融合世界

森川めだか

融合世界

融合世界ヰコールランド


「このまま人は肉体を捨て電子の町で境目もなく混じり合ってひとつになって死もなく食料も場所もいらずただ意識だけが集まり繋がる。限りなく無に近づきそれが総てでありそれは神なのか」

一種のパラドックスともいえる、一科学者が問うたこの命題に、科学界は色めき立った。

今の技術でそれは出来る。一気にそれを実現させる構想が水面下で高まっていった。


妙木世たえきせいはそんなのは寓話だと思っていた。世は20歳のただの大学生。

寒い冬だった。

時々、ニュースで取り上げられている、「仮想現実世界」とでもいうべき、科学界の提唱している案。この前の番組では、一人の科学者がその素晴らしさを熱弁を奮って語っていた。

下らない。

世は大学の中の数少ない喫煙所で柵に手をかけて、煙草を吸っていた。

空では、ブルーグレーの雲が日を遮っていた。

「よう、世。珍しいじゃないか。大学に来るなんて」肩を叩かれた。見ると、友達の木下容きのしたようが片手で煙草を回しながら、笑っていた。

容はその煙草に火をつけて、世の横に並んで、柵にもたれた。

「今日、出欠取るのあったっけ?」容が聞いた。

「さあ。たまたま通りがかったんだよ」

「またいつものスクーターか」容が笑って言った。

世は大学にあまり行かず、スクーターで何の意味もなく走りまくるのを習慣としていた。

朝遅く起きて、夜中までそこら辺を走っては、一人暮らしの部屋に帰って来る。

「ああ」世は二本目の煙草に火をつけた。

「そんなんじゃ卒業できないぞ?」容が言った。

「大丈夫だよ。そんな馬鹿じゃないさ。その場しのぎには慣れてんだ」

「卒論は、何てテーマにすんだ?」

「そうだなぁ・・。お前はどう思う? あの、今の仮想現実世界の話。胡散臭いんだよなー・・」

「あれはタブーだよ。お前は知らないだろうけど、この大学の教授たち、ほとんど賛成派だぜ? あれを批判しようもんなら、それだけで、チョン、だぜ?」

「そうなの?」世は世間とは少しズレていた。友達も容ぐらいしかいなく、スクーターで社会とは逆方向に走っていた。

「それは、困ったなぁ・・」世は煙と一緒にため息を吐き出した。

「就職、どうすんの?」

「ああ、まあ、・・いずれ考えるさ。じゃ、またな。ありがとう」世はそう言って、煙草を投げ捨てた。

「なーに」容が手を振っていた。

世はスクーターのエンジンをかけて、走り出した。

どこに行こうとも考えていなく、ただ走り出した。


夜中、菓子パンをコンビニで何個か買って来て、部屋に帰って来た。

またニュースをつけた。また、仮想現実世界のことをチラチラとやっていた。

下らない。

菓子パンを頬ばって、世は冷蔵庫を開けた。レギュラーコーヒー以外、何も入っていなかった。

世はコーヒーを淹れた。煙草を吸いながら、コーヒーを飲む。パソコンを開いて、仮想現実世界を調べ始めた。どれも賛成の意見ばかりだった。

世論の統制が図られているんじゃないか? 世は疑った。

パソコンを閉じて、テレビも消して、世は寝に入った。


朝起きると、容から着信が来ていた。バイブにしていたから、気が付かなかったのだ。

かけ直してみると、容が出た。

「何だよ」世が聞いた。

「お早う。お前の一年の時に書いた論文が問題になってるぞ。呼び出しくらってる。掲示板に名前が出てるぞ」ちょっと笑って、容が言って、電話を切った。

一年生の時に書いた論文・・? 世は覚えていなかったが、すぐにスクーターに乗って、大学に向かった。


電光掲示板に確かに載っていた。

妙木世さん。論文について指導あり。A107に来て下さい。

A107は確か五月蝿い教授の研究室だった。名前も覚えていない。

世はA107まで行って、ノックした。

「どうぞ」もう怒っているような声だった。

「失礼します」世はドアを開けた。

そこには、もう怒っている顔をした見覚えのある教授が、指でなにか紙の束を叩いていた。

「妙木世です。何でしょうか?」世は紙の束を見た。やっと思い出した。生物学の時に書いた、思い付きの論文だった。確か、中身は・・。

「妙木君。この論文は間違ってる」にわかに教授が言った。

「何が、・・でしょうか?」まだ、世は論文の中身を思い出せないでいた。

「この論文を要約するには、生を一本の樹ととらえて、それが枝葉を広げるように生物が多様に進化し続けると、あるね? 本気かい?」世は、やっと思い出した。そんなことを書いた気もする。

