もうひと頑張りのおまじない
全焼を免れたとはいえ、箱の表面は熱で溶け、長い時が経った今でも手に粘つくような感触がある。右近は手のひらにくっつかないよう指先で押さえながら、歪んだ留め具をこじ開けた。
中に入っていたのは、内服薬の袋と、何枚かまとめて折りたたまれた紙だった。
広げて見ると、一枚目は心療内科の名前が入った診断書だった。その後ろにまとめられているのは、弱々しい字が書き綴られた便箋のようだ。
便箋は握りしめられたように皺だらけで、同じようにテープで補強されている。
「これは……棄てられたものを、繋ぎ合わせた手紙でしょうか」
「アクセサリーがひっくり返されていたのは、これを入れるためだったんだね」
合歓が振り返り「読んでも?」とお伺いを立てる。すると綾芽はわずかに体を振ってから、柿津畑の方へ近づいた。
「だ、そうです。彼女が命を懸けてこれを遺したのは、あなたに見せるためだったようだ」
「私に……?」
柿津畑は戸惑った様子で手紙を受け取ると、目を落とした。
「『兄さんへ』――葉二が書いたのか」
驚いて顔を上げた彼に、綾芽は頷くように体を寄せる。
柿津畑は物を読むとき、ぶつぶつと声に出す癖があるらしい。おかげで、こっそり覗き見をしていなくても内容を知ることができた。
曰く、自分が鬱病と診断されてしまったこと。子供が生まれて、社長の座を引き継ぎ、これからという時に折れてしまった自分は情けない男だという、自責の念。
曰く、父の遺言で自分が社長に指名されたが、未だに受け入れられないということ。自分は学業的な『勉強』では点を採れてきたが、社長としての器に足る人生の『学習』は、兄の方が優れているのにという、劣等感。
曰く、それでも仕事は愛しているということ。夢に誇りを持っている。家族のことも愛している。頑張るのだと今日も胸を張って仕事をしているという、充実感。そしてそれは、焦燥の空回りでしかなかったという、絶望感。
――悩みを抱えれば鬱といわれ、己を奮い立たせれば躁だといわれる。どうやら僕は欠陥品になってしまったみたいだ。助けてくれ、兄さん。僕はどうしたらいいんだ。助けてくれ、兄さん。兄さんがいないと駄目なんだ。助けてくれ兄さん。尊敬する兄さん。大好きな兄さん。
「……『けれど。僕も柿津畑だ。社長として、夫として、父として、そして兄さんの弟として。こんなところで折れてやるわけにはいかない。燃え尽きるまでやってみるよ。ただ、もしも。僕が本当にダメになってしまった時には、綾芽と空と海のことを頼む。葉二』」
柿津畑は最後まで読み上げると、手紙を持った腕をだらりと下ろした。そのまま放心したような覚束ない足取りで部屋の外へ向かったかと思うと、突然「葉二!」と叫んで走り出した。
右近と合歓は、彼の後を追って走った。
書斎に駆け込むと、柿津畑は蹲る葉二に向かい合うようにして膝を突き、手紙を掲げた。
「葉二……お前な。言ってくれよ。俺たち兄弟じゃないか? 休んでも良かったんだ。会社だって、鬱のための福利厚生や労働支援をしているじゃないか。社長のお前が、鬱になった自分を否定してどうするんだよ。自分を否定なんか、しなくていいんだよ……!」
柿津畑はひとつ言葉を発する度に、唇が震え、目元がくしゃくしゃになっていく。やがて声色が湿り気を帯び、慟哭のようになっていった。
「すまなかった! 俺は頭のいいお前に嫉妬していたんだ。お前はこうして手紙で、俺のことも褒めてくれているっていうのに、俺は……俺は、この家が火事になったと聞いた時、安心してしまっていた……俺もお前のことを尊敬していたのに!」
柿津畑は手紙を置き、空になった手の平と、額とを、床に擦り付けて声を上げた。
「この五年、ずっと忘れられなかった。ずっと後悔していたんだ。ああそうだ、俺からも伝えたいことがあったんだよ。葉二が学生時代に書いた論文の技術が、今じゃあうちの特許なんだぜ? すごいだろう? お前は欠陥品なんかじゃない。お前は凄いんだよ、葉二!」
「兄……さん」
葉二の声が発された。いつの間に、彼の姿から火傷の痕は消えていて、彼は柿津畑の慚愧を拭おうとするかのように手を伸ばしている。子供たちを抱え、彼らの傍らに寄り添っていた綾芽の体もまた、光とともに生前の美しさを取り戻していく。
「兄さんごめん。こんな形で、会社を兄さんに引き継ぐことになってしまって」
「本当だよ、そこは反省しろ。火災の原因はお前のタバコの不始末だって聞いたぞ。人の住処を担う俺たちが、こともあろうに寝室からダメにしやがって」
