報で言ってた。だから今晩はシチューにしようかと思うんだけど」

「・・・・いいわね。お母さんも手伝っていい?」

「もちろんよ」

「ふふ、シチューは得意なの」

リビングへ向かいながら他愛のない話をした。

実母だからなのだろうか、心が受け入れ始めているのを由佳は感じていた。

ぎこちなさは正直まだある、何せ十年以上も離れていたのだからない方がおかしい。

だけど数日を親子として過ごしたことで、母の存在はゆっくりと、確実に由佳の中に浸透してきていた。

結局、自分は家族の愛情に飢えていただけなのだろう。兄に嫌悪を抱くと、タイミング良く母と接する機会が出来た。だからそちらへ逃げてしまった。


ただ単に、自分は弱いのだ。


キッチンで母と隣り合って料理をしながら、由佳はふと母の手元を見た。

張りのない老いた手だと思う。ここまで老いているのは重過ぎる過去のせいなのか。

きっと、母も強い人ではない。

「・・お母さん」

「何?由佳」

「私・・」

ぐつぐつと鍋の煮える音が妙に耳に響く。シチューをかき混ぜながら由佳は視線を母に向けた。

逃げていては駄目なのかもしれない。

「どうしたの?」

優しく尋ねる母の眼差しは優しく柔らかい。幼い頃に向けられていたような、突き刺さるものではなく、それは由佳を包み込んでくれているようだった。

ジワリと心の中に温かいものが広がって、目頭が熱くなる。

この人は自分の母親なのだ、たとえどんな過去を持っていたとしても。

父を殺した人だったとしても。

幼い頃に突き刺さるだけの感情で接されていたのだとしても。

今は違う。

「ううん、何でもない」

誰かに頼って答えを導き出すのではなくて、自分で考えて、考え抜いて決断をする。

そうしなければならない時期が来ているのかもしれない。

もう守られてばかりの『子供』のままではいられないのだ。

由佳は心を決めた。

その晩、由佳は伯父たちと共に食卓を囲んでいる時、千歳と一緒に暮らしたいと告げた。

伯父たちは驚きを見せたが、最後には笑って頷いてくれた。

母は、泣いていた。



その週末に由佳は母と共に暮らすべく、かつての実家に戻った。

ずっと伯父が管理をしてくれていたので、今もそのまま住める状態になっていたのだ。

由佳の不安に反して母との生活は順調に始まった。

子供の頃と違い、母がいつも穏やかで笑っていたからかもしれない。

どうしてあの頃母はあんなだったのだろうか、そもそもどうして父を殺したのか。

暗黙の了解で由佳はその件には一切触れなかったが、考えてみれば父と母のことも何も知らないのだと気付いた。

それでもそのことだけは絶対に聞くまいと、心に誓った。


知らなくていいことがこの世界にはたくさんあると由佳は知っていたから。


母と暮らし始めて一週間が過ぎ、十二月も半ばになり年末も近づいてきたので二人で大掃除をすることにした。由佳はリビングと自室を、母は水周りと自身の寝室を。

午前中を使ってリビングの掃除を終えると、ふと母の姿が見えないことに気付いた。

「お母さん?」

家中を探すと、母は寝室に居た。

タンスの前に座り込み、手に何かを持っている。

呆然とした様子が見て取れて、不安を覚えた由佳は母に駆け寄った。


「どうかしたの?」


声をかけるが聞こえていないのか、母は無反応だった。

明らかにおかしい様子に由佳は肩を掴むと揺さぶった。

ガクガクとされるがままの母の手から、持っていたものが零れ落ちる。

それは指輪のケースだった。

どうしてこんなものが?・・・由佳は首を傾げた。

「・・・・・ぁなた」

掠れた声に、由佳が覗き込むと母は号泣していた。

大粒の涙を幾つも零し、しゃくりを上げると落ちた指輪ケースを拾い胸に抱き、蹲って泣き続けた。

由佳は困惑した。何故母が泣いているのか分からないのだ。

でも、胸に抱いている指輪のケースがその原因であることは容易に想像がつく。

落ちる時にちらりとケースの内側が見えた。

収まっていた指輪は母のものなのだろうか。

贈られたもの?誰に?父に?

「お母さん」

訳も分からないまま由佳は何度も母に呼びかけ、そして側に寄り添い続けた。

どれくらい経っただろうか。

ようやく嗚咽が止んで、母が顔を上げる。

その表情は妙にすっきりとしていて、憑き物が落ちたかのようだった。

「ごめんね、由佳。変なところ見せちゃったわね」

涙を拭いいつものように笑いかけてくる。由佳は母の肩に手をかけたまま、顔を覗き込む。

「本当に大丈夫?・・・それ、どうしたの?」

母は両手の中に指輪ケースを大切そうに握り締めている。

「・・・うん」

由佳の問いには答えず、千歳は立ち上がると持っていた指輪ケースをタンスの引き出しにしまった。

「もう大丈夫、ごめんなさい。さあ、掃除に戻りましょう」

「だけど」

「大丈夫だから。ほら、由佳おいで」

手招きしながらそう言って部屋を出て行く母の背を、由佳は無言のまま扉の向こうに姿が消えるまで見つめ続けた。少しの間立ち尽くしてから、由佳は母の後を追いかけるように部屋を出た。


母は、さっきの出来事は本当にあったのだろうかと思うくらいに何事もなく振舞っており、由佳は結局それきり何も聞くことは出来なかった。しつこく食い下がれば、全てが脆く崩れ去ってしまいそうな錯覚を覚えたからだ。

自分は不安定なものの上に立っているのかもしれない。

「・・・・・っ」

由佳は身震いした。

分かっていても、どうもなりはしないのだ。自分が選び取った答えなのだから。

「由佳?」

「・・あ、今行く」

思考を止め、由佳は母に向かってそう言うと笑みを浮かべる。そして母の元へ駆け寄った。



夕方に大掃除を終えてから二人で簡単な夕食を取ると、いつものように少しくつろいでから由佳は風呂を済ませた。

夜の十時を過ぎた頃だった。

「疲れたから私もう寝るね、おやすみ」

タオルで濡れた髪を拭いながらリビングに顔を出す。

「ええ。おやすみなさい、由佳」

ソファに座っていた母はそう言って笑って、手を振ってくれた。

その様子に由佳は「今日の事はきっともう何の問題もないのだろう」と安心してそのまま自室へと入ったのだ。


翌朝、目を覚ますといつものように由佳はリビングに行った。

ガチャリと音を立ててリビングの扉を開ける。

「おはよー」

返事がない。

そこは物音一つなく静まり返っていた。由佳は辺りをキョロキョロと見回す。

てっきり母が居るものだと思っていたのに、そこに千歳の姿がなかった。

一緒に暮らし始めてから一度もこんなことはなく、何故か由佳の胸に言いようの知れない不安が過ぎていく。

「お母さん、まだ寝てるの?」

母の寝室へ行くがそこにも姿が無い。

「お母さん、どこ?」

由佳は手当たり次第に探した。

家中の部屋という部屋を全て確認したが、しかしどこにも母の姿はなかった。

由佳は最後に浴室へと向かった。探してないのはもうそこだけだったのだ。

脱衣所の扉を開くと中から水音がしてきて、シャワーを浴びているのかと安心したがすぐに様子がおかしい事に気がついた。

浴室の扉が少し開いているのだ。

「・・・・お母さん?」

恐る恐る近づくとムッとした、鉄のにおいが鼻につく。由佳は震える手で浴室の戸を開けた。

そこに母はいた。

湯を張った浴槽に腕をつけ、そこにもたれかかるようにしている。

辺りは一面真っ赤に染まっていた。

何が起きているのか、由佳には一瞬理解出来なかった。

「ぉ母さん!」

動かない体に飛びつくと、千歳の体はずるりとその場に崩れ落ちてしまう。

由佳の頭の中はパニックになって、どうしていいのかもう分からない。


「いや、いや!やだよぉ・・・・誰か・・・、誰か助けてよぉ!」


泣き叫びながら由佳は風呂場を飛び出しリビングに行くと、そこに置いておいた携帯を震える指で操作した。誰にかけているかなんて分かっていなかった。

ただ、繋がって欲しい、それだけを考えて電話をかけた。

呼び出し音が数コール鳴って、相手が出た瞬間。

「お願い助けて、お母さんを助けて!」

相手が誰かも分からないまま、泣きながら叫んでいた。





------------





一時間後、由佳は病院の手術室の前のベンチで震えていた。

「大丈夫だよ」

そう言って優しく手を握り締めてくれるのは、穂紬だった。

穂紬は泣きながら突然電話をかけてきた由佳に動じることも無く冷静な対応をしてくれた。

由佳の家の場所を聞き出し救急車を呼び、すぐさま駆けつけてその対応もしてくれた。

そして泣いて動けずにいる由佳を励ましここへ連れてきてくれて、病院に着いてからもずっと側に付き添ってくれていた。

千歳は腕の動脈を切り裂いており、病院に着いた時には危険な状態だった。

運ばれたのは榊の勤めている病院で、丁度居合わせた榊が迅速に対応をしてくれ、すぐに手術室へと運ばれていくその姿を由佳は扉が閉まるまで見続けた。

直後、手術中のランプが赤く点る。

まるで夢を見ているかのような、そんな気持ちのまま、穂紬に促され側にあったベンチに由佳は腰掛けた。

身動き一つ取れなくて、固く目を瞑ると握り締めた両手に額を押し当てた。

由佳は祈った。こんな時ばかり神頼みをするなんて、調子が良いと思われても他に縋るものは無い。


神様。神様。神様、どうかお母さんを助けて下さい。

由佳はただただ、終わりなく、祈り続けた。


手術が終わったのはそれから三時間後のことだった。

由佳にとって恐ろしく長い時間だった。

手術中のランプが消え手術着をまとった榊が手術室から出てくる。

由佳は咄嗟に立ち上がった。精悍な顔に少しの疲労が見える。

そう言えば榊にもすごく久しぶりに会った気がする。

こちらへと歩み寄ってくる榊は、由佳の目の前で立ち止まった。

「とりあえず危機は脱した。・・・・・・よく、頑張ったな」

「・・・・先生」

「まだ油断は出来ないが、必ず助けるから安心しろ」

力強い言葉に安堵を覚え、由佳は涙を流した。

何度も頷きながら嗚咽を漏らしていると、くしゃりと髪を撫でられる。

顔を上げると榊が優しい眼差しで由佳を見ていた。

「先生?」

「・・・・いや」

手を放すと榊はそのまま立ち去っていった。

「由佳ちゃん、少し休もう」

穂紬にそう声をかけられ由佳は顔を上げた。

笑みを浮かべる穂紬に、由佳は涙を拭いやっと笑いかけることが出来た。

「穂紬さん、本当に、ありがとう」

「僕は何もしてないよ」

苦笑し手を振る穂紬だったが、由佳一人だったのなら恐らく母は手遅れになっていたのだと思う。

廊下の先へと向かっていた穂紬がふとこちらを振り返り、小さく手招きをしてくる。

由佳はその後を小走りに追いかけた。

そのまま二人で待合室に移動すると、自販機で穂紬が飲み物を買ってくれた。

手渡されたのは温かいココアで、由佳はそれを見つめひっそりと微笑んだ。

「あ、勝手に選んだけど・・・大丈夫だった?」

「うん、大丈夫。これ好きです」

「それなら良かった。」

まだ越えなければならない壁がある。

だけど、今だけは穂紬とこうしていたくて由佳は口を噤んだ。

「一つ、聞いてもいいかな?」

ポツリと言葉が発せらる。

彼は、少し険しい顔つきをしながら、苦しそうにこう言った。

「お母さんはどうして自殺未遂を?」

「・・・・どうしてって」

由佳は真っ直ぐに穂紬の目を見つめた。

「私には分からない、でも」

「でも?」

由佳は昨日のことを脳裏に鮮明に思い起こした。

「昨日、家の大掃除をしてた時、少ししたらお母さんの姿が見えなくなったの。だから探して、そうしたらお母さん自分の寝室のタンスの前に座り込んで指輪の入ったケースを握り締めて泣いていたの」

