第四章 君にブーケを

名前を指先に

 集合墓地の片隅にある、木蔦家の墓の中へと骨壺を納めたところで、一陣の風を受けた。台風のように急に現れては、あっという間に過ぎていった時間の最後に舞い上がる春の風。

 右近は目を細める。桜の花びらが渦を巻いていったあの道を、これから母は昇っていくのだろうか。

 墓周りは念入りに手入れをされていた形跡があった。親の心子知らずとはこのことかと苦笑しながら、母が墓前にかけてくれていた想いの残滓を背負い込む。

 卒塔婆の中に比較的新しい、建立年月日の同じものを見つけた。ただ戒名で書かれているため、どれが自分のものかは判らなかった。母のそれは、英の伝手で用意してもらうことになっている。家の名義や、解体の手続きなども、持ち帰って確認してみてくれるそうだ。


「何から何まで、本当にありがとうございました」


 英とアイリスに頭を下げる。


「気にしないで。こっちこそ、あなたたちにはいつもお世話になってるんだもの」

「私も、参列していただけですし。それよりも、貴方にとって一番大切なのは、これからなのでしょう?」

「……ですね」


 右近は頷いて空を仰ぐ。今度はこの風に、自分が乗る番なのだ。

 歩いて帰れる距離だっため、英たちとはそこで解散した。遠くに見えるカラーゲートを目指して、ゆっくりと散歩をするようにアトリエへと向かう。


「僕の骨も、あそこに入ってるんだよなあ……」


 不思議な感覚だった。

 戒名は、死後仏門に入ったことを示すもの。となれば、今の自分は修行をすっぽかしてふらふらしている不真面目な門下生ということになる。自分のことながら心外だった。


「本当に、どうして黄泉がえりなんてしたんだろ」

「実は君が自分の顔大好き人間で、是が非でも首を発見しないと気が済まないとか?」

「ないない」


 合歓の仮説は即座に一蹴する。

 彼女は冗談だよと笑って、今度は真剣な顔をして腕を組んだ。


「似たケースだと、柿津畑さんのところみたいな感じかな」

「僕が、何かメッセージを伝えるまで死ねないと思ってるってこと?」

「それを私に聞かれても。取り戻した記憶の中に、何か未練がないのかい?」

「うーん……」


 右近は首を捻る。ここで『合歓と別れることが未練』だとか茶を濁しても良かったが、柄でもないし、彼女を縛り付けるべきではないと判断した時点で破綻している話だ。


「恨みとかでもないもんね。あの男は、もうこの世にいないらしいし」


 英から調べてもらった情報では、父だった男はずいぶんとやんちゃをしていたらしい。仕事はどこも三ヶ月続かず、いくつもの親切な金融機関に借りを作っていたという。

 だから自分と姉に目を付けられたのだ。しかし皮肉なことに、そんな足の付きやすい経路の遺体を持ち込もうとしたことで見切りをつけられ、警察よりも先に発見した親切な方々によって、自分の臓器を毟り取られた挙句に海の藻屑となった。

 右近は特に、自ら手を下さなければ気が済まないと思っているわけではなかった。合歓が無事ならば、それだけで良かった。むしろ、あの男の臓器を移植される人に同情するくらいだ。


「やっぱり、頭なのかなあ」

「それも、どこにあるか判らないんだろう? 死人に口なし。先に私の寿命が来そうだ。なあ、やっぱりこのまま、私と暮らさないかい?」

「そうもいかないでしょ。それに……」


 右近は立ち止まった。

 数歩先までつんのめった合歓が、振り返って覗き込んでくる。


「それに?」

「多分、場所は知ってる」

「……本当かい?」


 合歓の、喜びと寂しさが入り混じった瞳が揺れる。

 右近は頷いた。確信があった。何故なら今も、町の向こう側に見えるそれに、ずっと心がざわざわとしているのだから。

 けれど、まだ駄目だ。


「ねえ、デートをしない?」

「はあ?」


 突然明後日の方向から投げかけられた言葉に、合歓は何を言っているんだと顔を顰める。

 右近は片手拝みで謝りながら、彼女の背中を押した。


 神様仏様。あと一日だけ、後回しにすることをお許しください。











 アトリエに戻ると、右近たちはたっぷり時間をかけて外出の準備をした。

 今朝は簡単に整えるだけだった合歓の爆発ヘア―に、改めて蒸しタオルを当てて、じっくりと水分を与える。

 その間に、彼女にメイクを施した。結局専門学校に通うことはできなかったが、生前に姉に仕込まれたものと、黄泉がえり後の日々の中で磨いた腕の全力をもって、彼女を美しく仕立てあげる。


 昨夜の合歓の一皮むけた表情が忘れられず、今日は大人っぽくなるよう、特に目元へ力を入れた。いつもの流れと違うことを気取った合歓がそわそわと鏡を見たがったが、まだお預けだ。

 もちろん、クソダサ私服にも着替えさせない。クローゼットからギャザーセーターを取り出し、何着かスカートを見繕ってあてがい、一番きれいに映えるものを選んだ。

 指にマニキュアを塗るのは、初めての試みだった。手が商売道具である合歓の指先は羨ましいくらいに綺麗で、ため息が漏れそうになる。


「思えば君は、こういう店に行きたがらなかったね。美容室だってそうだ」

「それを言ったら、右近くんだって一度も行ってなかったろ」

「だねー。髪が伸びてこない時点で気が付くべきだったと思うよ」


 我ながら無頓着だったなと思う。

 合歓のアシスタントを志してからは美容やファッションの情報にもアンテナを拡げるようになったが、それまでは髪が鬱陶しくなってからようやく、近場の千円カットに行ってざっくり整えてもらうくらいのことしかしていなかったのだ。


「合歓がそうしなかったのは、迎えに行った僕が鏡を見ないようにするためなんだろ?」

「さすがに、もうバレるか」


 合歓はじっと指先を見つめながら、白状するように言った。


「私からは君の首がないように見えているのに、君は普通に洗面所へ行くのが気になってね。追いかけてみたら、君は突然鏡に向かって叫んで、倒れたんだよ」

「そんなことあったっけ?」

「無理もない、前後の記憶も飛ばしたようだったからね。寝坊した記憶は?」

「あー……? あー……」


 右近は記憶を辿り、唸った。一度、寝過ごしたと思って飛び起きると、合歓の髪がセットされていたことがあった。


「英さんにも相談してね。自分が生きていると思っているから、君はその姿を鏡に投影しているんだろうという結論に達したのさ。けれど、生者が一緒に映ってしまうと、バランスが崩れて、本当の自分が見えてしまうんだ」

「それでか……」


 絵画展のトイレで起こった現象に、合点が行った。


「できた」


 小指の爪に最後の線を入れて、合歓の手を放す。

 彼女は両手を並べ、ピンクに彩られた指先を見て、わっと声を上げてくれた。


「ネリネか。可愛いね」

「良かった。秋に咲く花を描いてどうするんだー、とか言われたらどうしようかと」

「まさか。私の名前にかけてくれたのに、そんな無粋なことは言わないさ。ピンクも春らしくていいじゃないか」


 くるくると回ってグッパーを繰り返す彼女に、右近は胸を撫で下ろした。

 つい昨日までの自分は記憶がなかったが、それでも合歓のことを好きになるのは同じだったらしい。いつかデートに誘う時に施すのだと、絵心がない自分を奮い立たせて、日夜こっそり練習していたのだ。


 報われてよかったねと、ありがとうの意味を込めて、右近は、胸の中にいるもう一人の『木蔦右近』とハイタッチを交わした。

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