一触即発

 現場であるアパートの一室は、封鎖中であるという。そのため英が同行してくれることになり、彼女の車に乗っての移動となった。普段の担当事案が霊的なものとはいえ、れっきとした警察官であるのだと、改めて頼もしく思う。


 コンクリート塀で仕切られた空き地のような場所へと英がハンドルを切ったところで、合歓が苦そうに顔を顰めた。ライトで照らされて見えた黄色と黒のロープは、もうほとんどが土の中に埋もれてしまっている。



「これは……アパートの前にボロが付くね」


「大家さんに挨拶する時には、ソレ、引っ込めなさいね」



 英の苦笑に、合歓はあくびのような生返事で返した。


 英は合歓の扱いが上手い。子供をあやすようにそれとなく宥めすかしてしまうのだ。以前右近がそのコツを尋ねたところ、彼女は少し遠くを見て、もっと口の悪い相棒がいたからよ、と笑っていた。過去形の理由は聞けなかった。


 右近たちが塀を迂回すると、郡東風と白井が命を絶った現場は一目でわかった。向かって一番右端の部屋だ。ドアの上からラインテープで規制線が張られている。夕陽を眩しく反射する窓の向こうに、ブルーシートが張られているのも見える。たったこれだけで、日常から浮いてしまっているのは物悲しさがあった。


 まず反対側へと向かった英が、部屋のチャイムを鳴らす。しゃがれ声の返事から数秒置いて、やや腰の反った老婦が顔を出した。



「畏れ入ります。昼にお電話をした、警察の長南と申しますが……お夕飯の支度中でしたか?」



 英は警察手帳を見せて名乗った後、開いた玄関から漂ってくる醤油と酒を煮立てた香りに、気まずそうに頭を下げた。



「あとはしばらく火にかけるだけですから。ええ。大丈夫ですよ」



 随分と憔悴しているように見えた。無理もない。変死――簡単に言えば看取られないで亡くなった遺体は、それが『病気による孤独死』や『ベランダで転んで頭を打ったことによる事故死』であると明らかになるまで、警察の捜査が入る。事件性はないからマスコミが押し掛けることもないだろうが、警察への対応だけでも、一般市民にとっては大変だろう。



「捜査の続きですか」



 玄関口の棚に置いていた小箱から鍵を取り上げて、大家は訊ねた。



「はい。つかぬことをお伺いしますが、郡東風さんと白井さんは、どんな印象の方でしたか?」


「一生懸命な子たちでしたよ。テレビでよく見る『こんなことをする人だとは』っていうやつ、あるでしょう。私はね、あれは嘘だと思っていたんですよ。そんなことない、人はそういう兆しがあるって。でも本当だった」



 大家は声が震えるのを押し殺すように、途切れ途切れに筋張った喉を動かして言う。



「ここの前の掃除も手伝ってくれるしね。大根の煮つけを差し入れした時なんか、美味しかったーって、いつもありがとーって言ってね、二人でやってきて。余裕もないだろうに、『ごでば』のチョコをお返しにくれたんだよ」



 そう言って、部屋の中を指さした。見れば、先ほどまで鍵を入れていた小箱の蓋に、騎乗した裸婦のロゴが見える。ジュエリーボックスと言われてもわからないようなそれは、箱だけ見ても、決して安くないことは容易に想像できた。



「私が、娘夫婦が誘ってくれた旅行に行かなければ……もっと早く見つけてあげられたかもしれないのに……ごめんねえ。ごめんねえ!」


「大家さんのせいではありませんよ。また後程、鍵を返しに伺います」


「あの子たちを、どうかよろしくお願いします」



 そう言って、大家は深く頭を垂れた。足下にぽたぽたと水滴が落ちる。

 スチール製のドアが閉められたところで、合歓がぽつりと零した。



「いい人だったね。あったかい家だ」


「そうですね。だからこそ、どうして……」



 右近は振り返ろうとして、夕陽の眩しさから逃げるように顔を背けた。事前に聞いた話では、大家の部屋を抜いて七部屋あるうち、今は三部屋しか埋まっていないそうだ。けれどそれは、発覚後に人がいなくなったからではなく、以前から長く住み続けている人たちが変わらず残っているからだという。


