第三章 死人にクチナシ
鬱金香
「君の名前も花なんだね」
休み時間の中庭、花壇の前に陣取り、生き生きとした真剣な顔でキャンバスに向かっていた彼女が、不意にそんなことを言った。そういえば昨日、彼女の名前が、苗字のネリネと名前の合歓の木、どちらも花に由来するという話をしたんだっけ。
僕は思わず、嫌な顔をしてしまった。
「ショウガの仲間だっけ。酔い止めのドリンクしか出てこないなぁ」
自分の名前は、あまり好きではなかった。母の名前に『央』の字が入ることから、姉が『左織』で、僕が『右近』。子が母を挟めるようにという建前だけを見れば多少の格好も付くけれど、本当のところは、酔っぱらったDV親父の思い付きでしかない。
名は体を表すという。我が家の場合は家族ぐるみでテーマを繋げてしまったものだから、それは環境に表れた。
僕が小学生に上がる頃、外で飲み歩いていた父が暴力沙汰を起こし、それをきっかけに両親は離婚した。それから母は、女手一つで僕たち姉弟を育ててくれた。僕らもお手伝いを頑張った。決して裕福ではなかったけれど、奇しくも名前の通り、母子で身を寄せ合いながら。
「おや、嫌だったかい?」
難色を示した僕に、彼女はくすくすと笑う。
画家を志す彼女は、いつだって明るく振る舞っていた。陽だまりのような笑い顔はとても温かくて、金の余裕もなく、中々友達も作れないでいた僕の止まり木となっていた。
「嫌と言うか、右近って響きが、ちょっとね。昔から、うんこって呼ばれてたよ」
「あっはは、小学生らしいなあ」
「どうせなら、左近が良かったな。島左近みたいで」
つい先日の授業で、歴史の教科書の中に見つけた名前を持ち出す。
「それで言ったら、右近だって。高山右近ってのがいるじゃないか」
「誰、それ」
「キリシタン大名で、築城の名人らしいよ。彼の洗礼名はユスト。正義の人という意味なんだってさ」
「また、妙な雑学を持って来たね。どこで知ったのさ」
「そりゃあ、君になんて話しかけようか、題材を探していたからさ」
ぺろっと舌を出した彼女に、僕はどきっとして、思わず目を逸らした。
「そういうこと、平気で言うんだから」
「平気なんかじゃないよ」
「えっ……?」
わずかに耳に届いたくらいの、呟くような声に振り返る。けれどもう、彼女は何事もなかったかのように、キャンバスに視線を戻してしまっている。
今日の彼女の絵の題材は、チューリップだった。ユリ科の植物らしく、可憐に膨らんだ花が、その瑞々しさをそのままに掘り出され、キャンバスに刻まれている。
「ウコン、かあ……花言葉ってなんだろう」
僕は携帯を取り出した。周りのみんなはスマホが当たり前の中、僕はガラケーだ。別にこれでも生活に支障はないし、不満もなかった。短縮番号の1が母さん、2が姉さん、3が彼女。それだけで十分なのだから。
「『あなたの姿に酔いしれる』だよ」
手元のブラウザで情報が表示されるのとほぼ同時に、彼女が言った。耳まで赤くしているくせに、空とぼけてこっちを向かないものだから、ちょっとした悪戯心が首をもたげる。
足音を忍ばせ、耳元に近づく。気配は感じているくせに、まだ無反応を決め込んでいるのがいじらしい。
「僕は、君の姿に酔いしれているよ」
「んな……っ!」
彼女の体が大きく跳ね、危うく転げ落ちそうになって立ち上がった。アウトドア用の三脚チェアが、バランスを失って倒れる。
「まったく君は、どうしてそう……」
「どうしてって、先にやったのは君の方でしょ? 可愛いのは本当なんだし、いいじゃないか」
「あーあー、聞こえなーい!」
彼女は耳を塞いでもだもだと首を振った。小柄な体を覆うような長い金髪が揺れる様は、まるで妖精が踊っているようにも見える。
彼女は随分と苦労してきたらしかった。その絵の才能を斜に構えて批判する人たちのせいで、出会った時には白髪交じりでボサボサに傷んだ髪だったのを憶えている。学費の安さを目当てに選んだ僕とは異なり、彼女は過去の呪縛から逃れるためにこの学校を選んだのだ。
求められる学力のラインは少し高いけれど、校風は随分と緩い。近年の時流も相まって、髪の色も余程派手なものでなければ許可されていたから、思い切って染めてみることを提案して、今に至る。残りの問題といえば、彼女の寝癖が酷いことくらいだろうか。毎朝早くに起きて、シャワーにたっぷり潜らせないとダメらしい。
「よし、できた」
あれから口を利いてくれないまま、黙々と走らせていた筆が、万歳とともに空へ掲げられた。
彼女は満足そうに絵を眺めると、「題は、右近くんにしよう」と言った。
「ええ……?」
僕は眉を顰める。どうしてそうなった。実は一般的には意味の通じる、何かのアプローチだったりするのだろうか。
首を傾げていると、彼女は指を立てて言った。
「鬱金が香ると書いて、鬱金香。チューリップの和名だよ」
初耳だった。確かに言われてみれば、花壇から漂ってくる蕊の香りは、甘さの中に、少しの辛みがあるように思う。
「ちなみに花言葉は『愛の告白』だったりする」
「えっ……と、それって……」
僕は面食らってしまって、言葉に詰まった。それを煮え切らない態度と受け取ったのか、彼女はうじゃーと牙を剥きだすようなしかめっ面になって地団太を踏む。
「だーかーらー! これが私の気持ちなんだ! まったくどうしてそうなんだ君は!」
そう言って、絵を叩きつけるようにして渡してくれた。
「ありがとう、嬉しいよ。僕も――合歓のことが好きだ」
僕が返事をすると、彼女は顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。
その日から僕は何故か、女子たちから『チューリップくん』と呼ばれることになるのだった。
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