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「こんにちはっ、ケイタ! 会いたかったわ!」
「声が大きい、バレたらどうするんだ」
その日もオレはカンナのところを訪れた。太い枝に座り、幹に手を添え、体を安定させる。窓から顔を出したカンナは、ふふふ、ふふふと笑みをもらしている。
休日だった。普段は放課後の夕方に会っていたが、いまは昼下がりだ。穏やかな木漏れ日が、カンナの部屋の窓をゆらゆらと彩った。
「何でいつもよりご機嫌なんだよ」
「だって、日曜日にも来てくれるなんて、思っていなかったから」
「いや……気まぐれだし、ただの」
なぜか焦って、不格好な言い訳をしてしまう。何に対する弁解なのかが自分でもわからず、なんとなく、ぶすっとした。
そんなオレにもかまわず、カンナはにこにこだ。
「ケイタと一緒にお話するの、とっても楽しい! なぜかしら? あなたのお顔を見るだけで、なんだか最近、うれしいの」
「んあっ……あっそ。じゃあ来るのやめるわ」
「えぇーっ? ケイタも、このひとときが好きなんじゃなかったの?」
「はあっ!?」
素っ頓狂な声が出たが、ここは秘密の場所だ。カンナの親にバレたらまずい。慌ててトーンを下げる。
「な、なに言ってんだよ」
「だって、わたしと話す時のケイタ、すっごく眩しそうに笑うから……」
「……オレが?」
オレは笑わない。笑うことがあるとすれば、相手を嘲る時だけだ。
「オレが笑うわけないだろ……」
「えっ? でも、ケイタの笑顔、かわいいわ?」
「は」
「来てくれたばかりの時はちょっと笑うのを我慢しているのだけど、帰る間際になる頃には、すごく朗らかに笑ってくれて……そういう不器用なところ、かわいいって思っちゃう」
ぽかんとして、カンナを見る。カンナは頬を染めて、うふふ、と笑いをこぼした。
オレは顔の表面が熱くなるのを感じた。しかし、学校のクソ人間どもにぶつけるような暴言は一切出てこず、代わりに出たのは、「あ」とか「う」とか、よくわからない声だった。
そんなオレを見て、なぜかカンナは満足そうに小鼻を鳴らすと、
「今日は、そんなかわいいお友達のケイタに、贈り物があるの!」
と言った。
「おくりもの?」
「そう! プレゼント! わたしの手作りよ。ここから届くかしら……。んしょっ……」
カンナが窓から身を乗り出して、手を伸ばす。持っているのは、フェルトでできた、ちいさなぬいぐるみ。
「おい、落ちるぞ。危ないだろ」
「だいじょうぶ……!」
「投げろ。キャッチするから」
「そんなお行儀の悪いこと、できないわ! それに、キャッチできずに落としちゃったらどうするの?」
「わかったよ……」
オレも、左手で枝に掴まって精一杯右手を伸ばす。カンナの伸ばした腕がぷるぷると震え、危なっかしい。
「くっ……!」
「んんっ……!」
お互いがギリギリの体勢で腕を伸ばしたその時、左手で掴んだ枝が、わずかに、しなった。
距離が一気に縮まる。
オレとカンナの手が触れあった。
その予想外のやわらかさ、優しい感触に、オレは驚いてぬいぐるみを取り落としてしまった。
「あっ」
ふたりの声が重なる。ぬいぐるみは庭の地面に落ちて、すこし弾んだ。
オレとカンナは顔を見合わせる。
カンナが目をぱちくりさせて、それから、「もー!」と怒っているのか楽しんでいるのかわからない声を出した。
「落ちちゃったじゃない!」
「悪かったってば。ちょっと、びっくりして……」
「びっくり? どうして?」
「カンナの手が」
オレは言いかけて、やめた。
「わたしの手が、なあに?」
「なんでもねえよ」
「でも、おあいこね。わたしもびっくりしちゃったから……」
「そうなのか?」
「うん……」
カンナは両頬に手のひらを添えて、くすぐったそうに笑った。
「ケイタのおててに……触っちゃった! ふふふっ!」
どういう返事をすればいいのか、途方に暮れて、カンナを眺める。
ほんとうにうれしそうで、なぜか照れていて……オレは、そんなカンナを見つめれば見つめるほどに、心の奥底を締め付ける結び目がひとつひとつ、ほどかれていくのを感じていた。
◇◇◇
その日の午後も、日が暮れるまで樹の上で話した。
心の、決して埋まらないはずだった空洞が、カンナで満たされていく。
別れて、帰り際、洋館を振り返る。
また明日も来よう。
その次の日も、次の次の日も。
そうしたらオレもいずれ、カンナにお返しができるだろうか。
帰路を歩き始める。
