無茶振り

 死体検案書には合歓が代理で記入した。本当ならばひとつひとつ自らの手で書きたかったが、自分が死人であることを理解してしまった以上、一般の警察官の前でペンを動かして見せるのは気が引けた。

 警察の伝手で葬儀屋を手配し、母の亡骸を運んでくれるよう手続きを済ませると、右近たちは英の車に乗り合わせて木蔦家へと向かった。

 窓の外に流れる夜景をぼうっと眺めながら、右近は存外落ち着いている自分に気が付いて、我ながら淡泊だと頬を緩める。


「そういえば……長南さんとアイリスさんは、僕が視えているんですね」

「ええ。それで、今のところに配属されたのよ」


 ハンドルを指でトントンと叩きながら、英が言う。アイリスは助手席で背筋良く座っている。


「私も生まれつきですわね。お婆様も視える方でしたから、遺伝かしら。本来は、合歓についているエージェントも別の人だったのですけれど。木蔦さんを住まわせるようになってから、私にお鉢が回りましたの」


 彼女たちの話の間、合歓はずっと俯き、わずかに肩を震わせていた。警察署をである辺りからこうだった。

 見知った中である木蔦央子が亡くなったから、というには遅い反応である。その理由を掴みあぐねていた右近は、思い切って声をかけてみた。


「合歓さん、どうしたんですか?」


 すると、彼女はびくっと肩を跳ねさせ、何か悪いことがバレたかのような怯えた視線でこちらをみると、下唇を噛んで、「なんでもないよ」と力なく言った。

 右近はやはり訳が分からず、首を傾げる。


 そんなうちに、一軒の小さな木造建築の前で車が止まった。

 この辺りが開拓される前、曾祖父母の代から残る小さなあばら家。年季の入った趣こそあれ、別に旧い名家だとか、地主だなんてことはない、庶民の過程の化石である。

 懐かしき我が家を見上げて、右近は声を漏らした。家のスペアキーの隠し場所も、郵便受けの裏から変わっていない。取り出してみると、ストラップは錆びて変色していた。母が一人身になってからこっち、忘れられてしまっていたのだろう。


「……ただいま」


 鍵を開けて、家へ上がる。


「どうぞ、入ってください」


 勝手知ったる――というのも少々可笑しな気分だったが、右近はさっさと仏間に続く襖を取り払い、葬儀屋がいつでも来られるように用意をする。

 お邪魔します、と口々に言って上がってきた皆を迎えながら、襖を壁にかけて、振り返る。


 そこで右近は、知らない景色に気が付いた。

 仏壇に向かって左上の梁に、曾祖父母と祖父母の遺影が飾られている。そこまでは右近の記憶とも一致している。その隣に、新しく二つの絵が並んでいた。

 よく知った筆致で描かれた、姉と自分の遺顔絵だ。


「僕の、遺顔絵……?」


 眩暈がするようだった。


「確かに、うちは裕福ではなくて……カメラとか、置いてませんでしたけど」


 振り返って合歓に訊ねると、彼女は逃げるように目を逸らした。


「僕は、どういう風に死んだんですか」

「憶えてはいないの?」


 英の問いに、右近は首を横に振る。


「多分、最期の記憶はこれかな……というのはあります。母と離婚して疎遠だった父に殴られ、蹴られて、気を失った時です」


 その後に目覚めてどうにかした、ということは記憶になかった。











 その日は、暦上では秋に差し掛かっているのに、やたらと夏のうだるような暑さが後を引いていた日だったのを憶えている。

 けれど、べたべたと制服の内側に張りつくような汗のことも、週末の休みの日に学校へ行かなければならないことも、特に気にならなかった。

 来春の便りがもう届いてくれたからだ。


「母さん! 姉さん! 合格通知が届いたんだ!」


 念願の専門学校の名前が入った封書を手に、いそいそと靴を脱いで家の中に飛び込む。

 今日は二人とも休みだ。朝には「先に合歓ちゃんに見せてこい」と姉から茶化されたが、まずは応援してくれた二人にお披露目しようと決めていた。それから着替えをして、きちんと髪を整えてから、大好きな人のところへ行くのだ。