 英がラインテープの一端を剥がし、再利用できるようそれぞれ丁寧に垂らしていく。


 心なしか、右近は気が逸っていた。この部屋の中に合歓の旧知の友がいるせいだろうか。二人の名前を聞いてから、妙に落ち着けないでいる。同窓生と会った時、合歓はどんな表情で語り掛けるのだろうか。それはパグのような顔だろうか。


 鍵がかちゃりと音を立てて回される。浮足立っているのは合歓も同じだったようで、待ちきれない手が英の手を追い越し、ノブを回した。


 ドアが開き、隙間から生温い空気が漏れてきた。まだ腐臭は抜けきっていないようだ。

 もうすぐ部屋の中が見えるという時、右近は不意に、



「来るなあっ!」



 というがなり声を聞いた。我武者羅に張り上げた、文字通りのデスボイスだった。



「合歓さん、下がって!」


「姫彼岸さん、下がって!」



 右近と英が叫んだのは、同時だった。それに自分の直感を確信した右近は、合歓を英の方へと突き飛ばす。


 直後、玄関前に取り残された右近は、ドアを内側から叩き開けた圧力に巻かれて吹き飛んだ。石塀に背中を強かに打ったことで、呼吸が止まりそうになる。



「右近くん!?」


「けほっ……ごほっ……大丈夫、です」



 これが体を強打する痛みなのかと、右近は泣きそうになった。背中を打っただけなのに、手足の関節や、足の付け根、首筋に至るまで、体の継ぎ目という継ぎ目がじんじんと痛い。高所から落ちれば肉が千切れ飛ぶわけだ。



「来て良かったわ。まさか、悪霊と化しているなんてね」



 合歓を抱えてドアの陰に身を潜めた英は、ジャケットの内側から拳銃を抜き、円形のリローダーから弾丸を装填した。真鍮の金ではなく、銀の弾丸。対怪異用に火薬をいじった特別製だ。


 英はかっ開いた目の色を冷徹に変えて、躍り出る。



「待ってくれ、私の友達なんだ!」


「待って! ヨウちゃんは悪くないの!」



 今度は合歓と、女性の声が重なった。


 写真で見た女性が玄関口に出てきて、血相を変えて身を縮めている。顔に生気がなく、服装もだぼっとしたシャツではあるが、白井茉莉花で間違いないだろう。



「姫彼岸さんっ!?」



 英が銃口の向け先を見失った、その一瞬が大きな隙となった。



「茉莉花、危ないから下がっていてくれ!」



 部屋の奥から、あの叫びが飛び出してきた。



「俺が絶対に追い出すから!」



 獣のように目をギラつかせた男が、観葉植物か何かの鉢植えの幹の方を握って、まるで棍棒か長柄のハンマーのように振りかぶる。


 右近は総毛立つのを感じた。感じたことのない熱に体が浮かされ、飛び出していた。



「合歓に、触るなァ!」



 スイングされた鉢植えから合歓を庇うように立ちはだかる。男はこちらを見てギョッとした様子だったが、遠心力はもう止められない。


 腕で受け止めようと構え、歯を食いしばる。しかしすんでのところで、英のキックが鉢植えを弾き返してくれた。


 場が停滞したことに、右近は気が抜けて座り込む。合歓が飛びついて、背中を擦ってくれた。



「大丈夫かい!?」


「ええ、何とか。この通りです……」


「まったく君は、柄にもない無茶をするんじゃないよ」



 自分でもそう思う。けれど今は、彼女が目にいっぱい溜めた涙に報われた気がする。



「郡東風さん、白井さん。私たちは貴方たちと話をしたいだけなの。いいかしら?」


「あ、ああ……いや! そいつは何なんだ!」



 英の言葉に頷きかけた男――郡東風は、右近を指さして後ずさった。



「何って、私のアシスタントさ」


「あんた、どこかで……」



 怪訝な顔に、合歓はコートのポケットからケースを取り出し、眼鏡をかけて、後ろ手に髪を束ねあげて見せた。



「これで判るかな? 姫彼岸合歓、君たちの同級生なんだけれど」


「あ、姫彼岸ちゃん? 久しぶり!」



 白井の方がわっと声を上げた。


 合歓は肩を竦めて眼鏡を下ろすと、コンタクトの上から眼鏡は変な気分だ、と笑った。

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