瞼の裏に

 簡単に執り行う式とはいえ、棺に副葬品のひとつも入っていないのは寂しいように感じて、右近はスマホを片手に家の中を物色して回った。

 母が好きだったものを見つけては、棺に入れていいものと入れてはいけないものをまとめたサイトと見比べる。

 クローゼットの中にあった、家族で出かける休日によく着ていたカーディガン――これは問題ないだろう。

 繰り返し読んでいた女流作家の本は――文庫本が『分厚い』の定義に含まれるか怪しかったために却下。けれど、昔ライブに行ったのだと話していた、往年のアーティストのサイン色紙は採用した。現実的な価値を考えれば勿体ないような気もするが、優先すべきは現世ではない。


 入れていいものの中に「花」と書いてあったことに目を留めた右近は、ちょっとした思い付きをした。急な我儘だったが、英は快く受け入れてくれた。

 町の花屋は閉店時間まであとわずか。駆け込みになることを店員に詫び(てもらい)、奥へ向かう。場所は憶えているから、迷うことはない。

 右近が向かったのは、プリザーブドフラワーの虹がかかる一角。その中から、薄紫のボトルをいくつかひっつかみ、英に渡してレジに向かってもらう。


 改めて、死者が前に出ないよう意識して振る舞うのは、中々に骨が折れる。思えばこれまで、合歓は自然とリードしてくれていたのだろう。駄々をこねて財布を離さないのも、無人レジで喜々として操作したがるのも、そのくせカフェではテイクアウトしかしないのも。

 すべては自分のための気遣いの積み重ねだったのだと思うと、右近は胸がかあっと熱くなるのを感じた。


「すみません、長南さん。もう一つお願いが」


 会計を済ませて振り返ろうとしたことを呼び止める。彼女はそれとなくまっすぐ歩きながら、こちらの話に耳を傾けてくれた。それも気遣ってくれてのことだったが、今は拙い。まだ店の外に出るわけにはいかないのだ。