穂紬は真っ直ぐに由佳を見つめ、その言葉を聞き続ける。

「他に、おかしい所はなかった。だから、きっとあの指輪が理由なんだと思う」

母を自殺にまで追いやったあの指輪がなんだったのか由佳には分からない。

けれどどうしてだろう。

嫌なものには思えないのだ。

だって母はとても大切そうにケースを握り締め胸に抱いていた。

「そうか、お母さんは指輪を見つけたのか」

由佳から視線を逸らすと穂紬は短く息をついた。そしてうな垂れるときつく目を閉じてしまう。

穂紬の言葉に由佳は引っ掛かりを覚えた。

「穂紬さん、何か知ってるの?」

しかし問うても穂紬はうな垂れたまま。微かに口元が何かを呟くのが見えたきり、彼は少しの間固まって動かなくなってしまう。

由佳は待った。

いつも彼がそうしてくれているように、黙ってジッと穂紬を見つめていた。

「以前・・」

「え?」

抑揚の無い小さな呟きに、由佳は身を乗り出す。

膝に置いたままの穂紬の腕をそっと掴み、吐息が触れ合う距離にまで身を寄せた。

そうしなければ、彼の声はあまりに小さくて聞き取れなかったのだ。

「以前、君のお母さんの精神鑑定をしたことがある」

「・・・精神鑑定って、穂紬さんが?」

「ああ。とは言ってもちゃんとしたものではなくて、君のお父さんの言葉を・・・・お母さんに伝えたんだ。夢に見せて」

穂紬はそう言った。

「待って。穂紬さんもお医者さまなの?え、ちょっと待って・・・それじゃあ、穂紬さんはお母さんのことを知っていたの?」

「由佳ちゃん」

「待って、待ってよ。・・・・一体、何がどうなってるの?」

あまりの混乱に、由佳は取り乱してしまう。思いがけず涙が零れ落ちてしまい、慌ててそれを隠すように手で目元を覆ったが、穂紬には見られてしまった。

「由佳ちゃん、落ち着いて」

自分の腕を握り締めていた由佳の手をそっと掴むと「全部話すから、ゆっくりと息をして、気持ちを落ち着けて欲しい」そう言われ、由佳は空いた手で涙を拭うと顔を上げ、浅い呼吸を何度か繰り返した。

図らずも穂紬と見つめあう形になり、由佳は向けられる視線を真摯に受け止めた。

「ごめんなさい、もう大丈夫です」

「由佳ちゃん」

「全部、聞かせて下さい」

知らないままでいいなんて目を背けることと同じなのだ。

もう現実から目を逸らさない。由佳はすべてを知る覚悟を決めた。

そんな由佳の決意を感じたのか、穂紬は表情を和らげると口を開いた。

「僕はね、今の仕事を始める前は精神科医だったんだ」

「穂紬さんもお医者様だったの?」

「二年前まではね。今はもう医者じゃあないよ」

穂紬が過去に精神科医であった事実を知り由佳は驚いた。

しかし言われてみれば彼の知識の豊富さもそうであるし、何より自分も以前穂紬に心情を吐露し泣いたことがあった。それは穂紬が精神科医である為であるのなら納得がいった。

「今は弟と会社を経営してるって言ったよね?」

「聞きました・・・人に夢を見せてあげるお店でしょう?」

「あれ、誰かから聞いた?」

苦笑する穂紬に対し、由佳は曖昧に頷いておいた。

すでに自分がそれを体験しているなんて、きっと露ほどにも思っていないのだろう。

穂紬も想定していたのか特に追求もせず、むしろ「それなら話が早い」とばかりに語りだした。

由佳は長ソファに穂紬と隣りあわせで座りながら、そこで父と母の事件のことを聞かされた。

何故母は父を殺したのか、その経緯と動機の全てを。


そもそも由佳の父と母の結婚は政略的な要素を含んでいた。

だから母は初めから父が自分のことを愛していないと思っていたようだった。

けれど実際には、父は母を深く愛していた。

それを上手く表現出来ず時間だけが過ぎてしまい、そこへいくつもの誤解が重なってしまった頃、父が事故で半身不随の寝たきりになってしまったのだ。


後遺症でろくに口もきけず会話が持てなかったのも悪かった。

せめて口さえきけていたら、あんなことにはきっとなっていなかったと、穂紬は悲しそうに言った。

愛されていないと思っていた母は父の介護が苦痛だった。

だから、殺してしまった。

浅はかで稚拙な理由だと、誰もが思ったのだろう。

千歳自身もそんな自分を十分に分かっていた。

だから裁判で何も反論しなかったし、反省も見せなかった。


「君のお父さんはね、お母さんとやり直したいと思っていたんだ。だから結婚記念日に当たる日に渡そうと指輪を買っていた。その時に、ちゃんと『愛してる』と言おうと思っていたんだよ。でもその前に事故に遭って渡せなくなってしまった。僕は君のお父さんのその言葉を聞いて、お母さんに夢で伝えた。それが裁判が結審する前のことだ」

