4

 救ける。

 救けたい。

 だが現実は非情だった。

 時間だけが過ぎていった。


 オレは思いつく限りのすべてで、カンナの病気を治そうとした。病院を一軒一軒回って、医者に相談した。隣町の大病院にも行って、治したい子がいるんです、と協力を懇願した。図書館で、病気や薬の本を片っ端から借りて、夜通し読み続けた。何か自分でもカンナを治す手がかりを見つけたかった。治療費を稼ぐため、所持品をとにかく売ろうとした。少しでもカンナの親にお金を渡そうと思ったのだ。父親に助けを乞うことまでやった。いままでのことを謝って、何でもするから助けて欲しいと頭を下げた。

 その合間を縫って、カンナに会いに行った。

 しかし、カンナはあの日にオレと会って話したことで、ほとんど力を使い果たしてしまったのだという。

 両親はカンナと会わせてはくれたが、カンナは眠っていて、話すことはできなかった。

 手を握って、話しかけた。

 返ってくる答えは、手のひらのぬくもりだけだった。


 何もできずに一週間が経過した。

 カンナは、もう、限界だった。




     ◇◇◇




 居間で晩飯を自分で用意して食べていると、父親が入ってきた。

 気分を害したオレは、皿を持つと、自分の部屋に行こうとした。


「待て、啓太。一緒に食べよう」

「は?」

「久しぶりに」


 オレは困惑し、苛立ち、そうしている間に父親はテーブルについてテレビをつけた。流星群のニュースを放送している。


「流れ星か。そういや見たことないかもなあ」

「何?」

「啓太、今日、流星群一緒に見るか? 明日は土曜だし、深夜まで起きていても大丈夫だろ」

「……」


 黒々とした怒りが渦巻く。オレはこいつにも助けを求めた。でも何にもしちゃくれなかった。

 黙って、乱暴に皿と箸を持つと、居間を出ようとする。


「啓太! 最近、どうしたんだ。俺はおまえに……」


 やめろ。

 気持ち悪いんだよ、いまさら。

 オレは自室でイライラしながら飯を掻っ込む。窓の外に、夜の闇。

 夜空に、ちら、と光るものが見えた気がした。


 流星群。


 流れ星……?


