やってみたかったこと
「で、こうなるんだよなー」
右近は桜の絵を描く合歓の後ろで、しみじみと頷いた。
「仕方ないじゃないか。どこか食事に行くわけにもいかないんだし」
「そうなんだけどね」
右近はため息を風に溶かした。
悲しいかな、死んでいるということは制約が多かった。結局、デート先はカラーゲート沿いの土手で絵を描くという、いつもと変わらないものになった。
外食自体はしたことがあったが、いつも英かアイリスが一緒で、かつ個室。合歓と二人きりということはなかった。それでも見えている頭数より一つ多い量を頼むのは、店員からすれば不思議だっただろうと思う。
どこかテーマパークに行くというのも見送った。歩き回るだけならいざしらず、アトラクションに乗り込もうとすれば、間違いなく自分の席は別の誰かとの相乗りとなってしまう。ただ面白かったのは、知らないおじさんと重なることを嫌がる右近と対照的に、合歓は女性と重なることの方を嫌ったことか。アイリスか英なら許すと言われ、それはそれで想像してしまってどぎまぎしていると、思いっきり引っ叩かれた。
「そういえば、さ。桜の下に屍体が埋まっているって話、したでしょ?」
桜吹雪から合歓を守るように立ちながら、右近は言った。
「今ならこう思うんだ。僕が屍体の側なら、桜が芽吹いて欲しくないなって」
「花が散ってしまうからかい?」
「ううん、
キャンバスに描かれた桜は、花びらの舞う様子さえも切り取って描かれている。しかし、かの小説の中でその根元が空想であったように、絵の中の桜もまた、地面の裏側までが切り抜かれることはない。水面下で藻掻く、白鳥の優雅な部分だけが目に映っているからだ。
誰も知らない、誰も見ようとしない、誰の琴線にも触れない、そんな隔離された牢獄の中で、永遠に忘れ去れてしまう。
「僕は、きちんと天に昇りたいんだ。そうして、もう何十年かの間、合歓を待って。一緒に生まれ変わりたい。桜の下に縛り付けられるのは、まっぴらごめんだ」
素直な気持ちを伝えると、合歓はわずかに頬を赤らめて目を丸くした後、仕返しとばかりににやりと表情を取り繕って言った。
「その時、私の隣に誰か新しい伴侶がいたらどうするんだい?」
「その時は、合歓を攫うよ」
「んなっ……」
「アイリスさんが言ってた。僕はどうやら、君を画家としての表舞台から、遺顔絵師へと攫ってしまった男らしいからね」
ちょっと意地悪に、さらに上からやり返してみる。
合歓は半狂乱に叫んで飛び上がった。
「まったく、どうしてそうなんだ君は! いつもいつも、突然キザなことを!」
「合歓だって似たようなものじゃないか」
「う、ううううるさいっ! キザで、クサくて……そう、ターメリック臭いんだ!」
「ええー、名前をイジるのは反則でしょー」
ぽかぽかと振り回してくる腕をいなしながら、右近は苦笑した。
君が名前を引き合いに出すというのなら、こちらもそうするまでだ。
「ネムノキの『合歓』って、歓楽を共にすることって意味があるんだって。ああ、他にも、男女が共寝をすることって意味もあったっけ?」
「…………そうだよ」
合歓は最後のげんこつをぽすんと叩きつけて、そのまま体重を預けてきた。
てっきり、顔を赤らめて更にテンパる彼女の姿を期待していた右近は、少し戸惑いながら、彼女を受け止める。
「歓楽を共にするんだよ。共寝をするんだよ……」
合歓の声が湿り気を帯びた。
「『男女』なんだ。私が女で、男は誰だ。君だろう? 君なんだよ、馬鹿ぁ!」
「合歓……」
右近は思わず彼女の肩を抱き締めた。
「駄目だよ。僕たちは、郡東風くんと白井さんを送ったじゃないか。自分たちだけ、のうのうと享受しようっていうのは、良くないよ」
「そんな建前を聞きたいんじゃない!」
合歓はがばっと顔を上げた。せっかくしたメイクがくしゃくしゃになってしまうくらい、頬には涙の痕が付いている。その雨は止むことを知らず、今も尚、新たな粒が落ちていく。
「いいのかっ、私は自分で言うのもなんだが、美人だ! 君と離れたら、すぐに相手を捕まえてしまうぞ。君とできなかったことだって、何でもしちゃうんだぞ! エッチなことだってするだろうさ! 嫌じゃないのか!」
「ぐっ……」
右近は歯噛みした。そんなこと、想像するだけで脳が拒絶をするに決まってる。
