画竜点睛

 メイクを教えて欲しい。思い切って頭を下げると、姉はフライパンを器用に返しながら、意外にもあっさりと頷いた。


「いやー、男もメイクするとは聞いていたけれど、まさかあんたがねえ」


 しげしげとこちらを見て、今しがた僕が切ったばかりの具材たちを掻っ攫い、フライパンに追加投入していく。今夜の献立は八宝菜――からいくつか引いた我が家の味だ。


「僕がするんじゃないよ。してあげられるようになりたいんだ」

「あれっ、あんたデザイン系の学校行きたいって言ってなかったっけ。今度はメイクアップアーティストでも目指すの?」

「それは別に目指してないんだけど……」


 煮え切らない態度の僕に、姉はスリッパの爪先でふくらはぎを蹴ってきた。包丁を持っているから危ないと諫めながら、僕は釈明をする。


「学びたいことがたくさんあるんだ。インテリアコーディネイトも知らなきゃだし、美術的な感性と言うか、教養というか、そういうのも身に付けないと。あ、経理や会計のことも勉強しておかなきゃ」

「欲張るなあ。どれか一つに絞らないと、取っ散らかるよ?」


 姉の苦言は重々承知。それでも、僕には進まなきゃならない理由があった。


「大切な人の力になりたいんだ」

「おーおー、キザなこと言うようになったもんだ。合歓ちゃんって言いなよ」

「ま、まだ合歓って言ってないでしょ!?」


 しかし、それは失言だった。

 姉の目がにたあと、獲物を見つけた狩人のような色を帯びる。


「聞きまして奥さん? この子今、合歓ちゃんを呼び捨てにしましてよ!」

「あっ……今のナシ! ナシっ!」


 姉さんが僕の肩越しに母さんへ話しかけるのを、押し止める。

 母さんは出た生ゴミやトレーの仕分けをしながら、くすくすと笑っている。


「青春ねえ」

「母さんまでぇ。いやほんと、まだそんなんじゃないんだって。告白も出来てないし!」

「いやあ、あんたには一生無理よ。先に向こうから告白してもらうか、言えないまま卒業と同時にバイバイするに一票」

「ちぇ。自分はこないだ彼氏作ったからって余裕ぶっちゃって。経験ないくせに」


 僕が言い返すと、姉はうら若き女子にあるまじき猛犬のような形相で歯を剥いた。


「ありますぅー。予定はありますぅー。週末は彼の家でおうちデートですぅー!」

「まだ二回目のデートでしょ。自分から誘えなくてすごすご帰ってくるに一票」

「ほーう。私の手には、熱々のフライパンが握られていることを忘れているようだね」

「僕の手には包丁があるんだけど?」

「フライパンと包丁なら、フライパンが勝つでしょうよ」

「使い手がジャッキーだからだよ」


 謎の構えを取って見せる姉を、手のひらを払って追い返す。昨夜遅くまで起きていると思ったら、また映画を見ていたのか。

 姉はお小遣いをやりくりしては、頻繁に旧作のDVDを借りていた。それが高じて映画好きになり、その道に進むことを志望している。


「専門学校には夜間のものもあるそうだし、掛け持ちしてみる? お金のことは、心配しなくていいから」

「ううん、そこまで負担をかけるわけにはいかないよ。自分で働いて頑張る」

「おー、好きな子のために頑張るオトコノコ! かっくいー」


 冷やかす声をノールックで押し返す。


「茶化さないでよ。真剣なんだ」

「こっちだって真剣よ。母さんに甘えときな。学校とバイトを掛け持ちするにしろ、学校二つを掛け持ちするにしろ。そんな切り詰めた生活で、合歓ちゃんといつ会うつもり?」

「あ……そっか」


 途端に優しい声色になった姉の言葉で、僕は我に返った。

 その辺りは考えてもみなかった。学校ではいつも一緒だからか、何故か卒業後もそうあれるだという思い込みをしていた。


「私も高校出たら働くつもりだし、生活きつかったら言いな。お姉様って呼んだら、ご飯くらい奢ってあげるからさ」

「ありがとう。僕、頑張るよ。世界一の画家のアシスタントとして、合歓を支えられるように」

「まあ、まずは告白してからほざきなさい!」


 平手で力強く尻を引っ叩かれて、僕は飛び上がった。











 丑三つ時を過ぎた頃、合歓はチラシの裏との総当たり戦に勝利した。掴み取ったチャンピオンとの一騎打ち。てらてらと俗的な光沢の白とは異なる、キャンバスの堂々と深みのある白と睨み合い、深呼吸をして、筆を掲げる。

 何種類もの筆という剣と、パレットの盾を持って挑む戦士の太刀筋は、慎重かつ大胆という形容がもっとも相応しかった。

 筆の入りは慎重に決めながらも、一度切っ先をキャンバスに立てれば果断に払う。くしゃくしゃに丸められた死屍累々のチラシの中心で、静かな死闘が繰り広げられている。

 右近たちはもう下がっていることも忘れ、仏間の敷居にまで押しかけて、夢中になって見守っていた。


 一本一本は単色の線でしかないけれど、交差し、重なり合い、結ばれることで彩りに深みを増していく。まるで人生のようだと、右近は思った。キャンバスという小さな箱庭の中で、いくつもの出会いと別れが繰り返され、大きな流れが形づくられる。葉から落ちた一滴が、山に還って集い合い、やがて大きな川となるように。