由佳は宙を仰いだ。目じりから涙が零れ落ちていく。

母は夢の中で父が言った通りの場所に指輪があったことに愕然としたのだろう。

そして、やっと自分の犯した罪の重さを知ったのだ。

自分を愛してくれている人を手にかけてしまった。

今更その事実を突きつけられて、どれほどの絶望を覚えたのか。

もしそれが自分のことだったのなら、由佳はきっと自分も耐えられないだろうと思った。

「お母さんが犯した罪はとても大きい。だけど、生きてさえいれば必ず罪は償えるんだ・・・死んでは駄目なんだよ」

穂紬の言葉を聞きながら由佳はココアの缶に口を付けた。

生きていれば罪は償える、それがどんな罪であっても。

それなら兄はどうなるのだろうか。兄の罪は償えるものなのだろうか。

「・・・穂紬さん、私・・」

「ん?」

「・・・・・・・ううん、何でもない」

由佳は目を閉じた。

この人が兄を許す日は来るのだろうか。許して欲しいとは言わないし言えないけれど。

ただいつか終わる日が来ればいい、母のようにならないで欲しいと、由佳はそう願わずにはいられなかった。




あれから一週間が経った。

母の見舞いに病院へ行くと廊下で偶然香織に会ったので一緒にICUに向かった。

香織の話によると母の容態は安定してきているようで、もう大丈夫だから心配ないと聞かされ由佳は素直に喜んだ。

病室に着いても中には入れないので由佳はガラス越しに眠る母を見つめた。

少し顔色が良くなっている気がした。

「最近お兄さんのお見舞い来てなかったけど、何かあった?」

「・・・・」

「榊先生がすごく心配していたわ。それに会えなくて寂しかったみたい」

「え?」

「定期的に由佳ちゃんが来てないか私たちに確認取ってたわよ」

そうなんだ。由佳はぼんやりと思った。

榊にも酷いことを言ったのに、そんな風に思ってくれていたなんて。

由佳は熱くなる目頭を押さえると香織に笑いかける。

「心配かけてごめんなさい、お母さんも居るし、またお見舞い来ます」

由佳がそう言うと香織は優しげに微笑み、

「でも受験生なんだから無理しないで程ほどにね」

と、小さくガッツポーズをした。

仕事があるからと香織が立ち去ると、由佳は一人その場に立ち尽くした。

香織にはああ言ったけれど、兄の過去の罪を知ってからは一度も会いに行っていない。


正直、今までのように兄を見られるか不安だった。


兄のしたことは女としても家族としても許せないという気持ちが未だに強いのだ。

いつまでも現実から逃げていたらいけないと分かっていても、会いに行く決心はつけられなかった。

「お母さん、私どうしたらいい?」

ガラスの向こうで眠り続ける母に、由佳はそっと問いかけた。

しかしいつまで待っても返事はない。当然だ、母はまだ深い眠りについているのだから。

由佳は小さくため息をつくと、踵を返そうとした。

視線を動かすと廊下の先に黒い人影が見えて、動きを止める。

「・・・・榊先生」

榊も由佳に気づいたのか足を止め、その場に立ち止まった。

榊は一度視線を逸らすように壁に目を向け、再びこちらを向いた。

逆光でその表情は見えにくかったが、口元に笑みが浮かんでいるようにも見える。

「見舞いか?」

榊がゆっくりと由佳に近づいてきた。きゅ、きゅ、とスニーカーのゴムの音が静かな廊下に響いている。

榊は由佳の目の前に立ち止まると持っていたファイルで自身の肩をトン、と打つ。

そこに居るのは、自分がまだ何も知らなかった頃と同じままの、大好きな。

「榊先生」

「容態は安定したぞ。もう大丈夫だ」

「あ、うん。さっき香織さんから聞いたよ」

「そうか」

ゆっくりとした足取りで由佳の横に並ぶと、二人はガラス越しに静かに眠る千歳を見つめた。

そこはとても静かだった。聞こえてくるのは機械の音と、遠くの喧騒だけ。

毎日兄のお見舞いに来ていた頃は、学校であったことや友達の事を榊にもしゃべっていた。

下らない話を榊はいつだって笑いながら聞いてくれていた。

今は何を話したらいいのだろう。

由佳は両手で窓ガラスに触れ、眠る母を見つめ続けた。

この時、榊と接したからだろうか。

由佳の中に一つの思いが込み上げていた。

穂紬に会った時も香織に会った時にも、そんなこと、思いもしなかったのに。

ずっと父のように思っていた。

それだけ慕ってきた。

本当に長い間、一緒に居た。やっぱり好きなのだ、そして信頼しているし頼りたいし、甘えたい。

「先生」

「おう」

いつもと同じ榊の返事に、由佳はホッとした。

「・・・先生、お母さんを助けてくれてありがとう」

「ん?なんだ、急に。医者が患者を助けるのは当然の事だろう」

呆れたような声に、由佳は少し笑ってからガラスに触れている手をギュッと握り締めた。

「本当にありがとう」

「由佳?」

「嬉しいの、お母さんが助かって。本当に心の底から嬉しいって思ってる・・・だけど」

 榊に会った事で自分の中にある一つの本音が、心の中で渦巻き始めて、チクチクと心を刺すのだ。

「だけど何だ?」

遠慮も衒いもなく自分の言葉を追ってくる榊に、由佳は言葉を詰まらせた。

コツ、とガラスに額を押し当てる。

こみ上げてくる熱いものを抑えきれず、由佳は一粒の涙を流した。

「お母さんはどうして自殺を選んだんだろう」

「・・・」

「私が居るのに、死ぬことを選ぶの?二度も私は捨てられたの?」

「由佳」

「私が居るから、乗り越えようって思ってくれなかったのかな・・ねえ、先生」

由佳は言葉を切ると泣き顔のまま、笑った。

榊はそんな由佳を見てきつく眉を寄せると、無言のまま強い力で細い肩を掴んだ。

「・・・泣くな」

低い声と共にグッと引き寄せられ、由佳は榊の胸の中に抱き締められる。

「すまん」

強く抱き締められていた由佳には、榊の声はくぐもって聞こえた。

だからだろうか、どこか悲しげだった。

「どうして先生が謝るの?」

「俺はお前を苦しめてばかりだ」

「苦しめてばかりって、先生は何も」

「お前の苦しみの元凶は全て俺にある。こんなことになると知っていたら・・・」

そこで言葉を切ると、榊はゆっくりと由佳の体を離した。

顔を上げると榊が表情を曇らせている。

由佳には榊の言っている言葉の意味が理解できなかった。

「せんせ・・」

「知っていたら、やらなかったのにな」

「・・・?」

「こんなことになると知っていたら・・・俺は」

榊は苦しげに顔を歪めた。由佳はずっとその表情から目を逸らせなかった。

由佳は次の言葉を待った。

けれど、どれだけ待ってもそれきり榊の口からその言葉の続きは出てこなかった。

サッと由佳から目を逸らすと榊は千歳を見やる。

「由佳」

「・・・何?先生」

「あいつが好きか?」

「あいつって・・・」

「穂紬が、好きか?」

「!・・・急に何を・・」

突然の質問に由佳は戸惑う。

意図せず頬が赤くなっていくのを、熱さで自覚しながら、口ごもっていると、由佳には視線を移さないまま榊は苦笑を浮かべた。

「好きなのか?」

尋ねる横顔は穏やかなそれでありながら、鋭利に尖っているようでもあった。

それでも視線を外さずに、由佳は何度か唇を戦慄かせると、思いを紡ぐ。

「うん・・・好き、穂紬さんが好き」

由佳は正直に答えた。何より言葉にすることで、ずっと曖昧なままになっていた気持ちが、自分の中ではっきりと形になった気がした。

「全く・・何だってよりにもよって」

困ったような、呆れたような。そんな榊の声音に由佳はハッとして、自分の髪を一房掴んだ。

毛先をもてあそぶ様に指先を絡める。

「・・・私みたいな子供が好きって言っても、困るよね。穂紬さんは大人の男の人だし」

「別にそんなことは言っちゃいないさ。俺が言いたいのは、いつだって神ってやつは、こっちが困るような道ばかり用意しやがるってことだ」

「かみ?・・・かみって」

榊は真顔を由佳の方へ向けると皮肉に顔を歪めた。

「神様のことだ。由佳、お前は信じてるか?」

「・・え?っと・・たぶん、信じてる、と思う、けど」

「そうか。俺は信じてない。目の前に居たら、間違いなく殴り飛ばしてやるよ」

 吐き捨てるような言葉だった。

「先生は、神様が嫌いなの?」

 榊は沈黙した。一度、深く息を吐くと、

「嫌いなんじゃない」

「じゃあ、何?」

「・・俺は神が憎いんだ」

確かな拒絶である言葉と、そう言い放つ榊の表情は由佳の知る榊ではなかった。

剣呑な雰囲気を纏う榊だったが、しかし由佳はその姿に別の人間を重ねて見てしまった。

有美に彼らの過去を見せてもらったあの日、最後の一言を放った彼と同じに見えたのだ。

あの時の有美はとても辛そうだった。

今、目の前の榊も同じ表情をしている。「先生は苦しんでいるの?」と、尋ねようとしたが由佳は言えないままに口をつぐんだ。

そこは恐らく自分が踏み込んではならない領域に思えたからだ。

「穂紬も俺と同じだ」

「え?」

「いや、どちらかと言えばあいつの方がより一層、だろうな」

神を憎む。そんな感情なんて抱いたことすらない。

由佳は榊の言葉に何と返せばいいか分からず、グッと手の平を強く握り締めた。

「あいつの心は暗く深い所にある。引き上げるのは容易ではないだろうし・・引き上げたとしても支えるのはきっと辛い。それでもあいつを好きだと言うか?」

「先生、私・・難しいことはあまり分からないし支えるとか出来るかどうかも分からない、だけど穂紬さんが好き。穂紬さんを助けたいの」

一つのよどみなく由佳は言った。

榊は少しの後「そうか」と穏やかな笑みを浮かべ、由佳の頭をぐしゃぐしゃとかき乱した。

最後にポンポンと撫でつけると、まるで「行け」とでも言うかのように由佳の背を押した。

「せんせ」

一歩を踏み出した由佳は振り返った。

「何だ?」

「ありがとう。私、先生と出会えて良かった」

「・・・由佳」

「先生が居てくれなかったら私きっと駄目になってた。本当にありがとう」

 由佳は満面の笑みを浮かべた。

「先生、大好きよ。これからもずっと一緒に居てね」

 僅かに目を見開いた榊は次いで苦笑いを浮かべた。

「医者と長らく付き合うのはあまり喜ばしいことじゃないんじゃないか?」

「いいの!それじゃあまたね」

手を振って、踵を返すと由佳は廊下を歩き出した。




榊と別れた後、兄に会いに行く気持ちになれず由佳は病院を後にした。

けれど真っ直ぐ帰る気にもならなくて、無意識に中庭の噴水へと向かってしまう。

地面に視線を落としながら歩いていた由佳は、やがて聞こえてきた噴水の水音に顔を上げた。

いつも穂紬と待ち合わせに使っていたベンチ。

そこにいた人物に、由佳は目を見張る。

「・・・・・・穂紬さん」

そこには穂紬が座っていた。穂紬もまた由佳に気付いたのか驚いた顔をしている。

由佳は黙ってベンチに近づいた。

「こんにちは」

「・・・・こんにちは」

促され、そのまま隣に腰を下ろす。

「お母さん、容態が落ち着いたみたいだね」

「あ、はい。この間は突然連絡してごめんなさい。本当に、ありがとうございました」

深く頭を下げると穂紬は「いいから」と頭を上げるように由佳の背に手を添えてきた。

「僕じゃなくて・・礼は榊に言ってやって欲しい。あの日あいつ本当は非番だったんだ。僕が連絡をしたら飛んできてくれて、手術をしてくれた。多分榊でなければお母さんは助からなかったと思う」

由佳は目を見開いた。

あの日だって、さっきだって、榊はそんな素振り一つ見せなかったから気付きもしなかった。

「どうして」

「・・僕が思うにね、きっと君に自分の妹の姿を重ねているんじゃないかと思うんだ」

穂紬は遠い眼差しで空を見上げた。

その視線の先にはきっと由妃奈がいるのだろう。

その様子に由佳の心は揺さぶられた。


もう、言わなければ。


「穂紬さん、私あなたに謝らないといけないことがあるの」

これ以上先延ばしにしていてはいけない、と。そう思うより先に言葉が口をついて出ていた。

「謝るって、何を」

「たくさん、謝らないといけないの。私、あの日、何も知らないで穂紬さんと先生に酷いことを言ってしまった。穂紬さんたちは悪くなかったのに」

「・・由佳ちゃん?」

まくし立てる由佳に、穂紬は怪訝そうに首を傾げた。

真後ろにある噴水の水がザアザアと流れる音に、妙に意識を引っ張られる。

少しくらくらする頭で、語るべき言葉を探し出し、由佳はゆっくりとそれらを唇に乗せた。

「私、あなたに無断で・・・兄と穂紬さんたちの間に何があったのかを、知りました」

穂紬から表情が消えた。その様子に、由佳が過去を知った事実を有美から聞かされていなかったのは明白だった。

「ごめんなさい・・・謝って済むことじゃないって分かってるけど」

「・・・・・・」

「許してとは言いません。勝手に知ったことも、兄が由妃奈さんにしたことも・・許されるべきことじゃないって分かってます」

しゃべりながら由佳は次第に自分の声が涙に濡れてくるのを必死で堪えようとした。

「本当に・・・ごめんなさい。ごめんな、さい・・・私」

いくら謝ったところで由妃奈は戻ってこないし、過去は変えられない。

それでも由佳は謝らずにはいられなかった。

今も心から血を流している穂紬の苦しみなんて、由佳には計り知れない。

最愛の恋人をあんな風に奪われたら誰だって激昂するに決まっている。


それなのにこの人は。


「・・いや、由佳ちゃんが謝る必要なんてないよ。むしろ謝らなきゃならないのは、僕の方だ」

「穂紬さん」

「あの男にも家族が居るって、考えもせず・・・浅はかなことをしてしまった。十年以上も君を苦しめてしまって・・・本当に申し訳ないと思ってる」

肩を落とす穂紬に、由佳は何度も首を振った。

堪えていた涙が散る。

この人は一体どこまで心優しい人なのだろう。

全ての責がまるで自分一人にある、とでも思っているのか。


そんな訳ないのに。

あなたは何も悪くなんてないのに。


由佳は歯を食いしばって、込み上げる嗚咽を殺した。

「穂紬さんは悪くない、悪いのは兄だし、それに・・・兄の入院費を払ってくれてるって聞いたわ。本当に酷い人なら、そんなことしないよ」

由佳の言葉に穂紬はのろのろと顔を上げ、頼りない笑みを浮かべる。

ほんの僅かな時間で、驚くほど憔悴しきった顔になっていた。

微かに笑って見えるそれは、自虐的なものでしかなく、由佳は心を痛めた。

「みんな聞いたんだね・・・有美から?」

由佳は頷いた。

「由佳ちゃん、君がどう思っているかは知らないけど・・・僕はそんないい人じゃないよ。あの男の入院費を払っているのだって、善意なんかじゃない。ただ、長く生きれば生きるほどあの男の苦しみは続く。継続させる為だけなんだ・・・だから間違っても良い風には取らないで欲しい」

淡々とした口調だった。あえて感情を殺している、そんな印象すら受け、由佳は眉を顰めた。

それを言葉通りに受け取るわけにはいかないのは、穂紬を見ていれば分かる。

由佳自身も苦しんだ年月だったけれど、それは穂紬の比ではない。

一体どれだけ苦しんできたのだろう、この人は。

再び背を丸くし顔を覆ったまま動かない穂紬の背に、そっと手を押し当てた。

涙が溢れて止まらなくて、嗚咽を噛み締めながら由佳はその背をさすり続けた。

 どうして神様はこんな辛い思いばかりをこの人にさせるのだろう。

もう解き放って欲しい、この終わりのない苦しみから穂紬を解放してあげて欲しかった。

「・・・・っ」

突然、何かの啓示が下ったかのように一つの考えが由佳の頭に描かれた。

考えるまでもない、方法なんてたった一つしかないのに。

「穂紬さん」

由佳はしっかりとした口調で呼びかけると、穂紬の上体を起こさせた。

真っ直ぐに穂紬の目を見つめると、言った。


「兄を、目覚めさせて下さい」




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泣き濡れた顔でそう言う由佳を僕は呆然と見つめた。

言葉の意味を理解したくても、脳が麻痺してしまったように働かないのだ。

「目覚めさせる・・」

あいつを?言葉にするとやっとその意味が理解出来た。

だから僕は首を振った。

「それだけは、出来ない。あいつを許すなんて僕には」

「兄を許して欲しくて言ってるんじゃないわ。・・・だって、穂紬さんの方がずっと苦しんでるじゃない」

「・・・由佳ちゃん」

「兄なんて許さなくていい、そうじゃなくて・・・・私はもう穂紬さんに苦しんで欲しくないの。こんな穂紬さん見ていられないの」

きっぱりと言い切る由佳は偽りの無い真っ直ぐな目で僕を見ていた。

「兄を目覚めさせれば、あなたの中の負い目や苦しみは無くなる。そうでしょう?だったらそうすればいいじゃない」

木枯らしが吹く。もう十二月の寒空の下、その風は冷たく凍えてしまいそうだったけれど、僕のぼんやりとした頭をはっきりとさせてくれた。

由佳を、彼女を守ってあげなければならない存在だと思っていた。

しかし全ての事実を知ってなお由佳はそれを乗り越え、反対に僕に救いを差し伸べようとさえしてくる。


僕は苦しかったのか。


由佳に言われて、僕はその事実にやっと気がついた。

ずっと考えないようにしてきたことだった。

自分のしたことを否定したくなくて、長い間目を瞑っていた。

逃げていては駄目なのだ。

こんな少女でさえ辛い現実を受け入れて、立ち向かおうとしているのに、いつまでもいつまでも大の大人が逃げ回っているなんて。

「君は僕を許してくれるのかい?」

僕は由佳の方へ向き直り、真正面から彼女を見やる。

由佳は済まなさそうに一度目を逸らしたが、次には真っ直ぐ僕の目を見つめ返した。

強い輝きを持った、美しい目をしていた。

強いその眼差しに、心臓が強く脈打つ。

急速に、そして強烈に心と体が惹きつけられてゆく。

「穂紬さんが許して欲しいなんて言わないで。私、自分がすごく勝手なこと言ってるの、分かってます。兄が目を覚ましたらもっと嫌な現実になるかもしれない、そしたら穂紬さんもっと苦しむかもしれない。・・だけどこのままじゃ誰も前に進めないよ」