「え、・・ええ。あの、・・何か?」

「下らん。間違っている」

「だから、何がでしょうか?」世は、「下らん」と言われたことに、少し苛立っていた。

「君は、今の仮想現実の世界について知らないのか? あれに入れるのは人間だけだ。何故だと思う? 人間こそ、神に選ばれて造られた生き物で、他とは違う。だからこそ、その意識を集め神になろうというんじゃないか。これは、様々な宗教と科学の夢の実現なのだよ?」とその教授は言った。

「そんなことが実現可能だと思ってるんですか?」世はちょっと語気を強めて言った。

「出来るよ。それが真の人類の悲願なんだから」教授は少し嘲るようにサラリと言った。

「誰もが哲学者なのに・・」世は吐き捨てるように言った。

「君は反分子かね?」

何のことか分からず、世はそのまま席を立った。「失礼します」とそこを出た。

ダウンジャケットのポケットに手を突っ込み、スクーターに急いだ。

このクサクサした気持ちを、吹っ飛ばしたかった。

「破綻するに決まってる」スクーターまで着いた時、悔し紛れに世は呟いた。


寝る前に、一杯ひっかけるか。

世はウィスキーのビンを持ち出し、古いカップに注いだ。

一口飲んでは、何かを忘れ、一口飲んでは、何かを思い出し、飲み干した。

酒臭い息を引っさげ、寝床へと移動した。

酒はいつ飲んでもうまい。

煙草はそうはいかない。美味しくて吸っているのではない。ひまつぶしだ。


日曜日だった。スクーターで日の差す道路でボンヤリ信号待ちをしていると、詩が浮かんできた。

急いで、スクーターを傍に停め、書き留めた。

『日曜日の午後』

日曜日の午後。

ひび割れた道。

日曜日。

この世界が嘘に見える。

何もかもが嘘。

現実が非現実に。

ヒビわれた世界。

表だけで中は空っぽ。

嘘を暴いたら何が悲しむだろう。

空虚をかくすために。

天使たちよ。


もしもこの世界が空虚だったら。


水色のジーンズに、黒のジャケットというお気に入りの服装で、世は出かけた。

青い風が吹き抜けて空に帰っていく。

世は電車が嫌いだった。

人ゴミが苦手なのだ。だから、エレベーターも嫌いだった。

論文の資料にするため動物園へ酒を飲んでから電車で行った。

いつもはそんなことないのだが、自分でも驚いたことに、世は、ちょっとうたた寝をした。

まどろんだその先に見た夢は、電車の全部の駅名が「踏切」だった。

驚いて目を覚ますと、ちょうど、世が降りる駅の前だった。

強いビル風を通り過ぎると、動物園が見えてきた。

動物がみんな、閉じ込められている所だ。

自由なんてどこにもない。

チケットを買って、入った。動物臭い。

この動物たちのように、人間みんなが一つに集まるなんて、身の毛がよだつ。

世を見て、猿が鳴いた。ゴリラもうろついている。ノイローゼになった白クマが、同じ所を行ったり来たりしている。あちらこちらで鳥が鳴き、リスの鳴き声までうるさい。

早足で、世は檻の前を通り過ぎて行った。

生物理論学なんてややこしい講義、何で取っちまったんだろう・・。

それはそこにあった。

「永遠に香る花」と書かれた温室があった。

科学で作り出されたらしい。枯れることもなく、永遠に花を咲かせ続ける、赤い花。

世はその部屋に入った。鼻を塞ぎたくなるような、その花の匂いが充満していた。

残酷な・・。

世はサラッとそのスケッチを取って、さっさとその部屋を出てしまった。

気持ち悪い・・。

何とも嫌な物を見てしまったような気分になった。

気を取り直すため、近くの喫茶店でコーヒーを飲んで、煙草を吸った。

二本目に火を点けた。

あの仮想現実の世界・・。似たような物だ。

煙草の煙と同時に、深いため息を吐いた。

やりきれない現実だ。

人間がつながり合うなんて不可能だ。

世の気持ちは確信となっていった。

思い切り批判する内容の論文を書いてやろう。


仮想現実世界の構想と研究を進めている施設に、若い男が入っていった。

最高責任者のテヨだ。

会議室に集められた科学者たちは一斉に立ち上がって、迎えた。

「皆、座って」テヨが手を少し動かして言った。皆が着席した。

皆が、テヨが言葉を発するのを待っていた。

「さて、・・」テヨが小さな声で切り出した。

黒箱ブラック・ボックスのことだが、・・」テヨがチラと研究者の一人を見た。

