第一章 ベラドンナの霜
1.かじかんだ指先
――三年前。
やけに蒸し暑かった秋の日を、生涯忘れることはないだろう。
その日は彼が志望する専門学校の合格発表が行われる日だった。もちろん内心では一刻も早く結果を知りたかったけれど、そうすればきっと彼よりも燥いでしまって、ハグとキスでは収まりがつかなさそうだったから、ぐっと堪えて彼の尻を叩いた。
「まずはお母さんとお姉さんに報告してきなよ」
それが間違いだった。
どんな学校でも聞かされるだろう校長のお説教に『家に帰るまでが遠足』というものがある。ならば自分もそれに倣って、きちんと合否を見届けるまで傍にいるべきだった。
彼がどれほど頑張ってくれていたのか、間近で見ておきながら。彼がどれほど私に頑張らせてくれたのか、隣で受け取っておきながら。
一時の気恥ずかしさを言い訳にして、目を離してしまった。
その日の夕方に彼の携帯からかけられた電話を取ると、耳に飛び込んできたのは彼の母親の逼迫した声だった。
なんでも犯人は彼が持っていたツーショット写真の、合歓が写る側をライターか何かで炙っていたということらしく、第三の犯行があるかもしれないと保護されることとなった。
程なくして、まず
それからはとにかく目まぐるしかった。気が付けば季節は、コートを羽織らなければならないくらいに肌寒くなっていた。
凄惨なバラバラ殺人の遺体回収は難航し、ついに右近の頭部が発見されることのないままに葬儀が執り行われることになった。彼の母・
写実主義――中でもとりわけ空想を描けないことで専ら有名だった合歓は、どうにか焼け残った半分の写真を見ながら、想い出の当て布をして継ぎ接ぎの遺影を縫い上げた。
悄然と塞ぎ込んでいた央子の瞳に一掬の光が灯ったことに合歓が安堵していると、それを知ってか知らずか、彼女はぽつりぽつりと語り出した。
「写真のこと、ごめんなさいね。怖かったでしょう」
「央子さんが謝ることではありませんよ。それに、私はむしろお礼を言う側のようですから」
合歓がそう微笑みかけると、央子は困惑したように肩を丸めた。
「先ほど右近くんの体を見ていた時に気が付いたんですけどね」
ほら、と彼女の視線を導く。
「手のひらに小さな火傷の跡があるでしょう。きっと彼は取り返してくれたんだと思います。体中の暴行を受けた痕のいくつかも、その時に負ったのでしょう。私がここに無事でいられるのは、彼が守ってくれたからだと思うんです」
最後の方は言葉になっていなかったと思う。央子が優しく相槌をしてくれる度に、鹿威しのように涙が溜まってきて、どちらからともなく溢れてしまった。
鈴虫たちの声に隠れるように。いずれ家族になったかもしれない人と抱き合って、さめざめと――
* * * * *
右近の葬儀から、早くも一年が経っていた。
天気予報では今日から最低気温が零度を叩き出すらしい。そんな冬のはじめの明け方は寒さが芯にまで届くようで、合歓はダンゴムシのように二重の掛布団を被ったままベッドを這い降り、電気とエアコンのスイッチを入れた。
「うぅ、寒い……」
ボタンを連打して暖房を二十五度に設定する。地球温暖化に伴う環境省の推奨温度など知ったことではない。こちらの
手ごろなモデルハウスを買い付け、卒業と同時にアトリエ兼自宅を構えていた画家・姫彼岸合歓の活動は、おおむね順調といっても差し支えはなかった。
売り上げは四半期に一点、風向きが良ければ二点。月収換算でおおよそ十八万。高卒で就職したと思えば、自由時間が多い分幸せな一人暮らしなのかもしれない。
部屋が温まってきたところで羽化した合歓は、ぼうっとテレビを眺めながら、オールブランを漫然と口に運んでいた。
「……こんなに寒いと牛乳が冷たくって敵わないな」
スマホを取り、ホットアレンジのメニューを検索する、きな粉やゴマを混ぜるのもいいらしい。野菜は嫌いだけれどこれならイケそうだ。ちょうどドライフルーツが切れかけていたから、味変のタイミングとしては悪くないか。
じゃばじゃばとお湯を使って洗い物を済ませ、寝間着の上にコートを羽織る。近所のスーパーに行く程度、髪が爆発したままでも構わない。
「はぁーっ……」
合歓は息を吐いて手のひらを温めながら、壁にかけた手袋を何度か見やって、今日は描かないからいいやと小声で早口に吐き捨てて、部屋を出る。
あの日から、絵を描く意欲がほとんどなくなっていた。きっと紅葉とともに朽ちてしまったのかもしれない。けれど前もってモデルハウスの購入を決めてしまっていたから惰性で画家を続け、エージェントにせっつかれてから重たい腰を上げることの繰り返し。
上を向いて歩かなくても、涙はとうに枯れ果てた。
けれど、そうやって俯き気味だったのが良かったのかもしれない。
「……なんだ? おい、君!!」
軒先に少年らしき背中が蹲っているのに気付いて駆け出した合歓は、彼の背中を揺さぶろうとしてあっと声を上げた。
彼は首が無かった。蹲っているのではなく、そう見えていただけだったのだ。
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