理性でどうにか押さえ込もうと、さらに歯を強く食いしばった。その未来が来ることこそが正しいのだと、必死で自分に言い聞かせる。
「僕は死んでるんだよ。仕方ないじゃないか!」
「知るか、バカ―――!!」
次の瞬間、右近の視界は回転していた。土手の芝生を転がり落ちながら、自分がぶん投げられたのだということを理解した。
合歓は追いかけて来ようとして、自分も躓いてすっ転び、とんでもない悲鳴を上げながら隣に落ちて来る。
「ええと、大丈夫……?」
「…………」
こちらにお尻を付き出したまま、合歓は返事をしようとしない。
彼女は無言のまま立ち上がると、幽鬼のように髪を揺らめかせながら、馬乗りになって胸倉を掴んできた。
「抵抗したって無駄だよ。洗面所で倒れた君を、寝室まで運んだのは私なんだ。どうやら君の体はだいぶ軽くなっているようだからね。私の細腕でも、容易に勝てるってワケさ」
幽鬼はそう言って、胸倉を引き上げて見せた。
彼女の言う通り、踏ん張ろうとしても歯止めが効かない。
「本当に……本当に、君って奴は、どうしてそうなんだ!」
「どうしちゃったのさ、合歓……」
「君は物分かりが良すぎるんだよ!」
合歓の慟哭が、胸に叩きつけられた。
「記憶が戻ったかと思えば、二言目には『成仏させてくれ』? 私が縋れば、『死者が残り続けるわけにはいかない』? ふざけないでよっ、そんなこと、私だって解ってるさ!」
合歓は髪が乱れるのも気にせず、頭を振って叫ぶ。
「どうして怒らないんだっ! 私は君が誰で、どこに帰る家があるかも解っていて、自分の欲のためにすべてを伏せていたんだよ? どうして早く言ってくれなかったんだって、叱り飛ばすのが普通だろ!」
「それは、合歓が僕のことを思ってくれてるのがわかったから……」
「またそれだ、私がどうかじゃない。私のためにじゃない。君はっ! 右近くん自身はどうなんだって聞いてるんだ、私は!」
右近はハッとした。
そんなこと、考えるまでもないと思っていた。それを踏まえて出したのが結論であって、過程のワガママを喚き散らすのは意味がないと思っていた。
桜の樹の下は、水面下で藻掻く白鳥の足は、言わないと伝わらないのに。
「成仏したくないに決まってるじゃないか!」
気が付けば、右近は情けない声で叫んでいた。
「僕だって、君と離れたくないよ。けれど駄目なんだ! こんな体じゃ、ろくにデートもできない! 顔がないんじゃ、君にキスだってできない!」
一度回り出してしまえば、もう舌が止まることはなかった。直視したくなかった言葉が後から後から吐いて出て、合歓の体で跳ね返って、自分の胸にぶっ刺さる。
やがてそれは雨雲になって立ち込めていく。右近は最早、自分が何を言っていて、何を着地点にすればいいのかなんて、何も見えていなかった。
「嫌だよ……、死にたく、ないよ……!」
右近は子供が駄々をこねるように喚いた。そこに蓋をするように合歓が覆いかぶさり、一緒になってわんわんと声を上げた。
泣き疲れて、どちらからともなく体を離し大の字に寝転ぶ。隣を見れば、土と花びら塗れの合歓が、同じようにこちらを見つめ返してくれる。
「ふふっ、酷い顔だ」
「合歓の方こそ」
笑う気力もなくて、渇いた笑いを交わし合う。
合歓はぐでっと空を見上げて、何かをやり切ったような、大きなため息を吐いた。
「一度、してみたかったんだ。ケンカ」
「ええ……それは、ない方がいいんじゃないかな」
右近が難色を示すと、彼女は「私もそう思ってたよ」と笑った。
「茉莉花に言われたんだ。彼氏とのケンカはいいぞー、って」
「どうして?」
「仲直りをすれば、より強く結ばれるからだってさ。確かに、私たちのことは、変えてはいけない未来だ。どれだけ喚いても、そうしなきゃならない。けれど、だからって、呑み込んでしまう必要は、ないじゃないか」
合歓はこてんと首をこちらに傾けて、はにかんだ。
「やってみると、案外悪くなかったね?」
「……そうだね。そうかな? そうかも」
「あっははは、右近くんらしい感想だな」
合歓の軽快な笑い声を聞きながら、右近は空を見上げて頬を緩めた。
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