忘却
此糸桜樺
忘却
私は、山道を走っていた。言葉のままの意味で走っていたような気もするし、あるいは車を走らせていた気もする。どうやってこんな山奥まで来たのかさっぱり理解できなかったが、とにかく私はずいぶん長い間走っていた。
景色がびゅんびゅんと通り過ぎていく。まるで新幹線にでも乗っている気分だ。しかし、こんな山道に新幹線が通っているわけがない。それに、私は自分で走っているという実感があった。決して乗せられているのではなく、あくまでも自らの意思で行動している、という実感だ。全くもって受動的な感覚ではなかった。いわば、無意識の能動性、とでもいうのだろうか。
「おやおや、お嬢さん。どうかされましたか」
「え……ああ、すみません」
驚いて私が振り向くと、白髪の老人が不思議そうにこちらを見ていた。どうやら知らぬ間に、人の敷地内へ入ってしまったらしい。
慌てて元来た道を引き返そうと踵を返すが、肝心の道が見つからない。
あれ、どこから入ってきたのだっけ。
「えっと、すみません、出口は」
老人は訝しげに私の顔をじろじろと眺めた。すると諦めたように、はあ、とため息をついた。
「お嬢さん、お茶でも飲んでいかれますか。こんな山奥ですから疲れたでしょう」
「あの、いえ、その」
老人は私の返事を聞かないうちに、ずんずんと家の中へ入ってしまう。私は少し戸惑いつつも、老人のあとに続いた。
家に入ってみると、中はがらんとしていて、所々破けた畳と、机が一つに座布団が二つ。部屋の片隅にはタンスが重々しく鎮座しているだけの部屋だった。見たところ、テレビや掃除機といった家電製品は見当たらない。蛍光灯でさえも。
まさか電気が通っていないのだろうか。
「して、なぜこんな山奥に、お嬢さんはいらっしゃったので?」
ふわりと茶の匂いがたつ。
「……分かりません」
なんと言えばいいか分からず、ただ率直なことを述べた。老人は意外そうな顔で、しかしどこか上機嫌な様子で「そうですか」と頷いた。
「あの……帰る道を教えてもらえませんか」
「まあまあ、そう焦ることはないですよ」
ずず、と老人は茶をすする。あいにく、全く知らない人の家に長居するなど、居心地の悪いことこの上ない。ただでさえ話し下手な私が、雑談などできやしないのに。
かち、かち、と古時計の音が響く。静かな室内に唯一存在するその音は、時の流れをも狂わすような──そんな不思議な音色をしていた。
どのくらいの時間が経っただろうか。大した会話もしないまま、湯のみの茶ばかりが減ってゆく。あまりの気まずさに喉が渇く。この一杯を飲み終わったら帰ろう、と心に誓う。
すると、老人は時計をちらりと見やり、私の顔を伺った。
「そろそろでしょう。ついてきなさい」
老人はそう言って、ゆっくりと玄関へ歩き出した。特に断る理由もないので私もその後についていく。
外に出ると、美しい紅葉が見頃をむかえていた。
はて、今は秋だっただろうか。しばし考え込むが、どうにも季節が思い出せない。
確かに紅葉は秋の風物詩だ。しかし、今の季節が秋だと言うのには少し違和感を覚えてしまう。
寒くもなく、暑くもなく、涼しくもなく、暖かくもない──そう、まるで気温を感じないのだ。
不思議な、というより変な感じがした。
「お嬢さん、今の季節はいつだか分かりますか」
「秋、なのでしょうか。ですが、違うような気もします。こんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、なぜだか、今の季節を思い出せないのです」
「そうですか」
老人は、小さく「もう少しですね」と呟いた。まだなのか、という若干の苛立ちを含んだ声色のようにも聞こえたが、気づかなかった振りをする。
「あの、何が、もう少しなのですか」
「こちらの話ですよ。いずれお嬢さんも」
老人はそう笑いかけると、すぐさま無表情に戻る。
「そういえば、お嬢さん。名は何といいますか」
「えっと……あっ、
自分の名前を名乗ると、老人は不愉快そうな顔をして、じろりと私を睨んだ。老人のあからさまな顔に、思わず身震いしてしまう。
「では、この木に触れなさい」
木に手を置いてみる。ザワザワとした木々の音楽が、鼓膜の向こう側で響いている。なんだか心地の良い、全てを忘れてしまいそうな感覚になる。
一瞬だけ意識が遠のく。
ふらりと体が後方へと傾く。
はっとして体勢を整えると、思わず木から手を離した。
紅葉が綺麗だと思った。
今は秋なのだな、と思った。
「はて、すまないね。名は何だったかな」
老人はもう一度尋ねた。私は、ひとしきり首を傾げたあと、空虚で無味無臭な――空っぽの頭で答えた。
「……分かりません」
老人は満足気に頷いた。
忘却 此糸桜樺 @Kabazakura
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