3
ある日、オレはカンナと公園に来ていた。カンナは自分の足で立っており、血色も良く、眩しそうに笑っていた。雲ひとつない青空の下で、オレはサッカーボールを蹴った。
壁打ちではなく、カンナとパスを送りあう。
カンナはたどたどしくボールを蹴り返した。
「カンナ! 蹴る時は足をこうだ、こう!」
「こう?」
「そうそう! 上手い!」
少しずつヒートアップして、カンナが思いっきり蹴ったボールが、見当違いの方向へいってしまう。「ごめんなさい、ケイタ!」謝るカンナの声を背に受けながらボールをダッシュで追いかける。それすらも楽しい。
ボールを止めて、振り返る。
「カンナ、いくぞ!」
オレはパスを再開しようとして、気づいた。カンナがいない。忽然と消え失せている。快晴の空は、虚ろにオレを見下ろしている。
「……カンナ」
さっきまでカンナがいた空間を見つめる。オレは佇んで、静かに呟いた。
「ごめんな。カンナ」
ベッドの上で目を覚ました。部屋の中も、家の外も、夜の暗闇だった。オレは仰向けに寝たまま、タオルケットの中に顔を埋めた。嗚咽を漏らす。どうしてこんな夢を見るんだ。カンナとはもう遊べない。カンナの病は治らない。
カンナは死ぬ。
オレのせいで。
破れるくらいにシーツを掴む。歯を軋ませて震える。隣の部屋の父親に聞こえないよう、声を殺して、吐くように泣いた。
◇◇◇
カンナとはもう会えない。
状況を知ることさえ許されない。
余命一ヶ月。
カンナに残された時間はあまりに短い。
七日経ち、十四日が経ち、二十一日が経過した。
一ヶ月が過ぎようとしている。
無力。
何をやる気も起きなかった。
学校に行く振りをして、街をあてどなく歩いた。ランドセルは適当な場所に置いていった。警察に補導されても困ると思ったからだ。
街には色がなかった。
人々の話し声も、何を言っているのか理解できなかった。
夕方になるまでぼんやりと歩き続けた。
途中、誰かに話しかけられた。興味がないから無視をした。するといきなり殴られた。
何だ、と思ってよく見ると、それは体格の大きな、六年生くらいの男三人だった。本当に知らない奴らだったが、その後ろの方に、見知った顔がいた。
同じ小学校のクラスメイトだ。オレはこいつを箒で叩いて泣かせたことがある。
復讐というやつか。
六年生たちが何かを言っている。生返事をすると、蹴りが来た。倒れて、されるがままに蹴られていると、無抵抗のオレに飽きたのか、唾を吐いて立ち去っていった。
道端に倒れたまま、自分の感情に少し驚く。
怒りが、なかった。
こんな時でも、こんな時だから余計に、カンナのことを思っていた。
理不尽と戦っているのよ、ケイタは。
そう言ってくれたカンナの笑顔が黒く塗りつぶされていく。
戦う力。
いまのオレには、それすら……。
まあ、どうでもいい。
心底どうでもいいな。
オレはよろめきながら立ち上がると、夕闇に浮かぶ電灯の下を、どこへともなく歩き始めた。
◇◇◇
二十二日目。オレはいつものように家を出ると、空っぽの頭のままで街をさまよった。
二十三日目。雨が降っていた。傘を差さずに家を出た。
二十四日目。
二十五日目。熱っぽさと倦怠感はあったが、家にいたくない。隣町まで歩いた。
二十六日目。道端に座り、誰かが捨てたビール缶を見つめた。
二十七日目。救急車のサイレンで気が動転し、無意味に走りだしたが、すぐに立ち止まった。
二十八日目。家に帰らなかった。
二十九日目。
三十日目。
三十一日目。草むらに横たわっていた。たくさんの思考が降ってきて、夜空に星がよく見えた。ときどき、息が止まった。カンナの笑顔をうまく思い出せないまま、宇宙の闇が覆い被さった。
三十二日目。
三十三日目。
三十四日目。
◇◇◇
三十五日目。オレは家で目を覚ました。父親の気持ち悪い手がオレを揺り動かしていた。不快だ。
「起きろ、啓太。来い」
「何だよ」
「何だよはこっちのセリフだ。おまえ、何したんだ?」
「あ?」
「佐々木とかいう人がおまえに用事があってうちに来ている。あの街外れの豪邸に来てほしいそうだ。どういうことなんだ?」
オレは跳ね起きて、めまいを起こし、そんな体に鞭打って起き上がると、玄関へ向かった。
◇◇◇
ぼろい服しかないが、一応の身繕いをして、カンナの父親についていく。白い高級車の後部座席に乗せてもらい、戸惑いながらもシートベルトをつけると、運転手がゆるやかにアクセルを踏んだ。
運転手も、隣に座るカンナの父親も、オレも、黙りこくっていた。
しばらく経って、オレは我慢できなくなった。
「あの……カンナが、まだ生きてるっていうのは、本当に……?」
少しの間を置いて、カンナの父親が「ああ」と答えた。
「よくない状態ではあるが、話すことのできる体力は、むしろ戻ってきている」
「それじゃあ……!」
「医師によれば、あと一、二週間は持ちこたえられるかもしれないということだ」
オレは口を噤む。死からは、逃れられないのか。
後悔と罪悪感で苦しい。
「甘奈が君に会いたがっている」
俯いていた顔を、上げた。
「甘奈は、君に会いたい一心で闘病している。体力が少し戻ったのも、君の存在があるからだろう」
カンナの父親はオレを見ない。それきり、話さなくなった。