〝ねえケイタ、知っている? 流れ星が落ちた場所には、不思議な白いお花が咲くのよ〟


 そんな話を、した覚えがある。


〝そのお花の花びらは、小さなお星さまみたいな形をしていて、それがたくさん星空みたいに開くんですって〟

〝それから、そのお花を手にした人が流れ星に願い事をすると、必ず願いが叶うの〟


「……!」


 オレは図書館で借りた本たちを崩し、漁った。

 薬草の図鑑を借りてあったはずだ。

 そうだ、あの本のどこかに――――




     ◇◇◇




 流れ星になんて祈らない。誰かが創作した話なんか信じない。

 オレは現実の理不尽に抗う。そのための力を、カンナにもらったから。

 だが、カンナは死ぬ。

 心が挫けそうだ。

 オレがそうなのだから、カンナはとっくに折れていてもおかしくはない。

 だけどまだ生きている。生死の境で、自らを繋ぎ留めている。

 カンナは言った。自分に絶望していると。おとぎ話が好きなのは、現実から逃げたかったからなのだと。

 知らなかった。カンナがそんなことを思っていたなんて。

 でも、だとしたら、なんて高潔さ。

 苦しむ自分を、見せなかった。代わりにたくさんの笑顔を見せてくれた。

 今更でも、応えたい。


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」


 オレは走る。夜の闇のなか、懐中電灯を振りかざし、目を皿にして、あの花を探す。

 大切な人を傷つけた。理解者にさえなれなかった。

 だけど、だから、いまこそ命を燃やそう。

 全部使う。使い切る。

 そうして最後に、ほんの一瞬でもいいから、カンナの笑顔をまた見たい。

 もしも、それができたなら。

 オレもおまえに伝えたい。


「……あれは」


 走りに走った先、貯水池の柵の向こうに、見つけた。

 白い星形の花弁。たくさんの、小さな花の集まり。

 カンナの語ったおとぎ話に出てくる〝願いを叶える花〟の、おそらくモデルになった植物だ。

 迷わず懐中電灯を口にくわえ、立ち入り禁止の柵をよじ登る。すぐに向こう側へ降りて、一帯を照らした。


「すごい……」


 小さな花畑ともいえる規模だった。それくらいにたくさん、斜面に咲いていた。

 一輪、見つかればいいと思っていたけれど、こんなにあるとは。

 これを全部持っていけば、カンナも驚くに違いない。

 しかも今日は流星群の日だ。

 夜空の下、本のなかにしかないはずの花を目の前に広げてやれば、カンナも、星に願いを託しながら幸せな気持ちで、……逝けるかもしれない。


「よし……!」


 オレはポケットに突っ込んでいたスコップを取り出すと、植物を掘り起こそうとして、しゃがんだ。

 足を滑らせて、体が転がった。

 音がくぐもって聞こえる。

 全身が冷たい。

 鼻と口に水が入ってきた。目もうまく開かない。

 もがく。シャツがべったり体に貼りついて、重い。

 貯水池の水は、夜闇のせいで、黒々とした墨のようだ。

 喉に水が流れ込んで、息が詰まる。呼吸ができない。

 脚を水底に伸ばす。足場がない。

 腕も脚も、いつもより力が入らない。

 疲労という鉛が体中に埋め込まれていた。

 オレもオレで、とっくに限界だったのだ。

 水面から腕を出して、何か掴もうとして、空を切る。

 足がつかない。深すぎる。

 岸まで泳がないと。

 いや、まずは酸素を。

 息を吸う。水も一緒に入ってきて咳き込む。

 岸はどっちだ。

 鼻と、胸と、頭が痛い。

 掴めるものが何もない。

 苦しい。岸はどこだ。

 息ができない。

 肺に激痛。

 水中は真っ暗だ。

 腕が上がらない。脚も動かない。

 口から大きなあぶくが出る。

 夜の池の底へ沈む。

 何も見えない。

 何も聞こえない。

 オレはカンナを救ける。

 カンナの最期を幸福で彩る。

 オレという存在に意味があるとすれば、それだけ。

 カンナ。




 カンナ……













 嫌だ。

 死んでたまるか。

 オレは両腕で水を掻いた。全ての力を使う。水面を目指す。

 池に落ちるとき掴んだのか、いつの間にか握り締めていた、あの花。

 離さない。

 この花を届けなくちゃいけない。

 オレの頭が、水面を裂いた。

 夜空が見える。

 一等星さえよく見えない、闇のなか。

 見つけた。

 流星群。


「逢いたい」


 心の声なのか、本当に叫んだのか、自分ではわからなかった。


「カンナに逢いたい!!」


 星の花弁が、燃える光に輝く。







 ――――それから、そのお花を手にした人が流れ星に願い事をすると、必ず願いが叶うの







 水中から突き出した拳が握る星の花弁が、炎を纏う。それはオレの汚れた手を、腕を、真っ白い光に染め上げる。直後、雷鳴のような轟音とともに、衝撃波が貫いた。星の花が灼熱の震動を放っていた。それに煽られ、貯水池の水面が巨大なすり鉢状にへこむ。煌めく星の花を掴むオレは、いつの間に、空中にいる。


 これは何だ。


 濡れていた服は乾き、短い髪からも水滴が吹き飛んで、バタバタとはためく。拳のなかの小さな星が、爆発しそうなエネルギーを発しているが、手を放してはいけないという確信があった。次の瞬間、オレは星の花に連れられ、夜空に向かってものすごい速さで飛び始める。まるで、引力に逆らって空へと落ちる流星だった。拳が、いや、全身が熱い。花火のような金色の光が闇に散りばめられる。無数の火の玉は回転し、飛び跳ね、閃き、尾を引いて打ち上がった。オレは空を裂く一条の稲妻だった。いくつもの流星群がすぐ隣をすれ違う。無限の力、それは激しくオレの体の中を巡り、奇跡を告げる天閃で満たした。


 何が起きている。


 すれ違う流れ星たちは、眼下に広がる住宅街の夜景に降り注いだ。家の窓から点々と漏れ出ていた人工の明かりが、色とりどりの星のきらめきに塗り消された。夜景を暗い泉とするなら、星屑は驟雨だった。数多の光の粒が泉を叩き、たくさんの波紋が広がる。複雑で偶然で、那由他のパターンをもつ、七色の光の波。オレはそれを見下ろしたまま、高度を上げていく。そして、気づいた。