「それは、良かったな」


 しかし、居間の襖を開いた右近は、招かれざる客の姿に凍り付いた。

 幼い時分に見たきり、記憶の中では亡霊のように靄がかかっていたが、目の前にいる男がそうなのだと、一瞬でフラッシュバックが弾ける。


「あ、んたは……何しに来たんだ。何でここにいるんだよ」

「変なことを言うな。父親が息子のいる家に来て何が悪い?」


 伸ばし放題でフケ混じりの髪。剃りの甘いまばらな無精ひげに、不摂生でボロボロになった肌。ヤニで黄ばんだ歯の奥でにちゃあと筋を作る、粘ついた唾液。酒臭い吐息。

 すべてが悍ましかった。この男と同じ空間にいるだけで何か悪い病に感染してしまうのではないかというほどに、生理的な嫌悪感を抱いた。


「……母さんと姉さんはどこだよ。手を出してみろ、ただじゃ置かないからな!」


 まったく心得のない、拙いファイティングポーズで相対する。

 父だったナニカはくつくつと肩を揺らして立ち上がると、唾をカーペットに吐き捨てた。一体何を食したらそうなるのか、濁ったヘドロのような唾が、染み込まずに雫の玉となる。


「央子は出かけているそうだ。沙織なら、ほら、そこにいるだろう?」


 立てた親指で、奴は肩越しに部屋の奥を指さした。そこには、ガムテープで縛り上げられた姉が横たわっている。意識がないのか、眠らされているのか。ひとまず息はしていることと、着衣の乱れが見られないことには安心した。

 だが、それを差し引いても、燃え盛った憤怒は微塵も揺るがなかった。


「お前……!」


 姉に駆け寄ろうとするのを、ラリアットのように振り回した腕で止められる。バランスを崩した右近は倒れ、あろうことか奴の吐いた唾の上に顔を付けてしまった。


「まあ落ち着け、右近。俺にだって、父親としての情はあるんだからよ」

「どの口で……っ!」

「何かは知らねえが、合格したんだろ? お前がこいつを差し出すってんなら、見逃してやってもいいんだぜ?」


 薄汚れた作業服のポケットをまさぐって、奴が取り出したものに、右近は目を見開いた。

 それは、昨年の秋に自分と合歓で撮った、自撮のツーショット写真だった。合歓がスマホからも写真の現像ができると教えてくれて、記念に残した大切なもの。


「お前……お前えええっ!」


 右近は弾かれたように立ち上がり、奴に向かって飛びかかった。しかし、腹に入れられた蹴りの一つであっけなく返り討ちにされ、蹲って反吐を巻き散らす。それでも必死に食い下がり、奴の足に縋りつく。


