ないしょばなし

「母の形見でね。私が夫と結婚した時、これを着たの。娘夫婦も、これで式を挙げたのよ」



 穏やかに目を細くして、大家は慈しむように白無垢の表面を撫でた。

 彼女が人生の年輪を刻んだ頬は、若く見積もっても六十代に見える。娘夫婦は中年で、孫がいたとしても、まだ結婚には若いくらいだろうか。

 それでも、長く、永く。彼女の人生と等しいくらいの時間を共にしてきた召し物。


 桐箱は、想いを託し繋いだタイムカプセルだった。



「そんな大切なものを、あたしたちが着てもいいんですか……?」


「この羽織、家紋が付いてる。でも、俺の家は……」



 肩口のところに丸に石竹セキチクの家紋が入っているのを見て、郡東風が及び腰になっている。



「二人とも、喜んでいるみたいですよ。けれど郡東風くんは、あなたの家の家紋が入ったものを着ることに、少し日和見をしているようですが」



 からかうような合歓の笑みに、しかし、大家はじっと目を閉じ、静かに相好を崩した。



「なんだ、そんなこと」


「そんなこと……?」



 郡東風は、呆気にとられたように目を丸くする。



「ふふ、おかしいことを言うのね。ヨウちゃんが、私のことを実の母親と思ってくれていたように。私も、あなたのことを実の子供のように思っているんだから。母親が、息子に羽織袴を贈ることは何ら不思議ではないわ。息子がそれを着ることも、何ら不思議ではないの」



 右近は一瞬、大家には二人が視えているのではないかという錯覚に陥った。彼女の見上げた視線の延長上に、郡東風の顔がある。そして、嗚咽を漏らして彼女の傍にすり寄ったのを追うように、つつ、と移動したからだ。


 それだけ彼らに目をかけ、彼らの目を見て言葉を交わしてきたのだということの証左。


 紛れもなく、母親の姿だった。



「石竹さん……っ、コウさん。母さん」


「彼はあなたのことを、コウさん、母さん、と呼んでいますよ」


「あら、まあ。ありがとう」



 膝の上にしな垂れた郡東風の頭をあやすように、手のひらが翳される。



「ずっと、世間様から隠れるように遠慮がちで。『大家さん』だったのを、どうにか『石竹さん』に変えさせたところだったのに。やっと名前を呼んでもらえたかと思ったら、母さんってまで言われちゃった。今日は、とてもしあわせね」



 さあおいでと、もう片方の腕を拡げて、彼女はマリちゃんを呼んだ。

 堰が切れたように声を上げて泣きつく娘と、強がって声を押し殺そうと打ち震える息子とを、母は笑顔で抱き締めていた。











 右近たちはこっそり外に出て、時間を潰すことにした。郡東風と白井にとって、母の愛に包まれる至上の喜びに違いないが、本懐ではない。光のカウントダウンまで、まだ時間が許されていたのは幸いだった。


 すっかりもらい泣きをした合歓がずぴーっと鼻をかんだティッシュが後部座席のゴミ箱に山を作り、それに苦笑をしながら外でタバコを吸っていた英の携帯灰皿もまた膨らんできた頃、おずおずとやってきた郡東風に呼ばれ、かくれんぼの時間は終了した。


 部屋に戻り、早速新郎新婦の着付けに取り掛かった。右近と英が郡東風を、合歓と大家が白井を。手分けして事に当たる。

 肌襦袢を纏ったことで彼らの姿が視認できるようになり、大家が感涙に肩を震わせた。コウちゃん、マリちゃんと名前を呼びながら、肩に手をかけて顔を綻ばせる。


 右近は手を止め、英に訊ねる。



「不思議ですね。元々服は着ていたのに」



 霊が纏う服は、それも含めて不可視の存在となる。中には柿津畑葉二一家のように死後の状態と成仏直前とで服が戻ったり、以前出会ったギャルの霊などは毎日別の服でお洒落を楽しんでいたケースもあったが、基本的に、霊感を持つ人以外に視認されることはない。



「異物だからよ。……ああ、異物という言い方は失礼ね」



 英は気まずそうに肩を竦めて、言葉を探してから言った。



「私の相棒だった人の言葉を借りると、『異なるもの』というのが適当かしら。たとえば、さっき郡東風さんが鉢植えを振り回したでしょう? ああいう、いわばポルターガイストのようなことをすれば可能なのよ」