 オレと同じ速度で上昇する星があった。

 暗闇を明るく照らすような光ではない。それでも、確かな、消えない光。


 刹那、理解した。

 かすれた声で叫んだ。


「カンナ!!」

「ケイタ……!!」


 すぅっ、と……

 飛翔の勢いが弱まって、オレとカンナは空にぼんやりと浮かんだ。淡い燐光を纏って、漂った。オレたちは磁石のように引かれ合い、やがて空中で抱きついた。くるくるとふたりで回転しながら、お互いをお互いの光で照らした。


「ケイタ! ケイタなのね!?」

「ああ、オレだ! カンナこそ、カンナなのか!?」

「ケイタ、体がとってもボロボロ……だいじょうぶ? 平気?」

「カンナこそ、病気は?」

「もう大丈夫みたい! なんだかすっごく、体が軽いの!」

「そうか……そうか! よかった! カンナ……!」


 カンナの匂いを感じる。パジャマのフリルや、長い髪が鼻先に触れて、くすぐったかった。あたたかい体温に安堵した。

 ゆっくり、じんわりと、安らぎが染み渡っていく。

 カンナがオレの腕のなかにいる。

 カンナが笑顔を弾けさせている。

 まぎれもない奇跡だった。

 おとぎ話の世界みたいだ。


 だから、オレは、わかっていた。


「カンナ。これは、オレの見ている夢なんだろう?」


 カンナの両肩を押して、すこし離す。大きな瞳を見つめた。


「ケイタ」


 カンナもオレの目をまっすぐに見つめ返してくれた。


「怖かったの。いずれ死んでしまうことじゃなく、なんにも為せずに、世界から消えてしまうこと。ご本に描かれた物語は、恐怖を忘れさせてくれたけれど、取り除いてはくれなかったわ」


 オレとカンナの周りでは、この瞬間もたくさんの光芒が渦巻き、跳ねて、ネオンライトのように彩る。


「だからわたし、待っていたの。苦しい運命の檻から連れ出してくれる、ピーターパンみたいな、だれかのことを」

「オレは」


 言いかけて、唇を噛む。なにか喋れば泣き出してしまいそうだった。そんなオレをカンナは、もう一度抱きしめた。優しく、ねむたい、髪の匂い。


「オレは、きっと、カンナにとってのそんな存在になりたかった」


 もう泣いたって構わないと思った。


「でも、なれなかった。オレもカンナも死んでしまう。死んだら、終わりだ。ぜんぶ無意味だった。この夢はまるで本物で、最後にカンナに会わせてくれて、だけど、どうせ死ぬなら、奇跡のうちに入らない。願いは叶わない」


 でも、こんなにカンナの体があたたかいから、ひょっとしたらこれはほんとうの奇跡で、オレがいま言ったことがぜんぶ間違っていてほしかった。終わりの夜に、すべてが始まる、絵空事。


「そうね」


 カンナは寂しそうにささやいた。


「これは、わたしの見ている夢だわ。走馬灯を見るのかと思ったけれど、ちがうのね。わたしの命は終わる。この夢は、奇跡にはならないのかもしれないわ。でもね、ケイタ」


 ぎゅう、とカンナの腕がより強くオレを引き寄せる。


「奇跡は、もう、起きたの」

「え……」

「絶望のまどろみで、あなたに出会った」


 ひときわ大きな彗星が横切り、カンナの姿を照らした。


「ケイタに出会えて、お話をして、うつくしい時間を過ごせたこと。それがわたしの奇跡。あなたはわたしを囲む暗闇をほんとうの光で取り払ってくれた。理不尽を、打ち砕いてくれたのよ」