「はい。もう試作は作られております。あとは、試験動作のみかと・・」

「それは、・・どの位の大きさかな?」テヨが聞いた。

「はい。このテーブルの二倍程です」研究者が答えた。

「そんなものじゃない。・・それはもっと小さいんだ。・・そう、・・この位かな?」テヨが自分の手で、小さな四角を作ってみせた。

「そ、それは、・・はっ。早急に作ります・・」

「よろしく頼むよ」テヨはそう言って、各々の研究成果と構想を聞いた。

テヨは終始にこやかに笑っていた。

聞き終わった後、テヨは軽く拍手をした。

「よし。よりスムースにことを運ぶには、反分子から先に処理する方法が挙げられる。異存はないかい?」誰も何も発しなかった。

「よし。じゃあ君らは、方々に手を回して、徹底的に反分子を浚うんだ。いいね? それから順々に箱に入れていく。新しい試作が出来たら連絡したまえ。じゃあ」テヨは会議室を出て行った。

誰も何も言わなかった。


世は論文に取りかかっていた。

仮想現実世界を痛烈に批判する内容だった。

それは人類の終わりを意味するものだと始めに書いた。

今、人類が必要とするものは仮想現実なんてものではなくて、人間が人間らしく生きられるための人間回帰なのではないか。

少し酒も入っていたから、世の文章は滑らかに進んでいった。

その論文を、論文入れ用の大学構内のポストに入れた。


それから、数日経ってからだった。容から電話が来た。

「おい。世。大変だよ。お前の論文。俺も事情を聞かれたしさ。気を付けた方がいいぞ」

「何に?」

「分からない。俺にも分からないが、・・何か変なことになってる気がする。・・お前に一つ教えておいてやるよ。うちの大学に変な教授がいるんだよ。客員なんだけどさ。そいつの講義もあの、・・仮想現実? それの、・・批判してた。公にさ。家田自けだはじめっていうんだけどさ。困ったことになったら、そいつの所に行ったらいいよ」それだけ言って、容は電話を切った。妙に小声だった。

「けだはじめ・・ね」世は相変わらず、部屋で一人ウィスキーを飲んでいた。


夜中に、コンビニにスクーターで行って買い物をしていたら、世のスクーターのナンバーをスーツ姿の男二人がメモしていた。

世は買い物を途中で切り止め、「何やってんだ?」とその男たちに声をかけた。

一人の男は黒い車に乗り込み、一人の男が、「妙木世さんだね?」と聞いてきた。

「そうだけど。あんたら何だよ」

フンと鼻を鳴らして、そのもう一人の男も、何かメモしながら黒い車に乗り込んだ。

煙を吐いて、その車が走り去っていった。

「何だ?」世はひとり言を言って、またコンビニに戻った。


家田自に初めて会ったのは、それから幾日も経っていない日だった。

世の郵便ポストが荒らされ、いつも誰かに見られている感じがして、嫌だったからだ。

家田自は確かに変な男だった。何よりも長髪を全て水色に染めているのが変だった。

「それは奴らにマークされているんだよ。マズいことになったな」外見とは違って、その目は理性的で、話し声も落ち着いていた。

「奴ら?」世は言った。

「多分、学会の連中の差し金だろう。その内、もっと非道いことになるだろう」自は世の目を見て言った。

「非道いことって? 何されるんですか?」確信めいた自の声に、世はちょっと怖くなった。

「恐らく、いつか攫われて、実験体にされるんだろうな・・」

「実験体?」

「小耳に挟んだだけだが、もう仮想現実世界を構築する機械は大方できているそうなんだな。それの実験のためのマウスにされるんだ」自は窓の外を見て、言った。

「まさか」世はちょっと笑った。

「嘘だと思うのかい? それならちょっと来てごらん」と自に案内されて、ファイル室に入った。自は一冊の分厚いバインダーを取り出して、紙を何枚も机に置いた。

「僕が知ってる限りでは、この人たち全員が行方を絶ってる。皆、この仮想現実に反対、もしくは懐疑的だった科学者たちだ。もっといるだろうね。でも、僕はこれ以上動けない。実は僕もこの中に入る手前なんだ」と自が言った。

黙って紙を見ていた世の肩に手を乗せて、「ちょっと来てごらん」と自が言った。

わざと人目に付かないような道で、駐車場まで来た。自の車に乗って、場末のコインパーキングに入った。車に鍵をかけて、自は自動精算機の前に立ち、少し周りに目をやると、清算キーの8と9と1を長押しした。すると、ゴトンと何かが落ちたような音がした。