「由佳ちゃん」

「兄が目を覚まして、何も変わらない卑劣な人間のままだったら、私がぶっ飛ばしてやるわ。だから」

僕は目を丸くした。由佳の口からぶっ飛ばすなんて言葉が出てくるなんて思ってもみなかったからだ。

「だから兄を目覚めさせて。全部終わらせて、前に進もう」

「・・・・・」

何て簡単な解決方法なんだろう。言葉も出てこない。

今まで小難しく考えすぎていたのだと、僕はこの時やっと気づかされた。

真正面からぶつかって行けば良かっただけなんだ。

ただそれだけだったのに、僕たちはあまりにも現実を捻じ曲げ、遠回りをしすぎてしまっていた。

何て馬鹿なガキだったんだろう、あの頃の自分が気づいていれば、こんなことにはなっていなかった。

ふつふつと体の奥底から笑いが込み上げてくる。

「ははっ、・・・あはははは!」

耐えられなくなると僕は盛大に吹き出した。

そのまま声を上げて笑い続け、仕舞いには目に涙さえ浮かべてしまう。

僕たちはなんて愚かだったんだろう。

こんな少女でさえ本当はどうすればいいのか分かっていると言うのに。

初めからきっとそうすれば良かったのだ。

「ああ、本当に、そうすれば良かったんだ。・・・ははっ、ぶん殴っていたらすっきりしたんだろうな」

初めから僕たちは間違えていた。

それならば、苦しむのは当然だ。

由佳はキョトンとしながらも、笑い続ける僕につられてしまったのか、いつしか一緒になって笑い出していた。

ひとしきり笑うと疲れてしまい、二人してベンチの背もたれに体を預けた。

そのまま空を見上げると季節に不釣合いな青空がどこまでも広がっている。

「腹の底から笑うなんて、いつぶりだろう」

「・・・私も」

自然な動作で、僕たちはベンチの上で手を重ねた。

冬の空気に晒されて互いの手は冷たかったけれど、温かい何かが伝わったような気がする。

「明日、全部終わらせよう」

斉木和真を悪夢から解放する。

その結果がどうなるかは誰にも分からないけれど、きっともう全てが限界を迎えていたのだ。

それなら、終わらせなければならない。

 そしてまた、歩き出せばいい。

「・・・・・うん」

どちらからともなく僕たちは重ねた手を繋ぐと、強く握り締めあった。



明日の約束をして由佳と別れた僕は、その足で榊の元へ向かった。

榊にだけは伝えておかなければならないからだ。

ナースステーションで榊の居所を聞きだし、その場所へと向かった。

探すまでもなく、斉木千歳の居るICU室内に榊の姿はあった。

ベッドに横たわる千歳を見下ろす眼差しは、暗く悲しんでいるように見える。

もう容態は安定しているはずなのに、何か不安要素でもあるのかと考えながら、僕はガラスをノックした。音に気付いた榊が振り返り僕に気づくと、マスクに手をかけながら廊下に出てくる。

「何だ」

マスクを取った榊は、すでにいつもと変わらない表情に戻っていた。

さっきのは気のせいだったのだろうかと思いつつ、僕は言った。

「明日、斉木和真を解放するよ」

「・・・・・・・そうか」

反対されるだろうと高を括っていたが、長い沈黙の後、予想外に榊の反応はそれだった。

いつだったか、現状を変えるなと高圧的に言って来た時とはまるで違う反応に僕は違和感を覚える。

「・・・反対しないの?」

「俺が決められることじゃあないだろう。あれは、お前と有美が決めて実行した事だ。本来なら俺にどうこう指図する資格はない」

「だけど、僕たち以上にあいつを憎んでいたし、以前は止めてただろ」

「ああ。どう足掻いても、俺はあいつを許すことは出来ない。そりゃそうだろう、何せたった一人の妹を殺されたんだ。止めるに決まっているだろう」

「それならどうして」

「お前があの子と出会ってしまった時からこうなると思っていたからだ」

榊の言う「あの子」が誰を指しているかなんて、聞くまでもない。

「それに目覚めさせたらさせたで色々と方法はあるしな」

「・・・それって」

引っかかる物言いをする榊に僕は言葉を続けようとした。

けれど丁度その時、榊の院内用の携帯がけたたましい音を鳴らし始めてしまい、そこで会話は途切れてしまった。

榊が携帯に出る直前に言った。

「斉木千歳はもう大丈夫だ。安心しろ。・・・あと、明日帰る前に俺の所に寄れよ」

「どうして」

「結果報告くらいしてくれたってバチは当たらんだろう?」

そう言うと、じゃあなと手を振り行ってしまった。

「何なんだ」

マイペースにも程がある。

僕は苦々しく呟いてから、もう一度だけ斉木千歳を振り返った。

昏々と眠り続ける千歳は今、どんな夢を見ているのだろうか。

幸せな夢だろうか。

だけど、夢は所詮夢でしかない。

「起きて下さい、ここでは、あなたは一人じゃないんです」

だから、生きて行って下さい。

誰にも聞こえない言葉を呟いて、僕は静かに一歩を踏み出した。




静かに全てが動き出そうとしていた。

終わりへと向かう為に。









その日。僕は有美と二人で病院へやってきた。

昨日、僕が「斉木和真を目覚めさせる」と告げると、すんなりと有美はそれを聞き入れた。

きっと僕と同じで思う所があったのだと思う。

こんなにずっと近くに居たのに、僕たちはまるで別々の方向を見ていた。

行き詰るのは当然だったのだと、客観的になって初めて気づいた。

由佳と落ち合うと僕たちは真っ直ぐに斉木和真の病室へと向かった。

病室に入ると僕は斉木和真が寝ているベッドの横に立つ。

不思議と込み上げる怒りはなくなっていて、穏やかな気持ちでいられた。

有美が斉木和真の額に手を当て、しばらくそのままでいる。

数分だっただろうか、手を放し「終わったぞ」と告げるとさっさと病室から出て行ってしまった。

本当にこれだけをする為だけにここへ来たのか。

僕は呆気に取られながら苦笑した。

「・・・穂紬さん、本当に?」

由佳もそう思ったのだろう、おずおずと僕に確認をしてくる。

「有美がああ言うのなら、もう終わってるはずだよ。あとは、目を覚ますのを待つだけなんだけど・・・それがいつになるかは、僕たちにも分からない」

有美がこの男にどんな悪夢を見せ続けたのかは知らない。

しかし。

僕はこの時一つの仮説を頭の中に立てていた。

もしかすると。

眉を潜めていると、ふと肘の辺りに手の触れる感触を覚え、見ると由佳がそこを頼りなげに掴んでいた。

「だけど、いつか目を覚ますんでしょう?」

「ああ、いつかはね」

変わらず、静かに眠り続ける斉木和真に僕は哀れみの眼差しを向けた。

僕もこの男と同じだ。

一人の一生を滅茶苦茶にしてしまった。


それは決して許されはしないだろう。


「それじゃあ私、今度はお母さんの所へ行ってくる」

「ああ、いっておいで」

「いってきます」

嬉しそうに頷いて、由佳は弾むようにパタパタと足音を立てて今度は千歳の病室へと行ってしまった。

僕はもう一度だけ斉木和真を見下ろす。

こんなにも自分の中に何の感情もないなんて不思議としか言いようがない。

長い間苦しみ続けてきたこの現実が終わって、違う現実が始まっていくのだから、心が晴れるだろうと考えていた。

でもそれすらもない。何も感じないのだ。

斉木和真への怒り、それは僕の中の由妃奈への思いと直結していた。

その怒りを解くことはつまり彼女への気持ちも終わらせてしまうと言うことにとても近いのかもしれない。

「・・・由妃奈」

僕は本当に終わらせたかったのだろうか。

矛盾する心があった。

不意に妙な怒りのような感情が込み上げてきて、僕は服の上から自分の胸を掻き毟った。

それでも収まらず、斉木和真の横たわっているベッドを拳で殴りつける。

「・・・・・・はは」

僕は生きていて、由妃奈・・君は死んでいる。

埋まることの無いこの溝を僕はどうやって乗り越えて行けばいいんだろう。

好きな気持ちがなくなったなんてことはないし、君を忘れる日が来るなんて有り得ない。

いつだって僕の中に君の姿はある。

だけど、前に進むと決めたのに、今どうしたらいいのか分からないんだ。

「・・・・っ」

叫びだしたい衝動を押さえつけ、僕は斉木の横たわるベッドに額を押し当てた。

終わらせたくない。


君を置き去りにして行きたくはない。だけど。


矛盾した感情が溢れ出て止まらず、僕は何度もベッドを殴りつけた。

ピンと張られた真っ白いシーツがたわんでぐしゃぐしゃになっていく。

最後に一度、強く殴りつけると僕は糸の切れた人形のように動きを止めた。

やがてのろのろと顔を上げると目からは滂沱の涙が溢れ出る。

冷たい床に座り込み窓越しに空を見上げながら、僕はしばらくの間泣き続けた。

そして唇を震わせた。


「由妃奈、ごめん」


すっくと立ち上がるとそのまま斉木を一瞥もせず、背を向け歩き出した。

袖で顔を拭い泣いた痕跡を消すと、病室を出る前に一度だけその場に立ち止まって大きく深呼吸を繰り返す。

目を閉じた。

脳裏には笑顔の由妃奈の姿がある。

そしてもう一人、笑顔の少女が居た。

それらを振り払うように僕は頭を振って、そのまま斉木の病室を後にすると、約束していた通り榊の元へと向かった。

 