肩を小突かれた葉二は、信じられない様子で目を丸くした。綾芽も困惑に首を傾げている。
「寝室……だって? それは在り得ないよ。子供たちも幼いし、家は新しいから、タバコを吸う時には外で吸うようにと綾芽から口酸っぱく言われていたんだから」
「えっ……?」
柿津畑が言葉を失う。それに、綾芽は頷いた。
「本当よ。葉二が鬱と診断されたこともあって、書斎に籠るより、外の空気を吸いに行った方が気分に転換にもなると思っていたから」
「知らなかった……君は僕を気遣ってくれていたんだね。ありがとう。でも、ならどうして?」
一同は難しい顔で黙り込んだ。せっかく想いを遂げかけた体にノイズが走り、焼けた体がサブリミナルのように浮かび上がる。
合歓が焦ったように指を噛んだ。
「拙い、また死ねない理由が出来てしまう……!」
「でも、火元の原因探しなんて、どうすればいいんでしょうか。僕たちは探偵でも、専門家でもないですよ?」
「そうさなあ。英さんに連絡して、また鑑識を呼んでもらおうか」
合歓がポケットからスマホを取り出した矢先、部屋に大きな音が鳴り響いた。一瞬それは着信音かとも思ったが、音の出所は反対方向だった。
綾芽の腕の中で、未だ生前の姿を取り戻せずにいた子供たちが泣き出したのだ。
「ごめんなさあい!」
海は父親の腕に、空は母親の足にそれぞれしがみ付き、わんわんと声を上げて顔を埋める。
「ぼくが、たばこをあげたんだ! ぼくが、わるいこなんだ!」
「海……?」
葉二は息子の意図を組み切れず、まるで自分も落ち着かせるように、小さな背を撫でている。
綾芽のスカートに鼻水を擦り付けながら、空がしゃくり上げる。
「おとうさん、いつも、おそくまでがんばってるから!」
「たばこで、げんきになってほしかったんだ!」
「お前たち……そうか、僕のために。駄目だな、子供たちにまで心配をかけるなんて」
葉二は子供たちを抱き寄せ、反対側から綾芽が包み、親子で声を上げて泣いた。
右近はその光景に、込み上げるものを感じていた。
「夜中に起きてきた空ちゃんと海くんが、お父さんのためによかれと思っての事故だったんですね。でも、タバコは吸わないと火が点かないって聞いたことがありますが」
「いいえ、点きますよ。点きにくいってだけで」
家族の輪からそっと離れてきた柿津畑がそう言って、目を細めた。
「葉二がやらかしたと思っていましたが、まさか、こんな理由だったなんて」
「いや、僕が悪いんだよ、兄さん。前に子供たちからどうしてタバコを吸うのかって聞かれた時、これでもうひと頑張りできるからだって、説明してしまったことがあるんだ」
バツの悪そうに肩を縮こめている葉二に、柿津畑はゆっくりと首を振った。
「もういい、もう自分を責めるな。今のお前がやらなきゃならないことは、罪悪感でいっぱいの子供たちを、ちゃんと許してやることだ」
その言葉に葉二は頷き、ひとりひとり抱き締めてから、その額にキスをした。父親に触れられたところから呪縛がほどけ、空と海の体は、波紋が広がるように柔らかさを取り戻していく。
一繋ぎに握られた手と手に、合歓は大きく頷いた。
「どうやら、キャンパスは一枚で良いらしいね。右近くん、私は玄関から荷物を取ってくるから、その間におめかしを頼むよ」
「かしこまりました」
右近は一家に近づいて、改めて自分たちのことを名乗り、大仕事に取り掛かった。
子供たちの泣き腫らした目にハンカチを当て、乱れた髪を整える。仕上げは、勝手知ったる綾芽が協力を申し出てくれた。
右近が執務机などの背景を整えた頃、戻って来た合歓が、妻の髪に手櫛を通している夫の姿を一瞥して、にやりと笑った。
「ははーん。右近くん、上手く仕事をサボったね?」
「そんなんじゃないですってば。家族のとびっきりの姿は、家族こそが知るんですから、任せた方がいいと思って」
「ははっ、違いない」
合歓はキャンバスを設置してから、一言「きれいだ」と呟くように言った。
「よし、じゃあ描くぞ。空ちゃん、海くん、すぐに終わるから、ちょっとだけじっとしててね。いち足すいちは~?」
「「にー!」」
二人がにかっと歯を見せたのを合図に、合歓の筆が走り出した。
家族四人がより沿った姿を、素早く掬って刻み込む。右近はそれが、遺影というより門出の家族写真のようであることに驚いたが、しかし、自分たちの役目がどういうものであるかを思い出して、それも相応しいかと目を閉じた。
合歓の絵がどれ程速いとはいっても、緻密に描き込まなければならない一枚の絵画を仕上げるためには、そこそこの時間を要する。
ついにそわそわとし始めた子供たちに、合歓は苦笑気味に眉を持ち上げた。