「来てごらん」自はまた自分の車に戻って、底を指差した。覗き込むと、車の下に穴が空いていた。そこに通じる階段もあった。

「まあ、僕らの行くところなんて、どこにでもあるさ」と言って、自がそこに体を滑らせて、おいでおいでをする。世もちょっと体をよじって、そこに入った。階段を下りていくと、コンクリート剥き出しの古い地下室だった。

「ここは、昔、麻薬取引に使われた部屋だったんだ。今は僕が使わせてもらってる」自は備え付けの大きなパソコンに向かって、操作し始めた。

「寒いですね」

「冬なんだから」と言って、複雑な数字やアルファベットやら何やらが映し出されていたパソコンのモニターに、黒い箱が映った。

「これだよ」自は世に向き直って、言った。

「何がですか?」

「仮想現実世界・・。これがそれそのものになるんだ」

「これ、・・が、ですか?」

「こんなものが神だなんてね。想像とは程遠いだろ?」と言って、自はちょっと笑った。

「これだけさ。やっと手に入れたのはこの画像だけ。後は全て謎に包まれている。テヨって知ってるかい?」

「いえ・・」

「この計画の最高責任者の名前だよ。僕より若いんだ。天才中の天才さ。そいつが何考えてるのかなんて分かりようがないんだけど、・・分からない。」自はそう言って、モニターを消した。


家田自が行方不明になった。突如、自の講義が全て休講になり、自の客員教授用の部屋も整理され、家田のプレートは外され、無人になっていた。

世は取り乱した。急いで、スクーターで大学から逃げ出した。

どこに行ったらいいんだ。

世は、自の教えてくれた隠し部屋のあったコインパーキングに走った。

誰もいない交差点で、黒い車が世の目の前に滑り込んで止まった。急ブレーキをかけた世は、後ろを振り向いた。二台の黒い車が止まったところだった。スーツ姿の男が何人か出て来た。

