君に花束を
今度こそ、時間が永遠に止まればいいのにと、右近は心の底から思っていた。けれど、それはもう、許されるわけにはいかなかった。
「さあ、描かなきゃ。今の右近くんの、人生イチの顔を」
「うん。よろしくお願いします」
頭を下げると、丁寧語はやめてくれと肩を叩かれた。
ばたばたと駆け足でキャンプ場に戻る。すわ何事かとタブレットから顔を上げたアイリスが、目を皿のようにして立ち上がった。
「貴方……一体、何があったんですの?」
「ヒミツだ。男女が二人でしけこんだんだ、何があったかなんて決まっているだろう」
「なっ……」
アイリスがかあっとおでこまで紅潮させて固まった。そんな彼女を尻目に、合歓は自分の荷物をひっくり返している。
「合歓?」
「私は悪くないよ。一部分は本当じゃないか」
右近は諫めたつもりが、今度は自分が顔を赤らめる番だった。
英が何かを察したように眉を上げる。それに、アイリスはようやく自分がからかわれただけなのだと気付き、ハッとして顔を背けた。
合歓はキャンバスをキャンプ場の広いところに陣取りすると、椅子に飛び乗った。
「よし、始めようか」
英たちに見守られる中、遺顔絵の写生会の幕が切って落とされた。
彼女の指示に従って、右近はダンスのステップを踏むように前後左右に位置を調整する。そこでいいよと、自分で出した合図とともに、筆が走り始めた。
その瞬間、右近は、合歓の輪郭に虹が帯びるのを見た。オーラのような圧力が膨れ上がり、彼女がたしかに絵の名手なのだということを思い知らされる。筆が払われる度に、色を深くした彼女の瞳がこちらを向く度に、自分の中のすべてを引きずり出されるようで、右近はゾクゾクと打ち震えた。
これが、姫彼岸合歓。刹那の瞬間を誰よりも美しく切り取る、天才画家の姿。
大切な人が、自分のために全力を賭してくれている姿。
「不思議だね。描かれる立場になると、こうも見え方が変わるなんて」
キャンバスの向こうにどんな絵が刻まれているのか気になって、落ち着かない。けれど、嫌ではなかった。こそばゆいような感覚に、そっと踵で足踏みをする。
「私も描く側だから、その辺りはわからないな。どんな感じだい?」
「すごく、合歓が綺麗に見える」
「ふふん、私に惚れ直したかい?」
合歓が薄く歯を見せて笑うものだから、右近は驚いた。
照れ隠しに怒ったりするような様子はなく、一足飛びに大人の余裕を身に付けてしまったような、色香のある微笑みだった。
彼女の真剣な顔は何度も見たことがあったが、この表情は初めてだった。また一つ、思い出の中の合歓が更新されていく。
だから、右近は首を横に振った。
「惚れ直したりはしないよ。だって、ずっと惚れっぱなしなんだから」
「本当に、君って奴は……」
キャンバスに視線を逃げ込ませて、数秒。合歓は「私もだよ、バカ」と頬を緩めた。
右近は途端に、途方もない空しさに襲われた。どれだけ心を伝えても、どれほど心を伝えてもらっても、足りないのだと気が付いた。きっとそれは、仮に百年生きることができたとしても同じだと思う。
だというのに。僕は、もうすぐ逝かなければならない。
「駄目じゃないか、合歓。そんな風に泣いていたら、キャンバスが見えないでしょ」
「右近くんこそ。笑っていてくれないと、酷い遺顔絵が出来上がってしまうよ」
互いに顔を指し合い、その腕の袖で自分の目元を拭う。
何度拭っても、視界はすぐに滲んでしまう。合歓の姿だけは決して滲ませてやるものかと、右近はぐっと歯を食いしばった。
呼吸を止める。しかし、現実は非情にも進んでいく。蛍のようにひらひらと、光の粒が舞い上がって来るのが見えた。
「合歓……!」
右近は怖ろしくなって、縋るように名前を呼んだ。
「落ち着きたまえ右近くん。こっちから見る限り、まだ猶予はある。楽しい時間だから、早く過ぎるように感じてしまうだけさ。一生に一度の経験なんだ、いっそ、とことん楽しもうじゃないか!」
合歓が歯を剥いた瞬間、右近はすっと呼吸をするのが楽になった。
頷いて、合歓の姿だけを瞼の裏に焼き付ける。涙の粒も、光の粒も、忌避せずに受け入れて、彼女を引き立たせるためのフォーカスにしてしまえばいい。
「ようし、アイリス。テーブルの上にケーキの箱があるから、出しておいてくれ」
