第57話 憧憬と恋情
「彼女らを忌避しているわけではない。小月、お前を優先したかっただけだ」
「私は……相応しくありません」
「小月、なんと冷たいことを言うのだ。私には自由はないのか。私は鳥のように自由に羽ばたく翼に憧れてはいけないのか。小月、お前こそ私の翼なのだ!」
秀英は小月の心を解きほぐそうと必死で言葉を紡ぐ。
小月は平伏の姿勢のまま、頸だけをもたげて、秀英の目を仰ぎ見た。その目が射るように鋭いものに変わっている。小月は目を逸らさない。
「陛下は誰もが羨むような美しい鳥籠を用意してくださいました。ですが陛下が欲しているのは、鳥籠に自ら飛び込まない鳥です」
「私は……そのような……」
秀英の声が千切れた。
皇帝の玉座を得たと同時に、秀英は自由を失った。草原を思いのまま駆け回った幼いころの思い出は秀英の宝物なのだろう。
千切れた声を、秀英は苦しそうに繋ぐ。
「鳥の翼などと、贅沢は言わない。それこそ……蚊の翅でもよい、耳障りな翅音に文句も言わない、それでさえ私には……望むことができないのか」
秀英の声には嗚咽が混ざり始めていた。彼は気付いたのだろう。彼が求めているものは小月自身ではないということに。それを受けて、小月の両目から二筋の涙が流れた。
「失った自由を私の中に見たのでしょう。陛下が、秀英が欲しいのは、私ではないのです」
どこか責めるような口調になったことを小月は深く恥じたが、悔いることはなかった。今、この時しか、本心を伝える機会はないだろう。思う通りに、誠実に伝えることしか自分には出来ないのだから。
以前、問われたことが脳裏をよぎった。もし秀英が皇帝ではなく、田舎の一青年だったとしたら、小月は結婚していたのかという問い。何の迷いもなく、秀英の胸に飛び込めた時期は、すでに失っているのだ。
「それでも……かけがえのない存在として、私のそばに居てほしいと望んではいけないか」
失った自由の代わりに、皇帝の心を慰めるために、犠牲になってくれと秀英は懇願した。それでもいい、と心の半分が肯定する。だがそれではいけないと残りの半分がとどめる。
「小月は、私を愛していると、言った……」
「私が愛しているのは秀英。皇帝になる前の幼馴染みの秀英です。今の貴方は皇帝陛下……」
秀英は首を振った。詭弁など聞きたくないと手を払う。
「はっきり申せ。想いが半減したというのか」
「いいえ、そうではありません。貴方を愛すれば愛するほど遠く感じるのです。私はまだ後宮の妃嬪のようには陛下をお慕いできないことが問題なのです」
彼を恋慕う藩貴妃に嫉妬を覚えなかった理由はこれなのだろう。彼女が見ていたのは皇帝。小月が見ていたのは秀英。
なんと欲張りなのだろう。半分では満足できないのだ。
今のままの自分が後宮に入ることできない。不幸になるだけだ。いや、そうではない、秀英を不幸にしてしまいかねないのである。
「私とて、望んでいないわけではありません。皇帝陛下として、恋い慕えるようになるまで、いましばらくお時間を賜りますよう」
それが一月後なのか、十年後なのかは小月にもわからない。小月の気が向いた時に、と言っているに等しい。
秀英は椅子に座り込み、うなだれた。額にあてた手は、血の気を失って白い。
小月は平伏して待った。おかしなものだ、と感じる。表面的には、小月が皇帝を袖にして、皇帝が傷心しているように見える。だが実際には小月が振られているのだ。少なくとも小月の認識ではそうだった。
政堂はしんと静まり返っている。
左右の丞相は無言を貫いていた。存在を消すように息を潜めている。それは当然だろう。皇帝の修羅場を見せられているのだから。
数拍の間を置いて、秀英は宙に絵を描くように視線を揺らがせる。草原に吹く風のように、秀英は言葉をそよがせた。
「よく……夢を見る。懐かしい夢だ。木漏れ日に煌めく玉虫の翅……その美しさに魅せられて微笑む小月。玉虫の翅を工芸品に加工して小月に贈ったら喜んでくれるだろうかと夢想するのだが、小月は玉虫を自然に帰してしまうのだ。私は……ずっと、小月を喜ばせたいと思っていた。だが、その方法がわからないのだ」
小月は袖で涙を拭い取った。
秀英は幼い時から、自分を好いていてくれたのだと言ってくれたのだ。
「過分なお言葉に感謝いたします」
「だが、私が用意したのは鳥籠ではなかったんだ、小月。ようやく気付かされたよ。小さな虫籠だった。鳥を虫籠に閉じ込めようとした私が、そもそも間違っているんだ」
秀英は政堂の外に目をやった。目のふちが少しだけ赤く染まっている。午後の陽射しが斜めに差し込んで秀英を眩しく染め上げた。
次に口をついた秀英の声は、凛とした張りがあった。
「特命長官の任に邁進せよ。後宮入りの話は封印する。今は国の安寧が急務だからだ」
「かしこまりました」
「時や良し、となったら小月から申し入れてこい。まあ、たいしてかかるまい。皇帝としての私を理解するうちに、自然と恋い慕うようになるだろうからな」
秀英は呵々と笑った。いや、皇帝陛下の笑みである。小月もにこやかに返す。
「それまでには陛下も御子の一人や二人を慈しんでいてほしいものです」
「まったく……」
秀英は小月の前に歩み寄り、手を差し出した。
「小月」
「……」
「手を取れ。深い意味はない」
「はい」
手を取られ、立ち上がった。
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