世はヘルメット姿のまま、逃げ出した。

腕を掴まれ、地べたに叩きつけられた。何人かの男に上から押さえつけられた。

口に何か布を押し付けられ、声も出せないまま、世の意識は途絶えた。


次に目覚めた時は小さな部屋の中だった。

世は椅子に座らされていた。

両手を後ろに縛られている。

まだ頭がボンヤリして、立ち上がろうとしたら、椅子ごと転げてしまった。

「ウウッ」世は呻き声を上げた。

「起きたかい?」向こうにあったドアが開いて、声がした。

見上げると、世とそれ程、年端も変わらない男が立っていた。

「あんた、誰だ」やっと声になった声で言った。

「僕? 僕はテヨだよ。知ってるだろう?」

「テヨ・・」自が言っていた、仮想現実世界構想の最高責任者の名だ。

「何で、君がここに?」頭がボンヤリする中で、言った。

テヨは、世が立ち上がるのを助けた。

世は、壁にもたれかかり、やっと立っていることができた。

「僕は君と話がしたいと思ったんだ。分からないだろう?」クスッと笑って、テヨが言った。

世は瞼を開けているのが、やっとだった。

「あまりに違い過ぎるから、気が合うと思ったんだ」テヨはそう言って、はにかんだ顔をした。

テヨは部屋の向こう側に歩いていって、古い蓄音機にレコードをセットして、曲をかけた。

何かクラシックのようだったが、分からなかった。

音が飛び飛びになっているからだ。

「楽しいだろ?」テヨが満足そうに言った。

ようやく少し考えることができるようになった。

「何でこんなことを?」世はテヨを睨みながら、言った。

「人を知ってみたいと思ったんだ」とテヨはレコードを外して、言った。

「なぜ?」世が言った。

「僕が君くらいの頃には、もう学会の中枢にいたんだよ?」テヨは丁寧にレコードをカバーにしまい込みながら言った。

「同じ人間だと思わないでくれ」テヨがはっきりと言った。

「あの構想・・。存在とは何なのかということに必ず行き当たりますよ」世が言った。

「そんなことも全て箱の中に持っていくのさ。ゆっくり考えることが出来るじゃないか」

「破綻するに決まってる・・」

「やってみないと分からないじゃないか」テヨはあっさりと言って、少年の夢を見ているが如く純粋な目をした。

テヨは窓の外を見た。

「君にはもう友達がいるんだね。君に会いたいと言ってる人がいるよ」テヨは言って、指をパチンと鳴らした。誰かが来て、紅茶セットを置いて、すぐ出て行った。

「僕が淹れるよ」テヨはそう言って、茶葉をつまんで、ポットに落とし、お湯を注ぎいれた。透明なポットが赤く染まっていった。

「僕の大好きなラズベリーティーだ。美味しいよ」ポットから白いカップにお茶が注がれた。

テヨが近付いて、カップを差し出した。

世は受け取らなかった。

「僕、殺してもいいよ」テヨがいきなりそう言った。ポケットから一丁の拳銃を取り出し、世に差し出した。

世は何もできなかった。

「このお茶を飲むか、僕を殺すか、どっちかだ」テヨが言った。

世はカップを取った。

一気に飲み干すと、甘酸っぱい香りと味と一緒に、世の意識も遠ざかっていった。


暗く、わずかに青い光が脈のように伝っている部屋で目を覚ました。

暗闇に目が慣れると、狭い部屋に、世と黒く鈍く光る箱があった。

「これは・・・・・・」

それは、自が見せた、あの、仮想現実世界そのものだという箱にそっくりだった。

世は思わず後ずさりした。

「それは黒箱ブラック・ボックスといってね」テヨの声がした。

「君と話したい人がいるんだ」テヨの声が消えた。

続いて、ノイズが走って、夢から聞こえてくるような声が聞こえてきた。

「・・くん。・・世くん・・」そう聞こえた。自の声だった。

世は戦慄した。

「自さん・・!」世は箱から遠ざかり、壁に背中からぶつかった。目は黒い箱に止まったままだった。

「やあ・・。ひさしぶり、だ、ね。・・声が、上手く、聞こえないのか、な?・・大丈夫、かい・・?」何か裏で操作しているのか、またノイズが入って、音がクリアになった。

「世くん。この世界は素晴らしい。何も無く、全てが有るんだ。想像も出来ないだろう? 逆らうのはもう止したまえ。君もずっとこの中に・・」

「やめろ! もうやめろ!!」世は叫んだ。それはテヨに向けてだった。

「世くん。落ち着きなさい。その人にとって、知らないのは「ない」のと同じなんだ。分かるね? だから、君は、・・」

「やめろ! やめろ! やめろ!」世は耳を塞いで叫び続けた。

「世くん・・。これから、そちらの世界は、戦争になるだろう。昔と同じことをするんだよ。愚かなことだと思わないかい? 人は無力さ」

「わー!!」世は思い切り力を込めてその箱を持ち上げ、床に殴りつけた。

ビクともしなかった。

「その戦争で君は死ぬだろう! ギ、ギッギ・・。怖くないのかい? ガ、ガガガ・・」

「うるさい!!」世は辺りかまわず、箱を壁に投げつけた。

ピーという音とともに、自の声は消え、静寂が流れた。

世は息を切らして、汗だくになっていた。

震える足で一つしかないドアを蹴りつけた。

ドアがロックされている。

「くそっ・・」世はへたり込んで、頭を覆って、髪をクシャクシャにした。

背後で、またピッピと機械音がした。

「永久の無になるんだぞ!」自の叫び声がした。後には、自の高笑いがフェードアウトしていった。

頭に血が上った。

怒りの塊になった。

世は箱を持ち上げ、ドアの蝶番をガンガンと叩きつけた。

蝶番がゆっくりとその形を捻じ曲げられていった。

ガツンという音とともに、蝶番が落ちた。

二つ目の蝶番も同じ方法で壊し、不自然な形に歪んだドアの隙間から、世は身を捩って、這い出した。

テヨはいなかった。

ビルの中に世はいるらしかった。

窓から多くの高層ビルが見下ろせた。

とりあえず、下へ下る階段を探した。

18と書かれた階段が有った。

世は階段を駆け下りた。

3階で、階段は途切れていた。

世は、ホテルの様に装飾されたその階をさまよい歩いた。

一際大きな扉で行き止まりだった。

「どこに行くんだい?」

背後にはテヨがいた。

「ここが僕の階。そこがリビングだよ」

世はテヨとすれ違おうとした。

テヨが手で制した。

「まあ、寄っていきなよ」

「嫌だ」世はテヨに恐怖を感じていた。

「まあ、まあ」テヨに言われるままに、その大きな扉の中に入った。

豪華絢爛な家具調度の数々、窓は大きくせり出してパノラマになっていた。

「見たまえよ。この景色を」世は、窓に近付いた。

何やら、騒いでるような音や声が下から聞こえて来る。

見下ろすと、このビルの出入り口近くで、大勢の人々が旗やプラカードを持って、大声でわめき立てているようだった。

「この計画をねえ、実際に実行に移すと、メディアに報じさせたんだよ。そうしたらこの騒ぎさ」呆れたような物言いだった。テヨはグラスに酒を注いでいる。

「・・戦争になる、って、言ってましたよ」誰が、とは言わなかった。

「そう」あっけらかんとテヨはしている。キュッキュッと酒の瓶にコルクを閉めている。

「つい先日もねえ。傘に仕掛けた銃で科学者が雨の中殺される事件が起きたんだよ。僕も顔は知っている程度の科学者だったんだから」何の感情もなく、テヨは言って、グイッと酒を喉に流し入れた。

