十三月三二日銀曜日

川谷パルテノン

サーカス

 里美さんが教科書の一文を読み上げた。

「幾時代かがありまして 茶色い戦争ありました」

 とりわけ過去の産物はこの詩もまたその一つだったがさらにはその詩の中であっても過去たる戦争とやらを僕はよく知らない。それが流れ流れて今日この日、里美さんの口から茶色い戦争と生の声で発せられたのだ。里美さんは僕の席よりも後ろにあって、わざわざ振り返って耳だけでなく目でもそれを味わいたいのはやまやまだったが儘ならぬのが十代というもの。

「サーカス小屋は高い梁 そこに一つのブランコだ

見えるともないブランコだ」

 透き通った声が最早空気であり、目は儘ならずとも鼻でそれを感じることができた。もう要らぬ瞳は閉じて深い呼吸をする。僕はどこかでそれを気色の悪さとする冷静さを持ち合わせていたが、いざ土俵に上がれば勝るのはしみったれた欲の塊なのだった。どうにもこの気持ちを足早に持ち帰り一人部屋の中で堪能していたいのではあるが、僕はまだ常識などに縛られてブランコの揺れのように行ったり来たりをやきもきとしていた。

「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」

 中也が記したこの詩の中でもっとも音であるこの一節に里美さんの声が乗る。僕はこの教科書に載せる作品を選定した方々について跪きながら感謝を示したい気分だった。ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん。

「ちょっと吉田、あんたさっきから何笑ってんのよ」

 僕が里美さんと中也の織りなす奇跡について至福の中にあるのを邪魔する道化がいる。サーカスであってもこの詩にピエロは介在しない。引っ込んでろよ。

「聞いてんの やめなよ 気持ち悪い」

「うるさい ちょっと静かにしてくれないか」

「気持ち悪いから気持ち悪いって言ってんのよ」

「黙れよ!」

 僕の「黙れよ」と里美さんの「屋外は真ッ闇 闇の闇」がちょうど被さった。僕は担任に咎められ、皆から訝しげに見つめられていた。ふと振り返ると里美さんも僕を見ていた。居た堪れずに飛び出てひたすらに走ることになった。


 高校ともなると校庭、或いはグラウンドに遊具はない。ここはサーカスにはなり得ないのだ。ただ一面に砂が舞い、遠くの空がひどく青かった。僕を追いかけてきた影は息を切らせてこう言った。「莫迦じゃないの!」

 どうしてこの道化は僕に付き纏うのか。

「戻るよ」

「ほっといてくれ」

「怒られるよ」

「もう遅いさ」

 道化がもう一言何かを言いかけた時、窓、ちょうど僕のいるクラスの教室あたりのそれが開いて里美さんが顔を出した。

「吉田くーん 戻ってきなよ」

 僕はすっかり機嫌を取り戻して腰を上げた。

「なんでよ」

「なにが」

「なんで里美ならそんな素直なのよ!」

 何を言っているんだこいつは。そんなの当たり前じゃないか。何故泣く。僕にはわからない。教室に戻るべく歩を進める度、何故か立ち止まって泣いている三原民子との距離が開いていく。お前だって言ったじゃないか。ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん。足取りは軽やかだ。

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十三月三二日銀曜日 川谷パルテノン @pefnk

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