「その子には手を出すな! 絶対に! そんなことをしたら、殺すっ、殺してやる!」

「おー、こわいこわい。だがそうか、お前は親孝行をしてくれるんだな。ありがとう」


 顔を近づけて酒臭い息を吹き付けると、奴はライターの火で写真を燃やし始めた。


「えっ……おい、ちょっと待てよ、何だよ、待って待って待って、ああっ、なんでっ! 燃やす必要なんてないだろ! 返せ、返せよお!」


 何度飛び上がっても、ひらりひらりと躱されてしまう。やっと奪った――否、奪わせてもらった写真は、もう半分以上が欠けてしまっていた。


「ああああああああっ!?」

「どうせ別れるんだ、構うたねえだろうが」

「……は?」

「だからァ、お前は俺のために死ぬんだよ。お前たちが死ねば、俺はクソみたいな養育費を払わなくて済む。臓器を売りさばけば、酒とパチンコの金も手に入るんだ!」


 これが人間にできる笑い方なのだろうかと、右近は慄いた。


「お前はいい子だもんな? 親孝行、してくれるよな?」


 獣のように目をギラつかせて涎を垂らす男から、フルスイングの一発を食らった右近の意識は、暗く澱んだ海の中へと沈んで行った。











「……そう、君は、その男に殺されたんだ」


 合歓は視線を彷徨わせながら、涙混じりに言った。


「バラバラ殺人ってやつだよ。君たちの体は、海だったり、山だったり、色んなところに別けて処理された。捜索された頃には、もう見るに堪えない状態でね」

「それで、遺顔絵を……」


 右近は合点が行った。

 しかし同時に、三つの疑問が湧いた。一つは、こうして遺顔絵が描かれて仏間に飾られているということは、自分は供養をされているはずであること。

 そして、いつかに取り乱した、自分の頭がないという疑惑だ。もしもバラバラにされた結果そうなのだとしたら、四肢はこうして在ることの説明がつかない。

 三つめは――


「合歓さん、聞いてもいいですか」


 右近が口を開いた時、間の悪いことに葬儀屋が到着した。

 母を待たせるわけにもいかず、右近は話を切り上げて、英たちに誘導をお願いした。


 プロの仕事を間近で見るのは新鮮だった。彼らはまず、母を布団に横たえさせると、清拭と白装束への着替えに取り掛かった。流れるように、丁寧に。最後に死に化粧を施された母は、魔法のように生気を取り戻したかのようだった。

 参列者は、この場にいる者だけで行うことにした。右近は生前、家の葬儀や盆正月を行った経験がなかった。先祖の墓の場所はわかるが、檀那寺がどこかは知らなかった。家の手伝いをしていたようで、家のことを何にも知らなかったことに気が付いた。

 棺に納められた母に近づき、不孝を詫びる。


 次は明日の日中に火葬場へ行くという段取りを確認して、葬儀屋は一度撤収していった。特に彼らが騒がしくしていたわけでもないのに、しんと静まり返ったようだ。

 ふと、何かが足りないような気がした右近は、少し考えてから、それに行き着いた。


「あ、遺影……」


 我が家にカメラはない。だから、母の写真は存在しないのだ。

 右近は、英とアイリスの背中に隠れるようにして、そろりそろりと足音を忍ばせる首根っこを獲っ捕まえた。


「お願いします、合歓さん」


 合歓は肩をびくっと跳ねさせて、神妙にお縄に着き、俯く。


「か、会社に問い合わせれば、履歴書の写真でも手に入るんじゃないかな?」

「無理じゃないかしら。央子さんの勤務先は、二つ隣の市よ。人が残っているかも怪しいし、そこまで行ってからじゃ、引き伸ばすための写真屋には間に合わないわ」

「ぐっ……じゃあ、他の人に頼もう。これくらい綺麗な状態なら、腕利きの絵師を探せば好く描いてくれるだろう」

「誰かさんじゃありませんし。通夜も葬儀もすっ飛ばした簡易葬儀に間に合わせろだなんて、どれほどチャンスに餓えた絵描きでも裸足で逃げ出しますわよ」

「ぐっ……ううん、ええと」


 どうにか役を逃れようと、合歓が食い下がる。

 しかし右近も、どうしても譲れなかった。


「お願いします。合歓さんに――合歓にしか頼めないんだ」


 頭を下げると、合歓は口元を覆って、感情が零れそうになるのを堪えた。


「その呼び方はズルいよ。……けれど、無理なんだ。もう央子さんの目は開かない。想像した生前の顔なんて、それはもう、央子さんじゃないんだよ」

「空想世界のテセウスの船……」


 右近が呟くと、合歓が心苦しそうに頷いた。

 現物を前にして絵を描く拘りについて、以前聞いてみたことがあった。それに彼女は、二つの理由を挙げた。過去に創作絵を馬鹿にされたトラウマと、絵を描く対象への仁義だ。

 彼女にとって、想像で描いたソレは、元のものではないという信条があった。


「気負わなくていいんだ。母さんは、合歓が描いてくれたことを喜ぶと思うよ」

「央子さんならそうだろうけど……私だって、央子さんのことは慕っていたんだ。クサい言い方になるけれどさ、いずれは義理の母親にと考えていたんだよ? そんな人に、自分で納得のいっていない絵を捧げられると思うかい?」

「合歓ならできるって、信じてる。君の凄さは、僕が一番知っているから」


 彼女の震える肩を宥めるように手を置いて、語り掛ける。

 合歓はしばらく難しい顔で目を閉じてから、「少し考える時間をくれ」と消え入るような声で言った。

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