いつもの部屋へ行くとすでに榊は来ていたが、見たことのある看護師と一緒に居た。田島香織だった。

二人は同時に僕に気がついたようで、香織はペコリと僕に頭を下げてくる。

「じゃあ先生、再入院してきた南場さんは精神科の専門病院へ転院してもらうということでいいですか?」

「ああ」

「・・・でも、あんなに元気だったのに人って変わるんですね」

「何があったんだろうな」

書面にサインでもしているのか、さらさらと紙にペン先を滑らせるとそれを香織に手渡した。

それで用件が済んだのか香織がこちらへやってくる。

「青柳さん、ご無沙汰してます。その節は本当にお世話になりました」

「いいえ、仕事ですから気になさらないで下さい。」

 香織は僕と榊を交互に見た。

「お知り合いなんですか?」

「・・・・ええ。昔なじみなんです」

「ええー?知らなかった!」

 心底びっくりしたようで、香織は大きな声を出したが、すぐに榊に睨みつけられて口を手で覆いながらそそくさと部屋を出て行ってしまった。

「・・・・終わったのか?」

 沈黙を先に破ったのは榊だった。

「ああ。拍子抜けするくらい呆気なく済んだよ」

「そうか」

 榊は窓際に近づくと大きく窓を開け放った。

「寒いよ」

「こうしなきゃ匂いが篭るだろ」

そう言ったかと思うとタバコを取り出し火をつける。

大きく息を吸うと、そのまま煙を吐き出した。

「院内は禁煙だろ?」

「細かいこと言うなよ」

ククッと低く笑うと榊は笑った。

煙を燻らせる榊は、眼下に広がる中庭を見下ろしながらもう一度タバコに口をつける。

「ここからあの噴水が見えるんだ。由佳とお前を何度か見かけたことがある」

「・・・盗み見なんて趣味が悪いな」

「別に盗んで見てやしないさ。お前らが勝手にあそこで会っていただけだ。人を悪く言うな」

視線をこちらへ向け、榊は唇の端を吊り上げて嫌味な笑みを浮かべた。

ポケットに手を突っ込むと中から携帯灰皿を取り出し、灰を落としている。

間違いなく室内で吸う常習犯だと、僕は目を剥いた。

「そんな怖い顔するなよ。お前もどうだ?」

「僕は吸わない」

知っているだろうにあえて聞いてくるその様子が妙に苛立たしく、僕はツカツカと榊に近づくとタバコを奪い取った。そして反対の手首を掴むと携帯灰皿の中にそれを捻じ込む。

榊がくつくつと笑った。

「相変わらず真面目な先生だ」

「吸うならルールを守れば良いだけだろ」

僕が睨み付けると榊は肩を竦めて見せた。

室内には無言が広がるが、榊と二人の時はこんな風であることが多い。

僕は気にせず腕を組むと近くにあった机に腰掛け体を預ける。

榊は尚も懲りずに、タバコを取り出すと咥え火を灯す。

吐き出される煙が中空へと散っていく。

今度は僕も何も言わず、止めもせず。

向けられた背をただジッと見つめた。

「由妃奈は忘れられないか」

榊は開け放たれた窓越しに外を見ていた。背を向けたままの問いかけに僕は目を伏せた。

「忘れたくないからね」

「十二年経ったぞ」

「言われなくても知ってるよ」

「一緒に居た年月と居ない年月が同じくらい、か?」

「・・・そうだね」

もし君が今も生きていたのなら、僕たちは一体どんな人生を歩んでいたんだろう。

想像も出来ないし、考えたって仕方のないことだけど、考えずにはいられない。

たぶん、全く違う人生を歩んでいたのだろう。

もう何度も、こんなことを考えてはいつも自己嫌悪に陥っていた。

どんなに月日が経ったって、結局は君を失った事実を未だに受け入れられてないだけなのだ。

「お前は馬鹿だ」

「それも知ってるよ」

泣き出しそうになりながら顔を上げると背を向けていたはずの榊がこちらを向いていた。

その表情は哀しんでいるような、慈しんでいるような。

まるで今まで見たことのない顔だった。

「今からでも、また始めたらどうだ」

言葉の真意は汲み取れない。

何を始めると言うんだ、それすらも考えたくないし考えられなかった。

黙ったままの僕に、長く待っていた榊が悲しげに目を細める。

そして言った。

「そうか。お前にとってはまだ終わってはいないんだな、何も」

「・・さあ、それも分からないよ」

何が始まりで何が終わりであるのかなんて、それが分かっていたらきっと過ちなんてものはこの世界に存在しないだろう。

榊は吸いきったタバコを携帯灰皿に押し込むとポケットにしまった。

残り香が窓から入ってきた風に乗って僕の鼻をくすぐった。

「さてと、仕事に戻らんとな」

「・・そう。じゃあ僕も帰るよ」

 立ち上がると踵を返し扉へと向かった。


「穂紬」


 僕は立ち止まり振り返った。

「これ、出しておいてくれ」

ぽんと投げられたのは紙袋だった。宅急便の宛名シールが貼ってある。

「・・・なんで僕が・・・、自分で出してよ」

「俺は忙しいんだ。どうせ帰りがけに寄れるだろう?それに、これがさいごだ」

「・・本当にこれで最後だから」

ブスッと仏頂面で答えると、榊は低く笑った。

僕の横を通り過ぎ部屋の扉を開けると一歩廊下に出て、もう一度振り返る。

「・・・・じゃあな」

そしていつものように手を振ると、行ってしまった。

「何なんだ?」

首を傾げつつ、渡された紙袋を小脇に抱えると僕も部屋を後にした。

この時、僕は違和感に気付くべきだった。

いつもなら気付いたはずのいくつかの些細な違和感に僕はこの時気付けなくて、まさかそれが最期になるなんて考えもしていなかったのだ。



翌朝、由佳から着信があった。

由佳は余程のことが無ければ電話はして来ない。僕は嫌な予感を覚えながらそれに出た。

病院に来ているが兄の病室が無人になっている、何か聞いていないか。

由佳からの電話はこんな内容だった。

しかし僕は何も聞いていないし、榊も昨日は何も言っていなかった。

妙な胸騒ぎがする。僕は一旦由佳からの電話を切るとすぐに榊にかけた。繋がらない。

「くそっ!」

僕はコートを羽織ると家を飛び出した。

病院への道のりを僕は必死になって走り続けた。

妙な不安に胸が押しつぶされそうになるのを堪えるのが苦しくてたまらなかった。

病院の正面玄関に着くとそこには由佳がいた。不安そうな顔をしている。

「穂紬さん!」

手を振る由佳に僕は息を切らせながら駆け寄る。

「由佳ちゃん、榊は?」

「それが、看護師さんたちも何も聞かされてないみたいで・・」

医師と患者が揃って行方不明であることにようやく気付いたらしい病院側も、二人を探し始めているようだった。

僕は外に出てもう一度榊に電話をかける。

「出ろよ、榊・・」

 祈るような気持ちできつく歯を食いしばった。するとさっきまでコールもせず繋がらなかった電話が、呼び出し音を鳴らし始めた。僕は息を呑んだ。

『・・・・よお』

五回目のコールの後、聞き慣れた声が聞こえてきて、僕は息を震わせた。

「榊・・・今どこに居る?」

『何だ、もうばれたのか』

「茶化すな・・・・いいから、どこにいる?」

『・・・・・・・・・』

「榊!」

叫んだ僕の声が玄関ホールに響き渡り、通りすがりの人たちが何事かと不躾な視線を投げかけてきていたが、僕はそれにも気づかないまま、電話の向こうから聞こえてくる息遣いばかりに意識を集中していた。

『中庭に来いよ』

「そこに居るのか?」

『・・・・ああ。斉木和真も一緒だ』

予想していた事態を突きつけられ、僕はきつく目を閉じる。

「すぐに行く・・・電話、切るなよ」

榊の言葉を聞き届け、僕は一目散に中庭に向かって駆け出した。

中庭に着き辺りを見まわすが、しかしそこに榊の姿は見当たらない。

苛立ちに僕は髪を掻き毟る。

「・・・どこに居る?」

『よく探せよ、俺は見えてるぞ』

「何?」

僕は再び周りを見回す。

だが、やはり榊の姿は見当たらなかった。

僕からは見えなくて、榊からは見える位置?


まさか

 

僕は泣きそうになりながら見上げた。視線の先は屋上、そこに人影が二つある。

「・・・・どうして」

風に白衣をなびかせているその人影は間違いなく榊本人だった。

そしてどう見てもフェンスの外側に立っている。

『やっと見つけたか』

「そんな・・所で、何してるんだよ」

歯の根が噛み合わないくらい、僕の声は震えていた。

榊は電話の向こうで笑った。

『おい、夕べこいつが意識を取り戻したんだが・・・・・イカレてたぞ。完全にぶっ壊れちまってる』

「・・・・・・」

『お前、分かってたんだろ。こいつの頭が壊れていること』

榊はさもおかしげに言った。僕は僅かに目を伏せた。

「・・・・・そうかもしれないとは、思ってたよ」

『それなのに起こしたのか』

僕は返事をしなかった。

これは予想していたことだった。

悪夢の中に十年以上も放り込まれていた人間の精神がまともであるはずは無い。

斉木和真の精神が崩壊しきっているだろう事実は予測していた。

『・・・・まあいい。どのみちもう引き返せないことに変わりはない』

「榊、お前・・」

『お前たちは前に進んで行こうとしているのに、俺にはどうもそれが出来ないんだ』

諦めか、疲弊か。

いつもの力強い声ではなく、それは今にも風に掻き消されてしまいそうだった。

僕は今にも力が抜けて崩れ落ちてしまいそうな足を奮い立たせ、榊を見る。

『どうしてもこいつが許せないんだよ。どれだけ時間が経っても・・・由妃奈のあの姿が忘れられないんだ』

「榊・・・」

僕は拳を握り締めた。

そして遠い過去が記憶によみがえる。

あの日、由妃奈の葬式が終わった後、僕と有美は僕たちの能力を知っていた榊の強い要求に抗えず、由妃奈が死んだ日の出来事の一部始終を榊に見せてしまった。

たとえ懇願されたのだとしても、由妃奈の最期の姿を夢であっても見せるべきではなかったのだと。

今の言葉で気づかされた。

恐ろしいほどの後悔が込み上げて止まらなかった。

「・・・さ」

『本当は・・お前と有美がずっと苦しんでいたのも知っていた。終わりたがっていたのも知っていたんだが・・どうしても解放してやれなかった』

「榊・・」

『長い間すまなかった』

「待てよ、何言って・・・・」

初めて聞く榊の思いに僕は驚きを隠せなかった。

そんな風に思っていたなんて。

だって、そんな風には見えなかった。

いつだって余裕を見せていたこの男が、まさかこんな弱音を抱いていたなんて。

『だが・・・それも今日で終わりだ』

「おい榊、お前何言って」

急に胸の奥からゾワッと何か気持ちの悪いものが込み上げてくる。

あの日。由妃奈が死んだ時もこんな風に嫌な感覚を覚え、それは的中してしまった。

そして今もあの時と同じような感覚が胸の中に渦巻いている。


やめてくれと必死に願いながらも体の震えが止められない、そんな僕の腕にそっと触れる何かがあった。

振り返るとそこには僕と同じように青ざめた顔をした由佳が立っている。

僕は咄嗟に由佳の手を掴んだ。

言葉を紡ごうとした僕を遮るように榊の声が言った。

『せめてもの償いに、こいつは俺が連れていってやるよ』

「・・っ!やめろ、榊!」

『穂紬・・・・・・じゃあな』

「やめろ――――っ!!」

通話がプツリと途切れ、僕は絶叫した。

直後。屋上にある二つの人影が一つになり、揺らいだかと思うとそれは拍子抜けするくらいあっさりと、そこから落ちて行く。

数秒後、遠くから何か重たいものが地面に落ちる音がした。



「いやあああぁぁ!せんせぇっ!!」



由佳の悲鳴がその場に響き渡り、消える。

時が止まってしまったかのようだった。

皮肉にも、榊が斉木和真を伴って自殺をした日は由妃奈の命日だった。

これが偶然ならばもう、神を呪わなければ僕は息をすることも出来なかった。

担当医師が患者と共に自殺したニュースは世間を騒がせ、色々と過去の繋がりを詮索する人間も現れたが、榊と斉木和真の繋がりは誰にも見出せず、結局一ヶ月もするとその事件は忘れ去られてしまった。