窓の外に、あの赤い屋根が見えてくる。
◇◇◇
洋館は年季が入っていたが、すみずみまで行き届いた修繕と清掃により、清潔さと華やかさが保たれていた。明るい廊下を歩き、幅の広い階段を上る。木の手すりや、壁の至る所に彫刻のような紋様が刻まれており、つやつやと光っている。板張りの床は場所によっては少し軋んだ。
二階の奥にカンナの部屋があった。シックな木製の扉には慎ましやかな装飾と、『かんなのおへや』と書かれた手作りの粘土の板がかけられていた。
カンナの父親がノックをする。
「連れてきたよ、甘奈」
少し待って、それからゆっくりと扉を開けた。オレは促され、先に部屋に入る。カンナの父親は入らずに扉を閉めた。
ふたりきりだった。
やわらかな陽光が大きな窓から降り注いでいた。
子ども一人には十分すぎる、大きなベッドがあって、その脇にはさまざまな医療用の機械が備え付けられている。
そこにカンナが横たわっていた。
フリルパジャマの姿で毛布をかけられ、安らかな呼吸に胸を上下させている。
カンナの瞳が、オレを捉えた。
苦しそうに、顔を歪めて、涙を浮かべる。
「ケイタ……」
オレはよろめきながら、カンナのそばに寄った。
「カンナ」
「ケイタ……会いたかった……」
カンナは、泣きながらではあったけれど、儚く微笑んだ。
「ケイタ、ああ、ケイタ……うれしい……来てくれて……」
「カンナ。ごめん。ごめんな」
ベッドの脇に膝立ちして、カンナと目線を合わせる。カンナがゆっくりと毛布から手を伸ばす。オレはすがるようにそれを握った。小さく、痩せた手は、それでも温かい血が通っていて、カンナは、生きていた。
「ごめんな、カンナ。オレのせいで。ごめん。本当は。オレは。カンナを」
「ううん、いいの……。わたしの方こそ、ごめんね……」
「カンナ」
生きている。
頬まで痩せて、声も弱々しくて、目も焦点がブレ気味で。
だけど、優しいままで、笑ってくれる。
まだ生きている。
「死なないで」
オレは言った。声が震えて、言葉になっていないが、それでも。
「死なないで、カンナ。オレにはおまえしかない。カンナがいなくなったら、もうなにもない」
「――――」
「オレは独りぼっちだったんだ。誰かを殴って、怒り狂うことしかできなかったんだ。カンナが初めてだった。拳や暴言じゃなく、なけなしの優しさのすべてで応えたいって、思えたのは、カンナが初めてなんだ。オレはクズだから、それさえもうまくいかなかった。ごめんな、カンナ。死なないでくれ。オレはおまえを不幸にしかできない。でも幸せになってほしかったんだ」
「ケイタ」
カンナがオレの名を呼んで、オレの手をぎゅっと握り返す。慈しむような瞳の色に、戸惑った。どうしてそこまで、オレを赦す。どうしてそんなに優しくなれる。
どうして。
カンナが頬を染めた。細めた目から、涙が一筋、滑り落ちた。
「わたし、ケイタのことが好き」
世界の時間が止まって、永遠になった気がした。
「強いところが好き。可愛いところが好き。お礼を言うと照れてそっぽを向くところが好き。つらくても諦めない、頑張り屋さんだから好き」
カンナが、両手でオレの手を包む。熱い体温が伝わる。
「夢見がちなわたしの話をきちんと聞いてくれるから好き。わたしみたいに苦しんでいるから好き。わたしと同じで、自分に絶望しているから、好きよ。でも、おとぎ話に逃げるしかなかったわたしと違って、あなたはずっと立ち向かい続けた。だから好き。強くて、カッコ良くて、好き。あなたはどんな物語のヒーローよりも苦しい境遇のなかで、決して折れることはなかった」
カンナ。
違う。
オレは。
「だからわたしは、あなたのことが大好き」
カンナの指先がオレの頬に触れる。
そのまま首の後ろに手を回し、引き寄せた。
樹の上からでは、こんなに近いところからカンナの顔を見たことはない。
それくらいに目と鼻の先にカンナがいた。
カンナは微笑を浮かべて、オレの頭を抱き寄せる。
カンナの温もり。
そして、頬にやわらかな感触。
オレは遅れてその感触の意味に気づいて、あたふたする。
その様子を見て、カンナは、くすっと笑った。
「ケイタ。わたしも、初めてよ」
うっとりとした目で、オレを見る。
「ありがとう。ケイタ……」
そして瞼を閉じた。
「最後に、会えて……」
「カンナ?」
オレはカンナの名を呼ぶ。はっとして、医療機械を見る。波形は変わっていない。眠ってしまっただけのようだ。
すぅ、すぅと穏やかに寝息を立てている。
オレはそんなカンナの、平和そのものの表情を見つめている。
何時間も見つめていたような気がするが、やがてオレは立ち上がった。
拳を握る。
「
口を衝いていた。
「カンナ。おまえを、救けるよ」
ほとんど涙声だった。救けられる当てもなかった。カンナが思うオレの姿はきっと虚像に過ぎなかった。
だけどオレは誓った。
オレには、ない。力も知恵も根拠もない。
ただ無限の勇気だけが脈動を繰り返す。
それは、歪んだオレから生まれた、嘘みたいにまっすぐな、ほんとうの、何かだった。
誓った。
「必ず、救ける」
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