懐かしい名前

「元気なさそうだけれど……何かあったの?」



 アトリエを訪れた英が、開口一番にそう言った。美術館からの帰り道に電話があり、昨日の予告通り、早速次の仕事を頼まれることになったのだ。

 刑事としての話術だろうか、彼女本来の性根だろうか。優しげな声色が胸に染みる。


 右近が自分でもどう説明していいものかわからず押し黙っていると、椅子の背にもたれながら、合歓が代わりに答えた。



「今は落ち着いているよ。記憶が戻ったというわけでもないようだから、少し休めば大丈夫だと思う。そういえば聞いたよ。警部に昇進したんだって?」


「びっくり、耳が早いのね」


「柿津畑葉二さん一家の件で、いくつか判明したことがあってね。捜査資料をどうにかできないかと、警察と消防に掛け合った時に聞いたんだよ。おめでとう」


「ありがとう。うちは肩書があってないようなものだから、仕事の内容は変わらないんだけどね。むしろ変に警視庁が絡む分、わざわざ上京しないと辞令を受け取れないのが面倒なくらい」



 苦笑気味に肩を回して、英はいつもの席に腰を下ろす。



「こちらこそごめんなさいね。疲れているところ、間が悪かったかしら」


「いえ、仕事ならちゃんとできます。すみません、ご心配をおかけして」


「いいのよ、私のお節介焼きは趣味みたいなものだから」



 右近の謝罪に手を払いながら、英はもう一方の手で鞄からファイルを取り出した。



「今回は心中案件よ。遺書もあるし、事件性ナシと判断されているから、特にはニュースにもなっていないけれど」


「おや、女性の方は写真があるんだね。……少しばかり派手かな」



 クリップ留めされた一番上の写真を手に取り、合歓が興味深そうに唸った。盛りに盛った髪と、露出の多いワンピースドレスできらめいている笑顔の女性が写っている。



「ナンバーワンとはいかないまでも、かなり人気のキャバ嬢だったそうよ」


「なんだい、太客とのトラブル? それともホスト?」


「いいえ、心中したパートナーは、高校生時代からの彼氏さんよ。こちらが、大人しくて真面目なタイプの男性でね。遺顔絵の依頼対象も彼の方」



 英がクリップを外して資料を拡げた。両者の情報や、遺書のコピーなどもあるようだ。



「学生時代のカップルなら、その頃の卒業アルバムなんかを探せばいいんじゃないですか?」



 右近が訊ねると、英はやるせなさそうに首を振った。



「遺族の方の要望は、世間体なのよ。駆け落ちだったみたいでね、ご実家からも勘当状態」


「自分の息子の写真が、何年か前のアルバムのものしかないというんじゃ示しがつかない、ねえ……まあ葬儀なんて二言目には『金がかかる』だからね。そもそも形骸化しているようなものだけれど。勤め先の写真は? 社員証とか、履歴書とか」


「彼はフリーのイラストレーターをしていたようだから、そういうものとは無縁だったみたい」


「それで、うちに持ち込まれたってワケか。お、彼らは私と同い年じゃないか」



 コーヒーに口を付けながら彼氏の資料を眺めていた合歓が、そこで眉間に皺を寄せた。



郡東風むれごちよう? 聞いたことがあるぞ。私の高校の同級生にもいたよ。んん? さっきの彼女の写真も、そう言われてみれば見たことがあるような、ないような……」



 彼女のプロフィール資料を指先で引き寄せ、摘まみ上げると、合歓は目を丸くした。



「んな、茉莉花まりかだって!?」


「知ってるんですか?」


「知ってるもなにも、彼女も同級生だよ。友達……ではあったと思う、多分」



 自信がなさそうな複雑な表情で、合歓は言った。資料には『白井しらい茉莉花』と記載されている。



「人当たりのいい子でね。生徒会にも所属して、私みたいなハグレ者にも声をかけてくれていた。いわゆるクラスのマドンナって奴だね。そうか、郡東風くんと付き合っていたのか」



 合歓は瞼を閉じ、生唾をゆっくりと嚥下してから、大きく息を吸った。



「どうして私の周りでは、前向きに死ぬ奴がいないんだ。まあもっとも、生きる標こそあれ、死には向きも何もないんだけれどさ」


「合歓さん……」


「どうする? ご遺族は、無理なら無理で構わないと仰ってはいるわ。それに、窓やドアに内側から念入りにテープ張りをしていてね、外に臭いが漏れ出る頃には……友達のそんな姿、無理に見る必要はないと思うの」



 英の気遣うような視線に、合歓は首を横に振った。



「いや、描くよ。大丈夫。姿の方も心配には及ばない。彼らの時間は死の直後辺りで止まるから、吊りの場合はむしろ綺麗な方なんだ。じゃないと、落ち武者の霊はみんなガイコツさ」


「それなら話もできるとは思いますが……話が着くかは、難しそうですよ」



 右近は、読んでいた遺書を机に伸ばし、その最後の方を指さした。


『俺たちが稼いだお金を遺しますので、それでアパートの慰謝料や賠償に充ててください。息子としての最後の我儘はそれだけです。葬儀はしなくて結構です。以後、忘れてください。』


 この文面だけでも、親子の間に大きな壁があったことは窺える。



「自分からも忘れてくれと言っている人を、こっちの都合で弔うことは、正しいんでしょうか」


「そうだねえ……」



 コーヒーを煽った合歓は、温かい息を天井に向けて放ち、そのまま「あ」の口で喉を鳴らす。



「まあ、そっちは私たちの管轄外だ。一先ずは、同窓会と洒落込もう」



 右近はそこで、彼女の目尻が湿っていることに気が付いた。

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