「これから、どうなるんです?」世は睨みながら、何か知っているようなテヨに聞いた。

「これから、反対派のデモは拡大していって、いずれ暴徒化するんだろうね。秩序も無く、規範も無く、モラルも無くなるんだろう。よくあるパターンだね」テヨは酒を飲み干して、またグラスに酒を注ぎ始めた。

世は、眼下にいる人々を見ていた。

「君には分からないだろうが、僕にはこういう気がしているんだ。今でも、バナナ探して人は歩いてる。っていう気がね」と言って、テヨは高らかに笑った。

「あなたは、何もしないんですか?」世はジッとテヨを見て、聞いた。

「馬鹿な。その位のことは想定済みだよ」テヨはそう言って、続けた。

「僕には夢があるから」

「あんたは狂ってる!」

「狂ってるのはどっちの方かな?」テヨは余裕たっぷりに言って、また酒をグイと飲み干した。

テヨはツカツカと窓の方に近付いた。サッと世は身を翻して、テヨから離れた。

そんなことお構いなしに、テヨはもう暗くなっている空を見上げた。

「僕は、もっと大きなものと闘ってるんだ」そう言って、テヨは世を見た。

「もう世界は、蜘蛛の巣の網にかかっているんだよ」言って、テヨは窓のカーテンを閉めた。

自動で、照明があちらこちらで点いた。

「逃げ出してもいいんだよ」テヨが言った。

「エレベーターなら向こうに有る。地下から出れば誰にも会うことはないさ」テヨは大きな椅子に腰かけた。

もう世には興味を失っているかのようだった。

世は黙って、その部屋を後にし、エレベーターでB1まで降り、地下駐車場から外に出た。

ダウンジャケットのポケットに手を突っ込んで、歩き続けた。

しとしとと雨が降ってきた。

フードを被り、それでも行くあてもなく、歩き続けた。

途中で、何度も、反対派の人に「お前は賛成か反対か」と聞かれた。

「疲れてるんだ」そう言って、世はやり過ごした。

ファストフード店の眩しい明かりに誘われ、入った。

暖かかった。

ダウンを脱いで、コーヒーとバーガーを注文した。

誰もかれも、液晶端末に夢中になっていた。

世はダウンジャケットの内ポケットにしまってあった、煙草に火を点けて吸った。


世は嫌だったが電車に乗って、見知った駅に着いた。

ありったけの金で食料と水を買って、自が教えてくれたあの隠し部屋に籠った。

時々、パソコンで見るニュースは、テヨの言った通りに進行していった。

各地で、仮想現実世界反対を訴える暴徒が、無法状態の世界を形成していた。

それとは裏腹に、科学界は次々と仮想現実世界の構築に関する新しい研究成果を発表し続けていた。

「自動的に相応しい意識の組み合わせを割り出し、それから新しい意識の創出、つまり誕生を作り出すことに成功。仮想現実世界が更に発展。」

「一つの意識に望む知識群のデータを高速でコピーすることに成功。瞬間記憶が可能となり意識の質がまた一歩向上。」

「争いのない世界へ行きたいと思いませんか? 無限の幸福を作り出す世界へ。」

それらは、火に油を注ぐようなものだった。

暴徒はますます過激化し、今まで傍観していた人たちも、熱に浮かされたように乱暴になっていった。

社会が大きく変質していくのを目の当たりにしていた。

もう中に入れられている人たちがいる事は、ひた隠しにされていた。

研究の一部を担っていた施設が、反対派に占拠されたニュースが流れていた。

テヨのことは一切、名前すら報じられることはなかった。

反対派は義勇軍を作り、ついに街々は戦場になった。

戦争が始まった。


世は心配になり、携帯電話を取り、久し振りに外に出た。

隠し部屋は電波が入らないので、着信記録が何件かあった。

世の両親からも何度か電話があったみたいだ。

世は両親に電話をかけた。

すぐに母が出た。

「世!? 今、どこにいるの!?」

「ああ、母さん・・。そんなことより大丈夫? そっちは何ともない?」

「私達は今、政府の施設に避難してるの! あなたも早く、少しでも安全な所に!」

「うん。・・僕は大丈夫。・・どうか無事で」

世!? 世!? と母の必死な声を聞いたまま、世は切ボタンを押した。

またすぐに掛け直すだろうと思ったから、世は急いで容に電話をした。容からの着信記録も残っていたからだ。