「そういうこと。今の石竹さんには、彼らは襦袢を着た透明人間のように見えているのさ。人型のハンガーだね」


「合歓さん、言い方」



 右近はノンデリの主を咎めた。大家がくすくすと笑っているのが救いだろうか。

 気を取り直して、手を動かすことにした。向こうにはこの和装の守り人だった大家がいるが、こちらは素人。三人でスマホと睨めっこしながらの大格闘だった。


 帯の巻き方が写真ではよくわからず、右近は首を傾げる。



「折りたたんで、横……? ううん、どうやって巻くんだこれ」


「ああ、帯は何となくわかるよ。俺、学生時代に居合道をしていたから」


「助かるわあ。私は剣道畑なのだけれど、こっちは紐一本だから勝手が違って」


「わかります。居合の場合は袴の中に帯を巻いて、そこに刀を差すんですよ」



 少し誇らしそうにはにかんで、郡東風は手順を確認しながら器用に帯を取り回していく。

 しばしの手持無沙汰の間、右近が彼の手捌きに感心しながら見取り稽古をしていると、不意に郡東風から声をかけられた。



「その、さっきは悪かったな……怪我とかしてないか?」


「大丈夫、この通りピンピンしてるから」



 力こぶを作るポーズをして見せたが、彼の顔は何故か複雑そうな色を深めた。武道をやっていた彼の前での力こぶは見るに堪えなかったかと思い、右近は慌ててフォローに切り替える。



「彼女さんを守ろうとしたんでしょ? 元々僕たちは招かれざる客でしたし。あんな事情があれば、警察や業者とは別に来た人を警戒するのも仕方がないですよ」


「そうか……ありがとう」



 郡東風は肩の力を抜いて、一度深呼吸をした。かと思うと、また何か歯に挟まったような顔をしてしまう。

 首吊りの際に圧がかかったせいか、彼の眼球は血走って押し上がっている状態。口が裂けても言えないが、右近は正直、チラチラと視線を向けられる度に少しばかり腰が引けていた。



「ええと、僕の顔に何かついてますか?」


「……冗談なら笑えないぞそれ」


「んん?」



 自分は何か変なことを言っただろうかと、右近は首を傾げた。英までもが小声で「ごめんなさい」と言って背を向け、ぷるぷると肩を震わせているのだから謎である。



「ああいや、君が気にしてないんならいいんだ。忘れてくれ」



 そう言って、郡東風はスマホに視線を戻した。

 帯を巻き終え、袴へと移る。これも剣道とは違い、袴の帯を前で巻くのは、居合の着衣着装の方が近いらしい。新郎がやった方が早いというまさかの事態に直面してしまい、英が悔しそうにしている。


 そんな英とともに後学のためのお勉強をしながら、右近はふと思い立ち、依頼を受けた時から気になっていたことを聞いてみることにした。



「合歓さんの学生時代って、どんな感じだったんですか?」


「姫彼岸の? んー、今とそんなに変わらないと思うぞ。ああいう手合いは、自分の世界を泳ぐのが楽しいんだ。俺も人のこと言えないけどさ」



 袴の腰板を合わせながら、郡東風は自嘲気味に笑う。



「けれどあいつは、それがただ殻に籠っているだけで、泳いでいる場所が夢色の海ではなく、底なしの井の中だってことを知ってた。だからかな、現代で画家なんて棘の道だってのに、高校生のうちに界隈じゃ有名人になってたよ。遺顔絵師ってのは初耳だったけど」



 右近は驚いたが、意外ではなかった。足しげく通っては口説こうとするアイリスを見れば、合歓の才は本物なのだろうことは判る。


 しかし、そういえば自分は、彼女本来の画をほとんど見たことがない。半年くらいに一度、気まぐれにアイリスに描いて渡すくらいで、右近が合歓のアトリエに流れ着いた時にはもう遺顔絵師が本業というくらいの有様だったからだ。



「合歓さんが遺顔絵師を生業にしたきっかけって、何なんだろう……?」


「俺も事情は知らないけれど、言われてみればアレかな、ってのはある」


「そうなんですか?」



 右近が興味を示すと、郡東風は声を潜め、英にも聞かれないように言った。



「あいつな、高校最後の年に、彼氏を亡くしてるんだよ」


「えっ……?」



 右近は耳を疑った。あの合歓に彼氏がいたとは意外だった。確かに容姿こそかなり高いレベルにあるけれど、郡東風の話ぶりでは、高校時代から変人だったはずなのだ。



「ちょっとえぐい話だから、本人が話してないなら詳細は伏せるけどな。暇さえあれば、彼氏と二人でキャンバス持って外を歩いてたよ」


「どんな、人だったんですか」



 好奇心と、多分少しの嫉妬心で、思わず喉が鳴る。



「名前までは知らないんだ。隣のクラスだったし、何でか女子たちは『チューリップくん』って呼んでたから」


「チューリップ……ええ……?」



 右近はなんだか狐に化かされたような気分だった。運動部のエースだとか、主席レベルの優等生だとか、そういうのを想像していたのだが、チューリップというワードのせいで、途端に幼稚園児のような鼻たれ坊主へと上塗りされてされてしまった。



