第二章 シオンの掛け違い
絵画展
ヴィクトー・ブライデンの絵画展があるのだけれど、という遠慮がちな誘いの電話があったのは、昼過ぎのことだった。隣町にある商業ビルの催事場を丸々一階層貸切って行われるらしい。それを伝えると、合歓は思いの外乗り気な様子で二つ返事に頷いた。
髪の爆発はすでに処理が済んでいたから、右近は彼女にお化粧を施した。相変わらずのクソダサ私服に着替えて来た合歓にはもうツッコまず、手配していたタクシーに乗り込む。
右近は実を言うと、タクシーが苦手だった。運転手たちは皆、きまって合歓にばかり話しかけるからだ。かといって話を振られても困るため、それはそれで有難いのだが。
合歓の適当な相槌をBGMに揺られること、数十分。バリキャリのように見えるからと毎度支払い係を譲らない合歓を待っている間、右近が辺りを見回すと、ポール状の支柱のところで、既にアイリスが待っているのが見えた。
ちょうどスマホから顔を上げた彼女と目が合う。げ、と眉を歪ませながらも歩いてきた。
「君は相変わらずだねえ、アイリス。私を誘ったんなら、彼も一緒だと想像できたろうに」
タクシーから降りた合歓が、気まずそうにトレンチコートのベルトをつまんでいるアイリスに苦笑いで手を振った。
「分かってはいましたわ。けれど……やっぱり慣れませんのよ。木蔦さんにも悪いとは思っているのですけれど」
「気にしないでください。アイリスさんのようにお綺麗な人からしたら、僕のような普通顔は微妙でしょうし」
「いえ、そういう意味ではなくって……」
「私は好きだよ、右近くんの顔。なあアイリス、彼はね、褒められたりして照れると、ブルドックみたいににへらっと笑うんだよ」
「それ、褒めてるんですか……?」
右近が嘆息すると、合歓は「可愛いじゃないか」と肩を震わせた。アイリスも想像ができないようで、苦虫を噛み潰したような顔で首を傾げている。
そこで自分がスベッたことをようやく自覚した合歓は、間を断つように手を叩いた。
「よし、ブライデンの池田屋に御用改めだ。今日の私は斎藤一だぞ」
「殺す気満々じゃないですか。随分乗り気だとは思いましたが、やっぱり恨みが……?」
「前も言った通り、恨みもなければ怒ってもいないさ。だからこそだよ。めいっぱいこき下ろし返してやることで、手打ちにしてやろうじゃないか」
良い人なのか血気盛んなのか判断の付かないことを言いながら、合歓は歩き出した。
エスカレーターでくるくると回るように上へ運ばれ、七階へ辿り着くと、そこは色とりどりの水彩の花が咲く花園だった。一枚一枚に目を凝らさなくても、この俯瞰から見た景色だけで、既にヴィクトー・ブライデンという画家の腕を思い知らされるようだ。
会場内は老若男女幅広くいるが、ラフな格好をした若者が多い。現代において、芸術の畑にこれほど若者を惹き付けられることに驚いた。
彼の絵はしばしば、ロマン主義と象徴主義のいいとこ取りだと評価される。ロマン主義とは、人の恋路だとか、歴史的な一幕を切り抜いた、厳かなドラマ性に溢れるもの。象徴主義はいわばファンタジーで、現実には在り得ない心象風景を描いた表現のアートである。合歓のようにありのままの美しさを絵に落とし込むタイプの画家は写実主義に分類される。
ひとつひとつの絵の前で立ち止まりながら、合歓は食い入るように眺めていた。
「スチームパンクも描けるとは驚いた。人物の表情は明確なのに、背景は抽象的。三次元により近い二次元、といったところかな。近代的だね」
あれほど酷評してやると息巻いていたのはどこへやら、素直に感心しているようだった。
「その評価は正しいですわ。最近では、流行のPOPシーンのジャケットイラストなんかに採用されていますの」
「へえ、どうりで。若い子が多いと思ったよ」
「なんですかおばさんみたいに。言っておきますが、合歓さんも若いですからね」
「お。私は、ということは、アイリスは若くないって?」
「そ、そういう意味じゃありませんよっ!」