 どうにか手短に用件を伝え、それを実行してもらってから、帰路につく。


「それって、別れ花なのよね。菊とかカーネーションじゃなくて、シオンなんだ?」


 アクセルを踏んで道路に出たところで、英が眉を上げた。


「はい。この花は『思い草』というらしいです。あなたを忘れないという意味の」


 右近が受け売りの話を言って聞かせると、英は感心したように、指先でハンドルを叩く。


「へえ、『萱草と紫苑』か。なるほどそれで。喜んでくれるといいわね」


 温かい後押しに、右近は嬉しくなって頷いた。

 家に戻ると、台所でお茶の用意をしていたアイリスが振り返った。


「合歓さんは?」


 訊ねると、彼女は視線で仏間を示した。

 見れば、合歓が棺の傍に正座して、母の顔を覗き込むようにじっとしている。

 邪魔しないでおくべきか悩んだが、出かけるとは告げて言った手前、帰ったことも伝えようと、背中に声をかける。


「ただいま戻りました」

「ああ、お帰り」


 合歓はそう微笑んでくれた。しかし、まだ思いつめたような硬さが残っているように見える。


「少し、外の空気を吸いませんか」


 右近は仏間のガラス戸を開け、縁側と呼ぶには心許ないところに腰かけた。隣を叩いて呼び寄せると、ややあって、合歓がおずおずとやってきて腰かける。

 空を仰げば、青白い三日月と、瞬く星たちが見える。この町の星空は何度も見てきたが、今日の空が一番好きだと思った。


「いくつか、気になったことがあるんですけど」

「……それ、やだ」

「えっ?」

「丁寧語。記憶が戻ったんなら、普段通りに話して欲しい」


 しょぼくれた子犬のように、合歓が喉を鳴らす。

 遺顔絵師のアシスタントとしての自分も、随分と染みついていたようだ。思わず「わかりました」と言いかけて、慌てて言い直す。


「僕が、あの遺顔絵を描いたもらった時。成仏しなかったの?」


 一つ目の疑問をぶつけてみる。合歓は、彼女も解らないという様子で首を振った。


「したはずだよ。あの日、君は間違いなく、佐織さんと一緒に光になった。けれど私が学校を卒業して自分のアトリエを持った翌日、君はアトリエの前で倒れていたんだ」


 腰が抜けるかと思ったよと、合歓は肩を竦める。


「もしかしたら……君の頭部が発見されていないことが原因なのかもしれない」


 やっぱり、と右近は目を細めた。

 今の自分の体は、供養の過程で修復された途中段階のもの。見つかった部位は接着され、どうにかヒトガタの体を成せているのだ。


「今の僕の姿にも、頭はないんだよね?」

「うん。私たち『視える』人間にとっては、君は首の無い青年だね」

「うわあ、ずっとそんな状態だったんだ……」


 右近は目を――ないのだろうけど――覆った。

 どうりで、アイリスが苦手とするわけだ。エージェントとして合歓と母を繋ぎ、木蔦央子の息子が右近であることを知っていても、首無し男の前では食欲も出ないだろう。頭を下げる度に断面が見えていただろうことを思うと、申し訳ない気持ちになった。

 そうなると、畏れ入るのは英だ。彼女は今日だって平然と、対面で蕎麦を啜っていた。対怪異の捜査官という職務は、こうも人を豪胆にさせるのだろうか。


「ちょっと待って、じゃあ僕は、どうやってご飯を食べていたの?」

「私らもさっぱり。まるで透明の頭がそこにあるように食べ物を近づけると、そのまま消えてしまうんだよ」

「ああ、そこは安心した。咀嚼しているものが丸見えとか、想像したくない……」


 胸を撫で下ろすと、合歓は「気にするところはそこかい」と肩を震わせた。少し、いつもの調子が戻ってきてくれたかもしれない。

 だから、次の質問を投げかけるのは躊躇した。


「絵画展で……さ」

「うん?」

「僕が『頭がない』って騒いだ時、合歓は僕の似顔絵を描いてくれたじゃない」


 思えば、あの時の周囲の反応はおかしかった。迷子の母親が血相を変えて息子を連れ出したのは、彼女から見れば、我が子が虚空に話しかけているようだったからだ。一方、こちらを首無し騎士に擬えたブライデンの言葉は正鵠を得ている。おそらく彼も『視える人』なのだろう。

