木蔦央子
それからの蕎麦の味はよく分からなかった。とりあえず腹に詰め込むように平らげ、急いで首都圏までUターンをした。高速道路をかっ飛ばし、山形に来る時よりも時間は大幅に短縮されたが、それでも件の警察署に着くころにはどっぷりと日が暮れていた。
「悪いね、英さん。一日に長距離の往復なんてさせてしまって」
「形っ子は長距離運転に慣れているから、気にしないで。それよりも、木蔦くんは大丈夫?」
「ええ……はい。なんというか、急に母と言われても、まだ実感がなくて」
署内に入り、英が窓口で話を通すと、内線で呼び出された警官から、右近たちは奥へと連れられた。大きな警察署の受付窓口はどこか銀行や郵便局のそれに似ていて、事務的な空間に迷い込んだような感覚を抱いた右近は、おかげで幾分か落ち着きを取り戻すことができた。
階段を上って入ったのは、机と椅子だけの小さな部屋だった。そこで、机の上に肘を付き、突っ伏すようにしていたアイリスは、こちらに気付くと顔を上げ、ほうっと安堵したように肩を降ろすと、普段のクールな顔立ちを今にも泣き出しそうに歪めた。
合歓はそれを腕を拡げて迎えると、お疲れ様と背中をあやす。
案内してくれた警官の話では、アイリスは逮捕されたのではなく、重要参考人としての聴取に呼んだということだった。先ほど木蔦央子の検死の結果は出て、それが彼女の持つ持病とは関係ない心不全だったことが判明していること等から、そろそろ解放する流れになっていたところだったらしい。
「だとしても、どうして君に話が行くんだい?」
「それは、その……」
アイリスは合歓の腕の中で口ごもる。隙間から覗かせた視線を右近に向け、気まずそうに視線を逸らしてから、彼女は観念したように重い口を開いた。
「……詐欺の疑い、ですって」
「詐欺ぃ?」
合歓が声を上ずらせた。それにアイリスは、小さく頷く。
「先日、買い手に会わせられないという話をしましたでしょう。実は、合歓の絵のいくつかを買ったのは、央子さんでしたのよ」
「そう、だったのか……でもそれが、どうして詐欺に」
「癌を患っていたそうなの。出金記録をご覧になった警察の方々は、私が彼女を騙して金を搾り取ったんじゃないかって」
「成程、そりゃあ疑われるのも仕方ない」
母が癌だった。そんなことさえ知らなかったことが酷い親不孝に感じて、右近は押し黙った。
「でも、私は知りませんでしたの。本当よ? あんなにお元気そうでしたのに……」
「大丈夫です。わかっていますから」
右近はどうにか作った笑みをアイリスに向けた。自分のことを苦手としながらも、なんだかんだ気にかけてくれていた彼女が、癌のことを知って黙っていられるわけがない。
「問題は、自分も令状を出されていたかもしれないのに、飄々としている合歓さんの方です」
「一周回って冷静になっただけだよ」
減らず口を言うのはこの口かと、合歓の頬をむにむにと引っ張る。
どこかへ行っていたらしい英が、書類を持ってやってきた。
「込み入った話は、後にしましょうか。まずは央子さんを迎えに行きましょう」
また別の警官に案内されて、署の奥まったところにひっそりと位置する部屋へと向かう。
そこは、物悲しさと寂しさだけが満ちた、無機質で薄暗い部屋だった。
中央の台に、女性がひとりぼっちで横たわっている。
右近はすぐにその顔を覗き込むことができず、立ち惑った。
「綺麗な顔だね」
合歓が覆い打ちをめくり、しとしとと声を漏らす。
「職場の方が、連絡のつかない央子さんを心配してくれて。様子を見に行った時に発見したんですって」
「その人たちも驚いたろうね。まだ五十になったかというくらいだろうに……」
あまりにも若すぎる命の終わり。それも、宣告されていたらしい癌ではなく、突然襲った心筋梗塞によるもの。いつだって、そんな風に死は突然訪れる。再会も許さずに、奪っていく。
人はそれを『神の悪戯』と呼ぶ。右近は、それを初めに唱えた人の強さに畏れ入った。誰を恨むでもなく、己を悔やむでもなく、暴挙と呼ぶでもなく、静かに運命を受け止めるなど、今の自分には想像もつかない立ち居振る舞いだ。
「さ、右近くん」
合歓に導かれるようにして、ふらふらと前に出る。
震える手で、おそるおそる覆い打ちの端を掴む。実感がないと言いながら、それでも心臓が早鐘を打って仕方ないのは、本当に自分が、彼女の息子だからなのだろう。
呼吸が浅くなる。遺伝子に刻まれた念が、胸を張り裂いて飛び出そうとしている。
意を決して、布を取り払った。
「あ……あ、ああ……」
安らかに眠る、少しやつれて骨ばった女丈夫の顔が目に入った時、右近は今までのどんな凄惨な姿をしたご遺体の姿よりも、激しい衝撃に頭を殴りつけられたようだった。
どこか他人事だった感情が、涙という実感を伴って溢れる。
ぐにゃりと歪んだ視界を埋め尽くす、体の内側から噴き上がる走馬灯のようなパノラマたちが、ぐるんと反転したかと思うと、水道管へ流れ込むように、一気に腑に収まろうとしてくる。
自分の十数年の人生。胃もたれがするようだ。けれど嫌ではない。
「母さん……! ああ、母さん!」
右近は膝を突き、母の遺体にもたれるようにして声を上げた。
人目を憚らずに、会いたかった想いをすべてぶちまける。合歓たちはそれを、黙って待っていてくれた。警察官が入って来る心配はなかった。何故なら、彼らに聞こえはしないから。
「……良かった。僕の母は、尊敬できる人だった」
「そりゃそうだ、君のお母さんなんだから」
「父親の方は、そうでもなかったみたいですけどね」
右近は自嘲気味に笑った。
記憶の奔流の中にあった、明確な汚物。忘れもしない。
記憶を失っていた自分が、母への憧憬を抱きながら、父親のことは一切求めようとしなかったことは自分でもかねがね不思議に思っていたが、その理由がよく解かった。
自分がどうしてここにいるか、その理由が判ってしまった。
「右近くん、もしかして……」
「ええ。思い出しました。なんかまだ、しっくりは来ませんけれど」
右近は振り返り、涙を拭って頷いた。
「僕はもう、死んでいるんですね」
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