「ま、機会があったら本人に聞いてくれ」


「う、うん。そうするよ」



 右近は突然湧いて出た霧に囲まれたように、曖昧に頷いた。











 茉莉花の背に抱え帯の羽根が作られたのを見て、合歓はほうっと声を漏らした。



「すごい、綺麗だ。掛下の袖の時点でも思っていたけれど、まるで天女のようだね」


「褒め過ぎだって」



 茉莉花はじっと体を動かさないようにしながら、控えめに照れ笑いを浮かべる。それを知ってか知らずか、大家は「まだまだ」と盛んに歯を見せた。



「打掛が残ってるからね。もっとべっぴんさんになるよ」


「もう、お母さんまで」



 とうとう耐えきれず、茉莉花が体を折って笑った。声は聞こえなくとも、今ではそのリアクションが見て取れる。大家は動かないよう諫めながらも、どこか嬉しそうにしている。


 そんな和気藹々とした空気に、合歓は改めて、自分のやるべきことを心に誓った。

 羽織袴よりずっと多くの工程がある中、大家のおかげでかなりスムーズに進行している。しかし、大家にはできないことが一つだけあった。それは、一般人には視えない茉莉花の髪を結い上げ、簪を挿すという工程である。


 かつらの用意もあるようだったが、茉莉花の毛量は十分にあったこともあり、彼女の地毛で結うことにした。依頼を受けた当初は、あの頃とは印象が変わってしまったことに驚いたが、今ではそれが、茉莉花の美しさを際立たせている。

 文金高島田の形から少し外して可愛く盛った髪は、後光が差しているようだ。子供だった頃の黒から、想い合った彼と生きる為に染めた金。ファッションであり、反発であり、そして、彼女の生き様そのものを体現した黄金色。


 茉莉花の息を呑むような美しさを早く大家に見せてやりたいと、合歓は思った。これから描くことになるムカサリ絵馬は、郡東風要と白井茉莉花への心付であり、同時に石竹コウへ遺す遺顔絵の御手紙でもあるのだから。



「ねえねえ、姫彼岸ちゃん」



 口元を耳に寄せて、茉莉花が内緒話をするように囁いてきた。彼女が自分を名字で呼ぶのは、別段距離があるからではない。『茉莉花』と『姫彼岸』、どちらも三文字の花の名前だからとお気に召した彼女のこだわりだった。



「最初はびっくりしたんだけどさ、声と喋り方で判ったよ。彼って、木蔦くんだよね?」



 まるで恋バナで冷やかすときのように、茉莉花は向こうで羽織袴の着付けに奮闘中の右近を指さし、興奮気味に言った。


 それに合歓は、唇の前で人差し指を立てて「しぃー」と声を潜める。花マルの答え合わせに、茉莉花がきゃっと首を竦めて喜んだ。



「そっか、姫彼岸ちゃんも一緒にいられてるんだね」


「どうかな。『も』というには後ろめたいよ。君たちほど信念を持った決断ではないからね」



 合歓は自分の狡さと醜さに、思わず下唇を噛んだ。



「彼は記憶を失くしているんだ。そこに付け込んで、いいようにやってるだけさ」



 改めて吐露すると、途端に罪悪感に押し潰されそうになった。きゅうっと肺へ繋がる根元のところを掴まれて、呼吸が上手く出来なったような感覚にあえぐ。


 このことを教えたのは、自分の画家としてのエージェントであるアイリスと、遺顔絵師としてのフィクサーである英、それと今しがたの茉莉花だけ。なまじ条件は満たしやすいものだから、隠すのは容易だった。


 茉莉花は打掛に通した腕で、こちらの肩を抱き寄せるようにして、首を横に振る。



「木蔦くんならきっと、記憶が戻ったら、笑ってくれるよ」


「そうかな……そうかも。でも、怒って欲しいとも思うんだ。あまり烈しいと心が折れちゃいそうだから、ちょっぴりでいいんだけれど」



 回された腕から伝わる力が、ぎゅっと強くなった。



「その時はちゃんと、姫彼岸ちゃんの気持ちも伝えるんだよ。一方的に怒られるんじゃダメ。彼氏との喧嘩はいいぞお」


「ええ、そうなの? 喧嘩なんて、ない方がいいと思うんだけど」



 合歓が唇を尖らせると、茉莉花と、着付けをしながら聞いていた大家が、同時に首を振った。



「「仲直りをして、より強く結ばれるからね」」



 向けられた優しい眼差しに、合歓はハッと目を見開いた。

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