 そうやって整理して残ったのは、アイリスの発した、大丈夫かという問い。これも彼女の気遣いから来る、真っ当な疑問だった。


 『写実主義の姫彼岸合歓』が、首のない人間の顔を描くなんて芸当、不可能なのだから。


「あの遺顔絵だってそうだ。……どうして描けたの?」


 右近が踏み込む。しかし、


「そんなの、決まっているじゃないか」


 合歓は予想に反して、こちらの答えた。


「君のことが好きだからさ」


 一瞬、時が止まった。虫の声や、車の音。近所のどこかから漏れ聞こえる笑い声。音のすべてが、潮が引くように遠くへ行ってしまう。

 そのくせ、もう動かないはずの自分の鼓動と、彼女の吐息だけは、色を濃くして入り込んできて、心と脳を浸していく。それは甘い酸性で、すぐに思考がぐちゃぐちゃになった。

 戸惑う右近の頬に、合歓の細い指先が翳される。


「これまで何度、君の顔を見つめてきたと思ってるんだ。ここが頬で、ここが目、こっちが耳で……髪の長さはここまで。全部、今でも瞼の裏に焼き付いているんだよ」


 ぺたぺたと的確に、本当に触れているような位置に翳される手のひらに、右近は息を呑んだ。

 照れたように頬を上気させて、からかうようにくすくすと笑った合歓は、突然、もうおしまいといわんばかりにパッと体を離すと、空とぼけて月を見上げた。

 だから右近は、意趣返しに手のひらを追いかける。

 視線は空に向けたまま、二人の間で手を繋ぐ。彼女の熱が伝わってくる。僕の熱は、感じてくれているだろうか。


 どれだけそうしていただろうか。ぽつりと、合歓が零した。


「もしかしたら、それがダメだったのかもしれないね。私の瞼に映る君も、言ってしまえば幻想なんだから」

「それはないと思うけどなあ。どう見ても僕の顔なんだもの」


 彼女の握る力が、縋るように強くなるのを、ほんの少し上乗せした力で受け止める。

 ざっと振り返ってみた限り、記憶はきちんと戻っているように思う。合歓のはしゃぐ姿も、得意げな顔も、真剣な眼差しも、むくれて風船になった頬も、拗ねたタコさん唇も、照れてそっぽを向いた横顔も、不安に涙を零す陰も、ふにゃらとだらけた笑い顔も。こっちだって負けないくらいに、つぶさに思い返すことができる。

 けれどどれだけ探しても、何故自分が成仏できないのかは見当がつかなかった。何の因果か、霊として彼女と再会し、その大切な人に手ずから送ってもらうのに。


 一体自分は、何が不満なんだろうか。


「じゃあ、改めて依頼をしてもいいかな?」

「やだ」

「えー……まだ内容も言ってないのに」


 右近は大袈裟に落胆して見せた。

 合歓は「だってえ」と唇をすぼませる。


「君を弔いたいのは、本心だよ。けれど、弔いたくないと願うのも、本心なんだ」


 気が付けば、彼女の瞳は、いっぱいの涙に潤んでいた。繋いでいた手が、痛いくらいに締め付けられる。


「君の記憶がないと判った時には安心したんだ、酷い女だよ。このまま君の記憶の手がかりを伏せ続ければ、ずっと一緒にいられると思ったんだ」

「合歓……」

「記憶がなかった間も、君の性格は間違いなく右近くんのものだった。記憶を取り戻した今、もっとちゃんと、右近くんに戻った」


 支えは、片手だけでは足りなかった。合歓は左手も伸ばし、しがみ付いて訴えてくる。


「もう、いいじゃないか。成仏のための心当たりがないなら、そのままでいいじゃないか。このままずっと、私を支えてくれ。私には君がいないと駄目なんだ。駄目なんだよお……!」


 彼女の零した涙が、右近の体をすり抜けて床に落ちる。まるで銃弾に撃ち抜かれたように、熱い想いが右近を貫いた。

 しかし右近は、涙がすり抜けたという事実にハッとした。郡東風と白井がそうしたように、今も自分が彼女の手を握っているように、干渉をすることはできる。だのに、自分の体は、その涙を受け止めようとはしていない。

 右近は目を閉じ、糸を手繰り寄せた。


「でも、合歓は記憶がない僕を『右近』と呼び続けてくれたんだよね」

「……他の名前で呼びようがないもん」

「じゃあ母さんのことは? 黙ったままいれば、僕はわからなかった。でもこうして駆け付けてくれたよね」


 手を解き、しゃくり上げる合歓の肩を抱き締める。


「酷い女なんかじゃないよ。君は、僕を『木蔦右近』として接してくれていたんだから。でも、だからこそ。死者である『木蔦右近』はもう、この世にいてはいけないんだ。『遺顔絵師の姫彼岸合歓』としても、自分だけ弔わないのはご法度じゃない?」

「……じゃあ遺顔絵師を廃業する」

「まーたそういうこと言うー」


 腕の中でずびずびと鼻を擦り付けてくるのを、ぽんぽんとあやす。ふと、この鼻水は周囲からどう見られるんだろう、なんて考えて、ちょっとおかしくなった。

 ひとしきり鼻水を拭った合歓は、右近が渡したティッシュで鼻をかむと、顔を上げた。


「まずは、央子さんを弔わなきゃね」

「ありがとう。描いてくれるんだ」

「うん。私の未熟さを棚に上げているわけにもいかないや。出来る出来ないじゃない、やるかやらないかだ。好きな男の母親の顔……合わせる顔はなかったけれど、会いたい顔は憶えてる」


 両手で頬を叩いて合歓は、よっしと気合を入れて立ち上がった。

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