 その川が年月を刻み、母の顔に皺を刻んだ。一般的にはなくそうとしたがるそれも、写実主義の合歓は容赦なく再現していく。それは木蔦央子という人間が生きた証であり、彼女の人生を真っ向から受け止めたが故の、愛だった。


 不意に、合歓の手が止まった。

 筆先は、もう開くことのない目の辺りで二の足を踏んでいる。


 右近はいても立ってもいられず、合歓の下へと向かった。

 凍えてしまったように震える手に、自分の手のひらを重ねる。わなわなと立ち惑っている背中を、胸に抱く。

 言葉は要らなかった。力をかけることもしなかった。ただそっと、彼女の体の一部であるかのように寄り添うだけ。


 合歓は唇を引き結んで何度も頷き、意を決して、一歩を踏み出した。

 まずは上の瞼が。そして下の瞼を。化石を掘り起こすような手つきで描き出す。彼女の手と繋がりながら、右近はこれほど繊細な動きが求められることに驚いた。

 やがて眼球に、瞳が描き込まれる。画竜点睛。まだ右目だけだというのに、右近はキャンバスに虹がかかったかのような錯覚を抱いた。


「母さんの目だ……」


 思わず声を漏らす。それに、合歓はどっと大きく息をついた。


「ありがとう、右近くん。もう大丈夫」


 そう言って笑った合歓の顔つきは、いつもよりもずっと大人びて見えた。『あの日』から止まってしまった彼女の時間が、ようやく今、追い付いてきたみたいだ。


 龍を纏った遺顔絵師は、そこから人が変わったように筆を躍らせた。御神楽のように調子を付けて、しかして跳ね回ることなく、恭しくキャンバスを舞う。

 左目が描かれ、口元には微笑みを絶やし、死後時間が経って萎びてしまった髪を、生き生きと再生させていく。


「――よし、できた」


 神業を惜しみなく披露した合歓が、そう言ってパレットを置いた。

 そこで右近たちは、しばらく呼吸を止めていたことを知った。

 キャンバスの中の母は、よく知った面影そのものであり、全く知らない姿でもあった。息子の自分さえ知らない数年の間を、合歓は掬い上げ、刻み込んだのだ。


「母さん、見て」


 右近はキャンバスを持って棺の前に行き、母が良く見えるように、遺顔絵を翳した。


「すごく綺麗でしょ。合歓が描いてくれたんだよ。もう知ってるかもしれないけれど、彼女は、世界一の画家なんだ」


 嗚咽が込み上がってくるのを、右近は必死で押し殺した。駄目だ。まだ駄目だ。手が震えてしまったら、母さんが絵をよく見られないじゃないか。


「母さん……寂しかったよね。苦しかったよね。先に逝って、ごめんね」


 堪えきれず溢れて来た涙が、頬を伝って落ちていく。


「僕を産んでくれてありがとう……育ててくれてありがとう……。僕を、見送ってくれてありがとう……!」


 生前上手く伝えられなかった言葉を、叫ぶ。日頃から感謝を伝えていないわけではなかったが、今この時に口をついて出る想いの重みは、それらとは比にならなかった。

 人は失って初めて気づくことがある。けれど同時に、喪ってからでないと真に意味を込められない言葉もあるのだと、右近は知った。


「先に逝って待ってて。姉さんと一緒に。僕はもう少し、やるべきことをしてから行くよ」


 右近は別れを告げ、遺顔絵を棺の隣に飾った。

 居間に戻り、花屋で買ってきたボトルを取ってきて、そのキャップを開けた。


「右近くん、それは……」

「はい、シオンです。僕が、母さんのことを二度と忘れないよう、誓いを込めて」


 母の棺の空いたところを埋めるように、シオンの花を散りばめていく。


「皆さんにも、お願いしていいでしょうか」


 右近が他のボトルを指さして言うと、合歓たちは笑顔で頷いてくれた。






 それから倒れるように寝た右近たちは、葬儀屋が訪ねて来るまで泥のように眠っていた。

 職業柄あまり気にしていないようだった英の一方で、アイリスなどはばたばたと慌てて身支度を整えていた。そんなてんやわんやの中でも爆睡していた合歓は、さすがの大物っぷりだ。

 棺に釘を打ち、葬儀屋の車を追いかけるように火葬場へ向かった。

 炉は思っていたよりずっと大きい、トンネルのような構造をしていた。ここが既に、黄泉への入り口のようだった。ここで現世の躰は焼き祓われ、魂は天に、遺骨は地に還るのだ。


「ハッピーデースデイ。ハッピーバースデイ。おめでとう、母さん」


 母を籠めた棺が中へ運ばれるのを、右近は瞬きさえ忘れて見つめていた。


 さようなら、母さん。

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