繋がるはずもない。だって斉木和真と関わっているのは僕たちだけなのだから。

だから、誰にも過去は暴かれなかったし、暴けるはずもなかった。

こんな形で終わりを迎えるなんて。



誰もが傷つき、僕らの心は一片の光すら届かない闇の底へと落ちて行った。





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榊が命を絶ってから一ヶ月が経っていた。

寒さは体だけでなく由佳の心の芯まで冷たく凍えさせていて、あの日から由佳の顔から笑みは消えたままだ。

「先生」

墓前に花を活け手を合わせながら見つめた。

視線の先には同じく冷え切った墓石がある。

そこに榊の名が刻まれていた。

「先生」

もう何度呼んだだろうか。涙ももう枯れた、それ程泣いた。

けれど、どれだけ泣いてもどれだけ名前を呼んでも榊は帰ってきてはくれないのだ。

当然だ。由佳自身が榊の死を目の当たりにしたのだから。

 あの日。

榊が兄を伴って病院の屋上から飛び降りた直後、当然の事ながらその場は混乱を来した。

しかし由佳は立ち尽くしていた。

何も出来なかった、身動き一つ出来なかったのだ。

穂紬は猛然と駆け出し、人を呼び、救命の措置を行っていた。

「死ぬな」と何度も叫んでいたのに。

「先生・・・・・帰るね」

言葉を紡ぐのにも多大な精神力がいる。

それ程までに由佳の心身は疲弊しきっていた。

のろのろとした動作で立ち上がると、由佳は俯いた。

そして無言のまま歩き出す。こうして歩いているのでさえ、夢か現かよくわからない。

墓地を出て歩き出しても気分は重く苦しいままだった。

考えることは榊の事、あの日の病院で起こった出来事だけで、他は一切何も考えられない。

心が縛りつけられたまま一歩も動けないでいる。

凍える一陣の風が強く吹き付けた。

色を失ったままの木々がざわざわと揺らめき騒ぐ音を遠くで聞きながら由佳はどこまでも無言のまま、真っ直ぐに歩いて行った。


体は動いても、心がもうどこへも、一歩も動けなかった。




人が一人居なくなってもそれまでと何も変わらず世界はまわる。

由佳がそれを実感したのは母の退院で病院へ行った時のことだった。

「由佳ちゃん」

母の病室につくとそこには香織も居た。

由佳に気づいた香織がこちらへと手を振ってきたので由佳も振り返しながら二人へと近づく。

「香織さん、久しぶり」

「由佳ちゃんも。元気そうで良かった」

髪をくしゃくしゃとかき回されて、由佳はくすぐったそうに肩をすくませる。

目の前に居る香織は変わらず優しく綺麗だ。だけど、やっぱり少し痩せた。

その原因を考えた時、それは自分と同じなのだろうと由佳は思った。

だってずっと一緒に働いてきた人が突然居なくなったのだ。

例えば自分だって、クラスメイトが突然同じような理由で居なくなれば困惑するし、悲しみ意気消沈する。親しければ親しい程、痛みは計り知れないだろう。

他愛のない話を三人でしながら、由佳は頭の隅でぼんやりと過去を思い返した。

いつもなら母の代わりに榊が居て、香織も交えながらよく三人で話をしていた。

 

ほんのちょっと前までは、榊は確かに自分の側に居てくれたのに。

 

不意に喉が詰まり由佳は言葉が発せられなくなった。

そのかわりに、瞳から涙がボロボロと零れ落ちていく。

「由佳ちゃん」

声もなく、嗚咽さえ噛み殺して泣く由佳に香織が掠れた声で名を呼んだ。

「・・・っ」

先生が居ない。先生が居ない。

ずっと一緒に居てねって言ったのに。


どうして。


唇を震わせ、噛みしめ、もう戻れない過去を思い由佳は泣いた。

「由佳ちゃん」

言葉と共に由佳の体は温かい何かに包まれた。

涙に歪んだ視界は白い色に覆われて他には何も見えない。

けれどそれはとても優しくて。由佳は震える手で縋り付いた。

「今は泣いて。そして、その痛みを・・・忘れないで」

香織の声は掠れていた。

由佳はゆっくりと顔を上げる。視線の先に、一筋の涙を流す香織が居た。

「榊先生を忘れないでいて」

「香織さ・・」

「お願い」

もう一度髪をくしゃりと撫でられて、由佳は子供のように頷くと「うん」と呟いた。

 


由佳と香織は中庭に居た。

「話がある」と香織に誘い出されたのだ。

噴水の前のベンチに腰を下ろし由佳は香織をチラリと見る。

「香織さん、話って?」

隣に腰かけている香織は僅かに伏し目がちになると、一度強く目を瞑った。

由佳はその様子を静かに見守っていたが、実際には少しずつ心臓の音が大きくなり始めていた。

こんな風に重苦しい空気を出す時、その人はあまり良い話をしないからだ。

最近の自身の傾向を思い出し、由佳は一人皮肉めいた笑いを口元に浮かべる。

「・・誰かが居なくなっても、世界は変わらず回って進んでいくのよね」

「え?」

「先週、新しい外科の先生が赴任してきたの」

「外科の先生って」

「榊先生の代わりの先生」

代わりの先生。それは至極当然のことであるのに、この時の由佳は酷い違和感を覚えた。

病院としては、空いた穴は埋めなければならないのだろう。

話に聞く限り、榊は医師としてとても優秀な人だったのだ。

それは埋めなければならない穴。

「・・・もう?」

しかしそれは同時に「その人でなければならない」という存在意義を軽くさせるのではないだろうか。

そんな由佳の心が分かったのか、香織も複雑な笑みをこちらへ向けてきた。

「いい先生なの。インターンの時に榊先生に指導してもらった先生で腕もいいし人当たりも良くて・・もう溶け込んじゃったわ。赴任時も謙虚だけど熱く挨拶をされてね、・・『自分が榊先生の代わりになれるとは思わない。空いた穴の大きさが途方もなく大きくて自分で塞ぎ切れるとは到底思えないけれど、塞がなくてはならない穴だから、どうか力を貸して欲しい』って・・・・目に涙をいっぱいに溜めてね」

香織は無意識なのだろうか、ポケットからボールペンを取り出すとカチカチと芯の出し入れをし始める。

「他の看護師の子たちは積極的に先生を受け入れて、現場は円滑に回っているわ。だけど・・」

カチ、と音を立てて香織は手の動きを止めた。

視線は真っ直ぐと前に向けている。

しかしその眼はどこかぼんやりとしていた。

「香織さん?」

由佳の問いかけに香織は視線を動かすと頼りなげな笑みを向けてくる。

「私、どうしてもまだ受け入れられないの。新しい先生が悪いんじゃないのよ。ただずっと・・看護師になってからずっと榊先生と一緒に仕事をしてきたから。怒られたり励まされたり、支えてもらいながら・・・この仕事に就いてからずっと榊先生が居たから」

「香織さん」

「自分で思ってた以上に、私の中には榊先生の存在が深くあったみたい」

言葉の語尾は涙に濡れていた。

香織はとうとうと涙を流し、頬を伝う滴を拭いもせず前を見つめ続ける。

由佳にはかけられる言葉が見つからなかった。

香織は大人の女性だ。

そして強い人だと思っていたし、実際の香織も強い人なのだ。

そんな人が自分のような子供の前で涙を流すのを目の当たりにして、由佳は改めて榊の存在の大きさを知った。

どうして榊は死んでしまったのか。

こんなにも人に必要とされているのに。

由佳も唇を噛み締め嗚咽を押し殺した。

「・・・でも、いつかは受け入れなければならないのよね。どれだけ帰ってきて欲しいと願っても、榊先生はもう帰ってきてはくれない。頭では分かっているの」

「香織さん」

「生きて行かなければならない。私たちは」

 手の平で涙を拭うと香織はいつもの明るい笑みを由佳に向けてくる。

「一緒に生きて行く人がいる。私も、由佳ちゃんも」

「・・・・・」

「お母さんを支えてあげてね」

「・・・・うん」

「私もヒデを支えないといけないしね。ああ見えて結構繊細な奴だから」

強く風が吹き、二人の髪を乱した。

香織は前髪をかき上げながら優しい笑みを浮かべた。

「由佳ちゃんにお願いがあるの」

「うん、何?」

「・・・これ、受け取ってくれる?」

香織は白衣のポケットから白い封筒を取り出した。

それを受け取り表に返すとそこには由佳の名が刻まれていた。

「私たちの結婚式の招待状。由佳ちゃんにも来てもらいたいの」

「私が?・・・でも・・いいの?」

「来て欲しいの、由佳ちゃんに」

由佳は大切なものを持つかのように両手でそれを包み込んだ。

「ありがとう。必ず行きます」

香織も香織の恋人も大好きだった。

だから二人が幸せな未来に向かって歩いていく門出を祝福させてもらえることが嬉しかった。

何故、香織はこれを自分に渡したのか。

不意に由佳は考えた。

妹の友達という存在には普通招待状を送ってまで来てもらうなんてないのだと思う。

ただ、いつになく香織の存在が近しい。

大切な人を亡くし同じ場所に立ったことが、ここまで距離を縮めたのか。

「香織さん」

「何?」

「幸せになってね」

招待状を大切そうに胸に抱き、由佳は微笑んだ。

香織は僅かに目を見開く。それから、くすぐったそうに笑った。

「もちろんよ」

二人はベンチから立ち上がるとどちらからともなく歩き出した。

ゆっくりとした足取りで、大地を踏みしめ進んで行く。

そして正面玄関までくると足を止めもう一度だけ目を合わせた。

香織がゆっくりと口を開いた。

「・・・青柳さんにもね、招待状を渡したの」

「え?」

「厚かましいとは思ったんだけど、私たちの恩人だからどうしても来て欲しかったの。それに」

彼のことを考えない日はなかった。それでもあの日以来、その存在は彼方へと遠のいてしまった。

会いに行く勇気もなかった。

「榊先生と昔馴染みだって聞いたことがあってね。お葬式にも来ていなかったし、きっと青柳さんもまだ・・・」

それきり香織は口を閉ざしたけれど言われなくてもわかる。彼の傷はまだ癒えていないのだ。

「・・・来るの?」

由佳は恐る恐る尋ねた。

会いたくても会えない、でも逢いたい。

そんな由佳を見て香織は微笑んだ。

「来てくれるって約束してくれたわ」

その言葉に由佳は胸に抱いた招待状を抱きなおした。

不謹慎だけど、嬉しい。

穂紬に会える。

目に涙が滲んだ。でもこれは悲しいんじゃなくて、嬉しくて。

強く風が吹いた。

空気は冷たかったが由佳には優しく感じられた。

顔を上げると由佳は病院の奥へと視線をやる。

突然、周りの喧騒が耳についた。

「私、お母さんを迎えに行かなくちゃ」

香織も自身の腕時計に視線をやる。

「そうね。やっと退院だものね」

どれだけ過去の時間を取り戻したくとも、もう二度と手には戻らないものがある。

残酷な現実に、それでもふり返り続ける訳にはいかないのだ。

「あ、居た居た。田島さん」

突然誰かが香織を呼んだ。それは由佳の知らない男の声だった。

二人で声のした方向へ目をやると、白衣を着た男の人がこちらへやってくる。

 見たことのない人だった。

「田島さん、すまないけれどちょっとお願いしたいことがあって。今からいいですか?」

「大丈夫です。今、戻る所だったので」

由佳がジッと白衣の男の人を見ていると、彼もこちらを向いた。

「・・田島さんの妹さんですか?」

目が細められ優しい眼差しが注がれる。

「確か高校生の妹さんが居るって言ってましたよね?」

「先生すごい、よく覚えてましたね。でもこの子は妹じゃなくて、私の妹の友達なんです。・・・まあ、妹みたいなものなんですけど。由佳ちゃん、こちらが新しく赴任されてきた新垣先生よ」

