9 DICE

 その日、陽葵はいつもより少し遅く目覚めた。


 九月最後の土曜日。

 蝉の鳴き声が聞こえなくなり、段々と朝晩の空気が秋に近付いている。


 陽葵は陽波を起こさない様に部屋を出て顔を洗い、焼かない食パンに貰った桃で作った自家製ジ ャムを塗る。無調整豆乳で流し込んでカーテンを開け放つところまでがテンプレ。


 今日は陽波と久しぶりの外出。

 自閉症の子にとってお出かけは知らない場所へ行くことへの不安、光、音、匂いなどによる刺激の 強さ、普段の生活リズムと違うことからくるストレスなど普通の人間が出掛けるよりも気を使うべきことが多い。

 しかし折角涼しくなってきたし、外に行って十分に空気を感じることも大事。


 陽波の感情や微妙な違い、表情などで本人が上手く伝えられない気持ちを汲み取る。 そういう配慮をすれば陽波も楽しんでくれる。

 自閉症に限らず、いかなるマイノリティも配慮と理解で同じ人間として生きることが出来ると思う。現代社会においてマイノリティと言われる存在が一定数いるというのなら、誰もが人間であり、同じ、もしくはそれ以上の支援を受ける権利を持つ。

 それをおかしいと言って我が物顔で差別する方がおかしい。


 陽葵はまだパジャマ姿だったことを思い出して箪笥たんすから服を引っ張り出した。

 歯を磨き、洗濯機を回して陽波を起こす。

 陽葵は自分と同じジャムを塗ったトーストを焼き、陽葵を着替えさせてスマホを充電ケーブルから引き抜く。


 陽波がアニメを見ている間に仕舞い込んでいた日乃本帆布ひのもとはんぷ製のリュックを引っ張り出 し荷物を放り込む。なんでこの家にはこんなに帆布が多いのかと思う。たぶん母親が好きだったんだろう。陽葵たちは帆布リュックに交通系ICカードイコカと財布を入れて家を出た。


 陽葵の住んでいる住宅に面した名古屋環状線には市バスが通っているが、今回は使わない。

 今日陽葵たちが行くのは南知多みなみちたにある水族館。

 まず県道二一五号を走る基幹バスで名古屋駅まで行き、名鉄知多奥田駅で降りる。

 そこから一〇分くらい歩くと水族館が見えてくるらしい。


 陽波を乗せて一時間弱の旅ができるかとも思ったが、陽波は電車が好きなので余程羽目を外してはしゃがない限り周囲へ迷惑はかけないと判断した。


 名古屋駅で飲み物とおにぎりを買い陽波と手をつないだ陽葵はホームで電車を待ちながら暇つぶしにあたりを眺める。

 過ごしやすくなってきた秋口の土曜。家族連れの多い名古屋駅は子供たちの声で賑わう。両親が子どもの手を引き、他愛もない話をして電車を待つ。


 世間から見ればまだ、あれがきっと普通なんだろう。


 そして陽葵は陽波に視線を戻し、あることに気付いた。 手をつなげている。

 陽波のみならず、自閉症の子は手をつないでも気になることがあると振り払ってそっちに突っ走っ ていってしまう。陽波も以前はそうだった。だからこそ、しばらくの間外出が躊躇われたのだ。それが今は、手をつなげている。

 単にここに陽波の興味を引くようなものがないだけかもしれないが、電車好きの陽波がホームでおとなしくできたのは恐らくこれが初めて。


 嬉しかった。

 あの特性について、陽奏はいつも「思い立ったら突っ走る性格」の部分が人より少し強いだけだと思っていた。開き直っているわけではない。本気でそうだと思っていた。

 でもそれも、成長と共に自制できるようになるのかもしれない。陽波の成長が、陽葵には何よりも嬉しかった。


 電車に乗り込んでからも、外の景色を見ているが、騒いだりすることはなかった。

 何をしているかまでは知らない が、学校に行くという事は陽波を成長させることにつながるのかもしれない。いや、繋がっている。


 一時間ほどの旅を終え、駅に着いた陽葵たちは田んぼで鳴くカエルの声を聴きながら水族館に向かった。


 道中は決して安全な道とは言えない。

 陽波の体格なら落ちて動けなくなりそうな用水路。歩道のない道を走る大型トラック。交通量の多い信号のない交差点。


 陽葵は陽波をかばうようにして道路側に手をつなぎ、陽波を常に気にかけていた。


 あの時の様に、いなくならない様に。あの時は偶々運が良かっただけ。同じように水も持たずに迷子になったらきっと命はない。それが分かっているからこそ、陽葵は陽波を離さなかったのだ。


 陽波は元気だ。

 今日も何の問題もなくここまでたどり着けた。今までだったら躊躇ため、っていたことを、実行しひとまず成功させた。それ自体がすごいことだ。


 ASD、ひいては障がいと言われるものは、周囲の人間にとって面倒なことととらえられがち。でも陽葵はそうは思っていない。


 出た目の数だけ進むサイコロ。振るのは自分。どんな目が出てどんな運命になったって、自分の人生。

 陽波と陽葵のゲームはこれから先も続いていく。


 だってここに、二人が笑っているのだから。

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