ムカサリ絵馬
「門出って……姫彼岸、お前。あんな奴らに見送られろっていうのかよ?」
郡東風が顔を顰めて抗議した。当然だ。遺影を描くということは、それを遺族――彼らにとってにっくき存在に引き渡すということなのだから。
しかし、合歓は意味深に微笑んで、立てた指を振って見せる。
「私が描くのは遺影じゃないよ。近しいものではあるけれどね」
「どういうことだ……?」
「ムカサリ絵馬って、知っているかな?」
眉を上げた彼女に、右近たちは首を傾げた。ただ一人、英だけは何か思い当たることがあるようで、手のひらを額に当てて頬を引き攣らせている。
「『冥婚』の一種で、山形県の一部地域に伝わる風習なんだ。未婚のまま亡くなった人を、架空の伴侶とともに絵にすることで弔うんだよ」
「それは、葬儀とは違うの?」
「葬儀は葬儀で、別に執り行われる。絵馬は取り扱っている寺社に奉納するのさ。そこで提案なのだけれど、君たち二人をムカサリ絵馬に描いて、葬儀が行われるよりも先に奉納することができれば……どうだろう?」
「あたしたちが、一緒になったまま旅立てる……?」
白井は瞳をぱっときらめかせ、郡東風と見つめ合ってはにかんだ。
「専門家としてはどうかな、英さん」
「えー、そこで私に振るぅ……?」
二日酔いでもしたような、呻きにも似た声で英はため息を吐く。
「対怪異専門に職務を遂行している身としては、風習や伝統のイレギュラーな使い方はオススメできない、としか言えないわよ」
「まあ、そうだよね。君の同僚にも怒られるかな」
「いいえ、彼女なら笑顔で賛成すると思う。だから困ってるのよ……」
英の頭がさらに沈んでいく。このままいけば、手のひらが頭を貫通するのではないだろうか。
「同僚さんは、何かあったんですか?」
右近が訊ねると、英は「禁忌の被害者よ」と顔を梅干しのように萎ませた。
「その子と自分を絵馬に描いた男がいたの。自分は自殺して、その子を冥府に引きずり込もうとしたのね。ムカサリ絵馬に生者を描くのは絶対の禁忌。あの子はどうにか助かったけれど、結局、ご両親とお姉さん、お姉さんのお腹にいた姪子さん。そして視力のほとんどを失ったわ」
「そんな……」
右近は二の句が継げずにいた。話のさわりだけで、その凄惨さに腰が引けそうになる。
周囲に漂った重苦しい空気に、英は「あー」と気まずそうに顎を浮かせた。
「い、今は一児のママとしてバリバリ元気にしてるから、安心して、大丈夫!」
本当かなあ、と半眼で嘯く合歓を、英は咳払いで黙殺した。
「ともかく、『
英は真剣な顔で言った。同情や憐憫といった個人の感情を一旦脇に置いた、俯瞰からの意見だ。それは合歓がそう努めているものと似ている。否、そうせざるを得ないのだ。死の世界と隣り合わせで生きるためには、それだけ慎重に判断を下していかなければならない。しかしそれは決して建前ではなく、他者を――死者を偲ぶからこそ選んだ最善の本音でもある。
だからこそ、粛々と受け止めた上で、郡東風と白井は頷いた。
「少しでも、希望があるのなら」
「あたしたちを、絵馬に描いてください」
頭を下げる二人に、合歓は複雑な表情で「難しい手術を執刀する医者の気分が解かった気がするよ」と、かかるプレッシャーに肩を揉んだ。
よっこいしょ、と腰を上げかけた彼女は、ふと何かを思いついたように中腰でとどまると、先ほどまでと打って変わった明るい声で、快哉を叫ぶ。
「そうだ、どうせなら和婚をしよう! 資料では、二人は彼氏彼女だとあったけれど、結婚式はまだなんだよね?」
「お、おう……しようとは思っていたんだけどな」
「こうすることを決めたから、変に記録を残したくなかったんだよね」
郡東風と白井は、突然の提案に狼狽えたように顔を見合わせていた。
「ようし、じゃあやろう。ムカサリ絵馬は新郎新婦の記念写真代わりだ」
写実の腕には自信があるんだと、合歓はにししと歯を見せる。ぴょこぴょこと落ち着きなく跳ね始めた肩を、右近は慌てて抑え込みにかかった。
「衣装はどうするんですか? 合歓さん、目の前に物がないと描けないんでしょう。今からレンタルを依頼しても、すぐには無理ですよ」
「なら、買えばいいじゃないか」
至極あっさりと、ネムー・アントワネリネは言ってのけた。
「そんなパンみたいに……」
「ケーキは後で食べるじゃない」
右近は白旗を上げた。付け焼刃の冗句ではこの手の人間には太刀打ちできないのだ。これまでにも、合歓に口で勝てたことは一度もない。まるで合気道の達人でも相手にしているようで、手のひらの上で容易に転がされるだけである。
見かねたとばかりに、英が助け舟を出してくれる。