思わず声を上げてしまって、右近は周囲に頭を下げた。しかし会場の人たちはめいめいに連れとの会話を楽しんでおり、こちらに注目していなかったことに胸を撫で下ろす。
全体としてはちょうど中程、ビルのフロアとしては奥まったところまでやって来た時、控室のように区切られた暗幕のところで、客にサインを書いている男性が目に入った。
「お、ブライデンじゃないか。人気で羨ましいねえ」
合歓が今日初めての冷やかしを口にした。
金髪碧眼。髪はオールバックに巻いていて、鼻は高く、やや鷲鼻のようにも見える。若々しさと年齢を重ねた風格を調和させたような、年齢不詳の外見だった。右近はアイリスに彼の年齢を尋ね、四十八という意外な答えが返ってきてようやく、目元の皺に気が付いたくらいだ。
「私とアイリスは奴に挨拶をしてくるから、右近くんは引き続き、絵を見て回るといい」
「えっ、僕もお供しますよ?」
「ロマン主義かぶれのブライデンが、君が私のアシスタントだと知ってみろ。『絵に愛情はないが、男は傍に置くようだ』とか言い出すぞ? 次に侮辱されたら会場に血が流れるかもだ」
「やっぱり根に持ってるんじゃありませんの……」
アイリスのげんなりした顔に、合歓は悪びれずに舌を出す。
右近も苦笑いをして引き下がった。アイリスも一緒ならば、悪いことにはならないだろう。
帰りの道すがらに見る絵は、初めて見る感覚を合歓と一緒に味わいたいと思った右近は、来た道を戻った。描くプロと選ぶプロが隣にいない、素人の目だけで見る絵画たちは、また違った新鮮さがあった。
不意に、腰元を横切る小さな頭が見えた気がして、立ち止まる。危うくぶつかりそうだったことを謝ろうと思ったが、それよりも、その小さな頭――小学生くらいの年端の男の子が、今にも泣きそうな目をしていることが気にかかった。
「ボク、どうしたの? 迷子?」
突然声をかけられてびっくりしたのか、男の子は目を丸くして、こちらをじぃっと無言で見上げてくる。そういえば昨夜、合歓は空と海に視線を合わせてあげていたことを思い出し、右近もそれに倣ってみた。
「道に迷っちゃったのかな?」
改めて訊ねると、男の子はようやく、こくこくと頷いた。お兄ちゃんと探そうかと手を差し出すと、おっかなびっくりとではあるが、手を取ってくれる。温かかった。
彼はもう、一通り見て回ったのだという。トイレに行ったら、戻り方がわからなくなったというだけだったので、案内はすぐに済みそうだった。
「絵は楽しかった?」
「わかんない。お母さんは、この人の絵が好きだって」
「そうかー。難しい絵も多いもんね。お兄ちゃんも頭が悪いから、実はあまり解ってないや」
そんな自虐的な会話でお茶を濁しつつ、受付までやってくると、男の子は壁際でスマホをいじっていた若い女性を指さして「お母さん!」と呼んだ。
「おそーい。どこまで行ってたのよ」
スマホから目を離さず、気だるそうに女性は言う。
「帰り道がわからなかったんだけど、このお兄ちゃんが助けてくれたんだ」
「えっ……?」
女性はスマホから顔を上げ、こちらを見て目を瞬かせている。
「ああ、ちょっと通りがけに。怪しい者じゃないので……」
「ありがとう、頭のないお兄ちゃん!」
「いや、頭が悪い、だからね?」
右近はツッコみ、男の子の頭を撫で回してやろうと手を伸ばした。しかし、その頭は血相を変えた母親の手に掠め取られ、足早に立ち去られてしまう。
「ええー……」
何もそんなつっけんどんな態度を取ることはないだろうと、右近は肩を落とした。
昨今では児童に挨拶をしただけで事案になるという。他人事として見れば笑ってもいられたが、いざ我が身になると、言い知れないモヤモヤがあった。
「頭がない、かあ」
気分が曇ると、子供の純粋な言い間違えさえ、悪い意味に捉えてしまう。
そういえば、頭部のない人の遺顔絵は取り扱ったことがなかったなと、右近は思った。頭部がないから依頼をされるのではなく、遺影用の写真がなく、急場で作るにもご遺体の顔が判別できない場合であって、そういった事件性の有無とは別であることが多いからだ。
「うん、ちゃんと頭はあるよね」