合歓がさらに筆を加速させながら呼びかけた。
しばらくして、バーベキュー場の方から「えっ」と引き攣った声が聞こえてくる。
「どうした?」
「その、申し上げにくいのですけれど。ちょっと……いえかなり、悲惨な状態に」
箱を抱えて戻って来たアイリスが、その中身を合歓に見せた。合歓はそれを覗き込むや否や、後ろに倒れるのではないかというくらいに体を逸らせ、空に向かって高らかに笑った。
「聞いてくれ、右近くん。傑作だぞ。リュックに入れて山登りをしたせいで、ケーキがぐちゃぐちゃだ!」
「ああー……だろうね」
薄々そんな気はしていた。底の方に入れて、タオルで隙間を埋める努力はしていたのだけれど、根本的に無理があったらしい。
「ま、いいか」
右近が考えることを丸めて投げ捨てると、アイリスは唖然と目を瞬かせた。
「いいんですの……?」
「はい。今から用意しても間に合いませんし。それに……そんな風になったケーキで祝うことになるのって、きっと僕が最初で最後です。最高じゃないですか」
「あはははっ、違いない!」
合歓はひとしきり笑ってから、パレットを下ろして深呼吸をした。
「出来た。完成だ。見てくれ右近くん――私の、最高傑作だよ」
スタンドが回され、右近は自分の顔と対面した。
普段鏡を見る時、特に気にして笑顔を作ったりはしない。生前に写真を撮る機会は殆どなかったが、撮ったとしても『チーズ』や『一足す一は二』の程度の微笑みに留まるだろう。
キャンバスの中に描かれた自分は、そんな想像力の乏しい予測を容易く凌駕していた。
「僕は、こんな顔して笑うんだ……」
羨ましいくらいに目元をくしゃくしゃにして、幸福そうな顔をしている。
「自分じゃないみたいだ」
「可笑しなことを言うね。私は姫彼岸合歓だよ? なんの誇張もない、君のありのままさ」
「そっか」
右近は頷いた。彼女の言葉だから、信じることができた。
残る憂いであるケーキは、なるほど確かに、見るも無残な姿をしていた。いちごはまるで自由に椅子取り競争をした後のように、生クリームを蹴散らして散らばっている。どうにか踏ん張ってくれようとしていたスポンジも、力尽きて崩れ落ちている。
「まるで君の首の断面のようだね」
「僕もちょっと思っていたけれど、そういうことは口に出さないの」
台無しだよと、合歓の髪の毛を掻き回す。彼女はわーきゃーと喚きながら、ケーキの中央に蝋燭を突き立てた。右近はそれが頸椎に見えてしまって、いよいよ耐えきれずに噴き出した。
普段は右近がやっていたところを、今日は合歓が代わりに、蝋燭へ火を灯す。
「――あ、そうだ」
右近は大切なことを思い出して、英の方を振り返った。彼女は黙って頷いて、このスペースを囲むレンガの裏を指差してくれる。
「お、おい。どこ行くんだい」
「大切なものを取りにね」
きょとんと首を傾げる合歓を手のひらで制し、右近はレンガの陰から袋を取り上げた。母への別れ花を買った日に、英に頼んで発注してもらった生花だ。
「これを、君に」
そっと、包みがずれないように袋から取り出した花束を見て、合歓が息を呑んだ。
「
「最初は、カンゾウかシオンのどちらかにしようと思ってたんだけれどね」
右近は、閉店間際の店内で英に付き合わせてしまった葛藤を思い返して、苦笑した。
「『萱草と紫苑』の父親――つまり今の僕は、君に憶えていて欲しいのか、君に忘れて欲しいのか。ずっと考えてた」
「……決められなかったかい?」
「ううん、決める必要がなかったんだよ。だって、僕たちはまた会うんだから」
右近は合歓の目を真っ直ぐに見つめた。
「だから、僕の気持ちを贈ることにしたよ。受け取って、くれるかな?」
手を伸ばして花束を差し出すと、合歓は下唇を丸めて瞼を閉じ、小刻みに頷いた。
「喜んで。なあ右近くん、この花の花言葉を、聞いてもいいかい?」
「チューリップの花言葉はね、『愛の告白』っていうんだ」
それを伝えて、今度は右近から唇を重ねる。
「
「
余韻を確かめるように笑い合って、手を繋いでケーキの前に向かう。
「生まれ変わる君に、おめでとう」
せーので、同時に息を吹きかけた。
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