「いくらするか分かってるの? 手頃なやつでも十万はするのに、それを二着なんて」
「大切な友達の門出なんだ。ぱあっとやろうじゃないか」
「姫彼岸ちゃん……そんな、悪いよ。処分だって困るでしょ」
白井が遠慮がちに断ろうとしているが、右近は半ば諦めていた。既にゼンマイの巻かれてしまったじゃじゃ馬は留まるところを知らないからだ。それに、もう半分は自分も彼女たちを祝福したいと思っていたから、止める理由もなかった。合歓を御そうとしたのは、その思いつきをきちんと形にさせるためでしかない。
「茉莉花は白無垢と色打掛、どっちがいい?」
うきうきと肩を揺らしながら、合歓が訊ねた時だった。
「あのう、一体何の話をされているんでしょうか……」
怪訝な声に振り返れば、玄関のドアから顔を覗かせた大家がいた。
「すみません、騒がしくしてしまって」
ほら貴女も謝りなさいといわんばかりに、英が合歓の後頭部に手をかける。それに合歓は歯を食いしばり、首に筋を張らせて抵抗した。しかしそれも二秒ともたなかった。
大家は、それはいいんですと手を振って、
「長くいらっしゃるようでしたので、様子を見に来たのですが、そうしたら打掛がどうとか聞こえてきまして。お二方は一体、何の話をされていらっしゃるので……?」
「郡東風くんと茉莉花の結婚式をするんですよ。冥婚というやつです」
喜々として答えた合歓に、大家はぽかんと、豆鉄砲を食らったような顔をして固まった。
「そこに、いるんですか。あの子たちが?」
彼女は引き寄せられるようにふらふらと入ってきて、投光器で照らされた部屋の中央、テーブルを見やる。
現れた大家の姿に、郡東風と白井が悲痛な顔で涙ぐんだ。
「
「――二人は、あなたに迷惑をかけたことを謝っているようです」
郡東風の言葉を合歓が介して伝えると、大家は「ヨウちゃん、マリちゃん」と彼らの名前を呼んで崩れ落ちた。
「ほら、二人とも。何か伝えることがあれば、今のうちに」
それから、じっくりと時間をかけて、合歓は彼らの言葉を伝えた。
引っ越し業者を通さずほとんど身一つで飛び込んできた自分たちに、あたたかい晩ご飯を作ってくれたこと。事情は何も聞かず、受け入れてくれたこと。
郡東風が仕事に詰まり、夜遅くまで起きていた時にくれた、夜食のおむすびの味。
白井のメイク練習を兼ねておめかしをし、二人でお出かけしたことの楽しさ。
二階の八重さんが受験に合格したとき、みんなで祝ったバーベキューのこと。
合歓の口から吐いて出る思い出たちに、大家は時折頷きながら、黙って耳を傾けていた。
「『あたしたちは、あなたを本当のお母さんのように思っていました』。『そんなあなたに親不孝をすることを、許してください』」
心なしか、合歓の声も上擦っている。
大家は視えていないはずの二人の姿を探すように顔を上げて、涙をはらりと零した。
「二人とも、ありがとう。姫彼岸さんも、ありがとう。あなたは観音様か何かですか」
「あはは、違うよ。ただの同級生さ」
拝むようにして頭を垂れる大家に、合歓はくすぐったそうに身を捩らせる。
しばらくの沈黙の後で、大家は虚空に向かって言った。
「迷惑だなんて、私は思っていないよ。お金も置いていってくれたけれど、あんなのも要らないんだよ。あなたたちが、ちゃんと幸せになれるんなら、やっと幸せになれるんなら、私はそれでいい。こうしてお友達まで来てくれるんだ。良かったね。愛されていたんだよ」
大家のくしゃくしゃの笑顔に、郡東風と白井はわっと声を上げて崩れ落ちた。
大家は立ち上がると、袖で涙を拭って合歓と英を見やった。
「和装が必要ということでしたね。その話、私にも一枚噛ませてください」
その声は凛として、まるで老いを感じさせないようだった。結婚式というワードに、幾分か若返ったようにも感じられる。
彼女に連れられ、一行は彼女の自室へと向かった。間取りは同じだが、電気が通っているというだけで随分と印象が違うように感じられた。あたたかな時代の温もりだ。
大家は押し入れを開けると、よく整頓された中から、平たい桐の箱を引き抜いた。二つあるそれをそっと畳の上に並べると、宝箱を開けるように蓋を開く。
中身は薄い綿布で覆われていたが、その奥の色は光に透けて見えた。合歓と白井は何かに気付いたようで、うっとりと黄色い声を漏らしている。
綿布が捲られ、解き放たれたモノクロのコントラストが艶を帯びる。
「これは私から、ヨウちゃんとマリちゃんに」
そこに現れたのは、厳かな紋付羽織袴と、瀟洒な白無垢だった。
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