星ふる夜に死ぬ
かぎろ
1
現実は暗い。
現実に救いはない。
現実が、憎い。
どんよりとしていた。この町の工場はもくもくと煙を空へ吐き出し、無機質な住宅街には色がない。曇天のせいで太陽は行方不明。オレはこの町が嫌いで、町の方もきっと、オレのことが嫌いだった。
かつて、小学校で七夕の短冊作りをしたことがあった。オレは頭を捻って、短冊に願い事を書き、クラスメイトと同じように笹に飾り付けた。するとクラスで一番背が高い奴がオレの短冊を見て、笑った。
「なにこいつ、『お母さんとまた一緒に暮らせますように』だってよ。マザコンじゃん」
オレはその頃からクラスのいけ好かない奴らにマークされていて、ことあるごとに攻撃を受けていた。そいつの場合は一番ひどくて、オレの家族のことをばかにしては、左右非対称の皮肉な笑みで嘲ってくる。
近くに掃除用具箱があった。オレはその中から箒を掴むと、柄の部分でそいつを殴った。最初の方は抵抗してきたり、別の奴が介入してきたりしたが、やがて暴れているのはオレだけになった。そいつはうずくまって泣きながら謝ってきた。オレは構わず殴り続けた。そういうことが何度もあって、オレは学校の問題児扱いをされている。
放課後になるとオレはいつも、街外れの公園でサッカーボールを蹴る。ひとりでただひたすらに壁打ちをする。すぐにかんしゃくを起こして暴れるオレには友達がいない。でも、こうしてボールを蹴っている時は、とても落ち着いていられた。
気持ちが乗ってくると、壁打ちも激しくなる。
少し気合いを入れて蹴りすぎてしまった。ボールが変な方向へ飛んでいく。
あ、と声が出た。
ある家の塀を越えていってしまったのだ。
よりにもよってそこは近所でも有名な洋風の豪邸だった。どうしよう? うちは貧乏だ。ボールをまた買ってもらえるとは限らない。ボールがなければ、暇な時の時間潰しがつまらなくなる。
オレは豪邸の塀の近くにある樹を登った。
樹から塀へ飛び移る。樹登りは得意だったから、余裕だった。
塀の上から見た庭には、大きな広葉樹が植わっていた。サッカーボールはその枝の間に引っかかっていた。オレは塀から広葉樹に移ると、ボールを無事救出した。不法侵入しているという意識は薄い。なんとなく、地面じゃなく空中を移動してるだけだからセーフ、だと思った。
「ピーターパン?」
鈴の転がるような声がして、オレはびくっと肩を震わせた。
オレのいる枝の位置から、二階の窓辺がよく見える。
そこにはフリル付きのお姫様みたいなパジャマを着た少女がいて、睫毛の長いまんまるの目でこちらを見つめていた。
オレは慌てた。
見つかってしまった。
どうにかしてごまかさなくては。
「にゃ、ニャーン……」
猫の鳴き真似をしてみる。自分でもばかばかしいが、とっさに思いついたのが、猫の振りをして逃げようという作戦だった。慎重に枝の上を移動する。
くすくす、と笑い声がした。
「あなた、ピーターパンじゃないわね。猫さんの真似も、ちょっとへたっぴ」
「う……」
「あなたはだあれ? どうして、そんなところにいらっしゃるの?」
逃亡は諦める。オレは弁解するために、枝に座って二階の窓辺の少女に顔を向けた。
「サッカーボールをここまで飛ばしてしまって、取りに来たんだ。すぐ帰るから、見逃してくれよ」
「まあ! サッカーボールだなんて。あなたは、サッカー選手なの?」
「はあ?」
「知っているわ。サッカーというスポーツがあって、いろいろな国の人たちがボールを蹴り合ってゴールに入れた数を競い合うのでしょう? もしかして、近くで試合をやっているの?」
「なわけないだろ。試合するなら広い場所がないとダメだし。だいたい、オレはサッカー選手じゃない」
フリルパジャマの少女は、残念そうに眉を下げた。
「なあんだ……。でも、確かに、テレビで見る選手よりも、あなたは小さいわ。わたしよりは、大きいみたいだけれど……」
「何なんだよ。とにかく、オレは帰る。家の人にチクったりすんなよ」
「ちくる?」
「あ? ……言いつけるって意味」
「んー……」
少女が思案し、細い指先を小さなあごに添える。
いたずらっぽく口角を上げた。
「わたし、忘れんぼうだから、あなたにそう言われたことを忘れて、言いつけちゃうかもなー」
