二.



 湿気が風にまぎれて、入り込む窓がある一室。もうすぐ夏にもぐり、初夏の水車が回りだす。その合間にいつまでも滞留しているのは、もう女生徒と私のいつのまにふたりきりだった。


 彼女は、会話の途中になって「はい」と言って、まばゆそうに、細く開けた目の上のまつ毛から覗きあげるようにしばらくこちらを見て、そして俯いた。


 机の縁へ腰掛け夕陽を背に受けていた私は、目の前の椅子へ掛けていた彼女に一声をかけ、片腕を差し伸べてみた。彼女は戸惑いながら手を取り、立ち上がってきた。だからそのまま引き寄せてみた。筋力差に少しよろめいてしまった、彼女を、彼女をそのまま胸で包み、やがてしっかりと抱き直し、もうかける言葉も捨てて、私は黙ってしまった。彼女も同じように、何も言わなくなる。


 「……言葉は、要らないね」


 彼女が自身の意思の決定を沈黙によって回避している、そのことへの皮肉のようにも私は言った。だが、ほとんど全てと言っていいくらいにその台詞はあるがままの、深みもない実体も何もありもしない、雰囲気くらいしか持ち合わせて無いものなのだけれども、この状況を考えるに、彼女には、こう聞こえたかもしれない。


 あなたとならば心通じてみようかしら。私ならばあなたのことは、受けとめられる気がします。そのようなことを、聞いたのかもしれない。


 指示の通りに並べられた大勢の小さな人間、私はたった一人、物言いたげなあなたをここから抜き取り、柵から抱え上げ、こちらへ移し、そう、あとはこちらで面倒を見てあげるから安心なさい。この広大な大地が、どのような翳りをよぶというのですか。さあ、そんな安寧な約束をしたつもりがあると思いますか。君が柵を跨ぐときの肌着、そして露出した肉質、滑らかな表皮と貯蔵された脂肪によって空間に彫刻される、女性性。これは乳汁滴る、仔羊のステーキですね。


 事実の無いまま、あたかも、事実があるかのように思わせたならば、それは、もうどのような仕方も無い、偶然の生み出した手品であったのかもしれない。


 彼女の名を声に出し、彼女の顔が私の胸から離され、そんな顔に埋め込まれた、出来てせいぜい十数年目の瞳が、私の目と見合わさってきた。彼女の潤んだものには思い做しか、安らぎが浮かびあがり、眉間、眉、唇、頬と中心から外へ向かって顔の全貌に波及している。


 今度こそは、永く見つめた。今は、もう、授業のためのむくろでは無いのだということを示しました。親類に頼りきるように、私を見つめ受けていた。その瞳を眺めたまま、自然に彼女の腰に腕を降ろしたら、そして顔にかかる髪に目をやる。片手の指で顔にかぶさった、束から離れてしまったこの髪を顔からどかして、また眺めてみた。ぽかんとした顔は、少女であった。可愛らしいのでふふふ、と含み笑いになってしまった。まずい。ところが次第に、男を知りたがり、男を求める女のような、そのような女の色目に変わっていって、もはや彼女は体自身から私を希求しているように思われた。皮をむけば、ずうっと実の見つからない玉葱のような、いつまで経っても、ただませているだけの女の、その好奇心のようだった。君はやがてきっと安い女に成る。でもだって、私はそれでも良いのだから。私の興奮は最後の自己抑制を守り、唇の吸う場所をなんとか彼女の頸筋に逸らし、唇に有るおんなの子の気品というものに媚びたが、彼女が吐息を私の耳に当て、あとは真っ白に解き放たれた。


彼女は本当には何を言いたかったのか、


何かを伝えたかったのか。


仮に事実として救って欲しかったならば、たとえ何から逃れたく思うのかわからなかったのであっても実際にそこで何かを言っていたならば、教師は救う手立てを取らざるを得なかったろうが、言わなかったばかりに彼は教師という立場を利用し、彼女に目をかける素振りをしながら彼女との情事にまでことが及んだのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

レスキュー おばけがでたよ @obake-ke

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説