右近はトイレの鏡に映る自分の顔に頷いた。我ながら馬鹿な確認だとは思う。ついでに、合歓が言っていたブルドックのような笑い方をしているかの確認をすべく、百面相をしてみた。
ふと、人が入って来たのが鏡越しに見えたため、慌てて表情をきりっと取り繕う。
その瞬間だった。右近は視界に違和感を覚えた。鏡に映っていた自分の顔がなくなっていたのだ。まるで首から上が鋸で切り取られているかのように、粗雑に抉れた断面がある。
「えっ……?」
驚いて目を瞬かせると、次に映っていたのは見知った自分の顔だった。今通りかかった人も、特に気にしている風でもなく小用を足している。
右近は気のせいだと自分に言い聞かせ、跳ねる心臓を落ち着かせようとした。変な方向に考えるから、妙な妄想をしただけだ。たとえば、いつかに見たホラー映画の怪物の顔が、眠ろうと閉じた瞼の裏に浮かんでしまうように。ましてこんな生業だから、故人の痛ましい姿はいくつも見てきた。不謹慎ながら、不意に思い出してしまった時は軽く憂鬱になる。
だから、大丈夫。深呼吸をしているうちに、もう用を済ませた男性が、手を洗うために隣の洗面台にやってきた。
――また、鏡に映る顔が消失した。
「うわあああっ!?」
右近は驚いて飛び上がり、壁まで後ずさると、絵画の迷路の中へ逃げ出した。
呼吸も上手く出来ない中、人混みをすり抜けるようにして、どうにかフロアの奥にまで辿り着く。まだブライデンと話していた合歓の顔を見て、幾分か地に足を付けることができた。
「合歓さん、僕……僕って、頭がありますか!?」
右近は半狂乱になって、縋りつくように叫んだ。
視線をこちらに向けた合歓が、ぽかんと栗のような口をして言葉を失っている。その後ろでアイリスが眉間を押さえていた。
そこでようやく、多少の冷静さを取り戻した右近は、自らの再犯に気が付いた。
「あっ……すみません、騒がしくしてしまって」
「この少年は? ヘッドレス・ホースマンというには剣を持っていないようだが」
ブライデンが、流暢な日本語で言った。素っ頓狂なことを言った自分を首無し騎士に擬えるとは、ユーモアもあるらしい。
「ええと、ああ、すまない。説明させてくれブライデン。彼は私のアシスタントなんだよ」
「ふうむ。やはりネム・ネリネは面白いな。彼はイカボードで、君はカトリーナだったか」
合歓は肩を竦めてから、困った顔のまま、こちらに向き直った。
「それで、なんだっけ。頭があるかって? 首が切られた心当たりでもあるのかい?」
「それはないですけど……でもさっき、男の子からそう言われて。お手洗いで鏡を見たら」
「疲れているんだろ。昨夜も仕事だったからね」
気遣うように、そしてどこか安堵したように頬を緩め、合歓は指を立てた。
「なんなら、君の顔をここで描いて見せようか? 創作絵の描けない画家が、君の顔をきちんと描くことができたら、納得できるだろう?」
「え、ええっと……」
「アイリス、ブライデンでもいいや。悪いけど、紙とペンを借してくれるかい?」
右近の返事を待たず、合歓は話を進めた。お手並み拝見だと、ブライデンが挑発するような目をして、懐からメモ帳とボールペンを取り出した。
「大丈夫ですの?」
心配そうに伺うアイリスに、合歓は「弘法は筆を選ばずってね」と歯を見せ、いつもの筆捌きでさらさらと描き上げてみせた。
どうだと見せられた線画は、ざっくりとしたものではあったが、右近の顔立ちや特徴はきちんと押さえていた。髪型なんかも、毎朝鏡で見ているものと同じである。
「僕の……顔です」
「安心したかい? ほらアイリス。君にプレゼントだ」
メモ帳から切り離したページを受け取ったアイリスは、絵とこちらとを交互に見て、興味深そうに声を漏らしている。
「ブラーボ、ネム。もう少し良く話が聞きたいな、彼も一緒にどうだい?」
「悪いけれど、遠慮するよ。パパ活をする気はないんだ」
にしし、と意趣返しのように歯を見せて笑い、合歓は右近に「帰ろうか」とまた笑った。
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