「はあ!?」
「だから、ねえ、あなた。また会いに来てくださらない? こうして、窓辺でお話ししましょう。その時にもう一度、『親に言いつけたりしないでほしい』って言ってくだされば、わたし、言いつけずに済むかもなー」
「なんだよそれ……」
「ねえ、お願い」
少女が祈るように両手を組んだ。
オレは、その芝居がかった姿の違和感のなさに戸惑う。
「わたし、話し相手がほしいの」
上目遣いの大きな瞳に吸い込まれるような錯覚がして、オレは樹から落ちそうになった。実際には少しバランスを崩しただけだったが、なぜだかそれが恥ずかしくて、顔を逸らす。なんだこれ、と思った。そう思った理由すらわからなかった。オレは自分が「……わかったよ。また来る」と返事をしたことにも戸惑った。なにを請け合っているんだ、オレは。
「やった!」
素直に喜ぶ少女の笑顔。オレは悪態のひとつも吐いてやろうと口を開きかけて、閉じた。少女の部屋の扉がノックされたからだった。「お嬢様、失礼します」そう聞こえてきて、ドアノブが動く。少女は素早くオレにウインクすると、カーテンを閉めた。オレは憮然としつつ、樹の上を慎重に移動し、塀の上に移る。えい、と飛び降りて、豪邸を脱出した。
少し歩いて、振り返る。
令嬢の住まう洋館といった趣の豪邸は、色のないこの街の中にあって、鮮やかな赤い屋根をしていた。
◇◇◇
オレと少女は夕方になると会うようになった。
オレが樹に登り、枝を伝って少女の部屋の近くまで行く。カーテンは開いている。パジャマ姿の少女はオレの姿を確認すると、にこりと笑って窓を開けるのだった。
少女はカンナという名前だった。オレとカンナはさまざまなことを教え合った。カンナは難しい名前の病気にかかっていて、幼い頃からずっと家から出られていないのだそうだ。家にいる間、何をしているかというと、ひたすら外国の絵本や物語を読んでいるのだという。そんなことじゃ、もったいない。オレがそう呟くと、カンナは外の世界のことを知りたがるようになった。オレは、オレの知っている範囲のことを教えた。学校で流行っているダンスのこと。世間を熱狂させているマンガのこと。カンナはいつも新鮮に驚いてくれた。独特の比喩で、それを表現した。オレが、台風で雨風が激しくて学校の奴らがみんな騒いでいた時の話をすると、カンナは、まるで狼さんに吹き飛ばされそうになる三匹の子ブタね、とくすくす笑った。
浮世離れして、夢見がちなカンナは、伝説や迷信を心のどこかで信じているらしかった。
その日も、こんな話をした。
「ねえケイタ、知っている? 流れ星が落ちた場所には、不思議な白いお花が咲くのよ」
オレは樹の上でわざとらしく「また始まったよ」とうんざりとしてみせる。しかし、こういう話をする時のカンナはとても楽しそうで、聞いてやるのもやぶさかではなかった。
「そのお花の花びらは、小さなお星さまみたいな形をしていて、それがたくさん星空みたいに開くんですって。それから、そのお花を手にした人が流れ星に願い事をすると、必ず願いが叶うの」
「証拠は?」
「ご本に書いてあったわ!」
カンナはファンタジーの児童文学を見せてにっこり笑った。そのあまりの純粋さに、オレはなんだかばかにする気にもなれず、「そうかよ」とだけ言った。カンナはオレより二歳年上の中学一年生なのだが、そうとは思えないほどに幼い。本の中の不思議な世界や魔法の国をたくさん知っている代わりに、現実のこの世界についてはあまりに無知で、オレはそんなカンナを、おとぎ話のお姫様なのではないかと疑うほどなのだった。
「で、カンナ。それが本当のことだとしたら、何を願うんだ」
「わたし? わたしは……たくさん!」
窓辺でカンナが目の奥をきらめかせる。想像の流れ星に祈るかのように、両の手指を絡ませた。
「指輪物語の世界や、ナルニア国に行ってみたい! ゲド戦記のアースシーを船で旅して、世界の果てを目指してみたいわ! ジブリの世界に行くのもいいわね。いろんなファンタジーの世界を歩いてみたい!」
「まず病気を治すところからじゃないのか?」
「それはもちろん最初にお願いするわ? こんな身体じゃ、冒険できないものね」
「そんなにたくさん、流れ星は叶えてくれるものなのかよ」
