第3話 卵の中にも外にも春は来る

 受付でまごついている俺に声をかけてきた若い看護師の声は聞き覚えがあった。山口と名乗ったその看護師は少し疲れた顔でハチのいる病室へと案内をしてくれた。

 すれ違う患者や見舞人、看護師が俺を不審げにみる。ギターを背負ったやつが病院に来ることがあまりないからだろう。


「ショックですよね。お友達が刺されたなんて」


 いやいつかそうなるかなと思っていた、などとは言えない。俺は俯いてごまかした。きっと刺したのは倫子だろう、証拠なんてないが俺は確信していた。

 ハチが刺されるぐらいのことを倫子にしたのだろうか、倫子が刺すぐらいハチに執着していたのだろうか。公園で笑い出した倫子のことを思い出し背筋が寒くなる。


 廊下の椅子の上にギターを置き、恐る恐る集中治療室に入る。ハチは昨晩と同じ顔でベッドに横たわっていた。ただ酸素マスクをしていて、よくわからない管やケーブルが布団の中から伸びて難しそうな機械につながっている。


「ご家族の連絡先を尋ねたらスマートフォンにあなたの番号を出して……それから意識がなくなったんです」


 転がり込むならせめて電話しろ、と教えた番号だ。結局一度もかけてこなかったくせに。


 ハチの人間関係は女と女と女と女と女となぜか俺。それだけ。そんな腐った交友関係のせいで俺も警察の事情聴取を受ける羽目になった。当の倫子が出頭したのですぐに自由の身となったが。

 無事に三十歳になって年があけ、俺は毎日卵を産んでは捨て、その数が百個になろうとしても、ハチはずっと眠ったまま。俺の部屋のハチの荷物もそのままだ。

 あれから何度かハチの様子を見に行ったが、ハチの女と女がかち合った場に居合わせてつかみ合いのケンカに巻き込まれたので、それ以降は行くのをやめた。


 桜が咲くころ、冷蔵庫に詰まっていた有象無象の食品の成れの果てに手を合わせ、すべて燃えるゴミに出した。

 梅雨に差し掛かる前に、倫子に歌って聞かせた恋の歌をもう一度あの公園で歌い、慣れないながらも携帯端末で撮影してネットの海に流した。数件のいいねがついた。

 セミが鳴き始めるころ、リサイクルショップで格安のハンガーラック買った。部屋の片隅に置き、本の山の上に重なったままだったハチの服を拾い集めてかけた。


「ハチ、目が覚めたんですか」


 ハロウィンに浮かれて商店街が全体的にオレンジになる頃。牛丼屋で飯を食っている時にかかってきた電話。とりあえず俺はつゆだく大盛りを完食してから病院に向かった。

 いまさら急いで向かってもあまり変わりないだろうと考え、俺は病院のそばの薬局に入る。雑然とした店内からサプリメントの棚を探し、ハチにぴったりの見舞いの品を買った。瓶に入ったカルシウム錠だ。ずっしりと重い徳用サイズのこれがあれば、ハチの奴も半年は卵が詰まらないだろう。

 倫子の十万円にはまだ手を付けていないから、これくらいの出費はよしとする。


 見覚えのある看護師の案内でたどり着いた病室は一般病棟の大部屋だった。六つあるベッドはすべてカーテンで閉ざされて、それぞれの空間が切り離されている。右の窓際がハチのベッドだという。


「ハチ」


 淡い緑のカーテン越しに呼びかけても返事がないので、そっとカーテンの合わせをずらす。簡素なベッドの上で布団に包まれ、黒の短髪の男が眠っている。一瞬、部屋かベッドを間違ったかと思ったが、その顔はどう見てもハチだ。見飽きた顔だが、記憶の中より一回り小さく見えた。


「ハチ……」


 声をかけるとハチはうなりながら目を開けた。俺の方を見るとにへらとしまりなく笑う。唇に全く血の気がない。


「リンちゃんに、もう別れる?って言ってみたら、刺された。びっくりした」


 かすれた声で、時折むせながらハチはいきさつを語る。


「あほか」


 俺はこの一言がすべてだ。


「まあ命が助かってよかったな……。これに懲りたらもう浮気はするなよ」


 ベッド脇のスツールに腰かけ、ハチの姿を眺める。まっさらな病衣、痩せたハチの筋が目立つ長い首。見ていられないので俺は持参した薬局の袋に目をやり、徳用カルシウム錠の箱をつかみだして、ハチの枕の横に力強く置いた。


「これやる。腹刺されて生還したのに、卵詰まりで死にたくないだろ」


 ハチは箱を見つめて何故か叱られた犬のような顔をした。


「ヨシ君、俺もうこれ要らない」

「ハチ…?」

「もう腹の中にないんだってさ。卵産む内臓が」


 痩せたハチの手が布団の上から腹のあたりを撫でている。


 倫子の包丁の切っ先はハチの腹の奥の卵巣と卵管をブッツリと断ち切ってしまった。もともとろくな生活をしていなかったハチの内臓は弱っていて、縫い合わせて繋いでも元には戻らなかったらしい。弱ったハチを生かすために卵にまつわる内臓は全摘出された。だからハチはもう卵なんか産まない。


「……」

「どーせ、卵なんか毎日産んだって、ヤルことやらなきゃタダの生ごみだし」

「そうだな」

「卵なんか暖めたくないよ俺」

「ああ」

「なんでヨシ君がそんな顔してんの」

「しらん」


 目の奥が痛いような、鼻水が勝手に鼻の穴からあふれ出すような不快な感覚だ。俺はぐいぐいとハチの顔にカルシウム錠の箱を押し付けた。


「とりあえず……飲んどけ。骨が強くなる」


 ハチが刺されてから二度目の春が来た。塀の向こうにいる倫子に向けて、ハチが生きていることを手紙にしたためて送ったが特に返事はない。


「おかえり~」


 退院したハチは勝手に俺の部屋の合い鍵を作り、こたつを持ち込みくつろいでいる。こたつの天板にべったりと肘をつけ、ヨーグルト味のカルシウム錠をぼりぼりと齧りながら俺に向かって手を振る。入院中にバッサリ切った髪はもう肩まで伸びていて、前髪を適当に頭の天辺でくくっている。またいつかハチミツ色に染めるのだろうか。


「ヨシ君の部屋ってさ。なんか居心地いいんだよね。暖かくて、適度に散らかって……」


 まるで卵の中?いや出来かけの卵を包む内臓?ハチは半分寝ているような顔でぶつぶつと呟く。


「気持ちが悪いたとえをするな。もうこたつをかたすからどけ。」


 俺は相変わらず毎日糞と卵をひって、飯を食って、働いて、歌を歌っている。誰のための歌でもない、卵を産むように俺の中から出ていくのを止められないだけの歌だ。

 結局のところ、俺もハチもそれから倫子も自分の思うようにやっていくしかできないのだろうと思う。きっとこの世のものは大体そうなのだろうと、俺は勝手に思っている。


 おわり

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おとこが卵を産むようになっちまった世界の最低最悪なボーイズラブ ベンジャミン四畳半 @uso_chinchilla

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