スポットライト

 合歓に手を引かれて行った先は、キャンプ場の離れにある展望スペースだった。


「どこかと思えば、普通の展望スペースなの?」


 右近は苦笑気味に言った。はしゃぐ合歓の様子に勝手に膨らませていた期待感がもどかしい。

 しかし合歓はまだ何かを隠しているような含み笑いをして、背中をぐいぐいと押してくる。


「いいからいいからー。ネムーを信じてー」

「まーた古いネタを……」

「それが古いと解っているのも大概だと思うよ」

「姉さんがよくDVDを借りてたからね」


 思いがけず懐かしくなる。姉がレンタル店でお笑い系作品を借りる時は、きまって右近が同行させられ使い走らされていた。お笑いのコーナーが、アダルトコーナーの近くにあるからだ。

 そして帰りに店の前の自販機で、お駄賃に飲み物を奢ってもらうのが流れだった。

 そんなことを考えながら、簡素に出っ張った展望台に立つ。不意に、視界の端がぼやっと明るくなって、右近は驚いて振り返った。

 こちらの足下に向けて角度の調整されたセンサー式外灯が、スポットライトのように照らしてくれている。他の施設のそれと違うほのかな淡い光は、粋な計らいだった。


「な、凄いだろう?」


 合歓は何故か、まるで自分が設計者であるかのような得意顔で言った。


「昔、花見には来たことがあるけれど。こんな演出があるとは知らなかった」

「日中じゃあわからないもんね」


 二人で並んで、フェンスにもたれかかるように立つ。

 一度外灯の光を見てしまったことで瞳孔が小さくなった目が、遠くの町並みに焦点を当てるように、徐々に夜闇へ順応していく。

 町明かりのぼやけた光が収束し、その本当の姿を現した。


「わあ……」


 右近は思わず息を呑んだ。

 満天の星が、空の水鏡で反転して下界へと映し出されていた。遠くに望む蜃気楼のようなそれは、見渡す限りの桜の額に収められ、まるで下界の方が楽園であるかのように感じられる。

 夜の穏やかな風に、どこかから花びらが舞い上がった。それは、神様が今もなお、その世界に筆を走らせているようにも見えた。


「綺麗だね」


 散々悩んだ挙句、右近が発せたのはそんな一言だけだった。

 けれど、合歓は凡才を茶化すことはしなかった。もう一歩近づいて、肩を触れさせて、フェンスの上で手を重ねる。

 そのまま暫く無言のまま、スポットライトの下、世界に二人きりで寄り添っていた。


「絵、描かないんだ?」

「うーん、どうしようかなあ」


 合歓は風にそよぐ髪を押さえて、目を閉じる。


「このまま手を繋いでいたいから、という理由じゃ駄目かい?」


 右近は胸がチクリとするのを感じた。鼓動が浮足立って、蒸された脳が慌て始める。


「そ、そうなんだ」


 右近は思わず、彼女の笑顔から視線を逸らした。外した視線の先に待ち構えていた、下弦の三日月までもが笑っているようだ。お前の方は許さないぞと、右近は睨み返す。

 合歓は「それに」と、握る手に力を込めた。


「これから君の絵を描くってのに、夜景なんて前座に構ってはいられないのさ」

「夜景を前座と言うなんて、合歓くらいだよ」


 嬉しくて、気恥ずかしくて。そして、また胸がずきんと痛みを訴えた。

 右近ははたと首を傾げる。どうして自分は、それを痛みだと認識したのだろう。


「(あれっ……?)」


 知らず知らず、頬に一掬の熱が伝う。

 右近は合歓に気取られないよう、呼吸を押し殺してぐっと堪えた。

 彼女の隣で肩を触れさせていることは、幸せなことのはずなのに。

 彼女の言葉のひとつひとつが、笑い顔のひとつひとつが、温もりのひとつひとつが、すべて愛おしく感じているというのに。

 この時間が永遠に続いて欲しいと願う自分と、このままではいけないと叫ぶ自分がいる。


「……そうか」

「うん?」


 合歓が問いかけるように見上げてくる眼差しを、右近は直視できなかった。


「やっと解ったよ。自分の頭を見つけても、僕が成仏できない理由が」


 右近は深呼吸をしてから、合歓の目を見る。


「僕がここにいる理由は、多分……君のアシスタントになるためだったからだと思うんだ。遺顔絵師ではなく、世界一の画家・姫彼岸合歓の」

「えっ……?」

「合歓。やっぱり君は、表舞台に立つべきだ」


 告げると、合歓は逃げるように手を放した。怯えたような目で、いやいやと首を振る。

 それでも、右近は言葉を紡ぐのを止めなかった。


「僕たち死者を弔ってくれるのは、嬉しい。中々できる仕事じゃないし、それで救われる人もたくさんいると思う。けれど、死者が――僕が理由で、在るべきだった合歓の未来が閉ざされてしまっては、悲しいんだよ」