しばらく呼び出し音が聞こえて、容が出た。

「よお、世か。今何やってる?」少し声が違っているような気がした。

「いや・・。容。お前は何やってんだ?」

「俺か? さっき、バスの運転手を殺してあげたぜ。ケケ。俺にクラクション鳴らしやがって、とにかくムカついたから」容は変わっていた。

「お前、・・そんなことして平気なのか?」

「何が? 時代が必要としてるんだよ。お前、・・まさか賛成なんじゃないだろうな?・・」容の声が不穏になった。

「お前とはもう話したくない」世は電話を切った。

携帯電話の電源を切って、世は駐車場の外を見た。

雨が降り過ぎて、白く見える。

まるで、現実を見ることを阻害するかのように。

雨に煙る街は、変わり果てていた。

人の気配もしない。

管理人室に置き去られた傘を広げて、世は一歩外に踏み出した。

こんな雨だ。

野球みたいに中止にならないか、全てが振り出しに戻らないか。世はそう願った。

愛は死なない。

世は、傘の中一人立ち尽くす。


「容、本当にいるのか? こんな所に」

出し抜けに、隠し部屋の上を通る足音と声が聞こえた。

世は息を潜めた。

「この辺りなのは間違いないんだ。電波がここから発信されたんだから」

「だけど、誰もいないぞ」

「おかしいな・・」

駐車場の床をダンダンと蹴りつける音が響いた。

隠し部屋の上が叩かれた。

世は身を縮めた。

「おい、ここだけ音が違うぞ。空洞だ」

「開けてみろ」

「きっとここだ」

「おい、道具持って来い」

力任せに硬いもので天井が打ちつけられる音が続いた。

コンクリートの破片が世に落ちてきた。

開いた穴からいくつも目が覗いた。

「居たぞ!」また穴を広げるように大男がツルハシで天井を打ちつけた。

「待て」容の声が聞こえた。

容が覗いた。

「自分で上がって来い。世。これが最後の友情だ」

世は震える足で階段を上った。

「もう生きていけないぞ。お前」上ってきた世に容が言った。五、六人の男に取り囲まれていた。

「今、賛成派狩りやってんだ。生きては帰れない」

「俺は反対派だ」世は言った。

容はフンと鼻で笑い、「何度同じ台詞を聞いたか」と言った。

「連れてけ」

世は武器を持った若い男達にせっつかれ、大きな車の後部座席に座った。

「何でこんなことをしてるんだ」助手席に座った容に、世は聞いた。

「人間を信じてるからさ」容はちょっと振り向いて言った。

車が走り始めた。


連れて行かれたのは、ピーナッツ畑の上に建てられた掘っ建て小屋だった。

世は部屋の中央に座らされた。

「全て知ってることを話してもらおうか」容が正面に座り、聞いた。

「何も知らない・・」世は容の目を見て言った。

「家田教授はどこへ行った? あの失踪にもお前が絡んでるんじゃねえのか?」

「違う! 違う、違う。・・そんなことじゃない!・・」

「おい」容が一際若い男に目をやった。

その男が何か持って来た。注射器だった。

「これ、自白剤。盗って来た代物だがよ。・・よく効くんだぜ」容は注射器の上をポンポンと指で叩いた。

世は男達に四方から羽交い絞めにされていた。抵抗したが、右腕を伸ばされ、袖がまくられ、注射針が刺さるのを見た。

頭に白い霧がかかったように、世の意識は遠のいた。


バシンと言う音とともに、目を覚ました。頬の痛さで叩かれたのだと後から分かった。

容が、少し興奮したように、辺りを歩き回っていた。

「驚いたぜ。テヨ、か・・。そいつが責任者なんだな? そんな奴にお前が会っていたなんてよ」

「俺が、・・反対派なのも、分かったろ・・」喉が嫌に乾く。どれくらい喋ったのだろうか。

「もうどうでもいい。そんなこと。テヨの所に連れてけ」容が世の髪を掴み上げ、言った。

「分かったよ。・・分かった・・」世は水だけ飲ませてもらい、案内役として、車に乗り込んだ。


テヨがいたビルの前に着いた。

「来い」皆、手に手に武器を持っている。

世は車を降りた。

「これで終わりだ。皆殺しにしてやる」容が閉まった自動ドアを斧でぶち割った。

世は、後ろで手を縛られ、その綱を持たれていた。男達がゾロゾロと入っていく。容が携帯電話で応援を呼んでいるのが聞こえた。世も、仕方なく引っ張られるまま付いて行った。

