なんかそこはかとなくエモい感じのやつ

sabafish🐟

午後三時に話す林檎

 消毒液に浸かったような場所だった。白い病棟。出来ることといえば、天井に染み付いたトラバーチン模様を眺めることくらい。全身が鉛のように重たかった。心臓と脳がかろうじて動いていることを無視すれば、私はほとんど死体と同じだった。


 消えてしまいたいとすら思わなくなったのは、一体いつからだっただろうか。

 前にも後ろにも進まない、時間から忘れ去られた空間が此処には在った。それは言い換えれば、すでに世界から消えてしまっている、ということなのだろう。私はそう解釈していた。

 私がいる病室には時計なんて気の利いたものはないし、空に昇っているのが月なのか太陽なのか確かめる窓も用意されてない。この場所にある規則性といえば、自分の鼓動を表示する心電図が刻むリズムと――。


「やぁ、今日の調子はどうかな。お見舞いに来たよ」

「よく飽きもしないでこんな場所に来られるね、君は」


 毎日午後三時に決まって現れる眼鏡の青年と林檎だけだった。青年は青白い顔色をしていて、林檎は蕩けるような赤い色をしていた。その対比に目が眩むのが、私の日課だ。

 青年は手にした果物ナイフで器用に林檎の皮を剝いていく。以前は危なっかしい手つきだったけれど、今はもう慣れたものらしい。一直線に伸びた林檎の皮が蛇のようにとぐろを巻いた。獰猛さの欠片もない、頼りないシルエットだ。


「君こそこんな場所にいて寂しくないのかい?」


 するり、と。最後の皮が向かれ落ちて、裸の林檎が露になった。丁度私の肌の色と同じような色をしていた。青年は微笑みながらその林檎に、躊躇うことなくナイフを刺し入れた。私は林檎に少し嫉妬した。


「寂しいという気持ちを忘れてからもう長いから。暇で仕方がない」


 彼が切り分けた林檎を私は口に運んだ。飽きるほど食べた味だった。子気味いい音と咽かえるほどの甘さ、微かにざらついた舌触りが忘れられなくて恋しくて、今日も彼が切り分けた林檎を私は口に運んだ。何度も。何度も。いくつ食べても、やっぱり飽きるほど食べた味だった。


 だけど明日も私は、彼が切り分けた林檎をねだるのだろう。

 風邪を引いた子供のように大事にされることが嬉しくて、何度も。何度も。

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