もうすぐ陽が落ちる。
◇◇◇
「村崎君。ちゃんと反省しなくちゃだめよ。あなたにぶたれた中野君も、最初はちょっとからかいたいだけだったんだから」
「はーーい。反省しまーーす」
反省なんかするか、死ね死ね死ね。
オレは職員室から解放されると、早歩きで学校を去った。家に帰ると、ランドセルを玄関に投げ捨ててサッカーボールの入ったネットを手に取る。家の奥から父親の声がした。「おい、啓太。酒」無視して家を出た。
むしゃくしゃする。
衝動が全身を内側から引きちぎろうとしている。息を荒々しく吐く。胸の中にある不快感を抉りだして投げ捨てたかった。ネットのボールを引きずりながら、俯いて歩いた。
公園に着くと、カンナの邸宅の塀を見上げる。周囲を見回して、人の目がないことを確かめると、いつものように樹登りで枝を伝って豪邸の庭の広葉樹に飛び移った。
カンナの部屋の窓を見る。
カンナが木製のおしゃれな椅子に座って、分厚い本を読んでいる。
オレはなぜだか、泣きたくなった。すべてを話したくなった。慰めてほしかった。生きようともがいているだけなのに、みんながオレを責める。つらいんだ。カンナならわかってくれる気がした。オレの在り方を肯定してくれたカンナなら。それにカンナだって、病気という理不尽と日々戦っている。カンナといると、ひとりじゃないと思える。
オレは枝を少し揺らした。木漏れ日が動いて、カンナがこちらに気づいて微笑む。
窓が開いた。
「こんにちはっ、ケイタ」
カンナの声が弾んでいる。その嬉しそうな声を聞くだけで十分なはずだった。
でも、苦しい。
本当は、泣きたい気持ちも、切ない気持ちも、おくびにも出さずにカンナと語り合うつもりだった。
カンナの前にいる時くらいは世界と停戦状態でいよう。楽しいだけの居場所にしよう。カンナと一緒にいる幸福な時間を、笑って過ごしたい。そう思っていた。
「ねえ、ケイタ、いま読んでいる『クラゲ海の冒険』なのだけれどね、すごいの!」
カンナが手元の本のページを、興奮しながらめくっている。見せたいページがあるようだった。そんな様子を見ながら、オレは、オレ自身に愕然としていた。
今日、教室で虫の死骸を投げつけてきたクソ野郎を殴っている間、オレを遠巻きに眺めながら笑っているクラスメイトのカスどもの顔が思い出された。
安全地帯でへらへら笑いやがって。おまえら全員、殺してやる。
「そう、このページ! 見て、ケイタ!」
「カンナはさ」
オレ自身に愕然としたのは、今日、クラスメイトのカスの笑顔を見た時のとそっくりな感情がいま、生まれているからだった。
「カンナはいいよな、何も知らねえから」
「えっ?」
「立派なお母さんやお父さんに大切にされて育ってきたから、虐げられる人間がいることを想像したこともないんだろ?」
やめろ。
「オレに親はいない。殴る父親と、逃げた母親なんか、親じゃねえよ……」
違う。オレはこんな話をするためにここへ来たんじゃない。
「おまえだって本当はオレのことをバカにしてるんだろ。どいつもこいつもそうだった」
「ケイタ?」
「クラスの奴らはオレが授業で失敗するのを待ってて、失敗した瞬間にお祭り騒ぎだ。それに先生だってオレを可哀想な人間呼ばわりした。つらい境遇にある可哀想な子。成績の悪い可哀想な子」
「け、ケイタ」
「ふざけんな」
カンナが、ひっ、と喉を痙攣させる。
オレは止まれない。
「ふざけんなよ。オレはおまえらの本当の言葉が何かを知ってる。ウザい、バカだ、どうでもいい、そう思ってなけりゃクラスであんなにオレを攻撃したりしない。いちいちウザいから雑巾を投げつけてやろう、そしたら面白い反応するぜってそればっかりだ。やめときなよって言う奴もへらへら笑ってた。カンナだってどうせ、オレを理解しない。親に守られているから、オレがどんな酷いことをされたって本当の意味でオレの苦しみを理解することはない! どうだカンナ、知ってたか? 世界はクソで価値がないし、オレは、オレはそれ以上に……」
ただ憎かった。憎々しい気持ちをカンナにさえもぶつける、オレ自身のことも、憎かった。
「オレはそれ以上にクズなんだ」
終わりだ。
さらけ出してしまった。
きっと今度こそ軽蔑されたし、怖がらせてしまった。
カンナの顔を見られない。どんな表情をしていても、オレはもう、耐えられない。
世界に、価値はないと思う。だけど、そのことをダシにして怒りを撒き散らすオレには、もっと価値がない。
お別れだ。