「3階だな?・・」階段を上っていく。

テヨの階まで来た。

「あの大きな扉か・・」男達が少し緊張していた。

扉が開けられた。

テヨがいた。椅子に深く腰掛け、グラスで酒を飲んでいた。

「何か用かい?」テヨが少し微笑んで言った。

「てめえがテヨか?」容が言った。

「そうだよ」

「殺してやる」

ククッとテヨは笑い、その姿勢のままで、「僕を殺したからってどうなるんだい? この計画はもう止められないよ」と言って、笑った。

「その黒箱ブラック・ボックスというのは、どこにあるんだ?」容が聞いた。

「あっちだよ」とテヨは隣の部屋を指差した。

「おい」と容がまた若い男に命じ、それを持って来させた。

「これが・・」若い男がそれを床に置いた。

容が斧を振り下ろした。ガチンッと硬い音を響かせ、斧の刃がこぼれた。続いて男達が手持ちの武器でめった打ちにした。だが、箱は何ともならなかった。

「畜生っ。壊れねえ・・!」

「これを解除しろ」容がテヨを睨んで言った。

「嫌だね」テヨはグラスの酒を飲みながら言った。

テヨは何かを引き出しから取り出した。拳銃だった。皆が息を呑んだ。テヨがその銃口を口に咥えたからだ。

「僕の意識はもうそこにコピーしてあるんだ」拳銃を口に咥えたまま、微笑んでテヨは言った。

「そんな都合良くいくと思うか?」テヨはそう続けた。

テヨは世の方を見て、「幸せってのは淋しさのことかい?」と言った。

そう言った直後、何のためらいもなしに、テヨが引き金を引いた。あのパノラマの窓が血まみれになった。

「くそっ!!」容が怒声を上げた。

「コンピューターを片っ端から壊せ! 何でもいいから、ぶち壊すんだ!」オオ! と声を上げて、男達は散り散りになった。

あちこちで何かが破壊される音が聞こえてきた。

容が呼んだ大勢の応援の男達も来た。このビル中のコンピューターが悲鳴のような音を響かせて火を噴いた。火災報知器が鳴り続き、スプリンクラーが激しい雨の様に、水を浴びせかけた。

あちこちで火花が散っていた。

世は逃げ出した。

破れた自動ドアのガラスで両手を縛っていた紐を切った。

外では雪が降っていた。

ひとしきり走った後、世は雪の降る空を仰いで、白い息を吐いた。

身体が凍える。

いつの間にか、容が目の前に立っていた。

「どうした・・」容が言った。その声はまるで、夢から聞こえてくるような声だった。

「何で・・」世は息を呑んだ。

静かに容が近付いて来た。

容が言った。

「まだ気付かないのか?」

「何を・・」世は怖かった。

「この世界は間違ってるんだ」

容がアカンベーをした。

舌の付け根に小さく識別番号が蛍の光のようにおぼろげに点滅していた。

世は急に痛み出した頭を抱えて、フラつきながら逃げた。

振り向くと、そのまま立っていた容の姿が、映像が乱れるようにしてブレて、そのまま消えた。

――違う!・・ああ、・・この世界は!――

どこを見ても電光掲示板だらけ。壊れたその画面に「妙木世さん。論文について指導あり。A107に来て下さい。」「妙木世さん。論文について指導あり。A107に来て下さい。」と映し出されていた。

水びたしになった地面を顔を覆いながら、さまよった。

「ああ・・・・」世は地面に膝を付いた。

世界が崩壊するのを見た。

周りの風景が輪郭を失い、複雑な線の交錯になり、もつれて淡くなって消えた。

溢れ出した色が入り乱れて、絵の具を全て混ぜたような色の世界に変わった。

自分の姿が消えてきた。

気付いたからだ。

おぼろげな記憶が段々に形を成していった。

思い出した。

僕はこのナカで生まれた、ただの意識の塊だ。

一切合切がなくなったその上に、ただ、黄緑色の太陽が浮かんでいた。

それを見つめたままで、世の意識も消えた。

世界は消えた。


辺り一面が草原で、所々に大きな木が生えている。

恐竜が闊歩する中、その足元の草むらの片隅に、プスプスと細い煙を上げている物がある。

その煙を上げている黒箱ブラック・ボックスは、一瞬閃光を放ち、死んだように一切の輝きを失った。

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融合世界 森川めだか @morikawamedaka

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