俗物先生

おばけがでたよ

俗物先生


 先生と言われるような人間を私も好かない。

これは先生と言われる者へ辞職を迫るものでなし。

先生が先生と呼ばれることで出来上がる悪列な俗物醸造ぞくぶつじょうぞうの機構へ私は嫌気がさしている。


 そもそも先生というものは後生との相対的視点から「先立ち生まれ後生より多くを熟知したる敬うべきひと」という形で出来上がった呼称であろうというところである。しかしながらいまどきそのような儒教的思想も根を枯らしたのであろうか、いまではその呼称そのもののほうに金の価値があり、しかしながら人間型にピカリと胸を張ったそれを後生が思い切って叩き割るに、中身はまったくの空洞であることも少なくない。

そんな現在に先生的役割を担った者の、取り巻きからの先生、との呼びかけへの揚々とした呼応に私は気を悪くする。

 つまり、敬うに足る成果への過程としてそこに存在するのであろう先生的人物に対し「先生」などと早とちって呼び掛けることで彼は早々に評価を得たと認識を誤って我こそ先生自体であると自称す、すなわち未完的道程における過程的先生の完成的先生という自己錯視と同時にまた他人へも過程的先生への錯視の強要が起こされ、彼の詐称に留まらず、慢心の道程への無自覚下における自己選択までもを引き起こす、この循環の機構それこそが小癪こしゃくな悪だと、私が言っている。

俗に言う先生方への直接的愚弄罵倒ぐろうばとうはこれでいて控えているつもりである。


 私が個人として考えるに、まことの先生、美しい先生というべきものは、師と弟子の関係に介在するこの間である。師を仰ぎ見る弟子の視線、ここに先生といわれるものは存在するのであり、便宜べんぎ上そう呼称される人物そのものは、先生の完成を待つひとかたであることに過ぎはせぬ。


 しかしながら、どの資材が欠けようとも「先生」は完成しない、この観点に立ち、例えば生徒、と言える彼にも生徒たる資質が要される。お互いがお互いを見下し合う、また一方からでも拒絶、否定し合うような仲では、これはあまりに健全のほかである。


 こうやってひとり淡淡嬉嬉として居間でひとり言葉遊びをしていたところ、あるところから訪ねてきた人間は私を先生と呼び始めた。これはこれとて悪い気はしないものだ、と言ってはみるけれども、そんなちっぽけな肩書きにさえこう浮ついてしまう私は多分に漏れることなく俗物なのである、からして、私に先生と呼ぶのは、これからのお互いのためにはよしてほしいものである。


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