香織から紹介を受け由佳は両目を瞬かせた。

この人が新しい先生。

そんな由佳の様子には気づかなかったのか、新垣と紹介された医師はすまなさそうに自身の頭を掻いていた。

「そうなんですか。・・間違えてしまって申し訳ない。僕は新垣と言います。ここへは赴任してきたばかりなんです」

スッと手が差し出された。

それは男の人にしては少し華奢な、榊の大きな手ばかりを見てきた由佳にはあまり馴染みのない手だった。

「初めまして」

人好きのする優しい笑顔を向けられ、由佳は恐る恐る自身の手を差し出した。

「斉木由佳です・・・初めまして」

ほんの一瞬、新垣の目が驚きに見開かれたがすぐにそれは潜められた。

「僕は外科の医師です。怪我をしたら遠慮なく来て下さいね」

握り締めた手を上下に振って、新垣は由佳の手を離した。

「ありがとう。その時は、そうします。でも・・」

「・・?」

「私、なるべくここにはもう来ないようにする」

「え?」

「私、大人になりたいの。だからもうここには怪我や病気をしない限りは来ないわ」

「え?え?」

由佳は飛ぶように一歩、後ろに下がった。そして香織に向き直る。

「香織さん、次に会うのは結婚式ね」

心の傷はきっとまだ癒えない。

けれど世界は立ち止まる自分を待つことなく回り続ける。


残酷で普遍


その人が居ない世界はぽっかりと穴が空いているようだけれど、誰もがきっとそれを乗り越えて生きていく。

由佳は心からの笑みを浮かべた。

榊の死後、それは初めてのものだった。香織もつられるように笑って「待ってるわ」と言った。

「それじゃあ、お母さんを迎えに行ってくる。香織さん、新垣先生・・さよなら!」

大きく手を振り、由佳は踵を返し歩き出した。

心配性な榊のことだ、きっとどこかから見ている。

そんな気がしてならなかった。それならば、こんなふさぎ込んでいる姿ばかり見せていたら心配させるだけだ。

榊は確かにもう居ない。

けれど、自分の中から消えてなくなる訳ではない。

心に、記憶に、いつまでもいるのだ。

思い出し、由佳はまた少し涙を流したが、溢れたものを手の甲で拭い去ると真っ直ぐに母の病室を目指した。

廊下の角を曲がりナースステーションの前を通り過ぎた先の病室。

何度もここへ通った。

でももう来ない。

ここは弱い自分を守ってくれる空間だった。居心地が良くて、出来ることならずっと居たかったけれど、それでは駄目なのだ。弱いままでは居たくない。

 強くなりたい。

そして、支えたい人がいる。

 由佳は勢いよく扉を開けた。

「お母さんお待たせ。さあ、帰ろう」

窓から差し込む光が不思議と、眩しかった。





-----------------





「しばらく仕事を休むから調整をしておいてくれないかな」

榊が死んで一週間後、僕は事務所で奥園まどかに言った。

まどかも察していたようで「分かりました」といつもと同じ様子で呟くと自分のデスクに戻った。

しばらく休む、そうは言ったものの復帰することが出来るのだろうか。

僕は、僕たちは打ちのめされていて立ち続けることも出来ず、膝を折ってしまった。


あの日の光景が目に焼き付いていてうまく眠れず、寝てもうなされて目を覚ます。

毎日がその繰り返しだった。

もしかしたらもう二度と立ち上がれないような気がする。

それ程に限界を感じていた。

夢も希望も何もなく悔恨に苛まれながら他人を満たす夢を見せるなど出来るはずもない。

「元々・・夢も希望もなかったんだけどね」

椅子の背もたれに体を預け、逆さまの視界で窓の外に視線を投げた。

外は雪が降っていた。

榊の葬儀の日も雪が降っていた。ただ、僕は行かなかったけれど。

だって行けるはずがないじゃないか。榊を死に追いやったのは、僕自身なのだから。


あの日、斉木和真を解放した日。

あの日にきっと僕は何かの選択を間違えたのだ、だから榊は斉木を道連れに死を選んだ。

長い付き合いだからそこまでは容易に想像がついた。

だけど何を間違えたのかわからない、ずっと考え続けているけれど答えは出ない。

答えを知りたくとも、その相手はもう死んでしまっていて聞くことは出来ないのだ。


「・・・知ろうと思えば知れる。なら、どうして」


知ろうとしない?

一人呟き、僕は両手で顔を覆った。

僕なら簡単な話だ、榊の意思を知る方法を僕は持っている。

だけど出来ない。

知ってしまう恐怖が僕の身を竦めていた。

「所長」

凛とした声が僕を呼ぶ。

椅子を軋ませながら体を起こし体勢を直すとデスクを挟んで真向かいにまどかが立っていた。

「何、どうした?」

「いえ、ご指示通り来週から全ての予定を空けてあります。再開は所長が復帰されたい時にいつでも出来るようにしています」

淡々と告げるまどかの様子に、相変わらず仕事が早いと苦笑う。

「ありがとう」

「いいえ、仕事ですから」

そう言うとまどかは少しだけ影のある笑みを浮かべた。

「所長がここを再開されたいと決心されたら、連絡を下さい。・・・それまで待っています」

「・・・保証は出来ないんだ。君はまだ若いんだから他を探した方がいいよ」

「いいえ。ご迷惑かもしれませんが私はこの仕事が好きなんです。どうしても続けたいんです」

「まどか君」

「私同様に、ここで見せてもらった夢に救われた人は多く居ます。きっとまだ、沢山いるはずなんです。その人たちを救う場所をどうか無くさないで下さい。ここはなくてはならない場所なんです。・・お願いします」

腰を折り、深々と頭を下げるまどかに僕はそれ以上何も言えなくなってしまった。

そんな僕の返答を待たず、体を起こすとまどかは再び自席へと戻って行った。

僕たちは確かに一歩を踏み出したはずなのに、まるでそこには穴が空いていたかのようだ。

深みに落ちて動けやしない。

「情けないな・・・」

髪をぐしゃぐしゃとかき乱しながら呟いた声はその場に落ちるかのように消えてなくなった。

 




日々は止まることなく進んでいく。

折れそうになる心に鞭を打ち、それでも決めた最後の日まで僕は必死になって毎日を生きた。

最後までこれからをどうするか結論が出せないまま、最後の日がやってきた。


そしてその日、事務所に田島香織がやってきたのだ。


「お久しぶりです」 

まどかに案内され僕たちの前にやってくると、香織は深々と頭を下げる。

僕はぎこちない笑みを浮かべた。

「珍しいですね、ここへ来るなんて。何か?」

「今日は折り入ってお願いがあってきました」

香織は僕を見つめると、カバンから一通の白い封筒を取り出した。

手渡された封筒は封が開いており、僕は中身を取り出してみる。

 結婚式の招待状?・・眉を寄せた僕に気付いたのだろう、香織が続ける。

「どうか、私たちの結婚式に出席していただけませんか?」

「・・・・・・、・・・僕が?何故」

「失礼を承知で申します。榊先生の代わりに出席して頂きたいんです」

「・・・僕は、榊ではありませんよ?」

「分かっています。それでも、お願いします。そしてどうか、私たち夫婦が新しい人生を歩んで行くことを・・・榊先生の墓前に、知らせて頂けませんか?近しい存在の青柳さんから・・・・お願いしたいんです」

香織は一粒の涙を零した。

それでも毅然と僕を見つめている。

涙の跡がなければ泣いているとすら思えないくらい、強い眼差しだった。

「・・・・強いですね 」

いつまでも立ち直れない自分をまざまざと思い知らされて、僕は卑屈にそう言った。

「いいえ。強くなどありません。私はあなたほど榊先生に近い存在ではなかった。だから受けた苦しみはあなたとは比べ物にはならない、小さなものだっただけです」

僕は香織の眼差しを受け止めきれず、封筒を見るふりをして視線を床に落とした。


それでも、悲しく苦しい事実に変わりはないだろうに。


「・・・・・僕なんかが出席して、本当にいいんですか?」

榊が死んでから、僕は墓前に一度も足を運んでいなかった。葬式にも行かなかったのだ、それなのに墓前になど会いに行けるはずがない。あのまま現状を変えなければきっと榊は今も生きていた。そうと思うと怖くて足が竦んでしまった。

「はい」

香織が封筒を持つ僕の手を包み込むように強く握り締めてきた。

顔を上げると彼女の頬には幾筋もの涙の跡がある。


「・・・・・来て、頂けますか」


震える声。

それは僕の胸を打った。

苦しさに唇を噛みしめる。

そして必死に立ち直ろうとしている香織の姿に僕は自分の小ささを恥じた。

僕はくしゃりと顔を歪め、小さく頷いた。

香織は嬉しそうに笑った。





ーーーーーーーーーーーーー






四月某日。

あつらえたように桜が咲き乱れる中、香織たちの結婚式が行われた。

純白の美しいウェディングドレスを纏った香織は誰よりも美しく、幸せそうだった。

そこで僕は久しぶりに由佳に会った。

色々なことを乗り越えた由佳の表情はどこか大人びていて、綺麗になったように見えるのは気のせいではないのだろう。

「穂紬さん」

僕に気付いたのか由佳が駆け寄ってきた。

「やあ、久しぶり」

「・・・はい」

淡いブルーのドレスを着て髪を高く結い上げている大人っぽい姿に、僕は眩しいものを見るように目を細めた。

「・・・短大に進学したって?」

「あ、はい。お母さんのことも心配だったから、実家から通える所と思って」

「色々大変だったのに、頑張ってえらかったね」

「・・・・いいえ、私なんか」

僕たちはタブーであるかのように、榊のことを口にしなかった。

口にすれば共に見てしまった榊の最後の姿を思い出してしまうからだ。

チャペルの鐘が鳴り響き、暖かい風が吹いて桜の花びらが舞い散っている。

美しい光景と美しい花嫁。

幸せの光景であるのに、僕はそれを真っ直ぐに見られないでいる。

香織にああ言われてここへ足を運んではみたが、榊に何をどう言えばいいのか分からない。

彼女は未来へ向かって歩き出し始めた、一方で僕もお前も立ち止まって進めなくなってしまったのに。

「そう言えば、香織さんたちも穂紬さんに夢を見させてもらったって言ってたけど、そうなんですか?」

唐突に、二人を見つめながら由佳が言った。

「・・・ああ、香織さんの旦那さんがね。自分が両親にどう思われていたのかずっと気に病んでいたんだ」

「ヒデさんが?」

「由佳ちゃん、知り合い?」

 由佳はコクリと頷く。

「香織さんと和歌子と一緒に・・・あ、和歌子は香織さんの妹で私の友達なんだけど、二人には色々と遊びに連れて行ってもらったことがあって」

「そうなんだ」

「それで、ヒデさんはどうなったんですか?」

僕は記憶を思い返した。

夢を見せ終えた後の二人の、吹っ切れた晴々とした笑顔が瞼の裏に思い出され、一人微笑んだ。

「こんなにも人の親というものは子供を愛せるんだなぁって・・思えるような素敵な人たちだったよ。野中さんとご両親は色々と事情があって離れて暮らしていたんだけど、やっと一緒に暮らせることになって彼を迎えに行ったんだ。でも・・その道中にご両親は事故にあって亡くなってしまってね。悔やみ切れない後悔と、彼への愛がとめどなく溢れている、そんな最期の言葉を僕は二人に伝えたんだ。野中さんは、自分が両親と離れて暮らしているのは愛されていないからかもしれないと思っていた。だけどそれが勘違いだと分かって・・自信がついたんだろうね。夢から覚めて一番に香織さんにプロポーズをしていたよ」

