迎え、去る
アパートに住む家族たちとケーキを分け合い、あらかたの片づけを終えた頃には、時刻は二十一時を回っていた。東北新幹線の最終列車が既に出ている。そこで、一度アトリエに戻って仮眠を取り、翌朝に英の車で山形へと向かうことになった。
昨夜のうちにアポをとっていた寺で、住職にムカサリ絵馬を引き渡す。住職は驚いた様子でこちらを見ると、合歓に何事かをニ、三訊ねてから、笑って手を振る彼女にそうですかと恭しく一礼し、絵馬を持って奥へと姿を消した。
「何の話だったんですか?」
「ああ、ええと……何だっけ。若いのに絵馬をご存知なんですね、とか、読経の様子は見ていきますか、とか?」
「なんで疑問形なんですか。本当、適当なんですから」
右近が苦言を呈すと、合歓から肩に猫パンチをされた。
社務所の開け放たれたスペースには、三方の壁がムカサリ絵馬で埋め尽くされている。ここに来る道中に調べたが、山形県内には、他にもいくつも絵馬を扱う寺社があるらしい。それだけ多くの人が、故人を弔いたいという想いを託してきたのだろう。
――風習や伝統のイレギュラーな使い方はオススメできない、としか言えないわよ。
英の言葉が蘇り、右近は手を合わせた。
徒にムカサリ絵馬へと飛びつくことは、想いの折り重なった地層に毒の水を垂らすのと同義だろう。それを咎められ、自分たちに天罰が下るのならば甘んじて受け入れよう。
「(けれど……あの二人のことは、どうか)」
お願いします。絵馬を司る神仏に届くよう、頭を下げる。
英の待つ車とを行ったり来たりしながら時間を潰しているうちに、住職が戻ってきて、絵馬を地層の一つに重ねるのが見えた。
ちらりと腕時計を見た合歓が、小さくガッツポーズをとる。
「間に合ったね。向こうの葬儀より先だ」
「結局、受け入れられてしまいましたね……」
右近は空を仰いだ。
依頼者には、今朝方電話で詫びを入れた。返ってきたのは淡泊な「そうですか……」という一言だけで、食い下がったり、理由を問い詰めることもされなかったのには、思わず逆に問い詰めたい衝動に駆られた。
擦れた声は、憔悴の表れだと信じたかった。けれど、少なくとも情は感じられなかった。
「それにしても、二枚描いてたのは驚きましたよ」
「ふふん、私を誰だと思っているんだい」
合歓が得意げに胸を反らす。
昨夜、彼女が焦りを見せたのには理由があった。彼女は新郎新婦の晴れ姿の絵を、二枚描いていたからだった。一つはムカサリ絵馬用に、そしてもう一つは、母への置き土産として。
それを知ったのは帰り際だった。からっぽになった白無垢と羽織袴を畳に寝かせて、看取るように見つめている大家の背後に、こっそりと置いて立ち去ろうとする鼠小僧がいたからだ。
「喜んでくれているといいですね」
「ああ、それは昨夜のうちにお礼を頂いているよ。警察を通して、英さんに連絡が来たんだ」
「それなら、教えてくれたっていいじゃないですか」
「『私に』伝えてくれって話だもの。独り占めして噛みしめたっていいだろう?」
嬉しさを隠せずにくしゃっと笑う顔が、とたんに愛らしく思えて、右近はそれ以上の野暮を差し控えた。仰せのままに。胸の中で呟く。
車の下へ戻る。合歓はうんと伸びをしながら、英に言った。
「お腹ぺこぺこだ。この辺りで、おすすめのご飯はあるかい?」
「そうね……お蕎麦とかどう? 水車で回す石臼で挽いた蕎麦粉の、十割手打ち」
「なんだその素晴らしく食欲をそそるワードの羅列は。個室があればいいんだけど」
「お座敷を仕切ってもらえれば、多分」
そうして案内された市街地の蕎麦処で、右近たちは昼食を摂ることにした。
地元野菜の天ぷらが添えられた蕎麦を啜り、合歓がご満悦な様子で頬を膨らませる。
「んー、美味しいね。香りもいいし、甘みもある。ラーメン大国の名前に隠れて、こんな風流があったなんてね」
「この辺りは山に囲まれた盆地だからね。地域独特の寒暖差があって、いい仕事をするのよ」
舌鼓を打ちながら、地元育ちの英が説明してくれた。ひとくちに『山に囲まれた土地』とはいっても、その性質は様々で、冬などはひとつ市を跨ぐだけで雪の降り方も違うのだという。
そんな幻想的な力に満ちた自然に、合歓は「乾杯!」とお冷のコップを掲げる。
「気分がいい。今日は私の奢りだ」
「大丈夫なの? 今回のだって、依頼自体は失敗なんでしょう」
「依頼はね。弔いは大成功だよ」
どこ吹く風の様子でいる彼女に、英は困ったように笑って、蕎麦を啜った。