「ちょっと待ってくれ。君まで、私に遺顔絵師を辞めろって言うの?」

「合歓、聞いてくれ――」

「嫌だ、聞きたくない!」


 地面に叩きつけるように叫んで、合歓は身を翻してしまう。

 右近は咄嗟にその背中に手を伸ばした。どうにか指先にひっかけると、引き寄せて、小さな背中を抱き締める。


「何が駄目なのさ。私だって、君を喪ったんだぞ!」


 合歓は逃げることをやめてくれたが、背を向けたままで叫んだ。


「あの日、君の遺顔絵を描くことが出来たのは良かったと思ってる。光栄だとさえ思っているんだ。でも……それだけじゃあ、耐えきれなくて押し潰さてしまうんだよ」

「合歓……」

「だから、私は遺顔絵師を生業にした。『君の遺顔絵を描いた』という思い出を、もっとたくさんの遺顔絵の中に埋めてしまえば、少しは紛れてくれると思ったんだ」


 右近は腕に力を込めた。震え出した彼女の背中を押し止めるように、ぎゅっと身を寄せる。


「なのに……それを君から否定されたら、私はどうしろって言うんだ……?」

「違うんだ、違うんだよ合歓。遺顔絵師を辞める必要なんてないんだ」


 そこまで言ってから、右近は言葉を止めた。そういえばつい昨日、結論ありきで自分に言い聞かせることを、彼女に叱られたばかりだったか。

 だから右近は、あの日から過ごした、記憶のない『木蔦右近』としての思い出のページを開いて、読み聞かせるように言った。


「はじめは違ったと思う。僕はきっと、ただ一方的に、君が遺顔絵に囚われているのを見るのが辛かったから黄泉がえりをしたんだ。でも、それじゃあ駄目だから、神様が条件を付けてくれたんだろうね。だから、記憶を失ってた」


 記憶のページを捲っていく。これまで目にしてきた彷徨える魂たちの、痛ましい姿が浮かんでは消えていく。けれどどの人たちも、最後に浮かぶのは、笑顔だった。


「今では僕も、遺顔絵師という仕事に誇りを持っているよ」

「じゃあ、いいじゃないか……」

「ううん、ダメなんだ。それだけじゃ、ダメなんだよ」


 右近はそっと合歓の体を離し、その肩を回す。

 彼女はむすっと下唇を噛んで、視線で抗議をしてきている。

 僕の方を、見てくれている。


「君の絵は、見る人を笑顔にするんだよ、合歓。これからは、死者の笑顔だけじゃなくて、生きている人たちの笑顔も生み出していって欲しい。君が画家として抱いていた夢も、思う存分描いて欲しいんだ」

「……とんだ無茶振りだな。まったく君って奴は、どうしてそうなんだ」


 合歓はそう言って、小さな手で、右近の胸のあたりを小突いた。

 彼女は何度か、頷いたり、深呼吸をしたりと繰り返してから、やがて口を開く。


「わかった。けれど約束してくれ」

「約束?」

「私がいつか、君のところへ還ったら。その時には、私のそれまでの思い出話を全部聞いてもらうし、絵だって全部見てもらうからな」

「……うん、待ってる」

「全部にきちんと感想言わないと、許してやらないんだからな!」

「どうしても無茶振りにしたみたいだね、君は……」


 右近は苦笑した。よりにもよって、張り合うところはそこなのか。


 安心したら、全身があったかくなった。合歓に小突かれたところから、じわりと温もりが広がるようにして、血液のように体じゅうを駆け巡る。

 やがて、鎖骨の辺りまでいっぱいに満たしてくれたそれは、水が溢れるように、首元へとせり上がってくる。自分の頭が蘇っていくのを、感じる。


「光に包まれる感覚って、こんな感じなんだね」


 それは笑顔になるわけだと、右近は笑った。

 鼻をずぴっと啜ってから、合歓もまた、笑ってくれる。


「男前だね。瞼の裏の、どんな右近くんよりも、ずっとカッコいいや」

「合歓の傍で経験を積んだからかな。あはは、死者も成長するんだね」


 気恥ずかしくなって、軽口を叩く。

 不意に、合歓が背伸びをしてきた。

 取り戻した熱よりもずっと熱いものが、唇に触れる。スポットライトの下で、二人の体がひとつになる。


「……ずっと、こうしたかった」


 そう言って、合歓はその日初めての涙を流した。

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