カンナに暴言を吐いた。オレは、オレを受け入れてくれる人さえも傷つけずにはいられない。いままで攻撃せずに済んでいたのは運が良かっただけだ。こうなるのは時間の問題だった。
ここを去る。二度と戻ってきてはいけない。
償いの方法なんてわからない。
「ケイタ」
カンナの声が震えている。涙声だった。
泣いているのか。
オレは反射的にカンナの顔を見てしまった。
「ケイタ。ごめんね」
カンナは、大きな目から大粒の涙を流し、嗚咽を漏らしていた。
「ケイタがそんな悲しい気持ちでいたことなんて、わたし、知らなかった」
目立たない鼻から鼻水も出して、顔全体をぐしゃぐしゃにしながら、それでもカンナは目を精一杯開いて、オレを見つめる。
「ごめんね、ケイタ。ごめんね。わたし、弱いから、何もできない。きっとケイタのつらい気持ちも、わかってあげられない。どうしたらいいのかも、わからない。ごめんね」
謝るな。
謝らなくちゃいけないのはオレだ。カンナの気持ちなんて何一つ考えず、オレの暗さを押しつけた。カンナは、オレのために泣いてくれるほどに、オレの気持ちをたくさん考えてくれている。どうしてカンナが謝って、オレが謝らず、償おうともせず、逃げようとしているのか。同じじゃないか。暴力を振るう父親と。苦痛から逃げる母親と。結局オレは、オレが蔑んでいる人間たちと同じなんだ。
カンナが手のひらで涙を拭う。肩を震わせ、泣きじゃくる。
無力なオレは、自分の無力に立ち向かうことができない。
情けない。こんな終わりでいいはずがないのに。
せめてカンナに、償いをしなくちゃ。
ごめん、って、言え。
ごめん、カンナが気にすることじゃない、オレは大丈夫だ、
って、言え!
「帰る。もう来ねえよ」
太い木の枝の上で、幹に掴まりながら、オレは立ち上がった。
全身が内側から張り裂けそうだった。
オレは、そうか、こういう人間なんだ。
カンナはオレに理不尽と戦う力があると言ってくれた。でもオレの方も、他者を理不尽に傷つける側だった。
オレたちは二度とわかり合うことはない。オレの側に、その資格がない。
背を向けた。
だけどきっと、オレはこうとも望んでいた。
引き留めてほしい。
「じゃあな」
「待って!」
カンナ。
ああ、カンナ、こんなにもオレは醜いのに。
「行かないで、ケイタ……」
オレは。
「ケイタ……わたし、あなたともっと話したいの……だから行かないで……」
オレは、めちゃくちゃな気持ちになった。
「うぅ……ケイタ……」
オレはめちゃくちゃな気持ちだった。カンナのことが愛おしかった。カンナのことが憎らしかった。殺してやりたかった。抱きしめたい。甘えたい。謝りたかった。悲しませたくなかった。悲しませたい。どうしたいのか、どうすればいいのか、わからなくなった。カンナに、幸せになってほしい。そのはずなのに、カンナがオレのために泣いていて、そのことが嬉しくて、ああ、なんて穢れた感情だ。オレは必ずカンナを不幸にする、その予感があった。消えてしまいたくて、その通りに消えるべきだった、のに。
「カンナ……オレさ……」
弱々しい声が、自分の喉から出たものだとすぐには理解できなかった。
「オレ……まだカンナと……一緒に……」
一緒にいたい。
世界でひとりだけのカンナと。
言い終わる前、窓枠が、ガタッと揺れる音がした。
何だ?
振り返る。
カンナが窓縁に突っ伏している。息が小刻みになり、荒い。
小さな背中が、激しく上下している。
明らかに様子がおかしい。
「カンナ?」
異変を見て、オレはカンナに近寄ろうと枝の上を進んだ。それと同時にいろいろなことが起こった。ノックとともに女性がカンナの部屋に入ってきて、カンナの様子を目の当たりにし、「お嬢様!」と叫んで駆け寄った。オレは枝の先端に近寄りすぎて、バキッという音とともに枝ごと落下した。「誰だ!」男の声がした。庭の地面に落ちたオレの方へ、壮年の男がずんずんと歩いてくる。何人か、他にも集まってきた。オレは逃げようとしたが捕まえられ、正座させられた。
それから、目まぐるしく出来事が回っていった。
カンナの両親に責められ、なじられ、追い出され、二度と来るなと釘を刺された。
そのなかで、いくつかのことを知った。
カンナの病気は治療が不可能。
カンナの病状は悪化していて、それはオレが体力を使わせてしまったのが原因。
カンナの余命は、あと一ヶ月。
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