黙って僕の話を聞いていた由佳は、嬉しそうに微笑むと、日の光の下にいる二人を眩しそうに見つめた。

「良かった」

「ああ」



「だけど、人に愛を伝えるって、すごく難しいね」



「・・・本当にね。たった一言で済むはずなのに、誰もがそれを出来ずに苦しんでる」

「穂紬さん」

「・・・人間だけだよ、こんなに不器用なのは」

そう呟く僕を、悲しそうな目で由佳が見ていたことに、ついに僕は気づかないままだった。

僕と由佳は少し離れた場所から香織たちを見ていた。

たくさんの人々が主役の二人を祝福する姿が、どこか現実味がなく思えてしまう。

幸せに満ち溢れたこの場所にいても、ここまで来ても、僕は何も変われないのか。

ふと、式の招待客の中の一人がこちらに視線を向けてくる。

見覚えのないその人物は僕たちを凝視すると、一呼吸置いてからこっちへと歩いてきた。

「あ」

由佳が声を上げた。

「・・・知り合い?」

「お母さんを担当してくれた弁護士さん。榊先生の友達だって・・・、先生のお葬式で会って聞いたの」

「・・・榊の」

人の良さそうな顔をしたその人物は僕たちの前までやってくるとニコニコと笑みを浮かべながら頭を下げた。

「やあ、由佳さん。今日はいつもに増してお綺麗ですね」

「・・・そんなことないです」

薄っすらと頬を染める由佳の姿に、その人物は更に笑みを深くした。

「こちらは由佳さんの恋人の方ですか?」

「そ、そんなんじゃないです・・・」

 顔の前でぶんぶんと手を振り、一気に顔を朱に染めると由佳は俯いてしまった。

「初めまして、和久利と申します」

和久利と名乗った僕よりも幾ばくか年上に見えるその男性は体をこちらに向け、人好きのする笑みを浮かべ、名乗った。

「・・・ご丁寧にどうも。青柳です」

手を差し出すと和久利は僅かに目を見開いた。

そして僕の顔を繁々と見てくる。

「何か?」

「もしかして・・・・青柳、穂紬さんですか?」

「・・・・そうですが、どこかでお会いしたことが?」

一度会った人の顔を覚えるのは得意なのだが、さっぱり記憶にない。

僕は差し出していた手を下ろすと和久利を凝視した。

すると和久利は「いえいえ、お会いしたことはありませんよ。」と苦笑する。

「不躾にすみませんでした。そうですか、あなたが。・・・・ああ、確かに面影がある」

うんうんと頷く和久利はどうも僕の存在を知っているようだった。

「昔、あなたの写真を見たことがあるんですよ」

「・・・・・僕の?」

「ええ、私は榊とは下宿先で部屋が隣同士だったんですが、よく顔を会わせる内に意気投合をしましてね。その時酒の席で見せてもらったんです。多分あなたが高校生の時ではないかと思いますよ、制服を着ていましたから。そして、可愛らしい少女と一緒に写っていました」

由妃奈との写真だろうか。

確かに由妃奈とは携帯の写メで時々写真を撮ったことがあったけれど、まさかそれが榊に渡っていたなんて思いもしなかった。

「目に入れても痛くない、大事な妹さんだと言っていましたよ」

「ええ、年が離れていたせいか、とても大切にしていましたから」

「そして一緒に写っているあなたのことを、自分の義弟になる男だと言っていました」

「・・・・え?」

「『あいつになら由妃奈を預けられる』と、たった一度だけですがそう言ったことがあります。何故かそれがとても印象的で・・・よく、覚えています」

そんな。

そんな、馬鹿な。

僕は全身がわなわなと震えるのが抑えられなかった。

だってそんな素振り、一度だって見せなかった。

和久利は言葉を切ると「ちょっと待っていてくださいね」とどこかへ行ってしまった。

しかし僕はそれどころじゃなかった。

頭の中はもうグチャグチャになってしまっていて、何も考えられないのだ。

ずっと利害だけの関係だと思っていたのだ。それ以上も以下もなく、ただ互いの目的の為だけに。

それなのに。

「・・・・榊が?」

ひたすら呆然とし立ちつくす僕を案じたのか、由佳が「穂紬さん」と声をかけてくる。

ハッと由佳を振り返ると、心配そうな表情をしている。

彼女の存在を感じ、僕の体から緊張が抜けていった。

「ごめん、変なところを見せたね」

「ううん。榊先生、穂紬さんのこと・・・そんな風に思ってたんだ。何だか嬉しいね」

嬉しい?

果たしてそうだろうか・・、もしそうだったとしても、それは和久利が昔に聞いた話であるし由妃奈が死んだ後は違ったかもしれないし、それが分かったところでもう榊はいない。

何を聞いても心が動かない。

体の真ん中に穴が開いてしまったみたいだ。

「すみません、お待たせしました」

小走りに和久利が戻ってきた。

その手には紙袋がある。

それを見て僕は心臓が掴まれたように息苦しさを覚える。

それに見覚えがあったのだ。

「あなたが青柳穂紬さんであるなら、これをお渡ししなければなりません」

和久利は額に浮いた汗をハンカチで拭きながら手に持っている紙袋を僕に差し出してくる。

僕はそれを受け取った。

「あなたに会ったら渡して欲しいと榊から託されていたものです。・・あいつが死んだ日に送られてきました」

和久利は少しだけ、苦しそうに顔を歪めた。

僕には見覚えがあった。

これはあの日、榊に頼まれ僕が送ったものだ。

その確信があった。

音を立てて紙袋の口を開け中身を取り出すと、それは更に白いビニールに包まれていた。

僕は丁寧にビニールを開き中のものをゆっくりと取り出す。

息を呑んだのは由佳が先だった。

「穂紬さん・・・それって」

何故これがここにあるのだろう。僕の頭の中は完全にストップしてしまった。


「・・・由妃奈さんの・・・・?」


和久利から渡されたもの、それは僕があの日由妃奈に贈ろうと用意した純白のマリアベールだった。

あれは由妃奈の棺に入れてもらったので、もう存在しないはずなのに。

「・・・・・どうして」

 掠れた声で僕は呟いた。

その時。

微かな声が僕の頭の中に響いた。

徐々に大きくなってくるその声は、間違えるはずもない・・榊の声だ。

僕がうろたえて由佳に視線をやると、由佳は察したのか僕の手をギュッと握り締めてくる。

 

これがきっと、榊からの最期の言葉になる。

僕の目から涙が零れ落ちていった。






ーーーーーーーーーーーーー







お前がこれを受け取るのがいつになるかは分からんがその頃俺はもうこの世にはいないんだろうな。

おそらく最期までお前たちに迷惑をかけたんじゃないかと思う。

本当にすまなかった。

俺はお前と有美がもう全てをやめたがっているのを随分前から気付いていたよ。

だが、どうしても俺の中の怒りが治まらなくて、いつまでもお前たちを巻き込んでしまっていた。

お前たちが前に進む未来を選び始めても、俺の中では何も変えられなくて前に進むなんて到底出来そうになかった。

だからお前と由佳が出会った時、もう駄目なんだろうと思ったよ。

そしてやはり本当にその通りになってしまうと、いよいよ終わりが近づいてきたと思った。

女がいるとやっぱり男は変わるもんだな、あの子と出会ってお前は良い風に変わっていった。

俺はそれを引き止めたくなかった。

だが俺自身の心を変えられないのはもう分かっていた。

だから、あいつを道連れに自分を終わらせようと思う。

このベールは由妃奈の棺から俺が抜き取っておいたものだ。

正真正銘お前があの時持って来たものに間違いない。

最初はただ単に、由妃奈の死を受け入れられずに棺から抜き取ったものだったが、いつからか俺の心の拠りどころになっていた。

幼い恋愛であったとしても、あの時のお前たちの気持ちは間違いなく通じ合っていた。

俺は心から添い遂げて欲しいと切に願っていた。本当にそう思っていた。

これが幸せだった頃の俺たちの象徴のようで、これがあったから俺はどん底まで落ちずに済んだと思っている。このベールが本当に唯一の、俺の救いだった。

だがもうその役目はもう終わりにさせてやりたい。

どうか、本来の使い方をしてやってくれ。

お前が由佳を好きなことは分かっているよ。

そして由佳もお前のことが好きだ。

苦しみを一緒に乗り越えたお前たちならきっと、共に生きていける明るい未来が待っているはずだ。

長い間お前たちをずっと見てきたが、実の弟妹のように思えてならないんだ。

だからもう幸せになってくれ。

お前たちが大切なんだ。


穂紬、由佳・・・幸せになれ。


有美にもそう伝えておいてくれ。








ーーーーーーーーーーーーー









僕は涙を止められなかった。

涙腺が壊れてしまったんじゃないかと言うくらい、後から後から涙が溢れ出る。

由佳も号泣していた。

嗚咽を漏らし、しゃくりを上げて僕の腕を掴んで離そうとしない。

「・・・榊っ」

風が吹き、僕の手の中にある、綺麗にたたんであったベールがするりと震える指から抜け、ふわりと風に舞い広がる。

端を掴んだまま、僕は広がるそれを見上げた。

そして泣きながら僕たちは互いを見つめあった。

涙を拭いもせず頬を濡らしながら。


人は言葉にしなければ思いは伝えられない。


だけど今の僕たちに言葉はいらなかった。

言葉で伝えるのと同じ意味を持つものが手の内にある。

僕は微かに笑みを浮かべながら、そのベールを由佳の頭にそっとかけた。

由佳も涙を流しながら、静かに微笑んだ。

込み上げるものが抑え切れなくて、僕はきつく由佳を抱き締めた。

由佳も僕の背に腕を回し、泣きじゃくる。

 

どれくらいそうしていただろうか。

遠くからパチパチと拍手の音がし始め、それは少しずつ大きくなって僕たちを包んでいった。

僕たちが顔を上げると式の参列者たちがこちらを見て、微笑んでいる。


「由佳ちゃーん、受け取ってー!」


大きく手を振り香織がチャペルの階段からそう叫ぶと、持っていたブーケをこちらへ勢いよく投げた。 

弧を描きながら空に舞うブーケを見つめながら、僕は思った。


 

僕たちの未来がどうなるかは、まだ分からない。

だけど、とりあえず二人でお前の墓参りに行くよ。

遅いなんて怒ってくれるなよ、何せ今お前の本心を知ったんだ。

僕たちは前を見て、進んでいくよ。

一歩一歩を踏みしめて、未来へ向かって歩き始める。

生きて行く・・・そして幸せになってみせるよ。

 


だから榊、どうか僕たちを見守っていて欲しい。



由佳の手元にブーケが落ちた。

歓声がワッと沸き、僕の目の前で。

由佳の表情が花咲くようにほころんだ。



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