右近はうっかり乗せすぎたわさびの刺激に涙を堪えながら、昨夜の成功を振り返る。
「もしも、両親が……戸籍上の両親が、彼らの夢や在り方を否定しなかったら。彼らから拒絶された時点で変われていたら。別の結末が待っていたんでしょうか」
誰に言うとでもなく零す。
もしも、彼らが第一の家に帰ることができたのなら。もちろん自分も、今回の決断は間違っていないとは思っている。しかし第一の家すら憶えていない自分には、このまま合歓のアトリエに骨を埋めることは喜ばしいことである一方で、喉に小骨がつっかえたような寂しさもある。
合歓は目を細くして、清濁を飲み込んでから口を開いた。
「ボタンを掛け違えたことは、実害が起きてからでないと気付かないものだよ。着心地の悪さくらいで済んでくれれば、誰も悩まずに生きられるだろうさ」
「……そう、ですね。親は選べないって言いますし」
右近は自分の我儘を恥じた。どうも胸にわだかまりがあるようで、落ち着かない。
「親だけでもないと思うわよ。学校、仕事、友人……みんなそう」
英が微笑み、「スタンフォード監獄実験って聞いたことある?」と訊ねてきた。
「看守と囚人に別けた行動心理の実験ですよね。看守が過激になり、囚人は卑屈になり、エスカレートしたっていう。けれどあれ、捏造だって話が出てませんでしたか?」
「違うよ右近くん、それはあくまで、実験の再現性に対する否定でしかないんだ。再現の際には、ジンバルドーがやったような指示はしなかったらしいからね」
「ええと……つまり、どういうことですか?」
右近が首を傾げると、合歓は指を立てて言った。
「人が何らかのきっかけで変わってしまうことは、否定されていないってことさ」
「そ。自分たちも苦労してきたと言いながら、上に立った途端部下や後輩にそれを強いるようになったり。両親との不仲を嘆きながら、我が子を平気で怒鳴りつけたり……」
英は一度、お冷で一息吐いた。
「もちろん、悪い事ばかりではないのよ? 恋をして、より前向きになれたりもするんだから」
「自分に自信がないことを棚上げして、何故か相手を選ぶ側に立ってボロクソ言う奴もいるけれどね」
「こーら、茶化さない」
合歓の横槍に、英は「せっかくまとめようとしたのに」と頬を膨らませて拗ねた。
「ともかく、色んなきっかけがあるから、一期一会を大事にしたいわねって話よ。同じアパートに住んでいるってだけで、家族同然になれちゃうんだから。すごく素敵なことじゃない」
そこで英は、ポケットで震えた携帯に手を止めた。彼女が私用で扱うスマホは鞄の中。つまり仕事の用件ということだ。
しかし英は画面を見て、どこの番号かしらと独り言ちている。
「はい、長南です。……え、はい、はあ。……姫彼岸さんなら傍におりますが」
自分の名前が出てきたことで、合歓はきょとんと視線を上げた。
「捜査令状ぉ!?」
英が叫んだ。すぐに周囲を窺い、仕切りパネルに隠れるように身を縮こめる。
「ちょ、合歓さん。何やらかしたんですか」
「さあ? アパートの部屋を荒らしたのがまずかったかな。でもいいって言われたもん」
子供が言い訳をするように、何故か合歓は胸を張っている。右近の方もほぼ四六時中彼女と行動を共にしているが、特に何か悪さを働いていたような心当たりはない。
「クソダサ私服が、迷惑条例に触れていたりするんじゃ……」
「失礼なことを言ってくれるね、君は」
不安のあまり頓珍漢なことを口走った右近の頬に、合歓の人差し指が突き刺さる。
直後、英は今度は声を憚りながら叫んだ。
「兎耳さんが捕まったあ!?」
「えっ、どうしてアイリスの名前が出てくるんだい」
英は何度か相槌を打ってから、至急そちらに向かいますと言って電話を切り、小首を傾げている合歓を手招いて、お座敷の外へ出て行った。
取り残された右近は、気になりながらも一人寂しく蕎麦を啜っていると、程なくして合歓と英が戻ってきた。
「……どう、だったんですか?」
一転して軽い調子の消えた表情をしている合歓に、右近はおそるおそる問いかける。
少し目の赤い彼女は、一度大きく息を吸ってから俯いて、膝の上で小さな拳を握りしめた。
「
「えっ……と、どちらさまですか?」
「木蔦央子さん。右近くん――君のお母さんだよ」
合歓の口から告げられた事実の受け止め方を、右近は咄嗟には思いつけなかった。
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