第58話 玉虫と鏡
秀英と手をつなぐのは、これが最後になるかもしれない、と小月は覚悟した。秀英を傷つけてしまったことはたしかなのだ。
温かい手に導かれたまま、政堂を出て、階の上から一緒に空を眺める。胸中のやましさが浄化するような、見事に澄み渡った空だった。
「ここからは切り取られた空しか見えない。美しく乾いた空しか」
「空の下をご覧ください。美しく乾いた空の下に暮らす人々が見えます。陛下、私は過去の夢にはなりたくないのです。陛下とともに、今を歩んで、未来を夢見たいのです。その形は、かならずしも夫婦になることではないのかもしれませんが」
「しっ。今はまだ結論を急ぐな。私にも夢を見させてくれ」
その時、小月の髪に虫がとまった。七色に輝く玉虫だ。
「おや、珍しいな。こんなところにも迷い込んでくるとは」
小月は秀英の手を離して、玉虫を手に取った。だが玉虫はすぐに飛んで行ってしまった。淋しそうな顔をする秀英を見て、小月は小さく笑った。
「玉虫はいつも陛下のお側におります。皇都には沢山の玉虫がいるのですから」
「町のはずれに行けばそりゃ……あー、禁軍の玉虫のことか? いや、そうではないな。うん、まあ、言いたいことはわかるぞ」
藩貴妃も胡貴妃も、張包も李医師も、南街区のみんなも、もちろん左右丞相だって、玉虫のごとく煌めいている。もちろん、秀英も小月も、だ。
きっと玉虫は自分が美しいことを気づかないのだ。誰かが鏡にならないかぎりは。
「小月、私達はいつかきっと、互いの鏡になるだろう」
柔らかな風が小月の頬を撫でるように吹き抜けて空に登っていった。
物価が上がり、民が困窮する兆しを見せ始めると、藩右丞相はしぶしぶながら認めた。「陛下には税の減免を上奏した。病が蔓延した都市、西国と境を接する町にも認めよう。陛下のご聖恩をあまねく天下に広く知らしめる機会となるだろうからな。言っておくが、品格がどうのと言われたことを根に持ってはいないぞ。儂を黙らせるための方便だったとわかっておるからな。陛下に比べたら儂は……痛くも痒くもないわ」
張左丞相は皇帝に忠告した。「西国に弱みを見せるわけにはいきません。いざ戦となれば、民の負担は大きくなり、戦費がかかりすぎて藩右丞相が憤死しかねません。民の慰撫に心を砕かれませ」
数日後に帰郷する両親は小月にこう言い残した。「小月、お前は今ようやく蕾を結んだ花だ。どんな花が咲くか、誰に愛でられるかはわからないが、私達はどんな花であっても誇りに思うだろう。偽りではない道を選びなさい。……それから、鈴鈴を頼むぞ」
鈴鈴は宣言した。「あーあ、姉さんが秀英兄と結婚したら私は皇帝の妹になれたのに。そしたら高位高官の家に嫁入りも可能だったかも。あ、でも諦めたわけじゃないのよ、秀英兄のこと。せめて女官にしてくれって頼んでみたの。そしたら両親とお姉ちゃんの許しさえあれば構わないって。身元保証人は秀英兄がなってくれるって。え、年季明けまで出れない? 逆でしょ、それまでしかいられないってこと。だからずっと後宮にいるために秀英兄に嫁いでみせるもん。そのときは……お姉ちゃん、恨みっこなしよ」
李医師からはこう誘われた。「俺のことを太医に推薦するって南岩がうるさくてさ。あいつに恩義はあるけど俺は堅苦しいのは向いてないから断ったよ。とはいっても来年の流行り病が気になるし、しばらく皇都でやっていこうと思う。藩右丞相からもらった褒美を元手に小さな医院を開設する予定だ。小月、どうだ、俺の弟子として医術を学ぶ気はないか」
劉玉虫禁軍統領からも声がかかった。「牢の中で体を鍛えていたんだって? 筋肉がつきやすい体質だな、もったいない。私が剣技を教えてやろう。軍隊に入って道を切り開くのも一興だぞ」
安梅と韓桜は鈴鈴に期待をよせた。「鈴鈴様は、女官になるにはまだ年若い。無学無教養を克服するために二三年は勉学に励まなくてはいけないわね」「皇后付の侍女になる夢はまだあるわ。しかも、小月様か鈴鈴様か、可能性は高まったわよ」と二人で顔を見合わせて笑っている。
夏を越え、夕べに虫の声が聞こえ始めるころ、流行病は収束を迎えた。あっけない終わり方だった。だが原因となった蚊を全てを駆除できるわけもない。来年に備えた準備を怠ることは出来ない。
そして後宮は華やぎを取り戻した。
胡貴妃は桑を食む蚕を描いてみせた。「蚕は人が世話をしないと生きていけないのよ。幼虫はほとんど移動しないし成虫も飛ぶことは出来ない。後宮の妃嬪と一緒ね。ねえ、ご覧になって。屋根の上に猫がいるわ。登ったのはいいけれど降りられなくなったのね。登るのは得意でも降りるのが苦手なのは人間も一緒よ。せめて助けてあげましょう」
藩貴妃は首を傾げた。「小月殿は慎重に見せかけた臆病者だわ。美点を一つでも備えている皇帝陛下ならば受け入れることなど容易なはずです。私が考えるに、皇帝に必要なのは尊厳です。尊厳を失った皇帝など死んだ鼠にも劣ります。あら、ちょっと口が過ぎましたね」
黄太監は諦めが悪かった。「後宮で生き抜くには賢さが必要です。ええ、皇帝陛下は完璧ではありませんよ。小月様はそこが気に入らないのですか。……かえって嬉しく思ったですって? ならばこそ、伸び代のある陛下なのですから、小月様が育てればよろしいのに。おっと、ここだけの話ですよ」
秀英は皇帝の眼差しで、ある日、小月に命じた。「私にふさわしいと思う皇后を選んでくれ。……なに、皇帝直属の特命探査官にしてやったのに断るだと。もちろん、小月自身を含めて検討を……なぜ笑う。蚕室に現れた漆黒の蚕の謎を解くのに忙しい? わかった、わかった。では、報告を楽しみにしていよう」
明小月という、どこにでもいそうな普通の少女は、今日も後宮を走り回っている。
後宮の虫籠で月は微睡む あかいかかぽ @penguinya
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