 カンナがにっこりと笑み、細めた目から涙を滲ませる。


「ありがとう、ケイタ。わたしの運命を変えてくれて」


 長い睫毛をふるりと揺らす。


「わたし、生きていてよかった。うまれてきてよかった」


 濡れた瞳の水晶が、流星群を映した。


「大好き。ケイタ……」

「カンナ」


 真正面から、カンナの顔を見て、呼ぶ。語気の力強さにカンナはきょとんとして、目をぱちくりさせる。


 そうか。


 これまでの苦悩の日々。これから死んでしまうこと。

 そんなもの、ふたりで過ごした真実の時間の前では、無力に等しかったんだ。

 オレはもう、打ち克っていた。

 カンナがいたから。


「オレも好きだ」


 宝石みたいなカンナの目が、はっと開くのを見た。


「おまえが好きだ。……恥ずかしくて、好きなところとか、おまえほどには言えねえけど。でもおまえが、……好きだ」


 カンナは、ほんのりと朱の差した頬に、両の指先を添えた。口元がみるみるうちにふやける。瞳が潤んで、星の光を反射した。オレはためらわずに見つめ続けようとした。でも、カンナが上目遣いにずっと見てきて、勝てなくて、つい目を逸らす。


「な、なんか言えよ」

「ケイタ……」

「あ?」

「わたしは、いーっぱいケイタの好きなところを言ったわ?」

「う……」

「あーあ、わたし、拗ねちゃう。わたしはこんなにもケイタのことが大好きなのに、ケイタはちょっとしか好きじゃないみたいね。あーあ。あーあーあ」

「おまえな……!」


 反抗しようとしてふたたび目を合わすと、カンナは、悪戯っぽく笑みを浮かべていた。


「言って……?」


 ぐ、と言葉に詰まる。

 諦める。カンナには敵わない。


「カンナの……優しいところが好きだ」

「うん」

「なにかを、いつくしむ時の自然さ。やわらかくて、あたたかくて、優しいっていう言葉の意味のすべてをもつ、カンナが好きだ」

「うん」

「気高くて好きだ。苦しんでいるはずなのに、いつだって幸せそうに笑っていた、強いカンナが好きだ」

「うん」

「オレと出会ってくれたから好きだ。話してくれて、心をほどいてくれた。こんなオレなのに笑いかけてくれたから好きだ。笑顔が好きだ。元気なのに、どこか上品で、おまえのことをお姫様みたいだって思う。おとぎ話のような……でも幻じゃなく、カンナはそこにいて、だから好きなんだ……」

「うん……」


 カンナが顔をくしゃっとさせて、泣いて、笑う。


「うれしい……」


 涙を拭わず、またオレを抱きしめてくれるから、オレも、おずおずと背中に腕を回した。


「ケイタ……。ここに、いるのよね?」

「……うん。オレも、カンナも、ここにいるよ」

「舞い散る星も、ひかりの夜も、ぜんぶ、夢だけれど……それでも」

「うん。それでも、ほんとうだ」


 目の前に、世界がひろがる。


 宇宙のすべてが重なり合う。東京の雑踏にオレたちはいた。オーストラリアのエアーズロックにオレたちはいた。マリアナ海溝の深海にオレたちはいた。ナルニア国のケア・パラベルにオレたちはいた。太陽と月が回転する。無限の時間のなかを飛ぶ。中つ国のイムラドリスにオレたちはいた。アースシーのローク島にオレたちはいた。マーブル模様に混ざり合う世界のなかで、オレたちは幻想の旅路へといざなわれてゆく。夢の彼方へ行こう。がらくただらけの現実を塗りかえよう。かつては灰色の街にいた。色のない場所で過ごしていた日々がオレたちにはあった。けれどいま、色鮮やかな彩光がオレたちの周囲を跳ね回る。

 オレはカンナを見つめた。

 カンナもオレを見つめた。

 その視線の交点で、すべての理不尽は終わる。

 現実は、まぼろしに照らされ、真実だけが選ばれる。

 オレも、カンナも、ひとりだけでは幸せになれなかった。

 だけどもう、ふたりだ。

 ふたりでなら越えていける。

 絶望も。

 喪失も。

 憎悪も。

 欺瞞も。

 ふたりを蝕む、終焉さえも。


「カンナ。これからどうする?」

「ぜんぶの世界を見て回りたいわ!」

「そうかよ。付き合うよ」

「うん! ……あ!」

「ん?」

「その『そうかよ』の言い方、まるでゴンドラものがたりに出てくる、ポッポ卿のようね!」


 知らないよ。

 オレはすこしだけ笑った。






   【完】

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星ふる夜に死ぬ かぎろ @kagiro_

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