「でもね? わたし、最近、新しいお願い事ができたの」
「へえ。何?」
秋の風がどうと吹いて、窓の方へと吹き込んだ。カンナの髪がぶわりとなびき、フリルが揺れる。オレはカンナが風邪を引かないか心配になったが、一方のカンナはというと、願い事を思い浮かべるのに夢中だ。
「外の世界に行きたい」
その表情は希望に満ちあふれていた。
「このおうちの、外へ行きたい。ケイタの話を聞いていて、外の世界ってすごく楽しそうなところだと思ったわ。わたしも大都会の夜景を見てみたい。東京スカイツリーの根元に立って、見上げてみたい。サッカーや、いろんなスポーツをしてみたい」
そうか。
そう思えるのか、カンナは。
うっとりと頬を緩めるカンナに、なぜか見とれていた。理由の知れない安堵感がオレの内側に生じていて、戸惑う。少しの間、沈黙があって、それを埋めなくちゃいけないような気がして、オレは「治療が進んで、病気が治れば、その願いは叶うんじゃないか?」と言った。
カンナはそれを受けて、一瞬きょとんと固まり、それから、小さく笑みをこぼした。
「そうね」
その微笑は寂しげに見えたが、気のせいかもしれない。
オレの方こそ、笑顔がぎこちなかったかもしれない。カンナが思っているほど、世界なんてのには価値がない。父親が母親に暴力を振るい、母親は息子を見捨てて逃げるこの世界。オレはそんな世界に生きている。クラスメイトも、先生も、道行く人までもが敵に見える。滅べばいいと思っている。未曾有の大災害が起きて、学校が、オレの家が、遊んだ公園がすべて焼け野原になったとしても構わなかった。カンナの部屋と、この樹の上さえ無事で、いつまでもふたりで話せさえすればよかった。オレにとっての世界はここだけでよかった。
◇◇◇
次の日も、その次の日も、オレはカンナに会いに行った。「そんなにわたしに会いたいの?」とくすくす笑われた。オレはなぜだかカアッと顔が熱くなったが、その感覚は怒りとは違い、どこか心がむずがゆくなるような熱だった。「暇なだけだし」と返すと、カンナは「ありがとう」と微笑む。お礼を言われるとは思っていなくて、狼狽した。
ある日、同級生と喧嘩をして頬を擦りむいたまま、カンナの元を訪れた時があった。校庭で遊んでいて転んだのだ、と説明すればいいと思った。
しかし、カンナは鋭く見抜いた。
「そのほっぺたの絆創膏。ぶたれたの? もしかして、喧嘩でもしたの?」
「……いや、違うけど」
「嘘ね。ケイタは嘘を言う時、右上を向く癖があるもの」
「な」
「それに、なんだかケイタって乱暴な言葉遣いだし、誰かと喧嘩をしてもおかしくないと思っていたわ。やっぱりね……」
「なんだよそれ……」
オレは動揺し、それから不安になった。幻滅されたのではないかと思ったからだ。お淑やかなカンナは、暴力を嫌っているだろう。オレのことを軽蔑してもおかしくはない。
「ケイタは、喧嘩が強いの?」
「……まあ、うん。負けたことはない」
「すごいわ! まるでヨハンセン船長のようね!」
「はあ?」
カンナは海賊が主人公の物語の話を始めた。腕っぷしの強い海賊が、宝島を目指す話だ。聞いていてもよかったが、オレは途中で遮った。
「カンナは、オレを軽蔑しないのか?」
「どうして?」
「えっ。だから、オレは喧嘩の常習犯で、他人を殴ったり蹴ったりしてて……」
「戦っているんでしょう?」
「は?」
意味がわからず、間の抜けた声が出た。カンナはそんなオレを見て、眩しそうにする。
「理不尽と戦っているのよ、ケイタは。その手段は確かに間違っているかもしれないけれど……でも、戦う力は、わたしにはないものだわ。いろんな理不尽に勝つ力、わたしがほしくてたまらない力が、ケイタにはある。あなたのそういうところが、わたしは、カッコいいと思うの」
最後まで言ってから、カンナはハッとして、口を噤んだ。夕焼けのオレンジ色が、カンナの頬にも差す。オレの頭の中ではカンナの言葉が何度も何度も反響していた。跳ね回るその言の葉を、ひとつずつ捕まえて心の中の宝箱にしまっていかなくてはならず、オレはしばらく黙ってそれに集中した。
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