「右近くん、少し早いけれど、例のモノを」
そこに持ってきてる、と親指で示されたケーキの箱を、右近は大切に拾い上げた。いつもよりサイズが大きいこともあってか、ずっしりと重く感じる。
壁際にあった、プリンター台らしき平坦な机を選んで家族の前へ。ケーキを箱から出すと、わっと声が上がった。
「わあ、ケーキだ!」
「へんなろうそく!」
前もって挿してある白い蝋燭を指さして、空が笑う。
「これはね、誕生日ケーキなんだ。今にバイバイして、生まれ変わる君たちへの」
「うまれかわるって、なあに?」
「生まれ変わるっていうのはね……そうだなあ。もっと元気になったお父さんと、もっと綺麗になったお母さんと、もっと可愛くなった空ちゃんと、もっとカッコよくなった海くんと、また逢うためのおまじないなんだ」
どうにかこうにか言葉を探し当てた。背後で噴き出し笑いが聞こえたが、無視をする。子供たちが目を輝かせてくれているのだから、それでいいのだ。
「ようし、こっちも出来た! ――ああ、絵具が乾いてないから、触っちゃダメだぞー?」
キャンバスをひっくり返すや否や、ばっと集まってきて触れようとする子供たちと相撲を始める合歓に噴き出し笑いの意趣返しをすると、睨まれてしまった。
右近は蝋燭に火をつけようとして、この場所が火災の現場であることを思い出し、思わず手を止めた。けれど、綾芽が「大丈夫ですよ」と声をかけてくれる。
「右近さんと仰いましたか」
「ええ、そうですけど……」
「私から言うのもなんですが、お仕事大変でしょう。見るに堪えないものを見、聞いていられないものを聞き……そこに寄りそうだなんて。辛くて苦しいのは、あなたも一緒でしょうに」
「いえ。合歓さんの手伝いをするの、好きなんです、僕。記憶がないのは寂しいですけれど、今の日々に不満はありません」
「立派なんですね。遅くなりましたが、ありがとう。これで私たちは、逝くことができます」
「そんな……それは、合歓さんに伝えてやってください」
くすぐったくなりながら、蝋燭に火を灯す。そこでふと、右近は目を瞬かせた。自分の記憶がないことを、事前に綾芽に伝えた記憶がない。
彼女の言葉の意味を訊ねようとしたが、もうすでに、両親に抱っこをされた子供たちが、ケーキの前でスタンバイをしているところだった。
「ハッピーデースデイトゥーユー。ハッピーバースデイトゥーユー。向こうに行ったら、お父さんによんぶんこしてもらいなね。さあ、とびっきりの笑顔で、ふぅー!」
「「ふうー!」」
子供たちの元気な吐息を最後に、光の粒が宙を舞っていった。
その夜、アトリエに戻って来た右近たちは、牛肉づくしの駅弁にホールケーキという胃もたれしそうなちぐはぐな夕食を摂っていた。
合歓がこちらの弁当箱に煮物を忍ばせてくるのを、無理矢理「あーん」で突き返す。
「もぐ、んぐ……ふはあ、この鬼畜め」
「大の大人が好き嫌いなんてしていたら、空ちゃんと海くんに笑われますよ」
「笑ってくれるのならそれでいいさ」
「笑いものになっているのは、笑わせるのとは違いますよー」
右近は釘を刺したが、そこは糠だった。今度は桜色のたくあんが投げ込まれる。それをまた、あーんで捻じ込んだ。最早わざとやっているんじゃないだろうか。大きな子供である。
ぽりぽりと噛みながら、合歓は机の上に並べたカンゾウとシオンのボトルに手を伸ばし、弄んで唸った。
「忘れるとか、忘れないかではなくて、忘れられるわけにはいかなかった、か」
「社長と葉二さんの間に出来てしまった溝を、どうしても埋めてあげたかったんでしょうね」
「綾芽さんは、母である前に妻で。妻である前に、柿津畑兄弟の幼馴染だった。すごい人だよ。子供たちのことは葉二さんに任せられるという信頼関係がないと、あの部屋に一人残るだなんてこと、出来るものじゃない」
そう言って、合歓は感傷ごと押し込むように肉を頬張る。
右近は最後に見た綾芽の微笑みに、記憶なき母の空想を重ねてみた。しっくり来ないところを見ると、自分の母親は、綾芽とは違うタイプなのだろう。
「(お母さん、か……)」
自分の捜索願が出されていないのは、単純に自分が独り立ちをした先で倒れたからだというのなら理解もできる。仲が悪くて見放されているのなら、それはそれで構わないとも思う。
けれどもしも、既に母がこの世にいないことが理由であるのなら。
右近は頭を振って嫌な想像を払うと、弁当にかぶりついた。
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